「初期のドイツ牧舎をめぐって」
 
2006年1月19日 岡山・松尾展成
 
 昨2005年10月に刊行された拙著『日本=ザクセン文化交流史研究』第5章は,板東収容捕虜クラウスニッツァーが技術指導した,初期のドイツ牧舎を検討している.ドイツ牧舎の創立者は富田久三郎であるが,彼の曾孫の一人である富田実氏から,昨年11月1日付けで,また,それ以後数回にわたって,拙著への批判と独自の見解が届けられた.それを要約すると,次のようになる.
 
 @ドイツ牧舎の完成は1917年8月ではない.8月に完成したのは,外観上にすぎず,搾乳の開始は10月以降である.
 A船本宇太郎のドイツ牧舎採用は17年10月ではなく,18年10月−19年3月である.
 Bドイツ牧舎の設計者は徳島収容のシュライバーではなく,「シュラダー」(=シュラーダー)である.
 C拙著,pp. 240-241に言及されている,牧舎関連写真の中の4枚は撮影時期が誤っている.
 Dクラウスニッツァーがドイツ牧舎に寝泊まりしたのは,19年春以後である.
 E19年末に富田久三郎ほか2人がクラウスニッツァーに贈呈した銀杯は,富田鷹吉が徳島県知事から授与されたものである.
 F富田製薬関係者のドイツ訪問は2回でなく,久三郎の1回だけである.
 G俘虜2人の別荘が板東から富田製薬工場の近くに移築されていた.
 なお,丸括弧の番号は,叙述の都合で付けたものである.
 
 富田実氏の批判と見解は,些末実証を事とする私にとって,重大である.そこで私はそれらを検討して,私見を次のように取りまとめた.なお,拙著に引用した典拠は,原則として挙げない.拙著の関係箇所も一部を示すだけである.
 
 @ドイツ牧舎完成の時期
 
 拙著は牧舎建物の建築と畜産経営の展開を区別している.その考えは現在も同じである.
 まず,牧舎建物の建築工事[第一期工事]は,「5か月をかけて[1917年]8月に」完成した(富田製薬社史,p. 89;拙著,p. 229.引用中の[]は私の補足,以下同じ).富田氏の手紙にも,牧舎は「外観上」は「8月に完成した」,と記されているから,この点では見解の相違はない.
 次に,牧舎における畜産経営を見ると,私見では,第一に,建物が完成する前の17年7月に,家畜飼養と搾乳が開始された.拙著第5章第3節(III)で紹介したドイツ語資料3編(19年作成)はいずれも,畜産技術者クラウスニッツァーのドイツ牧舎勤務開始を17年7月としている.とくに,銀杯贈呈に関する19年9月/12月の資料は,彼が「1917年7月の創業以来,勤務して」の文言を含む.この「創業」は,富田畜産部の創設ないし牧舎の建築開始ではなく,牧舎における家畜飼養・搾乳の開始を意味する,と私は考える.
 第二に,牧舎は17年10月半ばに板東収容所健康保険組合に牛乳を販売し始めた.これについて同組合の1917年年次報告書は次のように報告している.「周辺から収容所に供給される日本の牛乳は[収容所の]病人に不適当と判断されたので,組合は牛乳全部を北海道のフランス系トラピスト修道院から取り寄せねばならなかった.戦友・・・クラウスニッツァー・・・の指導する収容所酪農所の設置以来,牛乳にかかわる費用は著しく減少した」(拙著,p. 236).
 ここに記された文言,「収容所酪農所の設置以来」は,私見では,ドイツ牧舎創設以来,ではなく,同組合が牧舎から牛乳を購入し始めて以来,を意味する.そして,組合によるドイツ牧舎産牛乳の買い入れ開始は,北海道牛乳の買い入れ停止(冨田弘著書,p. 180;拙著,p. 236)と同じ17年10月半ばであろう.なお,翌(1918)年の同組合年次報告書は,牛乳のほぼ全量が「収容所酪農所」から供給された,と記している(拙著,p. 237).
 健康保険組合への牛乳販売の開始に先行して,牧舎で搾乳が開始された,と私は考える.同組合は,ドイツ牧舎で搾乳された牛乳を検査し,合格と判定した(板東「周辺で」生産される,「病人に不適当な」牛乳に対する優位,おそらく衛生上の優位,を確認した)後で,北海道牛乳の予約を取り消した,と推定されるからである.また,20年5月3日に徳島県知事が松本清一に対して,「大正9年3月27日付届・・・牛乳搾取営業ノ件」を認可(富田製薬社史,p. 93;拙著,p.242)している.ドイツ牧舎の所有者は富田久三郎であるが,松本清一は運営責任者として県知事に認可を求めた,と考えられる.この認可によって牧舎は「一般向け」牛乳販売を認可されたわけである.一般向け販売と同じように,捕虜収容所への牛乳の販売にも県知事の認可が必要だったのではなかろうか.その場合には時間がさらにかかったであろう.20年の場合には認可は申請から1月以上も後であった.なお,衛生に意を注いだクラウスニッツァーが,畜舎を週2回も「大掃除」し,作業服を絶えず洗濯したことに,松本清一(彼の論文はBで論及する)は感嘆している.
 『板野郡誌(二)』(1924年)の一部が,富田氏の手紙に引用されている.「静養舎は初め[板東・久]留島秀一経営者となりて[,]4頭の乳牛より毎日1斗の乳を搾りつつありしが[,]大正6年7月ドイツ式に改め[,]牧舎もドイツ人シュラダーの設計によりて新築し[,]通辞にはストーレイ[,]搾乳業にはクラウスニッチェルの如き[,]いずれもドイツ人を用い[,]乳牛も4倍にまし[,]16頭とし[,]毎日乳量5斗を出すに至れり[.]加え[て,]クラウスニッチェルを技術者としてクリム・バタ・牛乳豆腐を製造し[,]収容所に収むることとし[,]瀬戸村明神の人富田久三郎代わりて事業主となり[,]30頭ないし60頭の豚を扱い[,]亦収容所の需に応じつつあり」.
 この書物は「当時の公式記録」だというが,これを私は読んでいなかった.しかし,上記の文章は,@を綿密に検討するためには,意味を持たない.唯一記されている年月,17年7月に「ドイツ式に改め」た,とは何を意味するのであろうか.ドイツ牧舎の建築の開始と完成,家畜飼養・搾乳の開始と本格化,富田久三郎の牧舎経営開始のいずれなのであろうか.17年7月は,クラウスニッツァーが雇用され,そして,私見によれば,家畜飼養・搾乳が開始された時期であった.なお,『板野郡誌』が,ドイツ牧舎における「ストーレイ」の役割を通訳として明示していることは,貴重である.オットー・シュトレ(1886−1967)は板東収容所事務室の電灯係(冨田弘著書, p. 5(イタリック);瀬戸武彦 2001, p. 126)であったが,日本居住許可俘虜 1920によれば「日本内地契約成立者」であり,26年に東京・ドイツ大使館に結婚届を出している(拙著,p. 241).詳細不明であるが,彼は戦前から日本に住んでいて,日本語に堪能だった,と思われる.戦後も彼は日本で活動したのであろう.
 
 A船本宇太郎の牧舎就職の時期
 
 船本宇太郎の牧舎就職の時期は,富田氏の見解では18年10月−19年3月である.ドイツ牧舎は,この頃に食肉加工計画を具体化し始めた(注1)ので,船本を招いた,と理解されている.私見は17年10月雇用であり,拙著の見解と同じある.なお,船本の就職時期に関する,従来の諸説(鳴門市史で17年夏,林啓介著書で16年,富田製薬社史で19年)は拙著(p. 238)で言及・批判している.
 「船本宇太郎履歴書」は,「大正6年10月より板東町富田製薬畜産部[において]ドイツ人技術者を利用して酪農経営.養豚,乳肉製品の加工技術を習得する.(約2年間)」と記している.船本宇太郎(1895−1980)の牧舎就職時期を私はまずこの記述から判断する.森鴎外は1873年の東京医学校[現・東京大学医学部]予科入学試験に際して,満12歳に達していなかったが,生年を2年早めて履歴書に記した.この学校は予科入学者の年令を14歳以上に限定していたので,鴎外は年令の詐称によって初めて入学条件を満たしたのである.それに対して,上記「船本履歴書」は,1969年以後に書かれたものである.ドイツ牧舎の就職年月を早くし,その在職期間を長くして履歴書に記さねばならない理由は,晩年の船本にはなかった,と私は考える.他方で,富田製薬社史と富田氏の見解の就職期日に基づくならば,船本宇太郎は1年3ヶ月,場合によっては10ヶ月しかクラウスニッツァーと接触しなかったことになる.畜産・酪農技術を習得する期間として,これは短すぎるのではなかろうか.
 『船本宇太郎回想録』に次の文章がある.「当初私の務めは「テイーアーツト」・・・などといういかめしいものではなく,門鑑つつて牛乳車をひつぱつた一介の御用商人として[,]所内に設けた小さなバラツクまで牛乳を運んで行きます.そこには[,]ブツマン(仏満)という名にふさわしいあごひげ[顎髭]のある[,]西洋の仏様のようなよい顔をした海軍兵が[いて],一人一人に売りさばいてくれるのですが,私の行くのが少しおくれると[,]念仏をとなえるように何かつぶやいているが[,]私にドイツ語は判らない.しかしどうやら時間を励行してくれとい[言]つているらしい.それもそのはずで,買手が五,六十人も一列に整然と並んで自分の番の来るのを待つているのです.最初私はそれを見てびつくりしました.少し早めに行くと皆冷水まさつ[摩擦]の真最中」(拙著,pp. 235−236).
 ここで船本宇太郎が「当初」と言っているのは,ドイツ牧舎が収容所への牛乳販売を開始した頃を指す,と私は考える.もし彼の就職以前に,つまり,富田説によれば,販売開始から18年10月ないし19年3月までの,1年あるいはそれ以上の期間に,松本清一あるいは他の牧舎従業員がドイツ牧舎の牛乳を収容所に毎日2回搬入していたならば,その人物は自分の経験,つまり,ドイツ人は時間を厳守する,という体験を後任者の船本宇太郎に伝えたはずである.その場合には船本は遅刻せず,捕虜たちの長い順番待ち行列や開店時間前[おそらく冬の早朝]の冷水摩擦のような,かなり異様な光景を見ることはなかったであろう.なお,ブーツマンによる牛乳販売は5時45分以後45分間と17時以後30分間であった(拙著,p.236).
 したがって,『船本回想録』のこの文言は,最初から船本宇太郎が収容所に牛乳を搬入したことを示唆しており,それは,船本の17年10月雇用という,「船本履歴書」の文言を裏付ける,と私は考える.
 『船本回想録』には,「私の来た頃には畜舎もほぼ完成し,牛も豚も数頭は入っていました」との記述もある.この文章を拙著(p. 238)は船本宇太郎の雇用時期を示すものとして,引用している.しかし,厳密に考えてみると,拙著のこの解釈には問題がある.「畜舎もほぼ完成し」た,という字句を,第二期工事(19年)がまだ完成していない,と理解し,牛・豚の飼養頭数が少ないことを重視するならば,私の解釈は誤っていないであろう.しかし,あの字句の時期を,第一期工事が「ほぼ完成し」た頃,と見なすならば,頭数が少ないのは,当然であるが,その時には船本宇太郎は私見でもまだ牧舎に雇用されていないから,この文章は,『船本回想録』の前の引用箇所と矛盾し,「船本履歴書」の上記文言とも矛盾する.
 初期のドイツ牧舎を検討する場合に最も重要な日本語資料・文献は,私見によれば,「船本宇太郎履歴書」(鳴門市ドイツ館),『船本宇太郎回想録』と富田製薬社史である.「船本履歴書」について富田氏の見解は示されていないが,『船本回想録』に関しては,「船本は[牧舎]建設当時板東にきていないので,彼が側聞したことを50年後に回想したことになり,[『船本回想録』は]信頼できないと思います」と,富田書簡に書かれている.「不幸にして大正時代の記録を紛失し,確実なことは申されませんが・・・」との文章を含む『船本回想録』が,不正確な記述をかなり含むことは,私も承知している.瀬戸村富田牧場の創業時期に関する,『船本回想録』の誤りは拙著(p. 230)で指摘した.しかし,「当初私の務めは」に始まる上記引用部分は,船本宇太郎が側聞を記したものではなく,彼の実地体験に基づく,と私は考える.
 
 Bドイツ牧舎の設計者
 
 拙著で私は次のように考えていた.(1)16年に富田久三郎は,板東収容所の近くに純ドイツ式酪農場を創始することを決意した.徳島県畜産技師や徳島俘虜収容所松江豊壽所長などと協議の上であった.(2)17年に板東で富田畜産部(ドイツ牧舎)の用地が取得された.(3)建築工事は同年4月に開始され,地元の建築業者と板東収容所の捕虜,合わせて30人が工事に参加した.−−牧舎建物は捕虜の参加の下で,「5か月をかけて[17年]8月に」完成した,と富田製薬社史に明記されているから,建築工事開始は同年4月,つまり,板東収容所開設直後,と推測される.徳島,丸亀と松山から板東への捕虜の移送は17年4月7−9日であった.
 完成したドイツ牧舎は,ドイツ風の外観を持っていたばかりではない.その壁は頑丈な煉瓦壁(高さ約9尺,厚さ約8寸ないし1尺)であり,出入口と窓は密閉できた.この構造的特質のために牧舎は,冬は暖かく(摂氏12度以上),夏は,一日に数回撒水するだけで,涼しく(16度以下)保たれた.家畜に適した室温(15度)を維持することが,ここでは年間を通じて容易であった.したがって,ドイツ牧舎は,冬季には7度にまで冷え込む,周辺の家屋・畜舎とまったく異なっており,当時の板東,いや,徳島県で最初の洋風厩舎であった.そのために,多数の見学者が訪れた.
 このようなドイツ牧舎を建築する技術は,地元建築業者には全くなく,その建築が開始される前に,設計図が完成していなければならなかった,と私は考える.そして,建築現場には設計者がやって来て,設計者の意図を工事関係者に解説したであろう.また,彼の解説を上記シュトレが通訳したであろう.
 牧舎の設計者に言及した文献・資料の中で,『船本回想録』と林著書は単に技師シュライダー,また,林共著は捕虜シュレーダーと述べているだけである.それに対して,鳴門市史と富田製薬社史は,典拠を示さないまま,設計者を「徳島収容所の俘虜で建築技師のシュライダー」と書いている(拙著,pp. 229, 231を参照).なお,富田説では設計者は,『板野郡誌』が記述しているシュラダー(=シュラーダー)である.
 鳴門市史と富田製薬社史の記述から私は設計者として,さしあたり「徳島」収容捕虜「シュライダー」を想定したのであった.
 松本清一は論文,「ドイツ俘虜の生活と家畜管理」の中で,自分は「大正6年1月から同9年1月迄約3ケ年間板東・・・に収容されたドイツ人に接し」ていた(拙著,p. 233),と書いている.『船本回想録』に含まれる,この論文は,松本清一が「一年志願兵として入隊後,勤務演習に招集された際,試験的に講演された時の原稿」であり,「俘虜解放後まもなく書かれた[,そして,『船本回想録』刊行のために自分に提供してもらった]もので,正確な事は[自分が]充分保証できます」と,船本宇太郎は『船本回想録』(p. 1)で記している.
 松本清一がこの原稿を書いた時期は,船本の文章によれば,「俘虜解放後まもなく」,つまり,20年代初頭,であろう.
 これを松本はいつ講演したか.講演の中で松本は,大正「9年1月迄」捕虜と接触した,と語っている.この字句に基づくならば,講演は1920年1月以後となる.
 ところが,船本は上記の引用箇所で,松本の講演の時期を「勤務演習に招集された際」とも記している.この字句の解釈は,兵役義務について無知な私にとって難問である.星昌幸氏(習志野)は今回も私の蒙を啓いてくださった.星氏の教示を私なりに取り込むと,次のようになる.
 船本宇太郎は15年3月に麻布獣医畜産学校を卒業し,同年12月に野砲兵第11連隊(善通寺駐屯−−星昌幸氏教示)に入隊して,「獣医生として勤務」,17年5月に退営(注2),19年3月に陸軍三等獣医・予備役獣医少尉となった(「船本履歴書」).宇太郎の子,船本純郎氏の教示によれば,船本宇太郎は,「一年志願兵」として入隊するために必要な資金を,郷里の田畑を売却して,捻出した.また,退営した17年5月から,予備役となる19年3月までは,船本は兵営で勤務してはいなかった.しかし,軍事演習のために招集されることが時々あった,とのことである(注3).松本清一(1893−1976)は,船本と「(麻布獣医畜産)学校も軍隊も同期」であるから,1915年3月に卒業し,同年12月に入隊したはずである.松本は19年に陸軍三等獣医に任ぜられた.これは船本と同じ時期(19年3月)であり,同じ身分・階級(陸軍三等獣医・予備役獣医少尉)であった,と私は考える.銀杯贈呈に関する19年9月/12月の資料(上述)は,松本と船本をともに予備役8A等獣医と記している.この予備役8A等獣医は予備役三等獣医の誤記であろう.したがって,上記講演の時期,すなわち,「勤務演習に招集された際」とは,松本が兵営勤務を免除されていた,17年5月から19年3月までの期間と考えられる.この期間に松本は,最初の2カ月を除いて,ドイツ牧舎に行く度毎に,クラウスニッツァーに接していたはずである.ところが,松本は28年に陸軍二等獣医(これは獣医中尉に相当するであろう)に昇進した,とされている.松本がこの昇進時まで,そして,その後も,時々勤務演習に招集されていたのかどうか,したがって,松本の講演が19年3月(講演の字句からすれば,20年1月)以後にも行なわれえたかどうか,は不明である(注4).
 このように,松本の論文の成立は20年代初頭のようであるが,それ以外の可能性もあり,成立の時期は厳密には確定できない.
 ところが,さらに問題が出てくる.松本清一が捕虜と接触した収容所を,板東に限定するならば,その期間は17年4月(板東収容所開設)から19年12月(クラウスニッツァーの解放)までのはずである.そのうち,収容所開設から,クラウスニッツァーが牧舎に雇用される17年7月までは,松本は,牧舎の建築工事に参加した捕虜(,そして,おそらく設計者)と接触できたであろう.しかし,松本がそれより早く,17年1月から捕虜と接触した,との文章はどのように理解されるべきであろうか.私の想定では,松本清一は板東収容所開設前の17年1月から4月まで徳島収容所で捕虜と接触しており,この捕虜こそドイツ牧舎の設計技師であった.
 ただし,松本は,「大正6年1月から同9年1月迄約3ケ年間・・・ドイツ人に接し」ていた,と述べている.他方で,松本が野砲兵連隊から退営した時期は,私の想定では17年5月である.したがって,17年の1月から5月までの期間,松本は善通寺の兵営で勤務していたはずである.彼が捕虜と接触できたのは,彼が休暇帰郷の際に徳島に出向いたからであろう.
 青島ドイツ兵捕虜の氏名を正確に把握するためには,捕虜全員の姓名をアルファベットで記した日本側公式記録,『俘虜名簿』をまず参照するべきである.板東での伝承と従来の文献は捕虜の氏名をしばしば正確に示していない.フリッツ・ローデがフリック・ローデル,クノルがク・ノル,ファン・デア・ラーンがブオン・タラーンあるいはブアン・タラーン,ブロッホベルガー(注5)がブロツフ・ベーアゲーアと記され,最後者はヘーアゲーアとさえ書かれてきた.板東で日本人と交流した,それ以外の捕虜で,オイゲン・バウム,カール・ビュクネル,ハンス・アウグスト,ビードレ,ヘルベルト・プレーゲルと語り伝えられてきた人が,何者かは,『俘虜名簿』で彼らを確認できないために,今も不明である.
 そこで,『俘虜名簿』を見てみる.しかし,シュライダーと発音できる捕虜は,徳島はおろか,全国の収容所にも発見できない.シュライダーとシュレーダーに発音が似ている捕虜で,17年4月から板東に収容された人は,(1)Heinrich Schrader,(2)Otto Schrader,(3)Jakob Schroeder,(4)Reinhold Schroederの4人である.所属大隊はいずれも第3海兵大隊で,所属中隊・階級は(1)が工兵中隊一等兵,(2)が第7中隊一等兵,(3)が第2中隊二等兵,(4)が第2中隊下士官であった(俘虜名簿 1917,p. 54.部隊と階級は私訳).しかし,17年4月初めまで(1)は松山に,他の3人は丸亀に収容されていた(俘虜名簿 1915,pp. 52-53).なお,『俘虜名簿』に記載されていない「シュラダー」も,富田説のようにシュラーダーと想定できるであろう.
 ドイツ牧舎の建築は17年4月に開始された.他方で,板東収容所の開設以前に,富田久三郎ないし松本清一が丸亀・松山収容捕虜に対して牧舎の設計図の作成を依頼することは,きわめて困難であったろう,と私は推測した.
 そこで,徳島収容捕虜の中で,発音が似ている人を探して,私は『俘虜名簿』の中にシュライバーを発見したのであった.Walter Schreiberは海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊の二等兵であった(俘虜名簿 1915,p. 52).
 詳細な捕虜名簿を作成したヨハン=ヨアヒム・シュミット氏から,私は最近,シュラーダー2人,シュレーダー2人とシュライバーの情報を教えてもらった.この5人の中でハインリヒ・シュラーダーはノイミュンスター(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン)で1887年に生まれ,大戦前には山東(Schantung)鉄道高密(Kaumi)支店の職工長(Betriebswerkmeister)であった.1914年に招集されて,予備役一等兵となり,解放後はインドネシアに渡航した(没年・没地は不明).
 また,オットー・シュラーダーはシュミット氏の教示によれば,『俘虜名簿』に記されている現役兵ではなく,後備一等兵であった.同氏からの連絡では,(i)2人のシュラーダーの階級に付けた予備・後備は,板東収容所印刷所で刊行された『板東俘虜収容所案内記』による,(ii)ハインリヒ・シュラーダー以外の4人は職業が不明である,という.
 私の調査では,解放直前の日本側記録(日本居住許可俘虜 1920)は,ハインリヒ・シュラーダーを「日本内地契約成立者」としているが,彼は日本には残らなかったのであろう(注6).インドネシアにおける彼の職業は22年の資料(蘭印関係者リスト 1922)では不明である.
 別の側面から問題に接近してみる.調査するものは,陸軍当局が捕虜の職業を収容所別に公表した統計,「俘虜職業調」である.15年1月のそれにおいて,(i)現役軍人以外の捕虜の職業を見てみると,建築技師は徳島収容所に1人,丸亀に9人,松山に1人が,そして,全収容所合計で17人が記録されている.建築技手は合計で2人,そして,松山に1人,徳島に0人,丸亀に0人であった.(ii)現役下士官兵士の「本業」を見ると,建築技師が合計6人いたが,徳島,丸亀,松山にはいなかった.建築技手は徳島に1人,丸亀に1人,松山に1人など,合計して15人であった(俘虜職業調 1915, pp. 1, 10).17年4月の「俘虜職業調」では,(i)現役軍人以外として建築関係の「技芸家」は全体で37人,うち板東収容所11人(技師10人,技手1人)であった.(ii)現役下士官兵士で建築関係を「本業」とする「技芸家」は,合計24人(技師7人,技手17人)であり,板東に2人(すべて技手)であった(俘虜職業調 1917, pp. 4, 17).これらの人数の合計は両年で必ずしも合致しない.人数の不一致は,軍楽手などについても認められる(拙著,p. 150)から,ここでも問題にはできない.
 二つの統計は,現役下士官兵士の捕虜と現役軍人以外の捕虜とを含めると,15年1月の徳島,丸亀と松山に,そして,17年4月の板東にも,建築技師・技手がいたことを示している.そのために,ドイツ牧舎の設計者が徳島,丸亀,松山のどこにいたかを,この統計から判断することは不可能である.
 以上から,問題となりうる,他の4人の職業が不明である中で,ハインリヒ・シュラーダーは戦前に鉄道会社職工長であった(シュミット氏)ので,このシュラーダーがドイツ牧舎を設計したのかもしれない.もっとも,職工長の職務が何であったか,は明らかでないが.
 既述のように富田久三郎は16年に純ドイツ式酪農場の創始に関して,徳島収容所の松江所長と協議した.この時,松江所長は15年調査の結果を,つまり,建築技師・技手(現役軍人以外の建築技師1人と現役下士官兵士の建築技手1人)が徳島収容所にいることを,十分承知していたはずである.その松江所長が徳島収容の技師・技手を無視したであろうか.無視しなかったとすると,15年に記録された徳島収容建築技師・技手が,ドイツ牧舎を設計したかもしれない.もちろん,徳島のこれらの建築技師・技手がいずれも,畜舎設計の技術・経験を持たない,として辞退し,富田久三郎の設計依頼が徳島収容所当局を介して,丸亀あるいは松山収容の技術者に届けられた可能性もあるであろう.
 このように,ドイツ牧舎の設計者をシュライバーとする拙著の見解は,不十分である.しかし,設計者の氏名は今はまだ確定できない,というのが私見である. それに加えて,設計図が板東移送以前に完成していた場合,ドイツ牧舎の建築工事は17年4月に開始されえたであろう.しかし,丸亀・松山からの移送以後に設計されたとすると,牧舎の建築工事開始は17年4月より遅くなった可能性が高い,と思われる.ここでも,富田製薬社史の記事が設計者の収容所に関する記事とともに,問題になる.
 
 C牧舎関連写真4枚の撮影時期
 
 富田氏の見解によれば,(i)ドイツ館に展示されている,ドイツ牧舎完成記念の写真(拙著,p. 241の(1)の写真)は,服装から見て,17年晩秋に撮影されたものである.ここに船本宇太郎は写っていない.(ii)拙著(p. 241)の写真(2)のタイトルを「[第一期工事]完成直後のドイツ牧舎」とするのは,誤りで,富田製薬社史(p. 89)に記されているように,「完成した・・・牧舎」とすべきである.この写真は,19年の第二期工事前の冬に[,すなわち,18年末から19年初めにかけて]撮影された.左端の人物は船本宇太郎であるかもしれない.(iii)拙著(p.240)の写真(d)と(e)は「撮影時期不明」ではない.富田久三郎は19年12月に捕虜たちとの送別のために孫の登喜子[14年生まれ]などを連れて,板東に出向いた.写真(d)と(e)はこの時のものである.そのように判断する根拠は,第1に,服装から見て,かなり寒い時期に撮影されていること,第2に,18年1月に撮影された,拙著(p. 240)の写真(f)と比較して,2年近くの間に童女登喜子の著しい成長が確認されることである.そして,写真(d)と(e)では船本宇太郎がはっきりと確認できる.なお,写真(d)と(e)で富田弘とされているのは,弘のすぐ上の兄富田光夫(1906−46)である.
 写真撮影時期についての富田氏の見解は,船本宇太郎が写真に写っているかどうか,から推論できる事柄,つまり,船本の牧舎就職時期に関する冨田説Aに関連するであろう.これらの撮影時期を確定し,富田説に関して意見を述べることは,現在の私にはできない.とくに,拙著の写真(1)の撮影時期が17年晩秋である,との富田説は,船本宇太郎の就職は17年10月である,との私見と矛盾するかどうか,矛盾するとすれば,それはどのように理解されるべきか,は今後の課題にしたい,と思う.
 
 Dクラウスニッツァーがドイツ牧舎に寝泊まりした期間
 
 クラウスニッツァーがドイツ牧舎に寝泊まりしたのは,19年春以後であり,休戦協定前の18年(つまり,船本宇太郎の牧舎就職についての冨田説の時期より前)では無理である,との富田氏の見解も,Cとともに,拙著への批判Aと一体をなすものであろう.
 船本宇太郎は『船本回想録』で次のように述べている.「私は毎朝五時に衛兵所に断つてクラウスニツアー君を迎えに行くのですが,室の前で小さな声でその名を呼ぶと,ヤア(ハイ)と返事して急いで起きてきて,モーエン(グーテンモルゲン・おはよう・の略)と挨拶します.・・・然し冬の寒い朝や風雨の強い時は,こちらがまいつてしまいます.その頃,副官をしていた人に高木[繁]という大尉がおられ,その事情をよく知つてくれていました.・・・三,四ケ月たつて家畜管理のために必要ということでクラウスニツアー君から当方に外泊させてくれと頼んだと思います.この表向き許されない事を,[高木]大尉は私に注意して自分の一存で黙認してくれ,その後ずつと当方に宿泊させてくれ,私も助かりましたが,所内に兎に角いう者が出て逐[遂]に問題化し,大尉にも迷惑をかけました.その時[,]所長松江大佐が一人で取調べに来られ,私も苦しい答弁をしました・・・」(拙著,p. 239).
 ここで「三,四ケ月たつて」と書かれている文言は,私見では,船本宇太郎が牧舎に雇用され,毎朝クラウスニッツァーを迎えに行くようになって,3−4カ月後,であり,これは18年1−2月となる.この時期は,「冬の寒い朝」という,別の箇所の字句に季節的に照応するであろう.
 他方で,松本清一は『船本回想録』の中で次のように書いている.(1)クラウスニッツァーは「一夜として欠かさず牛豚舎を巡視し,その異常なきを認めた後[に初めて,]床に入る」のであった.(2)「或夜,・・・突然消灯[,]暗黒になりました.その時,彼[クラウスニッツァー]は二階の休憩室から・・・階段を下り,直ちに自ら燈火してすぐ様,豚舎に走りました」(拙著,p. 234). これらの文章はいずれも,クラウスニッツァーの牧舎宿泊を示す,と考えられる.ただし,この文章からはクラウスニッツァーの宿泊の開始時期は確定できない.
 宿泊開始は休戦協定前の18年には無理である,との富田説は,確かに傾聴されるべきである.他方で,18年8月に収容所印刷所から発行された『板東俘虜収容所案内書』に,次の事情が記録されている.収容所から少し離れて,「酪農場と畜舎」がある.「これはある日本人のものであるが,クラウスニッツァー上等兵が指導している・・・.特別許可なしに[捕虜が]この施設を訪問することは許されない.借上地域の境界外にあるからである」(拙著,p. 238). 板東の捕虜は,許可証があれば,門外に出て,借上地域(運動場など)に行けた.しかし,ドイツ牧舎は,借上地域の外にクラウスニッツアーが毎日通勤する,という特殊な地位を収容所当局から与えられていた.牧舎の特殊的地位のためにクラウスニッツアーが,副官高木大尉の黙認の下でごく早い時期から牧舎に泊まり込んだ,という事態も,完全には否定できないであろう.
 ただし,クラウスニッツアーの牧舎宿泊がいつまで続いたか,すなわち,所内からの告発と松江所長の実地調査の後に中止されたのか,されなかったのか,は船本宇太郎の文章からは判断できない.松本清一の文言からは,クラウスニッツァーが解放時まで牧舎に寝泊まりした,と読めそうである.これらの点でも『船本回想録』(松本清一論文を含む)は資料として厳密さに欠ける,と言わねばならない.
 
 Eクラウスニッツァーに贈呈された銀杯
 
 拙著(p. 249)のドイツ語資料(2)によれば,銀杯が19年末にクラウスニッツァーに贈呈された.ところで,19年10月25日に久三郎の子,富田鷹吉は,ドイツ牧舎の経営を徳島県知事から称えられて,「銀盃一個」(一式)を授与された.その表彰状は富田家に現存している.したがって,県知事授与の銀盃が富田久三郎からクラウスニッツァーに贈呈されたのである.贈呈の期日は,すでにC(iii)で写真(d)と(e)に関連して言及された19年12月,すなわち,富田久三郎が捕虜たちとの送別のために板東に出向いた時であろう.「クラウスニッツァーは以前の証明書に追加して銀盃授与を書き加えるために手書きの証明書を作成して,改めて1919年12月25日に諏訪中尉の確認を求めた・・・」.富田氏の手紙にはこのように書かれている.
 この見解に対しても賛否両論がありえる.富田説に賛同しない考え方は,次の点を重視するであろう.拙著のドイツ語資料(2)は,二つの日付と文章を持っている.第一は比較的長い本文で,トミダ ハラサブロ(=富田久三郎[トミタ ヒササブロウ]),松本清一,船本宇太郎は3人連名で19年9月10日に「彼[クラウスニッツァー]の帰郷に際して,感謝の徴として銀杯1個を献呈する」,とある.ここで富田など3人の名前は,各人が自署したものではなく,その書体はこの文書の他の部分と全く同じである.第二はごく短い文章で,「この証明書の正しさを,(署名)大尉K. スワ[=諏訪邦彦]は・・・1919年12月25日に証明する」,となっている.富田久三郎は,自他共に許す,富田家の家長であったとしても,10月25日に子鷹吉が県知事から授与されるはずの銀杯を,1月半も前の9月10日にクラウスニッツァーに贈呈(する,との文書を作成)できたであろうか.また,松尾論文 2002(4),106ページの写真から分かるように,この文書は美しい文字で書かれている.これは捕虜の清書専門家によって書かれたのではなかろうか.12月にドイツ牧舎を訪問した富田久三郎から,銀杯を実際に贈呈されたクラウスニッツァーが,自筆で書いた,とは考えられない.そのような見方からすれば,次のような想定も可能であろう.この文書は9月に作成され,本文だけで完結していて,感謝状と題されていた.しかし,クラウスニッツァーは,解放・帰国が現実問題となると,銀杯=貴重品の持ち帰りを希望して,当局に申請した.それが帰国直前の12月末に承認された.そのために,この文書全体が,持出貴重品に関する「証明書」と題されることになった,と.
 
 F富田製薬関係者のドイツ訪問
 
 富田製薬関係者がドイツに渡航して,クラウスニッツァーを訪問したのは,27年の久三郎の一回だけである,と富田氏の手紙にある.そのことを私も承知していた.拙著(p. 257)は,帰国したクラウスニッツァーを日本人が二度訪ねてきた,と述べているが,それは,彼の次女が書き送ってくれた手紙に基づいている.訪問の時期はタンネベルク勤務時代(1925−34年)とドレースデン勤務時代(1938−45年)であった.第1回目には日本人家族が訪問した.第2回目の訪問に際しては,ある日本人の家族の写真が客間に掲げられた,というのである.1回目の「家族」とは,27年の富田久三郎に同行した通訳,上野周(薬学専攻)が娘か孫と誤解されたのであろう.2回目の訪問の時期を私は,クラウスニッツァーがドレースデン勤務中であり,かつ,畜産専門雑誌から原稿を依頼された39年10月より前,すなわち,38−39年と推定した.拙著(pp. 254−255)に訳出した資料の文言,「日本の友人がドイツのあなたを再び訪れた」で「友人」(名詞の複数・男性形)は,富田製薬の関係者ではなかったが,板東収容所を知っている日本人だったのであろう.写真が客間に掲げられた,日本人家族については見当が付かない.クラウスニッツァーの次女は37年生まれであるから,彼女は2回の日本人の訪問を両親からの伝聞で知っているのであろう.
 
 G富田製薬工場の近くの捕虜別荘
 
 富田久三郎は板東収容所の廃止後に将校捕虜の別荘2戸(元所有者は「コップ大尉」と「チゴマン」)の払い下げを受けて,瀬戸村の富田製薬工場近くに移築した,それは第二次大戦まで残っていた,と富田氏の手紙にある.私は以前,富田製薬工場近くの別荘に捕虜(1人は「コップン」)が住んでいた,と聞いたことがある.拙著(p. 240)の写真(f)がクラウスニッツァーとシュトレの富田製薬工場見学を示すように,板東の捕虜は事情によっては収容所を数時間離れることができた.しかし,収容所からかなり遠方に長期に居住する可能性はなかった,と私は考えていたので,富田氏の手紙の文章で私は納得した.その中の1戸を板東で所有していた「コップ大尉」とは,ヴィルヘルム・コッペ大尉であろう.もう一人の「チゴマン」が誰か,は私には分からない.先に触れた,『俘虜名簿』で確定できない板東収容捕虜が,これによって一人増えたことになる.
 
 
 以上が,富田氏の批判・見解に対する私見である.些末実証を事とする私にとって,まだ確定できない事実が多いのが,大変残念である.それらの疑問点を解明するために,とくに,ドイツ牧舎の第一期工事の始期と終期,家畜飼養・搾乳開始の時期,クラウスニッツァーと船本宇太郎の,雇用の時期,牧舎の設計者の氏名と設計依頼・設計図完成の時期,牧舎関連写真4枚の撮影の時期,クラウスニッツァーの牧舎寝泊まりの期間(始期と終期)などを明示する資料が,今後発掘されることを期待している.
 本稿を書き上げる過程で,拙著の誤りや不十分さを知ることができた.富田実氏に深く感謝している.星昌幸氏の教示も有り難かった。
 
 
 なお,上記のようにハインリヒ・シュラーダーの生地がシュミット氏によって確定された.それはノイミュンスターであり,俘虜名簿における彼の「本籍地」と同じである.この事実を私は,生地と本籍地の関連に関する,私の一覧表(最終版は96人について,本メール会報,176号の「ハナスキー略歴」末尾に提示した)に追加しない.シュミット氏の捕虜名簿を自ら読める人が,同氏の名簿の全員について記載事項を検討してくださることを願う.同氏によれば,約700人の捕虜についてその「本籍地」自治体(大都市を除く)から出生の情報が得られた.ただし,自治体の回答の中には謝絶が含まれている,とのことである.
 
 
(注1)確かに豚肉燻煙場の存在は18年12月に報告されている.拙著,p. 232.
(注2)拙著(pp. 237-238)は,船本宇太郎が17年5月に「除隊」した,と記しているが,これは「船本履歴書」の読み誤りで,退営した,とされるべきである.松本清一についての拙著の「除隊」も同じである.
(注3)以上,船本純郎氏教示.「船本履歴書」の「獣医生」は船本純郎氏の「一年志願兵」と同じである,とここでは想定する.さらに,星昌幸氏の教示によれば,一年志願兵制度の時代(1927年まで)に一年志願兵は在営費用を自弁する必要があった.
(注4)大正時代に一般の兵士は,現役期間を経た後の予備役・後備役期間(約15年)に,5回ほど入営せねばならなかった.1回の入営期間は35日間であった.以上,星昌幸氏教示.松本,船本のような獣医科の予備役士官の義務が一般兵士と同じであったかどうか,は私には分からない.
(注5)ブロッホベルガーの場合には『俘虜名簿』も正確でないことが,ザールフェルト市立文書館の回答によって明らかになった.彼の「本籍地」ゴンドルフ村は彼の出生地であるが,この村はザールフェルト市に併合されたのである.『俘虜名簿』における名前の誤記・誤植は他にもある.拙稿,「第一次大戦期の青島ドイツ兵捕虜に関するいくつかの問題」,『岡山大学経済学会雑誌』,36巻1号,pp. 15-16.
(注6)ハインリヒ・シュラーダーの事例を見ると,日本居住許可俘虜 1920なる資料は,内容全部を鵜呑みにするべきでないことになる.今後の検討が待たれるところである.なお,上記資料で「日本内地契約成立者」とされている予備士官アルトゥル・ゲプフェルトが,現実には大連ないし中国で就職した事実は,拙著(pp. 107-108, 110)で紹介した.