俘虜郵便について
                               瀬戸武彦
 
 ここでいう俘虜郵便とは、第一次大戦時に日本各地の収容所に収容されたドイツ兵俘虜によって出された郵便、並びに俘虜に宛てて差し出された郵便を意味している。従来俘虜収容所研究あるいは俘虜研究において、俘虜郵便は必ずしも資料として前面に出てくることはなかったように思われる。それにはいくつか理由があるかもしれない。例えば、収容所内で発行されたいわゆる「収容所新聞」や、俘虜自身によって書き遺された「日記」に比べると、内容的に重要な記述があまりないことがその理由の一つであろう。
 
「収容所新聞」の代表として挙げられるのが、板東俘虜収容所で発行された『ディ・バラッケ』である。目下、鳴門市ドイツ館資料研究会によって、営為翻訳が行われているが(全4巻で、内1、2巻は刊行済み)、その内容は実に多岐にわたり、収用所内での俘虜生活の端々までがありありと浮かぶと言っても過言ではない。徳島俘虜収容所における『徳島新報』、松山俘虜収容所で後に地下出版された『陣営の火』も、やがては日本語に訳されて、研究者に資料として広く共有される日が訪れるものと思われる。丸亀俘虜収容所内でも『丸亀日報』が発行された。この度、そのごく一部を「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」が入手されたが、その全容は未だ明らかにはなっていない。久留米俘虜収容所、大阪俘虜収容所、似島俘虜収容所で発行された新聞は未知の状況にある。ともかく新聞として発行されれば、その内容は種々であろうと思われるので、資料的な価値は計り知れないと言える。
 
俘虜が著した日記としては、ハインリヒ・ハム(Heinrich Hamm;東京→習志野)とヘルマン・ケルステン(Hermann Kersten;福岡→青野原)の「日記」が、『習志野市史研究3』(習志野市教育委員会)及び『小野市史』第6巻及び第3巻別冊(小野市)にその一部が訳出されている。また、ルートヴィヒ・ヴィーティング(Ludwig Wieting;丸亀→板東)の日記の一部が先頃鳴門市ドイツ館に寄贈された。『鳴門市ドイツ館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第9号にはそのことが紹介され、また本誌にその訳が掲載されることになっている。日本語に訳されるまでには至っていないが、ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller;丸亀→板東)、カール・クリューガー(Karl Krüger;福岡→習志野)、ヴィルヘルム・ケーバーライン(Wilhelm Köberlein;松山→板東)の遺稿手記に基づいた文献がドイツで出版されている。またアンドレーアス・マイレンダー(Andreas Mailänder;福岡→大分→習志野)については、不思議な縁を持つことになったハンス=ヨアヒム・シュミット氏による、多くの遺稿資料を紹介した本が世に出ている。またこれについては、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページでもその全容が示されている。出版までには至っていないものの、鳴門市ドイツ館に俘虜の子孫・縁者から寄贈された手書きのままの日記、手記もいくつか存在するようである。
 
日本文学研究家小谷厚三氏のご好意から、フリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf;熊本→大分→習志野)の膨大な書簡集成『フリッツ・ルンプ書簡集』(フンボルト大学森鴎外記念室年報、3-5巻、1999-2001)を手にすることができた。そもそもは、ベルリン日独文化センターの桑原節子氏のご好意に基づくものである。俘虜となる以前、また俘虜として熊本、大分及び習志野収容所に収容されていた時期、解放されてドイツに帰国後のフリッツ・ルンプの書簡205通(数通はルンプ宛て)である。その内の半数に及ぶ105通が、俘虜収容所内からの発信である。美術史家フリッツ・ルンプであったが故に編むことができたのであろうが、この『ルンプ書簡集』は、俘虜及び俘虜収容所研究において実に意義深い俘虜郵便と言える。小谷氏によるフリッツ・ルンプ研究は、まだその緒に就いたばかりとのことであるが、やがてその全容が明らかになれば、収容所研究にも資すること大であろう。
 
 さて本題の俘虜郵便に立ち戻ると、下記参考文献表に掲げた『ドイツ俘虜の郵便』は、例外的ケースとも言える。そもそもはフィラテリスト(郵趣家)向けの文献だからである。詳細を極めた消印や評価等は、趣味としての郵便に関心を抱かない人は当惑、困惑するかもしれない。もちろん、各地の収容所の概要についても記されている。その点では俘虜収容所及び俘虜研究の上での、初期に位置する文献と言える。しかも記述に当たっては、俘虜によるハガキ、すなわち俘虜郵便の内容を活かした部分も多々見受けられる。
 筆者自身は俘虜郵便を一通も所持してはいないが、かつてはフィラテリストの端くれで、俘虜郵便には単なる関心以上のものを抱いていた。俘虜及び俘虜収容所研究に入るきっかけとなったのは、「中国山東半島の青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本」をテーマにして、その最初の論文「膠州湾占拠と青島の建設」を書いたことにある。その中で筆者は、ドイツが青島の建設に着手し始めた頃に起こった、いわゆる義和団事件に触れた際、「山東の日月印」という、それこそフィラテリスト以外には、何を意味するのか理解し難い一章を設けた。切手の消印から義和団事件の実態の一部を読み取ろうとするものであった。甚だ好事家的なものを援用したが、郵便史の側面からも、あるいは郵便史からでなくては判明しない歴史的事柄もある、ということを強調したかったのである。
 
 さて俘虜総数を大雑把に4600名とし、また仮に俘虜一名が月に2通の葉書・封書を出したとすると、5年に及ぶ俘虜郵便の総数は以下のようになる(これには俘虜宛の郵便は含まれていない)。
 
     4600(名)×2通×12(ヶ月)×5(年)=55万2000通
 
 実に膨大な数である。その内の1パーセントが残存しているとしても、その数は5000通を上回ることになる。ドイツのフィラテリストで、特に俘虜郵便の収集家として知られているヴァルター・イェキッシュ氏やルートヴィヒ・ザイツ氏が所有している俘虜郵便の詳細を承知してはいないが、合わせても多分その一、二割ほどであろう。まだまだ眠っている俘虜郵便は多いであろうが、やがては散逸してしまうことが十分に予想される。
 
平成15年12月、丸亀を訪ねて「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」の方々と懇談した。その折に高松市在住の郵趣家三木充氏を訪ねて、その収集品をつぶさに眺める機会を得た。氏は数十点に及ぶ俘虜郵便を所蔵している。筆者はその数点について解読を試みたが、それは「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」及び「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」のホームページに掲載され、部分的には先頃発表した拙稿「中国山東半島の青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5)―独軍俘虜概要(2)」にも取り入れた。以下はそれに若干の修正を加えて紹介・解説するものである。なお本稿では、葉書のコピーを掲載するまでは至らなかったので、上記ホームページで現物を見て頂ければと考える。
 
丸亀収容所関係俘虜郵便(三木充氏所蔵)の解読と解説
 
1) 大正3年12月16日 (丸亀)
大正3年12月21日(第一野戦局)
 
  Herrn Louis Basse          ルイ・バッセ様
  Tsingatau Tirpitzstraße 4    チンタオ ティルピッツ街4番地
    
Lieber Basse und Familie     親愛なるバッセ並びにご家族様
  Fröhliche Weihnachten       楽しいクリスマスと
  und ein frohes neues       慶ばしき新年を
  Jahr wünscht Ihnen       お迎えになりますよう。
  Ihr Fritz Albrecht        フリッツ・アルブレヒト
 
  Abs. Unteroffiz. d. L.        発信人 後備伍長
    Albrecht            アルブレヒト
  Kriegsgefangenenheim Marugame  丸亀俘虜収容所
 
注解:
発信人のフリッツ・アルブレヒト後備伍長(俘虜番号:1814;丸亀→板東)は、第3海兵大隊第7中隊所属。
受取人のルイ・バッセ2等水兵(俘虜番号:4485;大阪→似島)は、大正4年1月4日の一斉検挙で俘虜とされたか、もしくはユーハイム(Karl Juchheim;大阪→似島)等のケースのように、1915年9月に召喚された(推定)と考えられる【拙稿『独軍俘虜概要』69頁の94)のBusam(ブーザム)及び90頁のJuchheim(ユーハイム)の項を参照】。しかし、ブッセの俘虜番号からして、前者の可能性の方が高い。
ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページのバッセの項には、「バッセはティルピッツ街でレストランを経営していた。第一次大戦後は、北海の孤島ヘルゴラント島でホテルを経営し、1960年ごろ「チンタオ戦友会」に出席した。1952年没」と記されている。
丸亀発信の日付は、俘虜の収容が行われた大正3年11月16日の一ヵ月後に当たる。
「検閲済」印の右下「福島」印は福島格次大尉(歩兵12連隊中隊長から大正3年11月11日に丸亀収容所員となり、大正4年9月18日に市川元治中尉(歩兵第43連隊より着任)と交替した)の印。
ティルピッツ街は下記ティルピッツ将軍に因む街路名。日本による占領統治時代は、忠海(ただのうみ)町と命名された。
アルフレート・フォン・ティルピッツ(Alfred von Tirpitz;1849-1930)は、1896-1897年までホフマン少将の後任として、ドイツ東洋艦隊の司令官を務めた。膠州湾を給炭港として最適との判断を下した最初の人物(つまり、ドイツが膠州湾を租借地として虎視眈々と狙うことになったきっかけを作った人物)。1897年海軍次官、1911年海軍元帥、1916年海軍大臣。無差別Uボート戦支持者として首相ホルヴェーク(Bethmann Hollweg)と衝突して退任した。後に『回想録』(1920)を著した。
  「第一野戦局」の消印は、大正3年から4年にかけて使用され、「第十六野戦局」まであった。参考文献:『日本切手専門カタログ』(1983)。
 
 
2) 大正4年11月26日
 
Deutschland                ドイツ
  An Herrn Kaspar Günther         カスパール・ギュンター様宛
    Landwirt                 農場主
  in Klings b                クリングスの  近郊
       Kaltennordheim        カルテンノルトハイム
       G.W.Eisenach          G.W.アイゼナッハ
 
  24.11.15.                  1915年11月24日
  Sehr geehrte Familie Günther!        拝啓 ギュンター家様
 
 Endlich is(t) wieder die Zeit gekommen   やっとまたいくらか文を書ける時が
 wo ich Ihnen etliche Zeilen schreiben   来ました。皆さま方にお知らせすることは、
 kann. Ich teile Ihnen mit dass wir     私達はもうまもなく二度目のクリスマスを
 jetzt schon bald die 2. Wei(h)nachtsfeier  日本で体験しなければならない
 in Japan erleben müssen! Sonst     ということです。それ以外私はまだ元気です
 bin ich noch gesund hoffentlich Ihr、 多分皆さま方みんなも。皆さま方に素晴らしき
 auch alle. Ich wünsche Ihnen alle(n)    祝日をお祈り申し上げるとともに、
 recht gute Feiertage,ferner wünsche    近い再会を同じように願っております。
 ich ebenfalls ein baldiges Wiedesehen.    つぎで手紙を終えます:ニコラウスが
 Ich schlies(s)e:Die herzlichsten Grüsse sendet 心からの挨拶をおくります。
 Ihnen Nikolaus:Bitte um baldige Antwort   どうか近いうちに返事を。
 
Abs. Gefr. Müller 7.Komp.V.S.B.   発信人第3海兵大隊第7中隊上等歩兵ミュラー
  Mrugame Japan  Gefangen(en)heim!  丸亀 日本 俘虜収容所
 
注解:発信人のミュラー上等歩兵は、これまであまり手紙を書いたことがないか、さほど教養のある人物とは思われない。原文に付け加えた( )の中は、本来入るべき文字である。推測するに、ギュンター氏の農場で働く農民だったと考えられる。そこで訳文も意図的にそれに沿うものにした。
  しかし、第一次大戦時の日本軍の兵卒にも、農村部出身で中等以上の教育を受けなかった兵士は当然いたと思われる。ドイツ兵士の方が教育的には上だったかもしれない。
アイゼナッハは音楽家ヨーハン・ゼバスチアン・バッハの生地であるが、その前にある「G.W.」が何を意味するのかは不明。後に触れるように、バルト海からは遠いので、別のアイゼナッハの可能性も排除出来ない。なお、ニコラウスはサンタクロースのこと。
 
  さて肝心のミュラー上等歩兵の特定であるが、予想外に困難である。
1) ミュラー(Müller)姓は、第7中隊所属兵士に5名いる。
2) 内1名は大分収容所なので除外される。残り4名は丸亀収容所に収容されていた。
3) 丸亀収容所の4名の内、1名は伍長なので除外される。
4) 残り3名は、『俘虜名簿』ではいずれも2等歩兵で、上等歩兵は一人もいない。
5) そこで考えられることは、俘虜として収容中に上等歩兵に昇進したのかもしれないということである。丸亀俘虜収容所における当初の先任将校ランツェレ(あるいはランセル)大尉(丸亀→大分→習志野)は、収容中に少佐に昇進した。こうした収容中における昇進の事例は他にも多く認められる。例えばマイアー=ヴァルデック総督及びフォラートゥン大佐は少将(ともに福岡→習志野)に、シュテッヒャー大尉(松山→板東)は少佐に昇進している。
6) 三人のミュラー2等歩兵の内、一人は青島の「ディーデリヒセン商会」(煉瓦製造会社)上海支店に勤務していた(ハンブルク出身)。手紙はきちんと書けたはずである。もう一人は天津の「ブーフマイスター商会」(どのような会社だったかは不明)に勤めていた(オッフェンバッハ出身)。やはりきちんとしたドイツ語を書いたはずである。二人とも都会の出身者である。
7) 最後に残った一人はポンメルン(Pommern)地方のウーゼドム(Usedom)島のギュヴェンティン(Gueventhin)地区出身(筆者は今回、ドイツの地図を広げて初めてその地名を確認した)。バルト海とシュテッティン湖の間にある小さな島のようで、今日はポーランド領である。100年近く前のウーゼドム島の村は貧しかったと思われる。高等教育を受けなかった人も多かったであろう、と推測される。 
8) 以上から、ミュラー上等歩兵は、パウル・ミュラー(Paul Müller;俘虜番号:2000)と推定する。出稼ぎ農民だったのかもしれない。
 
しかし、文面が長いことは、それだけで資料としては貴重である。素朴な農民出身(?)の兵士がいたことを、この俘虜郵便は明白に語っている。
 
次の板東収容所関係俘虜郵便二通は、俘虜自身によるものではなく、友人からの俘虜宛郵便である。俘虜宛の郵便も、俘虜の収容所生活の一端を窺わせるものである。なお、二通ともタイプライターで打ってある。俘虜宛ての郵便としても、比較的珍しいと言える。
 
1)1918年6月15日 漢口消印
 
Gefreiter A. Frevert            A.フレーフェルト上等歩兵
   Gefangenenlager              俘虜収容所
  Bando/Tokushima.             徳島・板東
    Japan.                  日本
 
  Eingang 25.6.18           1918年6月25日到着
 
Hankau, den 12.6.1918.        1918年6月12日、漢口にて
 
Lieber Freund! Heute geht an dich    前略 今日君宛に
ein Paket mit Tabak ab. Wie geht    煙草を入れた小包を発送した。
es dir noch? Es ist möglich,dass     その後元気ですか? 近いうち、
wir in nächster Zeit eine grösse-     僕たちはちょっとした旅行に
re Reise antreten. Hast du schon     出る。君にそのことをすでに
davon gehört? Ehe es soweit ist,     知らせただろうか? 旅行に出る
schreibe ich dir noch einmal.       前にもう一度書いた次第です。
Für heute herzl. Grüsse deiner      今日はこれで。草々。
    Hermann Neubauer           ヘルマン・ノイバウアー
 
 
注解:中国漢口からの差立てである。
消印の日付は、板東俘虜収容所の開設日(大正6年4月9日)に約二ヵ月後に当たる。
葉書の用紙には「made in Japan」と印刷され、「Ta-fang」社製となっている。しかし本当に日本製かどうかは疑わしい。手書き部分「郵便ハガキ」の文字は、日本人(もしくは中国人)の筆跡とは思われない。差出人へルマン・ノイバウアーの手になるのかもしれない。
検閲印について触れると、「検閲済 俘虜収容所」の大型?で、これは丸亀俘虜収容所で使用された「まるがめ 検閲済 俘虜収容所」の大型?から、「まるがめ」の字を削り取って使用したものである。
  差出人へルマン・ノイバウアーについては不詳。
受取人のフレーフェルト(Augusr Frevert;俘虜番号2861:松山→板東)は第3海兵大隊第7中隊所属であるが、松山俘虜収容所から板東不慮収容所に移送された。応召前は青島郵便局に勤務していた人物である。(斜線の部分は手書きを意味する。)
 
2)1918年10月13日 漢口
 
Gefreiter August Frevert      アウグスト・フレーフェル上等歩兵
  Bando/Tokushima        徳島・板東
     Japan           日本
 
Hankau,den 13.10.18.         1918年10月13日 漢口にて
Lieber Freund!Heute geht an dich  前略 今日君宛に煙草入り小包
ein Paket mit Tabak ab.Meine Adr.  を発送した。僕の住所は今日から
ist von jetzt ab c/o Diederichsen   フリーデリヒ街のディーデリヒセン
Friederichstrasse.Sonst gehts hie  気付だ。それ以外ここはまだ
noch so ziemlich,nur dass auch   まあまあなんとかってところだ。ただ、
einer nach dem andern anfängt   やはり一人また一人とまいり始めている。
durchzudrehen.Du schreibst,dass  7月7日付けの小包をまだ
du das Paket vom 7. Juli noch   受け取っていない、と書いてあったけど。
nicht erhalten hast.Ist das Tabak  それは煙草入りの小包かい、それとも
oder die Klingen? Nun für heute   剃刀の刃を入れた方かい?ともかく今日は
herzliche Grüsse          これで失礼。
     deiner           
  Hermann Neubauer        ヘルマン・ノイバウアー
 
注解:剃刀の刃は毎朝使用することから、俘虜にとっては切実に必要な日用品だったと思われる。収容所内では調達が難しかったのであろう。日本製は肌に合わなかった、とも考えられる。
 
参考文献
1. 『日本切手専門カタログ』、日本郵趣出版、1982年11月10日。
2. ?Handbuch der Kriegsgefangenenpost Tsingtau“,von Helmut Rüfer/Wolf rungas,Die Schriftenreihe der Poststempelgilde ?Rhein-Donau“,Heft Nr.60,Düsseldorf,1980.
3. 『ドイツ俘虜の郵便』―日本にあった収容所の生活、吉田景保訳注、日本風景社、昭和57年5月20日。(上記ドイツ語文献の抄訳)
4. 柘植久慶『軍事郵便物語』、中公新書、1995年7月19日。