一枚の写真との格闘――画像探偵術のすすめ

 

昌幸(習志野市教育委員会)

 

 日独戦争のドイツ捕虜をめぐって一つの特色は、小型カメラが持ち込まれて、捕虜の日常生活が生き生きとしたスナップ写真として残されていることだろう。小型カメラと言っても、携帯電話にデジカメが内蔵されている今日の目から見ればむしろ「大型」としか言いようがないが、それでも三脚を立てて暗箱で撮影するのに比べれば、はるかに表情のある写真が撮れた訳である。

 そんな写真のオリジナルを手にした方ならお気づきだろうが、名刺大であれば大きい方。その半分から、コマのベタ焼きのような小さな写真も多い。気軽にスナップとは言え、やはり印画紙など、そう使い放題という訳にはいかなかった事情は、その後昭和30年代まで同じであろう。

 そんな写真にどんな情報が含まれているか。ぜひお薦めしたいのは、スキャナに読み込んで拡大してみることである。既に何度も見ている写真でも拡大してみると、撮影者が狙ったものだけでなく、意外なものが写っている。机の上に置かれた木箱を拡大してみたら、「Weihnachten」(クリスマス)と彫刻されているのを見つけたりすると、思わず嬉しくなってしまうものである。クリスマスのプレゼント交換にでも供した物だろうか。

 平成9年に習志野収容所の調査を始めた頃は、まだスキャナだのデジカメは出始めであった。便利なものが出たらしいと言っている内に、今や珍しくもなくなってしまったのだから、変化は目覚しいものである。届けられた写真を複写するのに、一眼レフに接写レンズをはめ、スタンドに立ててライトを灯し、息を詰めて下を向きながら、慎重にピントを合わせレリーズを切る。そんな作業は一時間もやると嫌になってしまうものだったが、今やスキャナのボタンを押せば数秒で終ってしまい、いくらでも拡大できるのである。写真屋の出来上がりを、いらいらしながら待っている必要もない。便利になったものである。

 

 ところで、習志野収容所の写真の中でも私が好きな一枚は、大正9年1月27日の読売新聞に掲げられた写真である。ドイツ捕虜の最後の一人として解放されるワルデック総督が、日本の軍人と握手を交わし破顔一笑。昨日の敵は今日の友、といった風情で写っている。日本の軍人も帽子を取り、新聞記者に精一杯サービスしているように見える。5年間、全国で5千人にのぼったドイツ捕虜収容の最後の一ページを飾る、微笑ましい写真である。収容所を紹介した習志野市のホームページにも、この写真を掲げてある。

 同日の読売新聞は、次のようなキャプションを付している。

「『最後の握手』ワルデック総督は5年振の解放を喜び、情報局長竹上少将と最後の握

手を交換す。〔写真右より〕竹上少将、カルトナー中佐、ワルデック総督(26日習志

最後の握手(大正9年1月27日読売新聞)

 

野にて)」。日本の軍人は、東京の俘虜情報局長・竹上常三郎少将だというのである。

 ところが、このキャプションに疑問が出てきた。捕虜解放時、習志野収容所長だった山崎友造少将のご遺族から、竹上少将とされるこの人物は「山崎友造である」とのご指摘が出てきたのである。

 大東文化大学で多文化共生論を講じておられる川村千鶴子先生から、私の祖父が山崎友造であるとのお電話をいただいたときは、本当にびっくりした。山崎少将は陸士5期。明治6年、旧紀州藩士の家に生まれ、砲兵大佐となる。大正8年1月、火薬の専門家として大阪砲兵工廠宇治火薬製造所長を務めていた折、習志野の西郷所長急逝の後を受けて収容所長となった。家族を挙げて習志野に転勤となり、今もご健在の三男・隆氏(つまり川村先生のご父君)は、習志野でドイツ兵に遊んでもらったことをよく覚えておられるという。隆氏は転校先に馴染めず、学校に行くのを嫌がっていたところ、山崎所長は「学校の遅れなどいくらでも取り返せるが、外国人に遊んでもらうことなど、なかなかないチャンスだから」と、むしろそれを喜んでいたという。

 山崎所長は、スペイン風邪が猛威を振るい西郷所長と20数名のドイツ兵の命が失われるというパニックの中で着任し、その年のクリスマスにはドイツ兵を無事帰国させ、残務整理を終えるという、地味な大任を見事に果したことになる。上の写真は、大半のドイツ兵が習志野を後にした翌1月、最後の一人ワルデック総督を送り出した際のものとなる。なお、山崎大佐は大正8年11月に少将に昇格、残務整理を終えた9年4月に待命、7月に予備役として軍歴に終止符を打っている。亡くなるのは15年9月、小田原にあった山崎邸には弔問の勅使が遣わされたという。

 

 山崎家に残る少将の写真は次のとおり、新聞写真の人物には大変よく似ている。

山崎友造少将(山崎隆家蔵)

 息子の隆さんが、新聞の写真を「父だ」とおっしゃっている。それでもう、新聞記事は誤りと決ったようなものだが、一方で当時の新聞が堂々と「竹上少将」と活字にしているのだから、やはりもう一つ、新聞の誤りを証拠付けておきたい。写真の上から何か読み取れないものだろうか。私は、次の竹上少将の経歴と見比べながら、ため息をついた。

 

   竹上常三郎(歩兵・茨城)明治 5.11. 9 〜?

陸士5期・陸大14期

日露戦争では大尉、第7師団(第3軍)参謀

大正 3. 8.10 陸軍大佐、陸軍省人事局補任課長

大正 5. 8.18 歩兵第51連隊長(三重)

大正 7. 1.18 参謀本部庶務課長

大正 7 .8.19 陸軍少将、陸軍大学校幹事

大正 8. 1.15 陸軍省人事局長 (兼)俘虜情報局長官 −9.7.15

大正12. 8 .6 陸軍中将、旅順要塞司令官

大正13. 2. 4 第19師団長(羅南)

大正15. 7.28 第12師団長(久留米)

昭和 2.11.29 勲一等瑞宝章

昭和 3. 3. 8 待命

昭和 3. 3.29 予備役

 

 山崎少将と竹上少将は陸士が同期、山崎少将は砲兵、竹上少将は歩兵である。また、竹上少将の方が1年4か月ほど早く少将になっているが、問題の写真が撮られた大正9年1月には、二人とも少将である。昭和3年に中将で軍歴を終えた竹上将軍の「没年不詳」というのも気にかかる。

 

 ここはやはり、元軍人の方に見てもらうのがよいだろうと考えて、東京・練馬に堀山久生さんを訪ねた。堀山さんは陸士57期、そのお父上・濤次郎氏(主候5期)も軍人で、日独戦争の際は名古屋収容所の二等主計(後の主計中尉)を務められた方。堀山家には、名古屋のドイツ兵からもらった「単眼鏡」と「ボトルシップ」が愛蔵されている。

 「この不鮮明な写真だけで、竹上さんか山崎さんかと言ったって、わからないよ。」、堀山さんもあきらめ顔である。

そこで、「勲章を首のところに吊っているのは、どういうことですか?」と尋ねてみると、堀山さんはこともなげに「これは勲三等。勲三等は首にかけて、勲二等より上は、東条さんみたいに左胸につける。真ん中に黒く丸が見えるから、勲三等旭日章だね。自分が持っている一番上位の勲章を着けるから、この人物は大正9年1月に勲三等旭日章を持っている人だとは言える。」

「勲三等なら大佐とか、少将なら勲二等ということはありませんか。」「いや、それはない。およその相場みたいなものはあるんだろうが、軍の階級と勲等は必ずしも連動している訳ではない。」「そうなると、昔の叙勲記録から竹上さんが勲三等旭日をもらったのがいつか、山崎さんが勲三等旭日をもらったのはいつか、と調べてみる必要がありますね。」「そりゃそうだが、そんな古い記録はあるのかなぁ? だいいち、この時二人とも勲三等旭日かも知れないよ。」

 私はさらに食い下がってみた。

「こういうことは言えませんか。こうした昔の、詰襟の軍服は、襟に兵科の色のワッペンが付いていましたよね。歩兵は赤、憲兵は黒、砲兵は黄色でしたか…。この写真では、まわりの服地と同じように写っている。竹上さんは歩兵だから赤いワッペンならば、白黒写真ではもっと黒く写ったのではないか。砲兵の黄色だから、カーキ色の服地と同じように写ったのではないか。だから砲兵科の山崎さんだと…。」「うーん、襟の色のことまで調べてきたのは感心だけど、この時二人とも少将なんだろう。将官はあの色切れは付けないんだ。カーキ色の服地のままの詰襟になる。もし二・二六事件の映画なんかで、将官の詰襟に色切れがあったら、それはいい加減だね。だから、もしこの写真が、襟に何も付いていないことを示しているのならば、まさに将官だということになる。しかし、二人とも少将なんだから、いよいよ決め手にはならないね。」―― 私のうっちゃり負けであった。

 

テキスト ボックス:  
参考写真(1)

 日清戦争、日露戦争では、日本陸軍の軍服は黒ラシャであった。私が「昔の詰襟の軍服」と言っているのは、日露戦争の途中から使われるようになったカーキ色の軍服である。参考写真(1)のように、詰襟で兵科を示す色ワッペンが付けられており、階級章は肩に付いていた。

この写真は、後に硫黄島の勇将として知られる栗林忠道大将の騎兵中佐時代のもの、騎兵なのでこの襟元の色ワッペンは「萌黄色」であった。

 

テキスト ボックス:  
参考写真(2)

 参考写真(2)は、林銑十郎大将。顎の影になってわかりにくいが、将軍の詰襟はカーキ色の服地のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テキスト ボックス:  
参考写真(3)
こういった詰襟軍服は、昭和13年から折襟の軍服に変わる。我々が戦争映画などでよく見かけるのは、むしろこちらであろう。参考写真(3)東条首相のように、階級章は肩から襟元に移されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後で川村先生に確認すると、山崎家には現在も「勲三等旭日章」が保存されている。但し勲記が失われていて、いつ叙勲されたものかがわからない。しかし、上に掲げた盛装の山崎少将の襟元には、確かにこの勲章が光っている。この写真を、8年11月、少将昇進直後の記念写真と考えれば、それをワルデックを見送る際に佩用していても何らおかしくはないのである。

 

 壁に突き当たっていると、高知大学・瀬戸先生からは「同じ出来事を他の新聞がどう伝えたのか、調べてみたら…」とサジェスチョンをいただいた。

 なるほど、と気を取り直して私は、まず当の読売新聞の記事本文を読み直してみた。

大正27読売

習志野の月を見捨てて 独逸俘虜は故国へ

       98名昨日収容所を開放

         ワ総督は両三日横浜滞在

 習志野俘虜収容所に最後迄取残されたワルデック総督外98名の俘虜連は、

愈々26日午前7時収容所前で開放された。そして津田沼駅発10時20分と零

時6分の両列車に分乗して故国に向って出発する事となって、一先ず引取りに出

張したチェック公使館員に引渡され、岩崎歩兵中尉附添で喜びの色を湛え、黒山

の如く集まった観衆に目を配りながら車中の人となった。カルトナー中佐外49

名は、27日神戸港解纜のハドソン丸に便乗帰国の途に就く筈で、ワ総督外40

名は横浜の独逸海軍病院に両三日滞在し、便船を待って帰国する予定である。汽

車の人となった一俘虜は残り惜げに日本の感想に就て語る。「永々御世話様になり

ましたが、帰国となると、5年間も住み馴れた丈あって何となく懐かしい。機会

があったら再び日本の人となりたいと思って居ます。西伯利に流転して居る同胞

の悲惨な情報を聞くにつけ、日本に捕われた此の身の幸福を感じます。貴紙を通

じて日本国民に今迄の御同情に感謝致します」と。(千葉電話)

 記事本文には、竹上局長がワルデックと握手したとは書かれていない。添えられた写真のキャプションにだけ、竹上局長が登場するのである。

 次に、東京朝日を見てみよう。

大正9年1月24日(土)東京朝日

ワ総督 26日、愈釈放さる

     習志野俘虜収容所に残留せるワルデック総督以下99名は、来る26日午前8

時、全部解放さるることとなれるが、当日は同所に於て解散式を行い、同9時1

4分津田沼発の列車にて一先ず上京することとなるべきが、解散後は各自随意の

行動を取るべしと(千葉電話)。

大正9年1月27日(火)東京朝日

習志野の平和の春に釈放されたワ総督

        俘虜生活5年の追憶に、収容所の広庭を去りかねつつ

◇暫く横浜に滞在して帰国

     楚囚5年の寂しい月日を習志野収容所に黙々と暮した、前の青島総督ワルデッ

ク大佐の身にも平和の春が来て、26日朝10時、そこの広庭で他の40余名の

部下達と共に、目出度く釈放された。

  朝7時、神戸まで送還釈放されるセーラー中尉以下将卒54名の俘虜が、当直

将校の岩崎中尉に引率され、喜び勇んで出て行くのを門前まで見送った総督は、

先頃来準備してあった大小数十個のトランク其他の荷物を運送屋の荷馬車に積み

込む監督をしたり、背の高い老副官と彼方此方をブラついて、一緒に出る部下達

が思い思いに立ち騒ぐ様を、安心の眼で眺めたりした。茶の中折帽、紺背広の上

に青味を帯びた黒の外套を纏い、赤靴に茶革のゲートルという軽装をした肥満の

総督の赭ら顔は、遉に明く晴かである。9時過ぎ、俘虜受領委員とあって宣教師

シュレーダー氏が来て、日本側の委員山崎少将と会見する間に、全部の荷物を2

台の荷馬車に積み終ったワルデック大佐以下40名の俘虜は、事務室前の広場に

整列して10時を待つ。軈て所長の山崎少将はシュレーダー氏、高橋中尉其他所

員一同と共に現れて、「諸子が、俘虜としての窮屈な淋しい生活を、5年の永い間

無事に送られた事は、諸子が非常の忍耐の力に依るもので、之に対して厚く敬意

を表したい。又、今日非常の健康で諸子を釈放する機会の到来せるを欣幸とする。

諸子の安全な旅行と、将来の幸福を祈る」と云う意味の別辞を述べて、万歳を三

唱する。

 これに対してワ総督は、「永い間、自分等は所長閣下並に閣下の部下の将校其他

の官吏から、非常に親切な取扱を受け、今日無事故国に帰る事になったことを、

深く感謝する」と述べ、独逸側のシュレーダー委員は、受領した一同の点呼をし

た後、「自由は人生に最も必要で、諸君は永い間の苦痛を忍耐した結果、今日の自

由を得られたのである。今後は更に独逸の為め、新勢力を以て努力せられん事を

切望する」との訓示があって、釈放の儀式は済んだ。

  ワ総督は双頬に微笑を湛えて、所長の甲乙と堅い握手を交える一方、部下達か

ら送る別辞の握手敬礼を八方から浴びつつ、泥濘の道を徒歩で津田沼駅に出て、

午前11時18分の列車で上京、更に東京駅から横浜に一先ず落ち着いた。横浜

で暫く滞在し、来月中旬か下旬の便船で帰国する予定だと云う。

 ご覧のとおり、「釈放の儀式」に日本側を代表したのは山崎所長であって、竹上局長は登場していない。竹上局長も東京の俘虜情報局からこの場に駆けつけていたかも知れないが、少なくともスピーチなどはしていないのであろう。

 もう一つ、東京日日を見てみよう。

大正9年1月27日(火)東京日日

自由を得てワルデック総督

         =昨日、習志野を去る=

        山崎少将の訣別の辞に、ワ総督の感謝の言葉

     昨日の習志野俘虜収容所にては、大小の荷物は事務所前の広場に山と積まれて

いる。所長山崎少将以下所員一同は、今日の俘虜受領者たる独逸委員、宣教師シ

ュレダー氏の来着を待つ。午前7時、カーラー中尉以下5名の将校、並に54名

の下士以下は、当直将校岩崎中尉に引率され、手に行李、トランク、バスケット

と、中にはラケット又はヴァイオリン等の如き娯楽器までを携え、徒歩津田沼駅

に向い、夫れより汽車にて両国、東京を経て、神戸に送られた。神戸で独逸委員

の手に引渡し、本日午後解放の手筈である。俘虜は帰国する者もあるが、大部分

は蘭領印度に向う由。

  午前9時、独逸委員シュレダー氏はシルクハットで来る。門衛の案内で、新設

された事務所内の応接間に通され、所長山崎少将と会見。厳かに受領の式を済ま

し、愈午前10時、ワルデック総督以下将校16名並に下士以下24名の俘虜は、

事務所前の広場に集り、山崎所長より「俘虜として5年間は、随分永かった事で、

定めて不自由であっただろう。其の間よく忍耐して押し通された事は感じ入る。

諸氏は健康で今日の解放の時が来た事は、同慶に堪えない。願わくは、長途の旅

の、恙なくあらん事を」と挨拶をなし、次いでワルデック総督は「永い間、所長

閣下並に部下の方々から、望外の親切を忝なうし、茲に今日自由の身となる事を

感謝します」と簡単なる答辞をなし、最後に受領委員シュレダー氏は「諸氏が今

日解放されたる事は、大なる自由である。自由は人間の必要条件である。諸氏は

今日迄その自由を束縛せられて居た。サテいよいよ自由となった以上は、新しい

勢力を以て本国の為めに尽されん事を望む」と、茲に一同万歳を三唱し、ワルデ

ック総督始め一同、2里の道を同じく徒歩にて津田沼駅に至り、午前11時15

分同駅発にて両国駅に向い、東京に留まるあり、横浜に向かうものあり、斯くし

 一同は、最後の自由者となれり。

車中、総督と語る

        故郷に妻子が待つ=感慨深き面持して

     記者はワルデック総督と、両国行列車中に語る。此の日、総督は茶色の中折帽

子に紺の背広服、天鷲絨の襟を取れる黒のオーバーと云う扮装なり。「最後の署名

を」と望めば、総督は、今日自由の喜ぶ様ありありと面に現わし、「よし来た」と

ばかりに記者の名刺の裏面に「マイエル・ワルデック」と、いと軽々と署名する。

「是れから直ぐ故国にお帰りですか」と問えば、「暫く横浜に滞在して、来月(2

月)の下旬頃帰国する。故郷には妻子が帰って待って居る。定めて今日の日を喜

び、予の帰国を指折り数えて待って居るでしょう」と、故山懐かしき面持ちであ

る。健康を問えば、「お蔭で達者です。所長閣下(山崎少将を指す)には随分お世

話になりました。貴下(記者)からも宜しく」と感謝の眼を輝かす。両国駅に着

くと自動車を駆って、驀地に東京駅ホテルへ──。

東京日日は図々しくも、東京へ向う列車に乗り込んでワルデック総督のインタビューまで取っているのだが、やはり竹上局長はどこにも登場していない。

 これは、何を物語っているのであろうか。竹上局長は、同席すらしていないのではないだろうか。読売の記者が、「釈放の儀式」には東京から竹上局長も出席するらしいとの事前情報を鵜呑みにしてしまい、握手している人物が誰なのか確かめもせずにキャプションを書いてしまったのではないだろうか。真ん中のシルクハットの人物も「独逸委員シュレダー氏」であって、キャプションの言う「カルトナー中佐」ではないだろう。

 竹上局長の別の写真でも出てくれば、もっと確定的なことが言えるかも知れないが、いまだにそれを見つけることが出来ないでいる。新聞の写真を見て、息子の隆さんが「父だ」と言っておられること、山崎所長は既に大正9年1月には勲三等旭日章を佩用していたと思われること、そして以上の各記事の比較から、私は写真の人物を竹上局長ではなく山崎所長だと断定したいと思うが、いかがなものであろうか。

 

 私の一枚の写真との格闘をお伝えして、写真の解析からいかに多くの情報が得られるか、その一例を提示したつもりである。

ドイツ捕虜のめぐる写真については、誰を写したのかわからなかったり、アルバムから剥がして何の写真だかわからなくなっているものも多い。しかし、古い写真だからとあきらめずに、じっくりと眺めてみれば、まだまだ意外な事実が埋まっていると思われるのである。

各地の収容所研究において、写真が有効に使われるよう願ってやまない。

 

(追記) ここで一つ、余談をご披露すれば、明治44年生まれの隆氏は建築実務家として活躍される一方、江上波夫教授の調査団に加わってオロン・スム遺跡の調査を行った方。そして、老境に入られて、もう一つの大事業を果たされることになる。

隆氏の住む東京・新大久保は、いつの間にか外国人の流入が著しくなり、日本人住民とのカルチャー・ギャップから来る対立が始まった。隆氏と川村先生の父娘は両者の間に挟まり、何とか外国人と和やかに共生が出来る町にしようと奔走する。排斥を叫ぶ日本人には寛容さを説く一方、日本の法律や習慣を無視する外国人には粘り強く説諭を続けた。ある時期などラブホテル街に外国人街娼が立ち並ぶ異常事態になってしまい、隆氏は毎夜そこへ通っては、「お前たち、こんなことをするもんじゃない」とたしなめて歩く日々だったという。

 現在、国際化が進み、全国どこの町でも外国人との共生が問題にされるようになった。その折には必ず、“国際都市”新大久保のケースが成功例として語られるのであるが、その陰には山崎父娘の人知れぬご苦労があったのである。

 もし隆少年が習志野でドイツ兵と出会わなかったとすれば、山崎所長が「早く学校へ行け」と怒鳴っていたとすれば―――、後年のこの“国際都市”新大久保はなかったのかも知れない。

  この5月9日、思いがけなくも山崎隆氏の訃報に接した。95歳。本稿をお目にかけられなくなったのが残念でならない。

 

テキスト ボックス:  (追記2) 竹上将軍は上記のとおり、俘虜情報局長官を務めた後、久留米第12師団の師団長になっている。久留米に竹上師団長の写真が残っていないか、堤諭吉氏に照会したところ、福岡県立図書館で膨大な新聞のマイクロフィルムを回し、ここに掲げる写真を見つけて下さった。大正15年7月25日付の福岡日日新聞「陸軍大異動/十二師団長更迭」という記事に添えられた竹上中将の写真である。なお堤氏は、他の新聞写真や写真帖とも照合し、間違いないことも確かめて下さった。この人物が、ワルデック総督と握手している人物とは別人であることは、どなたの目にも明らかであろう。

 これでやっと、失われていたジグソーパズルの一コマが埋まったことになり、筆者としても感激に堪えない。堤氏は、久留米市教委文化財保護課から市立南筑高等学校に異動されて多忙な日々を送られているが、この写真の捜索に快く時間を割いて下さった。深く謝意を表したい。