随想

「ワルチェルさん」のこと

 

星 昌幸(習志野市教委・社会教育課)

 

 

 テレビのバラエティー番組では、「超能力者登場」だの「死者の霊と対話できる」だのといったショーが花盛りである。読者諸氏は、ああいったものを、どんな目でご覧だろうか。私は否定的というか、科学万能とも思わないし、世の中には確かに不思議なこともあるのだろうが、ただテレビでやっているものは演出過剰なショーに過ぎないだろうな、という立場でニヤニヤ眺めている。

 ところで、習志野のドイツ捕虜の調査を始めて、はや6年。この調査をやっていると、思わず「これはもしかすると、ドイツ兵の霊が導いてくれているのではないか?」と思うような、不思議な出会いを、いくつも体験した。鳴門市ドイツ館や久留米市教育委員会の皆様に、いろいろ指導していただいたとは言え、6年で史実の概略が浮かび上がるまでになったことも、ラッキーと言えばラッキーであった。と言うよりも、6年前、市内のお宅からドイツ兵が残したボトルシップが発見された際、まったく日を同じくして久留米市教委の堤さんからお電話をいただき、これが端緒になってこちらもドイツ捕虜調査を進めることとなったのだから、考えてみればこれも不思議なことである。

 こうして平成12年には、ささやかな史料展を開くことが出来た。また、この史料展の図録を元にした書籍を刊行(丸善ブックス「ドイツ兵士の見たニッポン」)することも出来たのだった。

 

 ところで、この史料展の会場に足を運ばれた中に、三井悠二さんという方がいる。こちらの市内にお住まいで、このドイツ兵の歴史には心底感動して下さった。また、丸善ブックスは各誌書評などでは好評を博したものの、版元側の都合もあってなかなか店頭に流れなかった。三井さんは現役時代、出版関係にお勤めだったことから、この本の流れを改善しようと、いろいろ奮闘して下さった。その三井さんから意外なお話を聞いたのは、重版が決まりやっと品が流れ出した頃であった。

 実は、私の母に先夫がいましてドイツ人だとは聞いていたのですが、今回思い立って異父姉に聞いてみたら何と「捕虜になって、瀬戸内海の島にいた。名前は確かワルチェルとか聞いた」と言うのです――。三井さんの母ウメさんは長崎の人で、明治の中頃、商人だった「ワルチェル」さんと天津で知り合った。青島で暮らし、二人の間に時子さん、照子さんという女の子2人が生まれたが、やがて日独の戦争になり、妻子は長崎に戻った。「ワルチェル」さんはやがて捕虜となって、収容所から長崎に手紙をくれた。しかし、彼は解放後長崎には戻らず、帰国船に乗ってドイツに帰ってしまったようだ。残されたウメさんは2人の女の子を連れて次の夫に嫁ぎ、その間に三井さんらが生まれたのだ、というのだ。そのウメさんは、昭和12年に亡くなっている。

 この話を聞いて私は、似ノ島収容所だろうと見当をつけ、捕虜名簿で「ワルチェル」と読めそうな人間を捜した。捕虜番号4618、ヴィクトール・ヴァルツァーがそれではないか、とお答えしたのだが、照子さんは亡くなっており、時子さんも老衰が著しく、これが正しいかどうか、確かめようもなく終ってしまった。その後、時子さんが亡くなったともうかがった。

 今年5月21日、三井さんから久しぶりにお電話をいただいた。「照子の娘が、遺品の整理をしていたら、ワルチェルさんの手紙が出てきたと言うんです。発信人はヴィクトール・ヴァルツァー。前に教えていただいたヴァルツァーが、まさしくワルチェルさんでした!」

 美しい書体の英語で書かれた手紙やはがきは、大阪収容所からのものである。大阪の収容所は火事になり、似ノ島に移転するが、この時ウメさんには移転先がわからなくなってしまったのであろう。天津のStrauch&Co.,Ltdからウメさんに宛てて、「ヴァルツァー氏の目下の住所は、似ノ島収容所」と回答を記した手紙もある。彼の勤務先がStrauch&Co.だったのかも知れない。

 三井さんは、自分のお身内にこんなことがあるのを知らずに、ただ自分の住む町の歴史として史料展に足を運び、本を買ってくれたという。しかし、その本に感動し、何とか広く品が出回るように躍起になったことと、自分の身内にワルチェルさんがいたことに、何か因縁があるのだろうか、と語っている。昔ならば、「これが、見えない“えにし”というものだ。仏様のお導きだよ。」とでも言ったところであろうか。

 

 照子さんの娘、つまりウメさんにとっては孫に当る篠田和絵さんが、お友だちの石井晴実さんを通じて、この研究誌の“公認私設サイト”とも言うべきホームページ「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」に照会のEメールを出されたところから、解明は一挙に進む。メールの転送を受けた私は、このところ目覚しい研究成果を挙げているザールラント州の研究家ハンス−ヨアヒム・シュミット氏に、調査を依頼してみた(余談だが、歴史家のシュミット氏は、自分が住むために中古住宅を買ってリフォームしたところ、屋根裏からこの家の元の主、アンドレアス・マイレンダーのアルバムが出てきた。そのマイレンダーが習志野収容の捕虜だった、というところから、今ではすっかり捕虜研究のとりことなっているのだ。)。下手なドイツ語でシュミット氏にEメールを送ったところ、驚いたことに「ヴァルツァーなら、ゲルトルートという孫娘を知っている」との返事が即座に飛び込んできた。但し、「日本に家族を残してきた、などとは聞いていない」とのことだった。

 この返事は、心優しい和絵さんを当惑させるに充分だった。ゲルトルートさんは、幸せに暮している。日本に妻子を棄ててきたなどと聞かされては、ショックを受けるに違いない。いかに歴史の調査といっても、他人の幸せを壊すようなことは出来ないはずだ‥。和絵さんは大いに躊躇されたのだが、この点はシュミット氏の方が老練だった。“孫娘”さんは、実はヴァルツァーの姪の娘で、孫代りに可愛がられていた。ドイツに戻ってから1956年に亡くなるまで、ヴァルツァーは独身だった、と調べ上げてくれたのだった。つまり、ヴァルツァーは、日本にいるはずのまだ見ぬ孫の代りに、この姪のゲルトルートさんを可愛がっていたのである。この事実を知って、ゲルトルートさんもまた、感慨無量であるようだ。そして、こう語っている。「日本に親戚がいるなんて、素敵だ」と。

 ヴァルツァーがなぜ、長崎に戻らず帰国船に乗ってしまったのかは、残された謎である。第一次大戦後のドイツ社会は、未曾有の大混乱だった。今後のことはひとまずドイツに戻ってから、と思ったのが裏目に出て、今生の別れになってしまったのかも知れない。和絵さんは、いずれドイツを訪れて、ヴァルツァーの墓参りをしたいものだとおっしゃっている。

 なお蛇足を書けば、和絵さんは以前、鳴門市ドイツ館をご覧になって、「初めて来たのに懐かしい場所」と感じておられたそうである。三井さんによれば、和絵さんの父君は、プロレタリア作家で鳴門出身の貴司山治氏だとのこと。また、和絵さんの調査を終始手伝われた石井晴実さんは、旧姓坂東で、ご先祖は阿波郡市場町で藍染めに携わっていた方だそうである。

 

 ゲルトルートさんによれば、第二次大戦中ヴァルツァーは彼女の一家と共に、オーストリアのグラーツで暮していたという。敗戦と共にドイツ人は追放され、故郷のラインラントに帰ったのだそうだ。おそらく彼はそこで、似ノ島の戦友らと「捕虜展覧会」をやった、懐かしい広島の物産陳列館のドームの上に、“新型爆弾”が投下され、一瞬で死の町になったというニュースを聞いたであろう。そして、ウメさん一家と過した思い出の町・長崎にも‥。なにげない略歴の中に、彼の涙が潜んでいる。

 人一人、人生を生きた痕跡というものは、別に有名人ではなくても、40年や50年で消え失せてしまうものではないのかも知れない。科学は、死んでしまえば無だという。生きている内に好きなようにしなければ、損だ。そんな、一面享楽的、一面虚無的な哲学が、現代は幅を利かせすぎているのではないか。ヴァルツァーの略歴を見ていると、ふとそんな思いがよぎるのである。

 

 『習志野市史』は、ボトルシップ発見よりも前に刊行されたため、「ドイツ捕虜については、もはやよくわからない」と記している。しかし私には、今や天国にいる彼らドイツ兵が、「俺たちがこの町にいたことを、忘れないでくれ!4年半もここにいて、日本の兵隊や村人らとも仲良く暮らしたじゃないか」と言っているような気がするのである。「バンドーの戦友たちには立派な博物館も出来ているが、全国各地でその戦友らが暮らしていたのだ。俺たち一人一人が泣き、笑い、人生のドラマを背負った人間だったんだ!」そんな冥界からの叫びに誘われて、この6年、夢中で捕虜研究を続けてきたのかも知れない。

 当時、収容所どうしで戦友の消息を伝えあう郵便物も、盛んに行き交っていた。彼らのひそみに倣って、各地の捕虜研究も、ぜひ連携を取り合って行きたいものだと思っている。似ノ島や青野ヶ原、名古屋、そして初期の収容所があった町でも、研究が進むことを期待したい。インターネットという“新兵器”を使って、国境を越えたネットワークを組めば、忘却の淵に消えようとしていた「ワルチェルさん」を記録に留めることすら出来たのである。

 最後は何やら霊媒じみた話になってしまったが、夏向きの怪談噺としてご覧いただけたなら幸いである。