似島訪問記
 
瀬戸武彦(高知)
 
 去る325日、広島市似島を訪問した。広島港から朝930分発のフェリーに乗り、似島学園港には950分に到着。桟橋には宮崎佳都夫氏が出迎えてくれた。直ちに似島学園構内及びその周辺に残る、陸軍第一消毒所(日清戦争終結直後に設置、後の陸軍第一検疫所)跡の遺構を見学・調査した。日露戦争時にはロシア人俘虜収容所となった場所である。明治28年に作成された貴重な見取り図と照らし合わせながら、往時の建造物の位置などを確認し合った。
 
 その後、第二消毒所(後の第二検疫所)跡に建つ平和養老館と似島臨海少年自然の家に向かった。養老館前には、昨年の似島訪問時にはなかったトロッコの線路を見学。宮崎氏が最近発見した第二検疫所構内を走っていたトロッコの線路である。海岸に突き出た旧陸軍第一、第二、第三の三つの桟橋の遺構を眺め、やがて向かった少年自然の家のグラウンドでは、折りしも地区公民館の行事が繰り広げられていた。殻つき牡蠣を焼いたものや、近くの山で子供たちが摘んだ山菜など、思いがけない地元料理の昼食に与った。
食後にはバウムクーヘン作りが始まり、傍らでは、122日にテレビで放映された「ドイツからの贈りもの」が野外スクリーンに映し出されていた。似島は日本における「バウムクーヘン発祥の地」といえるので、正にピッタリの行事であろう。上出来の仕上がりで、とても美味しく、感慨無量だった。
 
 バウムクーヘンを賞味してから、旧収容所裏手の丘に登った。その昔、オートマー博士を始として似島の俘虜が野菜作りに励んだ場所である。収容所を脱走した俘虜4名が、脱出用の筏を組むために、密かに竹を切っては隠した場所でもあるという。その小高い丘からは、驚いたことにすぐ眼の前に海が広がっていた。収容所を板塀で蔽って、海が見えないように眼隠ししたことが、似島収容所の特徴と思っていた。昨年は全く思いもしなかった場所まで調査出来た。これもひとえに宮崎氏に案内して戴いたお陰である。
 
 その後、俘虜たちが労役で出かけたといわれる製針所跡を見てから、原爆死没者の慰霊碑を参拝した。アメリカ軍が投下した原爆によって火傷を負った約一万人が、小船で続々と似島の陸軍桟橋へと運ばれ、第二検疫所の停留舎等で治療を受けた。多くの負傷者が次々と亡くなって荼毘にふされたが、やがてはそれも追いつかず周辺の海岸際の空き地に土葬されたという。一年間前にも、工事現場から数十体の遺骨が発見されたそうである。午後四時頃、宇品へ戻るために似島港に向かう途中では、第二次大戦時の陸軍船舶練習部の訓練基地跡、同兵舎跡、燃料貯蔵施設跡や、似島の脱走俘虜が捕まった槙地区を検分した。その夜は宇品で酒を酌み交わしながら、宮崎氏と心ゆくまで語り合った。
 
 実は似島訪問前日に比治山の陸軍墓地を訪ねて、ドイツ兵俘虜オットー・パーペの墓碑に参拝した。墓地には北清事変(義和団の乱)での戦没フランス兵の立派な墓碑があることに驚いた。もちろん、日清戦争、日露戦争、第二次大戦での戦没将兵の墓碑が数多く並んでいる。比治山陸軍墓地に埋葬された戦没者数は、4500名余に及ぶとのことである。
宮崎氏が『似島の口伝と史実』の中で記しているように、似島は日清戦争、日露戦争、北清事変、第一次大戦(日独戦争)、第二次大戦と、近代日本の戦争の全てに関わった特異な島である。かつては軍都とも呼ばれた広島の、海の玄関口に位置することがその遠因であろう。私事ながら、昭和21年秋に満州から引き揚げて、初めて日本の土を踏んだ所こそ宇品であった。その宇品港(現在の広島港のすぐ脇)の真ん前に浮かぶ似島を、幼い眼で眺めたことがあったのではと思わずにはいられなかった。
 
比治山陸軍墓地のオットー・パーペの墓碑
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バウムクーヘン作りを指導する、似島臨海少年自然の家所長の谷氏
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ドイツ菩提樹の苗木の前で(宮崎氏と瀬戸
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