板東俘虜収容所時代のドイツ牧舎について
 
                                富田 実
 
板東収容所時代の通称「ドイツ牧舎」は、収容所本部・行政当局・俘虜および民間人が一体となり模範的に展開された、いわば、俘虜活用のモデルケースとも言える事例です。ドイツ牧舎の正式名称は「富田(製薬)畜産部」であり、俘虜からは「収容所酪農所」(ディ・バラッケ記事)あるいは「トミダ酪農場」(クラウスニッツァーの証明書)とも呼ばれていました。松尾展成氏によるドイツ牧舎に関する精査なご研究に敬意と感謝の念を持つ者として、同氏のメール会報(2006,Jan19)「初期のドイツ牧舎をめぐって」に引用されている私の見解を補足いたします。
松尾氏と私の見解の違いは、富田畜産部に雇用されていた船本宇太郎が後年(凡そ50年後)に作成した「ドイツ俘虜の家畜管理と酪農の草分時代について」と題する小冊子(以下、船本回想録とする)の解釈の差に主として起因すると考えます。
読者の予備知識として、板東収容所時代のドイツ牧舎に関係ある主たる日本人の人間模様を簡記しておきます:富田久三郎(事業主、製薬業社主)、富田鷹吉(久三郎の一人息子)、松本清一(久三郎の甥、ドイツ牧舎の実務責任者)、船本宇太郎(ドイツ牧舎で就業、松本の獣医学校および軍隊の同期生)、久留島秀一(富田畜産部の設立前に板東で静養舎を経営)。
以下、松尾氏のメール原稿の項目番号に対応させて補足します。なお、本文で詳述する当時の写真の表記は、松尾氏著書「日本=ザクセン文化交流史」の記載ページと記号で括弧内に示しました。
 
@ドイツ牧舎の完成時期
ドイツ牧舎完成記念とされる写真(p241,(1))には、15名のドイツ兵と5名の日本人が写っている。各人ともやや改まった服装で、前列中央部に軍刀を手にした高木大尉が肘つき椅子に座り、その左横の肘つき椅子にシュトレー予備伍長が、さらに左横にクラウスニッツァーが、そして高木大尉の右横に松本清一が座っている。クラウスニッツァーとシュトレーが松本の案内により瀬戸村の富田製薬工場を訪問した時の写真(p240,(f)1918122日撮影)が残っているので、両ドイツ兵は容易に判別できる。現時点では、上述以外の人物の特定はなされていないが、いずれもドイツ牧舎(一期工事)の建設に関与した人々であると推定される。15名のドイツ兵のうち、クラウスニッツァーを含めて数名が後のドイツ牧舎での久三郎との送別写真(p240,(d),(e))にも確認できる。
この完成記念写真の撮影時期は、人物の服装など(日本人が足袋を履いている)からみて、1917年の晩秋から初冬の頃と想定できる。ドイツ牧舎は「俘虜との共同で5ヶ月かけて完成された」と伝えられているので、そうとすれば、ドイツ牧舎の着工開始は19176月以降が有力です。富田製薬百年史(松尾氏著書引用文献リスト、p331)にある新牧舎8月完成説は、「板東に俘虜が集結し直ちに着工が始まり、5ヵ月後に完成した」との解釈に拠るものと推察しますが、再検討が必要です。
新牧舎完成までの富田畜産部の実態については当時の公式記録「板野郡誌」によく表現されている。その記述は、板東収容所の開設中に郡役所によって作成されたもので、非常に信頼性の高いものです。それによると、「俘虜収容所設置以来その影響を受けて起こりし事業は一にして足らずと雖も著しきは牛豚業に農事改良なり、牛豚の方面に於いては大正64月檜(板東町)に静養舎および佐山養豚場起こり、萩原に産業舎起れり、静養舎は初め(久)留島秀一経営者となりて四頭の乳牛より毎日一斗の乳を搾りつつありしが大正67月独乙式に改め、牧場も独乙人シュラダー(Schrader)の設計により新築し、通訳にはストーレイ(Stolle)、搾乳牛にはクラウスニッチェル(Clausnitzer)の如きいずれも独乙人を用ひ乳牛も四倍に増し十六頭とし毎日乳量五斗を出すに至れり加之クラウスニッチェルを技術者としてクリム・バタ・牛乳豆腐を製造し収容所に納むることとし舎名も牛豚舎と改め瀬戸村明神の人富田久三郎代わりて事業主となり三十頭乃至六十頭の豚を扱ひ亦収容所の需に応しつつあるなり」とある。
この時、久三郎はドイツ牧舎の建設のため約5千円の資金を提供している。ディ・バラッケの保健組合1917年報告に「10月半ば以降、収容所酪農所から衛生的な牛乳が供給可能になった」と記載されている。クラウスニッツァーが富田畜産部に雇用されたのは19177月からなので、彼はドイツ牧舎完成まで、牧舎建設の助言・指導と並行して、既存の施設(静養舎?)で家畜飼育や搾乳の指導を行っていたことになる。
 
A船本宇太郎の牧舎就職の時期
松尾氏は船本回想録と船本履歴書によって191710月と推定している。これらに記述されている収容所時代のドイツ牧舎に関する話は、船本の晩年に、すなわち、第二次大戦後に板東収容所の人道主義が強調されるようになった後に書かれたものです。初期のドイツ牧舎には、雇用され頻繁に出入りしていたドイツ兵が少なからずいたことは、当時の資料や写真からも明らかです。船本伝聞には後の事例を混淆した曖昧かつ不正確な表現が多く、彼がドイツ兵俘虜と交流していた期間は通説よりも短かったと考えています。
 
Bドイツ牧舎の設計者
船本回想録に松本清一による大正時代の講演原稿が転載されていて、その中に、「私(松本)は大正6年(1917)年1月から同9年(19201月まで約3年間、時の板東俘虜収容所に収容されていたドイツ人と接しておりました」とあるが、この文には矛盾がある。私は、松本の当時の状況を勘案すると、「1月から俘虜と接した」のは誤りで、「板東収容所(4月以降)の俘虜と接した」の方が事実であったと考えます。もし、富田家側が徳島収容所時代に牧舎設計のために俘虜と接したのであれば、同収容所の記録に残るべき案件です。当時の社会状況や地理的条件を考慮すると、徳島収容所時代に出資者側と俘虜とが牧舎設計について綿密な打ち合わせする機会は無かったと考えています。後に、俘虜研究者が設計者をシュライバーとしたのは、徳島収容所の俘虜に限定したためです。
上述の板野郡誌に「牧舎もシュラダーの設計により新築し」と明記されている。19174月に二人のシュラーダー(Schrader)が松山と丸亀から板東に移されているが、@で考察したように、板東集結後にドイツ牧舎の設計に取り掛かったとしても十分な時間があったと考えます。私には、牧舎の当時の設計に、松尾氏の見解にあるような、長期間の月日が必要であったとは思えない。むしろ、設計者の重要な役割は現場での施工指導にあったはずであり、また、牧舎の設計には酪農技術者(クラウスニッツァー)の助言や協力が当然必要とされるので、俘虜によるドイツ牧舎の設計作業は、坂東へ集結後でなければ具体化しなかったものと考えます。板東集結前の段階で、富田側が徳島収容所もしくは県当局に設計者の人選を依頼した可能性はありますが----
 
C牧舎関連写真4枚の撮影時期
 板東収容所や俘虜に対する観点は当時と後世では異なっているので、伝聞や後世に作成された資料の調査よりも、当時の記録の掘り起こしと写真の詳細分析が事実解明に重要です。特に、当時の写真は文献解釈では限界のある事柄を明らかにします。
(一枚目);前述の集合写真(p241,(1))は、ドイツ牧舎の完成を記念して撮影されたことに異論はほとんどないようです。人物の服装から見ると、従来のドイツ牧舎の完成時期とされる晩夏あるいは初秋ではありません。
(二枚目);次に、牧舎の全容を背景にした冬季の写真(p241,(2))に関して、その撮影年月は不明ですが、1919年の2期工事以前であることは明らかです。この写真の人物像は小さいですが、私には、3名のドイツ兵のうちのクラウスニッツァーとシュトレーおよび松本清一の存在が確認できます。松本以外に11名の日本人がいるが、牧舎従業者の他に建設作業に関わったと見られる職人風の人物も数名以上認められる。クラウスニッツァーの左隣の日本人は久留島秀一である可能性が高い。この中に船本宇太郎がいるかどうか確認できていないが、該当するとすれば左端に写っている人物であろう。残る1名のドイツ兵の役割を含めて、この集合写真撮影の動機の解明が必要です。私は、写真の牧舎右横(東側)の増築予定の場所に掘り下げられ整地されたような形跡が認められるので、二期工事開始直前の記念撮影の可能性が高いと考えている。また、この写真に見られる一期工事で完成された牧舎東側の外壁は完璧に仕上げられているので、当初の計画では増築(二期工事)の予定はなかったものと推察される。
別の写真A(参照なし、19193月のp240(c)と同時撮影)には、二期工事でほぼ完成したドイツ牧舎が写っているので、一期と二期のそれぞれの完工には1年以上の間隔があったと推定できる。写真Aには、増築部に隣接して従業員などの寝泊り用の和風住宅の一部も写っているので、牧舎の増築と宿舎の建設が同時期(1919年はじめ)であったことを示唆している。
(三枚目);19193月に久三郎が遠来の客人をドイツ牧舎に案内した時の写真(p240,(c))にはクラウスニッツァーの外に4名のドイツ兵が写っている。いずれもドイツ牧舎で従事していた俘虜と思われる。この写真に写る4名の富田関係者(客人と松本を含む)以外の4名の日本人はドイツ牧舎の勤務者ではなく、当日久三郎らを運んだ人力車の車夫です。
(四枚目);最後の写真(p240,(d)(e)も同じ時に撮影されているが(d)の被写人物から船本だけが抜けている)は、人物の服装(冬季のもの)や子供(女児と少年)の成長の跡(撮影時期の判明している他の写真と比較)およびドイツ兵俘虜の表情などから判断すると、クラウスニッツァーらの帰還の知らせを受けて、久三郎が送別のために孫を連れて瀬戸村からドイツ牧舎に出向いた時のものとほぼ断定できる。従って、その撮影時期は1919年の年末の頃です。
 
Dクラウスニッツァーがドイツ牧舎に寝泊りした期間
この点に関しては、写真から類推できません。今後の収容所研究の発展に期待します。船本回想録にある「クラウスニッツァーの寝泊りに関連して、松江所長が一人でドイツ牧舎に調査に来て、自分(船本)が対応した」の逸話などは、私には実話とは思えません。松江所長の人道主義が一般に認知されたのは、俘虜研究が盛んになった後世のことと理解しています。
 
Eクラウスニッツァーに贈呈された銀盃
松尾氏の調査によるクラウスニッツァーが母国に持ち帰った二つのドイツ語証明書は非常に貴重な資料です。一つは収容所本部の翻訳済みの活字証明書、もう一方は手書き証明書で、共にクラウスニッツァーの板東における酪農精励を証明するものであり、ドイツへ帰還後に彼の日本での酪農実績を正当化させるために必要としたものと思われる。なぜ、同様な証明書が二つ存在するのか?
手書き証明書は宛名(Herrn Clausnitzer)とサイン(K.Suwa)の部分以外の本文は同一筆跡と思われる。この証明書は、クラウスニッツァーの文案(意向)に基づいて、本人もしくは代筆者(俘虜)が作成したもので、これに対応する日本語原本は無かったと考えます。先の正式な活字証明書と後の手書き証明書の最も大きな違いは、手書き文の中央部に特別に大きなゴシック様字体で1 silbernen Becher(銀盃一個)と書き加えられていること、および、その贈呈者の筆頭に瀬戸村の富田久三郎の名前が挙げられていることです(久三郎の名前の下にトミダ酪農場の支配人および管理人として松本と船本の名前が付記されている)。クラウスニッツァーは、久三郎から送別記念に贈られた銀盃を彼の日本での酪農精励の評価の確たる証とするために、手書き証明書を作成したと思われる。筆跡鑑定の必要はありますが、そのコピーを見る限り、本文は同一人がほぼ同一時に作成し、また、松尾氏の見解と異なり、私は書写専門家でなくても作成可能な証明書と考えている。そうとすれば、この手書き証明書は文末の日付(19191225日、解放日)に近い時期に作成されたことになる。銀盃の贈呈日は910日となっているが、彼の帰還に際して贈呈するとの文面と矛盾している。9月の段階では、クラウスニッツァーはドイツ牧舎で精勤中であり、また、一般にはドイツ兵解放の具体的な日程や予定は未だ知らされてなかったはずです。クラウスニッツァーが銀盃贈呈日を910日と記したのは、先の正式証明書(8月発行)と関連づけたい意図が働いていたと推察します。当時の久三郎の置かれた立場を考えると、彼がクラウスニッツァーに銀盃を贈呈し得たであろう時期は、写真(d)・(e)の撮影時期(即ち、1919年末頃)以外に想定しがたいです。
さらに、銀盃一個に関して、偶然の一致としては無視できない当時の記録があります。それは、同年1025日付けで、富田鷹吉がドイツ式牧場経営などの功労を称えられ、徳島県知事より表彰され銀盃を授受していることです。その表彰文を以下に示します。
「賞状、板野郡瀬戸村、富田鷹吉、夙に畜産業の有利なるを認め種牡牛を備えて之が種付け為し又独逸式牧場を経営して弘く改良の範を示し或は郡畜産組合の発達に努力する等功尠からず依って銀盃壹個を授与し之を表彰す、大正八年十月二十五日、徳島縣知事、正四位勲二等、大津麟平」
時期的にみて、久三郎は、送別のためドイツ牧舎を訪ねた時に、知事から授受した銀盃一個をクラウスニッツァーに贈呈した可能性が高いと考えている。
 
F富田久三郎のドイツ訪問(クラウスニッツァーとの再会)
 クラウスニッツァーの母国へ帰還後7年になる1927年に、久三郎はドイツへ視察旅行(約半年間)を行い、その際、クラウスニッツァーを訪ね旧交を温めている。久三郎はかねてより薬品の取引を通してドイツ人の気風や高度な知識・技能を高く評価していたので、ドイツ兵を遇するに最高の礼をもって慰労したと言われている。松尾氏の調査によれば、久三郎以外にも1937年頃にクラウスニッツァーを訪ねた酪農関係の日本人友人がいたとされているが、少なくともドイツ牧舎の日本側該当者には再訪問した人物は見当たらない。
 
G久三郎による捕虜別荘の移築
 徳島県板野郡瀬戸村(板東から十数キロメートル離れている)の小山に、ドイツ兵の製作した小家屋2棟が移築されていた(写真あり)。その一つは「コップ」と呼ばれていました。当時の新聞記事(徳島日日新報、1922615日、婦人団が富田製薬工場を見学した様子)を抜粋すると「----主人鷹吉氏は留守で案内役富田久三郎翁外主任技師等両三名、丸々と肥え太った乳牛の放牧状態から搾乳瓶詰販売に出る諸作業(注;清養荘牧場)、さては後方小山一帯の柑橘園、ドイツ俘虜製作の記念館、針金張りの葡萄棚等、全面積六町歩余の園内のここかしこ逍遥し、いよいよ工場へ入る----」とある。松江所長の子息がコップ大尉からダックスフンドを貰い、その犬をコップと呼んでいたらしいですが、おそらく、ここでも、コップ大尉の所有していた別荘小屋を移築したものがコップ呼ばれたものと思われる。なお、コップ大尉のアルファベット綴りは、俘虜名簿にあるKoppe ではなくKoppが正しいのではないかと再考されているようです。
 
 板東収容所時代にドイツ兵俘虜と地元職人の共同で建設されたいわゆるドイツ牧舎は、現在、「船本家牧舎」として国の登録有形文化財建造物に登録されている。第二次大戦後にドイツ牧舎の所有権が移行され名称も変わったため、収容所時代のドイツ牧舎の実態が分かりにくくなっています。松尾氏の論文発表以降にも、「収容所時代にクラウスニッツァーらが船本牧舎で酪農・食肉加工を指導した」と解釈している俘虜研究者を見受ける。結果として、船本宇太郎はドイツ牧舎の後年の所有者となりますが、板東収容所時代には途中でドイツ牧舎に雇用された就業者の一人です。松尾氏を含めて俘虜研究者の多くは、ドイツ牧舎をめぐる日独交流の担い手の中で、船本を最重要人物と見なしていますが、そのことによって、板東収容所時代のドイツ牧舎の実態解明に曲解が生ずることを避けてほしいと念願するものです。
ドイツ牧舎をめぐる俘虜との連携活動は、富田久三郎の存在抜きにはあり得なかった事柄です。久三郎は、青年期より工農一体化を理想としており、この機会に彼の理想を実現すべく多額の出資をしたのであって、もとより、収容所相手の商売を目的としたものではなかったのです。久三郎は、富田畜産部の実務責任者に獣医学校出身の甥の松本清一を当てました。後に、松本は彼の友人であった船本を呼び寄せました。ドイツ兵帰還後、船本は一時富田畜産部を離れるものの、しばらくして復帰しています。その後、富田畜産部は国内需要向けのバターなどの製造・販売を続けるものの、その経営は赤字のままでした。しかしながら、久三郎は彼の死(1937年末)まで富田畜産部(ドイツ牧舎)の運営資金の補給を続けています。
 終わりに付言しますが、ドイツ牧舎がほぼ往時の姿を保ったまま保存されてきたのは、船本家の努力と見識の賜物であることに異論の余地はありません。