「三木成夫の会」第6回学習会レジュメ
 
(2006年6月17日 丸亀ひまわりセンター)
 
発表者:八 木 洋 一
題 目:「三木成夫が求め続けたものは何だったのか? ― いのちの形から働きの場へ向かって ― 」
 
I 三木成夫とゲーテ ― 求道の「人」 ―
 
三木成夫(1925〜1987)の場合
※ 富永半次郎、千谷七郎、今泉準一(其角研究会1957〜1967年)などとの関わり方。
 
 特に、富永半次郎からの影響は想像を超えるものがあったのだろうということは、例えば千谷七郎教授還暦記念論文集に寄稿した論文「『原型』に関する試論 ― 人体解剖学の根底をなすもの ―」の最後に次のよう謝意を還暦を迎えた千谷に対してではなく富永半次郎に表わしている。「稿を終えるにあたり、老師富永半次郎先生の御許へのかけがえのない御導きと、更に、その二十年の歳月に於ける折に触れての貴重な御示唆と心暖まる御鞭撻に対して、深甚の謝意を表わすものです。」これは尋常な謝意とは思えない。富永から三木が受けた影響の具体的内容はよく解らないが、この謝意は尋常とは思えない。
 
※ ゲーテの「ある秘奥な(geheim)心理学的転換(Wendung)」(1831年12月1日付けフンボルト宛書簡)についての三木成夫の関心と解釈(「ゲーテと私の解剖学」1965年)
 
「ここ十年、私の解剖学はおろか、生活の根底にまで、ある決定的とも思われる影響を与えた人間形成に関する出来事・・・面壁十年、・・・もちろんその間にいくたの起伏を経過しながらも、つねに私の中で面と向かいあい、それこそ目に見えぬ様な影響を与えつづけてきたのが、まさに、この出来事そのものなのである。・・・十年一日というたとえがあるが、このゲーテのぎりぎりの体験に、様々な角度からひたすら近接を試みているうちに、何時からとはなく、一体このWendungなる出来事は、一人の人間の特殊な経験として看過すべき性質のものではい、それどころか、これこそ人間進化の究極の出来事ではないかとすら思われて来きだしたからなのである。すなわち、このような体験の保証がない限り、徒に、ありのままにものをみるという事自体、実は不可能な要請ではないかと思われてき出したからなのである。・・・とくにここ二、三年、私にとっては、一番身近な生物の現象がこれまでとはおよそ違った生き生きとした姿で目に映り始めた。そして同時に、いわゆる生物学における諸々の解釈や説明といったものが、にわかに色褪せて来だしたのである。この自分自身の内部に起こったある微妙な変化についてはいずれ稿を改める」
※ 「この自分自身の内部に起こったある微妙な変化」につて三木は、それとして語ることはなかった。
 
※ 「人間進化の究極の出来事」とは何か?「人間形成(Bildung und Umbildung)との関係。
 
ゲーテ(1749〜1832)の場合
例えば、作品『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』、『遍歴時代』、『箴言と省察』。また何よりも『ファウスト』(1774?1831) ―Bildungsroman
 
悲劇第一部 「夜」の冒頭
ファウスト
「哲学も、法学も、医学も、そして、よけいな神学までも、一生けんめいになっておれは研究した。思えば、何という馬鹿げたことだろう。ここにこうしたまま、おれはちっとも賢くはなっていない。・・・しかし、そのかわりに、あらゆるよろこびが消え失せてしまった。・・・なぜ一切の生の衝動が、わけのわからぬ苦しみに押しつぶされるか分からぬのか。神は人間を生きた自然のなかへ創っておいたのに、すすとかびのなかでおまえは動物の骨と人間の骸骨にとりかこまれているのだ。・・・さあ、逃げんか!広い世界へ出てゆかぬか!」(大山定一訳)
 
作品『形態学』 ― Bildung und Umbildung organischer Naturen ―
「だからこそ学者たちもまた、いつの時代にあっても抑えがたい衝動を感じてきたのである。それは、生命ある形成物そのものをあるがままに認識し(die lebendigen Bildungen als solche zu erkennen)、眼にみえて手で触れられるその外なる部分部分を不可分のまとまりとして把握し、その外なる諸部分を内なるものの徴し(Andeutungen)として受けとめ、こうしてその全体を直感(Anschauung)においてそう言ってよければ(gewissermaßen)自由にできる (beherrschen)ようにしようという衝動である。・・・したがって、これまでにも芸術や知や学問の歴史において、ひとつの学説(eine Lehre)をうちたて、完成させようとする試みがいくたびとなく繰り返されてきたといえるのだが、われわれとしてはこのような学説を形態学(Morphologie)と名づけたいと思う。」
 
「ドイツ人は、現実に存在する一つのものが現にさまざまな要因の複合体としてあることを言い表わすために(für den Komplex des Daseins eines wirklichen Wesens)形態(Gestalt)という言葉をもちいる。この言葉をもちいると、動きが捨象されるのだが、[その際、]想定されていることは、相互に働きあって形成されているもの(ein Zusammengehöriges)が[それとして]確定され、他とのつながりを断ち切って、そのものの本性として固定できるということである。
しかし、あらゆる形態、なかでも特に有機体の形態(Gestalt)を観察してみると、そこには、変化しないもの、静止したままのもの、他とのつながりを断ち切ったものは、ひとつとして見出せず、むしろすべてが運動してやむことがないといわざるをえない。それゆえ、われわれのドイツ語が、生み出されたものや生み出されつつあるものに対して形成(Bildung)という言葉をもちいているのも、十分に理由のあることなのである。・・・形成されたものはたちどころに再び変形される(Das Gebildete wird sogleich wieder umgebildet)。われわれが多少とも自然の生き生きした直感(Anschauen)に到達しようとすれば、この自然の示す実例に対応して(nach)、われわれ自身が動的で変幻自在( beweglich und bildsam)な状態でなくてはならない。(「形態学序説」1817年 木村直司訳一部私訳)
 
「私の追求していた意図は、私が自然をどのように直感している(anschauen)かを言い表わすことであるが、同時に、しかしそう言ってよければ(gewissermaßen)、私自身を、私の内面(Inneres)、私の存在のあり方(meine Art zu sein)を可能な限り明らかにすることであった。・・・人間が自己自身(sich selbst)を知る(kennen)のは、ただ世界を知る(kennen)限りにおいてのみのであるが、その世界を人間はただ自己の中にのみ、また自己をただその世界の中にのみ見い出す(gewahre werden)のである。」(「適切な一語による著しい促進」1823年 私訳)
 
※ このゲーテのフレーズは、三木の「この自分自身の内部に起こったある微妙な変化」を解明するためのヒントになるかもしれない。
 
II  イエスと鈴木大拙の言葉 ― 〈自然〉についての八木誠一からの示唆 ―
 
III 個体発生と系統発生図の一つの読み方
 
IV  V. v. ヴァイツゼッカーの「根拠関係」について
 
V 〈いのち〉の場 ― 開閉相即の働きと力 ― その実現としての世界とそのうちにある生命