徳島俘虜収容所所長松江と松山俘虜収容所所長前川について
ギュンター ディルク
(1) ドイツ人兵隊俘虜の考え方
中国のチンタオ市はドイツ帝国の租借地域であった。ドイツ人達は地元の中国人との交流がなかった。中国人に対する人種差別は「普通」であった。チンタオで俘虜となったドイツ人達は差別的な考え方を持って日本へ来た。
その考え方は各地の収容所で問題の原因となった。特に松山収容所ではドイツ人俘虜と日本人の問題が多かった。
(2) 松江大佐と前川中佐の俘虜に対する対策
松山収容所の所長、前川中佐はドイツ人俘虜に対して厳しい対策をたてた。一番厳しかった対策は全員の俘虜に何ヶ月間も手紙書くことを禁じたことである。しかし、前川中佐の管理方針は俘虜の反抗心を高めた。
それとは対照的に、徳島収容所の松江大佐は俘虜のために尽力した。ロシア経由の俘虜の郵便物がわざと汚された時、松江大佐はその事件について徳島収容所を観察しに来ていた日本政府の係に俘虜のいる前で抗議した。そのため松江所長は大変人気があった。
松江所長はドイツ人俘虜の精神的な状態についても非常に気を配った。特にドイツの降伏の後には頻繁に遠足を許可した。
(3) ドイツ人俘虜の考え方の変化
1917年に四国にあった三つの収容所(徳島・丸亀・松山)は板東へ移動された。2年半俘虜生活の経験があったドイツ人達は、板東に到着と同時に今までの「日本の管理側との対立を探す」考え方を「日本の管理側と協力する」方向へと変えた。松江所長との関係で悪評の高かった「反抗的な態度」を悪化させないよう、ドイツ人俘虜達は俘虜の中にいるトラブルメーカーを抑制するための秘密団体を結成した。
松江大佐の人道的な管理方針のおかげで、ドイツ人俘虜は帰国するまで板東収容所である程度良い生活を送った。開放の数年後、日本で過ごした俘虜生活を懐かしく振り返って見たドイツ人俘虜は特に松江大佐を非常に評価した。おそらく、松江大佐の良さを特にきわだたせるために、松江大佐と対照的な「悪党」が必要だったのであろう。その役目は松山収容所の前川所長が担うこととなった。
ドイツ人俘虜は様々な逸話を後で作りあげたのではなかろうか。おそらく大変有名な板東到着時のエピソード(前川中佐が松江大佐に「ドイツ人にビールを禁止しました」と報告したという話。)も実際に起こったものではなかったのではないか。