2006.08.26 徳島城博物館
 
徳島俘虜収容所時代の松江所長
(レジュメ)
徳島大学総合科学部
川上 三郎
 
 
徳島俘虜収容所概観
 
 現在の徳島県庁駐車場付近にあった県会議事堂(公会堂)に設置された。1914(大正3)年12月3日設置、同月17日俘虜が到着。1917(大正6)年4月6日板東に移転。俘虜は全部で206名とかなり少人数の部類ではあるが、議事堂の本館だけでは収容しきれないため、急遽バラックを増築して対応した。しかし居住空間は狭く、特にバラックの方は風通しが悪く、夏期の暑さは相当なものだったようである。後の板東時代と同様に「別荘」があったことも知られている。
 
 
参考史料など
 
 この時期の俘虜の活動や生活ぶりを知る上で欠かせないのが、週刊の収容所新聞『トクシマ・アンツァイガー』である。この他に日本側の史料としては徳島俘虜収容所閉鎖にあたって提出された『業務報告』と俘虜情報局の『月報』や『密大日記』中の俘虜関係の公文書がある。
 
 
上官から見た松江の人物評価(浜松時代)
 
 浜松連隊に所属していた1910年(明治43)年、陸軍省に松江の言動に関する密告があった。その事実関係の調査命令を受けて所属の師団長が回答書を提出している(「将校の言動に関する件」(『密大日記』明治43年、密受304号))。その中で、松江の人物評価として外見上、多少倨傲であるきらいがないわけではないと言い、上官である連隊長に対して意見を異にするときは、直言することがあると述べている。
 
 
「俘虜取締方針」から見る松江の捕虜に対する基本姿勢
 
 徳島俘虜収容所の『業務報告』の中に「俘虜取締方針」が掲げられている。そこには、収容所側の威厳を損なわない範囲で努めて博愛の心で俘虜を遇すること、よくよく自戒して俘虜の面目を失うことを起こさないように注意すること、彼らは賓客でも、また囚人でもないのであるから好き勝手にさせはしないが、かといって束縛圧制にすぎて苦痛を与えるようなことはしないようにすると書かれている。
 つまり、管理者としての自らの立場を十分にわきまえた上で、できるだけ俘虜の立場を考慮しようとする相手への思いやりがあるように感じられる。
 
 
俘虜に対する配慮の具体例
 
食費:『俘虜取扱細則』で定められている限度額いっぱいをあてる。しかし優遇し過ぎと指摘され、後に引き下げざるを得なくなる。この点は丸亀、松山も同様であり、徳島だけのことではないが。
 
外出、散歩:1週間に2回の外出は、丸亀とならんで、収容所中もっとも回数が多い。しかも時に1日がかりの遠出も行われている。
 
遊泳計画:暑気払いのために、収容所裏の新町川での水泳を行わせるよう準備を進めて予算請求を行うが、陸軍省からまかりならぬと禁止の通達を受ける。
 
収容所内外での就労:徳島は現役兵が多く、そのためか貧困者が多かったとされている。そこで彼らに現金収入の道を開くために、収容所内での各種製品の製作販売や収容所外での就労を斡旋したようである。それは、他の収容所での俘虜による技術指導などに先駆けてなされたものであった。