24名の俘虜収容所長
 
 
1) 西郷寅太郎(1866-1919):東京及び習志野俘虜収容所長(大正31111日から大正811日;歩兵中佐、後に大佐)。歩兵第1連隊附歩兵中佐から東京収容所長を経て、習志野収容所長となる。岩山イト(糸子)との間に生まれた西郷隆盛の嫡子。明治天皇の思し召しで明治18年、19歳の時ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学し、在独期間は13年に及んだ。明治35年に父隆盛の名誉回復なり、侯爵に列せられた。日露戦役では満州で俘虜係りを務めた。大正811日午後4時、スペイン風邪で死去。習志野収容所での二人目のスペイン風邪による犠牲者であった。東京・港区の青山墓地(1種イ1121/223番)に墓所がある。
 
2) 石井彌四郎:初代丸亀俘虜収容所長(大正31111日から大正5410日;歩兵中佐、後に大佐)。歩兵第12連隊附歩兵中佐から丸亀俘虜収容所長に任命された。大正5121日に大佐に昇任した。同年38日から病気のため引き篭もり、やがて休暇を申請した。45日、なお引き続き3週間の休暇を請願したところ、410日付けで収容所長を免じられて待命となり、納富廣次歩兵少佐が第二代収容所長に就任した。所長退任に当って、所員やドイツ人俘虜将校と写した記念写真が知られている。石井はやがて大本教の熱心な信者となり、飯森、及び福中両海軍中佐、篠原国彦陸軍大尉らとともに、過去の経歴・地位を投げ捨てて丹波・綾部の里に移住した。大本教の役員である教監を務めたが、主流派の「大日本修斎会」に対立する「皇道擁護派」とされた。大正10年(1922年)2月12日、官憲による大本教への第一次捜査では、石井弥四郎宅も家宅捜索を受けた。同年12月、大本教の雑誌「神霊界」に論文「吾妻土産」を寄せている。その「吾妻土産」(續)によれば、大正54月に軍籍を退いてから、長崎、佐賀、鹿児島、大分の学校を回ってドイツ人の国民性についての講演を行った。また、係累はない、と自ら記している。大正11年(1921年)、石井弥四郎の「皇道擁護団」は大本教から離れたが、その後の消息は不明である。なお、大本教は昭和に入って大弾圧を受けた。陸士1期。
 
3) 嘉悦 敏(1869-1944):熊本県出身。第二代静岡俘虜収容所長(大正5818日から大正7825日;騎兵大佐)。大正7724日陸軍少将。退役後は、霊界研究の道に入った。精神団体「きよめ会」を主宰して、霊界研究で名を挙げたが、特に中年婦人の支持を得た。支持者には代議士夫人の高橋むつ子、貴族院議員・男爵島津長丸夫人で、皇后の母といとこ関係にして女官長を務めた島津治子(不敬罪で逮捕された)などがいた。「霊界の神秘」を探求し、人々がいかに明るい希望をもって生きるかを話し合う真面目な会だったと言われる。東京・多磨霊園(9--27)に墓碑がある。陸士2期。
 
4) 菅沼 來:大阪及び似島俘虜収容所長(大正31111日から大正941日;歩兵中佐、後に大佐)。陸士5期。
 
5) 蓮實鐡太郎:初代静岡俘虜収容所長(大正3123日から大正5818日;歩兵少佐)。陸士5期。
 
6) 松江豊寿(1872-1956):福島県出身。徳島及び板東俘虜収容所長(大正3123日から大正941日;歩兵中佐、後に大佐)。明治566日、旧会津藩士松江久平と妻ノブの長男として会津に生まれる。明治22年、16歳で仙台の陸軍幼年学校入学。25年陸軍士官学校へ進学し、27年陸軍歩兵少尉に任官された。37年大尉となり、韓国駐剳軍司令官長谷川好道大将の副官に任ぜられる。40年浜松の第67連隊附少佐に昇任。417月第67連隊大隊長、4411月第7師団副官。大正31月中佐に昇進、徳島歩兵第62連隊附経理委員首座。大正3123日徳島俘虜収容所長、後板東俘虜収容所長。大正941日第21連隊(島根浜田)連隊長。大正1128日陸軍少将に昇進、51日予備役入りした。1227日付けで第9代若松市長に就任し、任期を一年余残した大正1411月に辞任した。大正155月末、東京世田谷の狛江に敷地2000坪を購入して屋敷を構えた。昭和31521日死去。陸士5期。
 
7) 山崎友造(1873-1926):和歌山県出身。第二代習志野俘虜収容所長(大正8115日から大正941日;砲兵大佐、後に少将)。明治6年、和歌山藩士山崎亀蔵の次男として生まれる。15歳で旧藩から抜擢されて上京、陸軍幼年学校に入学した。陸軍士官学校を首席で卒業して恩賜の時計を拝受する。大阪砲兵工廠勤務の折、栗山勝三少佐(後に中将)の次女幸子と結婚。明治36年ドイツに留学。大正54月1日火工廠宇治火薬製造所長、大正81月、西郷寅太郎所長の死去を受けて第二代習志野俘虜収容所長に就任した。大正81115日陸軍少将。陸士5期。
 
8) 江口鎮白(やすきよ):熊本県出身。第三代福岡俘虜収容所長(大正51115日から大正7412日;砲兵中佐)。大正10720日陸軍少将。江口はやがて父俊博が創始した「手のひら療治の会」を支えた。なお、「手のひら療治の会」は、大正113月に鞍馬山で悟りを開いて「霊気療法」を創始した臼井義男の流れを組んだものである。この療法は、関東大震災で傷ついた多くの人を救い、一時期は50万人の信奉者がいたとされる。その二代会長は牛田従三郎(退役海軍少将)だった。陸士6期。
 
9) 久山又三郎:初代福岡俘虜収容所長(大正31111日から大正5114日;歩兵中佐)。最終の階級は陸軍大佐。陸士7期。
 
10) 白石通則:愛媛県出身。第二代福岡俘虜収容所長(大正5114日から大正51115日;歩兵大佐)。大正9512日第31旅団長(第9師団)、13820日旅順要塞司令官。大正131215日陸軍中将。陸士7期。
 
11) 林田一郎:熊本県出身。初代名古屋俘虜収容所長(大正31111日から大正686日;歩兵中佐)。大正1063日陸軍少将(歩兵第39旅団長)。陸士7期。
 
12) 中島銑之助:東京都出身。第二代名古屋俘虜収容所長(大正686日から大正941日;歩兵大佐)。大正1128日陸軍少将(歩兵第26旅団長)。なお、大正8年に『岐阜県教育』(第301号、930日と第303号、1130日)に、「独逸国民性の一部(上)」と「俘虜を通じて見た独逸国民性の一部(下)」を寄稿している。東京・多磨霊園(14-1-24-7)に墓碑がある。陸士8期。
 
13) 納富広治:佐賀県出身。第二代丸亀俘虜収容所長(大正5410日から大正6421日;歩兵少佐、後に中佐)。大正131215日陸軍少将(歩兵第21旅団長)、大正1532日歩兵第2旅団長、昭和2726日歩兵第10師団司令部附。陸士8期。
 
14) 林 銑十郎(1876-1943):石川県出身。第三代久留米俘虜収容所長(大正51115日から大正7724歩兵中佐)。大正1532日東京湾要塞司令官、昭和235日陸大校長、昭和51222日朝鮮軍司令官、昭和7411日陸軍大将、9123日陸軍大臣、1222日内閣総理大臣。陸士8期。
 
15) 前川譲吉(-1922):兵庫県出身。陸軍大学校卒。松山俘虜収容所長(大正31111日から大正6423日;歩兵中佐)。大正10720日歩兵第30旅団長。大正10720日陸軍少将。陸士8期。
 
16) 真崎甚三郎(1876-1956):佐賀県出身。陸軍大学校卒。第二代久留米俘虜収容所長(大正4525日から大正51111日;歩兵中佐)。大正12年陸士本科長、大正15年同校長となり、尊皇絶対の日本主義による教育につとめ、後の2.26事件の首謀者に影響力を与えた。昭和7年参謀次長になり皇道派の首領と仰がれた。昭和8619日陸軍大将、次いで教育総監になったが、昭和10年林銑十郎陸相により罷免された。このことが2.26事件の誘因となった。昭和11年の2.26事件では、反乱幇助の容疑で軍法会議に付されたが無罪となった。陸士9期。
 
17) 松木直亮(1876-1940):山口県出身。陸軍大学校卒。熊本俘虜収容所長(大正31111日から大正469日;歩兵少佐)。第一次大戦終結時は陸軍省副官。大正1286日台湾第1守備隊司令官、大正145月1日兵器本廠附(作戦資材整備会議幹事長)、大正15101日整備局長、昭和481日第14師団長、881日参謀本部附、昭和81220日陸軍大将。東京・多磨霊園(10-1-4-19)に墓碑がある。陸士10期。
 
18) 野口猪雄治:姫路及び青野原俘虜収容所長(大正4920日から大正686日;歩兵中佐、後に大佐)。
 
19) 鹿取彦猪:初代大分俘虜収容所長(大正3123日から大正5818日;歩兵中佐)。
 
20) 西尾赳夫:第二代大分俘虜収容所長(大正5818日から大正7825日;中佐)。
 
21) 樫村弘道:初代久留米俘虜収容所長(大正3106日から4525日;歩兵少佐)。二代目の真崎甚三郎所長時代も所員を務めた。後の中佐時代には第二浦塩派遣軍委員、更に浦塩派遣軍俘虜委員となった。大正9420日、浦塩派遣軍俘虜委員であった樫村中佐の元に、西伯利俘虜救済会から4461350銭の寄付金が送られた。同委員会は大正812月に渋沢栄一、藤山雷太等の四名と十数社の新聞社を発起人として発足し、革命の起こったロシアで辛酸を嘗めているドイツ及びオーストリア、ハンガリー等の俘虜を救済することが目的であった。俘虜の数としては、ドイツ人4万、オーストリア人10万、ハンガリー人8万、トルコ人15000、ブルガリア人2000の計237000人とされている。
 
22) 宮本秀一:第二代青野原俘虜収容所長(大正686日から大正941日;歩兵中佐)。
 
23) 高島巳作:第四代久留米俘虜収容所長(大正7724日から97日;歩兵中佐)。最終階級は大佐。
 
24) 渡辺保治:第五代久留米俘虜収容所長(大正7年97日から大正9312;.工兵大佐)。
 
 
総理大臣1名(林 銑十郎)、陸軍大臣1名(林 銑十郎)、陸軍大将3名(林 銑十郎、真崎甚三郎、松木直亮)、陸軍中将1名(白石通則)、陸軍少将8名(嘉悦 敏、松江豊寿、山崎友造、江口鎮白、林田一郎、中島銑之助、納富広治、前川譲吉)、佐官止まり12名(?;内、在任中の死去1名:西郷寅太郎)
 
 
なお、石井弥四郎に関しては、硲 大福氏(エスペラント普及会常務理事)、三好鋭郎氏(エスペラント普及会理事)及び小阪清行氏から、嘉悦 敏に関しては星 昌幸氏から資料等の教示を受けたことを記します。