2006.8.26.
 
板東俘虜収容所時代の松江所長
 
鳴門市ドイツ館 田村一郎
 
1.「模範収容所」バンドー
 1)施設・設備の充実:収容所面積5.7ヘクタール、収容所前にスポーツ・農園用の2.3ヘクタールを借り上げ。自主経営商店街「タアパオタオ」80軒。居室が6畳に4人と狭いのが唯一の欠点だが、それを補うために個人小屋(別荘)も許可
 2)松江らの管理姿勢
   @「敗者へのいたわり」=「彼らも命がけで国のために戦ったのだから」が松江の口癖:会津(斗南)体験・韓国体験(「日韓併合」時の韓国駐さつ軍司令官長谷川大将の第2副官)が背景に
   A「戦争条約」の活用:明治政府は幕末の「不平等条約」解消のため、国際的評価を高めようとことに「戦争条約」を重視
 3)ドイツ兵の積極的対応:松江らの配慮に応え、さまざまな分野で自主活動を展開
2.板東時代の松江をめぐる資料
 1)パウル・クライ 「世界のどこにバンドーのような収容所があったろうか、世界のどこに松江のような収容所長がいたろうか」
 2)クルト・マイスナー 「俘虜生活がどうなるかは、所長しだいである。 ......われわれが板東に着いたとき、松江大佐はみずからが寛大であることを示した。われわれは、銃剣に囲まれて到着した。前川中佐は、自分が松山でどんなにビ−ルを制限してきたかを語った。松江は日本兵全員に解散するように命じ、前川に言った。『私だったら、5人の鉄条網病患者より100人ののんべを選ぶね』と。われわれの中には何人かの鉄条網病患者がいたが、後にはみんな回復した」(クルト・マイスナー『日本での60年』(1973)、84−5ページ)
  3)『ディ・バラッケ』から
「当局は、 ......定期的な散歩・遠足への希望を与えた」(第1巻27ペー
ジ(ページ数は日本語版による)):「われわれの遠足」(第3巻323ページ以下)ほか参照
「司令官は警備隊に対してばかりでなく、町民(ドイツ兵)に対しても無制限の権力をもっていた。この戦時においては、町全体に戒厳令が布かれているからである」(第1巻184ページ)
久留米からのドイツ兵に対して:「松江大佐は二、三言親しみを込めた挨拶をし、それをいつもどおり高木大尉が印象深いドイツ語に移し変えた」(第2巻371ページ)
スペイン風邪に際して:「何にもまして、松江大佐に感謝している。健康保険組
 合があらゆる指示をし、あらゆる世話を行い、わけても必要な栄養のある物や薬を手に入れのに管理当局全体のすばやい支援を得れたのは、大佐のおかげである」(第3巻138ページ)
薪の伐採:食料品が高くなり困り果てたとき、所長は自発的に改善を図ること
 を提案し、「とりわけ、炊事場とパン工場に必要な薪を森でみずから伐採することの判断が、われわれにゆだねられた」(第3巻268ページ)
ヨーロッパ人の「俘虜収容所」理解(あるスイス人の著書から):「俘虜はいた
 るところで、そして誰からも自分が食い物にされていると思っている。敵の政府、収容所長、最年長の俘虜、厨房係長、郵便を取り扱う俘虜、すべてこれらの人々は収容所を犠牲にして利益をあげている」(第3巻290ページ)
   ・武士道:「(武士道の)第一原理は自己の命を軽んじ、自己の行いに責任を持ち、自制心を鍛錬し、恥を知ることである。決断に際しては熟考し、臆病でないこと。主人と祖国のために、生命をすすんで投げ出すこと。弱者と貧者に対して好意を持ち、親切であること。さらに倹約を実行し、華美を戒めること。あらゆる不正に対する羞恥心と正義を行うという名誉心の中に、おそらく武士道の最高の神聖性がある」(第2巻374ページ)
「慰霊碑」作り:「クレーマー少佐と中隊長の賛同、そして収容所司令官松江大
佐のとても熱心で好意的な尽力によって、徳島駐屯司令官の許可が取れ ......」(第3巻296ページ)
  4)マイスナー「別れの言葉」(1920年1月17日):「今我々は、貴兄のような方とご縁があったことを、心底から有り難く思う次第であります。貴兄が今日まで我々に対して示してこられた寛容と人間愛の精神、そしてご厚意を、我々は決して忘れますまい。そして将来、自分よりも不幸な状況に身を置く人たちを前にしたとき、今度は我々が、何らかの形で貴兄の精神を引き継ぐ所存であります。『我ら皆兄弟とならん』、我々はこの言葉を、貴兄を思い起こす度に、心の中で切り返すでありましょう」―ディルク・ファン デア ラーンさんはこの文章を「OAGの展示解説」(2005年秋)にドイツ語と日本語の双方で引用しているが、残念ながら棟田博『日本人とドイツ人 人間マツエと板東俘虜誌』(光人社NF文庫)の329ページからの借用と思われる。