エーリッヒ・カウル著

青島の海軍兵士、日本での捕虜

1914 年から1920

 

 

版権所有、ヒルデガルト・ツァーベル夫人(ベルリン市ノイエ・クルマー通り2番地、郵便番号10827)。

原本からの浄書と印刷版の準備は、ハンス・ツァーベルが行った。

 

 

2001年エアランゲン刊、私家版

 

訳:小阪 清行

 

 

*この訳稿はErich KaulMarinesoldat in Tsingtau, Kriegsgefangener in Japan 1914 bis 1920”の内、東京・浅草収容所と習志野収容所に関する部分を抜粋して小阪先生に訳出していただいたものである。この度、著者カウルの甥に当るハンス・ツァーベル氏(エアランゲン市Welsweg在住)から、原文と訳稿のホームページ掲載を許可する手紙をいただいたので、研究者の参考に供する次第である。

なお、この手記に関しては既に昨年、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究第3号に、三重大学・大河内朋子先生の資料紹介「エーリッヒ・カウル『青島の水兵・日本の俘虜 1914年から1920年』」が掲載されているので、合わせて参照していただきたい。

当初、私(星)がへたな下訳を作成したため、小阪先生は少しでもこの下訳を生かそうと、かえって苦しまれたようである。したがって、誤訳があればその責めは私の下訳にあることをお断りしておきたい。ご多忙のところこころよく時間を割いてくださった小阪先生と、訳語の検討に加わってくださった瀬戸先生、そして原書を入手してくださったディルク・ファン=デア=ラーン氏に、記して厚く御礼申し上げたい。(星 昌幸)

 

 

序文に代えて

中国の町チンタオQuingdao 、ドイツでは古い書き方でTsingtauとした方がよく知られているが、この町は1898年から1918年までドイツの租借地だった。ヴィルヘルム皇帝時代のドイツは、1898年に膠州湾(今日のJiaozhou)を占領し、帝制中国の政府は、99年にわたる租借条約を押し付けられた。賃貸借契約占めた。 ドイツは当時、特に極東での海軍根拠地を得ることに関心を持っていた。しかしまた、この地域の中国市場、そして資源も魅力だったのだ。

 1914年まで、チンタオにはおよそ5,000人の兵士が駐留していた。第一次世界大戦が勃発した際、日本は連合国の側に立った。10倍の兵力に対する短い戦いの後で、ドイツの兵士は捕虜となり、日本の12か所の収容所に連れて行かれた。

 ここに再刊した報告は、開戦当初のチンタオをめぐる攻防、そしてその後の長い捕虜暮らし(それは当初、東京のはずれにある錦糸町〈訳註:事実は、浅草の本願寺であった〉で、後には千葉半島にある習志野であった)について述べている。

これは、ある自伝の序文に倣えば、日記として書き留められ、その時代の多くの若きドイツ人の愛国心を示しているばかりでなく、長い捕虜暮らしの間に成長した著者の人格すらうかがわせるものとなっている。

 エーリッヒ・カウルは、喘息で苦しみ、50台の若さだったが、1941年にベルリンで他界した。

H. Z.

 

 

習志野での捕虜生活

1914年(大正3年)

  我々は前方の中間デッキに収容され、このおよそウサギ小屋のような所で眠った。給食は紅茶と称するお湯、米、堅パン、それに不快に甘い味のする肉の缶詰であった。ひどい場所にもかかわらず、私はゆりかごに揺られているように夜中眠った。

  11月15日。 堅い場所とすし詰めのねぐらのおかげで、今日は関節が一日中痛むという始末になった。寒さもそれに輪を加えた。朝7時頃、外海に出て沙子口の湾を後にした。我々の用事と言えば、寝ることと飲むこと、それにトランプだけだった。

 11月16日。今日我々は、下関水道に達した。日本の主島・本州と南の島・九州の間の海峡だ。両岸のすばらしい景色。盛んに船が行き交っている。

  11月18日の朝7時頃、我々はこの海の旅行の目的地・大島に着いた。我々まだしばらく船上に残り、あらゆる気晴らしで時を紛らわさなければならなかった。暖かい食事には、今回もありつけず、またもや、すきっ腹行進曲を歌わなければならなかった。まだ2日は線上にいなければならないのだ、と聞いた。おかげで、船上から周辺の景色をじっくりと観察する機会は、充分にあった。高い山々に囲まれた、とても美しい湾の風景だった。はるか後方には山裾が見え、そのふもとには広島市があるのだった。数日の内にこのみじめなボロはしけから降りられることを、ずっと望んでいる。

  11月20日、船を去ることが出来た。駅前の広場に整列させられ、各々が番号を付けられた。また、行動の指針が与えられた。ここで我々はまた、これから東京に運ばれることになり、46時間の汽車旅が待ち構えていることを知らされた。夕方6時、我々は列車を割り当てられた。かなり狭いところに座った。我々の荷物は、貨物車に入れられた。7時頃列車は動き出し、我々を日本の内陸へと運びだした。どの車両にも監視が3人いた。全部でおよそ300人が列車にいた。

  11月21日。寝たり起きたりうつらうつらしながら、一晩が明けた。両側に広がるすばらしい景色は、我々に充分な気分転換を与えてくれた。朝早く、岡山で最初の停車があった。それぞれ2個のゆで卵、白パン、それに温かい茶を受け取った。こうして我々は停車時間を過ごす各駅ごとに、肉や冷えた皮付きじゃが芋を交互にもらった。10時30分に、姫路で1時間停車となった。神戸では、投錨地の山のすばらしい眺めを見ることができた。

プラットホームで我々は、何人かのドイツの同国人に挨拶された。一人の日本の少女が、ボンボンを配ってくれた。午後、我々は日本の以前の首都・京都を過ぎた。

 11月22日の朝7時には静岡に、午後には横浜に達した。4時30分、我々の列車は東京の玄関口・品川に到着した。これが終着駅だった。私は、今までに経験したことのない、すばらしい鉄道旅行を今終えたのだ。列車は山がちの地方を過ぎ、広い川を渡り、たくさんのトンネルを過ぎた。日本一高く、聖なる山フジヤマのほとりも通ったのだ。それは火山で、この国にはさらに170もあるらしい。それは遠くに望めた。多くの駅で我々は、たくさんの人によってしばしば、目を見張られた。外国人を見るのは、極めてまれなことのようだった。東京の2駅手前である品川駅の通路や広場は、人間でぎっしりだった。既にプラットホームで、我々は何度も写真を撮られた。列車の前に並ばせられた。我々は15人ずつのグループに分けられた。これが終わると、突然一人の日本の女性が現われ、

我々の一人一人に花を配ったのだ。それには小さなカードが添えられ、それにはこう印刷されていた。

     ドイツ人夫婦から受けた親切への感謝の念から、このご挨拶をお贈りします。

   葉山あき。東京市芝区南佐久間町Y丁目1番地

この挨拶は、我々の誰もを大喜びさせた。捕虜として敵国に捕われ、花を贈られるとは不思議な気分だった。駅を出ると、すごい群集からバンザイ、バンザイ(原註:ドイツ語の「フラー」に同じ。一万年も長生きせよ、の意。)と歓呼の声で迎えられた。私にはそれが、喜びの声なのか、感嘆なのか、怒りなのか、わからなかった。あらゆる方向から写真を撮られ、映画に写された。警察と軍隊は、我々を市電に乗せる道を開けさせなければならなかった。私には、この電車でほとんど東京中を走り抜けたように思われた。我々が通った道は、どの道も人であふれ、人垣が塞いでいるので電車はしばしば停車しなければならなかった。2時間ほど走って、我々には未知の目的地に到着した。ここで下車した。大きな門を通り抜けるのに、人垣をかき分けて一人ずつしか歩くことが出来なかった。この門は大きな屋敷の入口になっていた。そこには既に人々も少なく、第二の門を抜けると押合いへし合いから脱することが出来た。我々は錦糸町にいた。東京湾のそばの、寺院の区域だ。我々は小さな木造の建物の前に並んで、必要な申告を行うと、同じような造りの別の建物に導かれた。その玄関で、我々は靴を脱がなければならなかった。その中の広間で、我々は捕虜収容所の管理者、侯爵西郷中佐に迎えられた。ブロークンなドイツ語でスピーチがあり、行動規則が読み上げられた。それから我々は、個々の宿舎に分けられた。それは木の壁と紙の窓に、藁のマットの床を持った部屋だった。やっと夕食が出た。長い間の堅パン給食の後、とうとうやっと、再びいくらか違ったものにありついた。それが本当は何だったのか、言い当てることは出来ないのだが、まぁ美味かった。しかし、ちょっと少なすぎた。食事が終ると荷物が届いた。それでしばらくぶりに再び着替えて、くつろぐことが出来た。寝るために各人が、毛布6枚、敷布2枚、枕1つをもらった。ベッドは床なのだ。46時間の長旅を終えて、この夜私はぐっすりと眠り込んだ。

 次の日に我々は、6時30分に信号ラッパによって目覚めた。10分後、朝の点呼のために集合した。7時30分には朝食、それはお茶、パン及びバターだった。 日本側の扱いは、非常に人間的である。午前中は庭で1時間半の運動、同様に午後も1時間運動する。目下ここでは、寺の大きな祭典が祝われている。

  トランプや読書、書き物、喫煙で時間をつぶす。酒保があり、そこで様々な、ちょっとした物を買うことができる。私は、最後のお金をここで両替した。18ドルだった。4か月ぶりに故郷へ、手紙を1通そしてはがきを4枚、初めて書いた。

  11月29日。今日は10時30分から礼拝。宣教師の良い説教があった。式典は簡素にもかかわらず、感動的だった。夕方、ポナペから2人の中国人が連れて来られた。彼らはそこで、医療活動をしており、日本軍の捕虜になったのだ。

  12月4日。この収容所の捕虜仲間である、博士ユーバーシェール氏〈訳註:ユーバーシャール。著者はÜberschärと綴っている。〉が夜、「日本の国土と国民」という演題で、興味深い講演をした。続く何日間か午前中、我々は日本の医者によって予防注射を受けた。

  12月7日。東京の仏教徒団体は今日、チンタオで亡くなった日本人とドイツ人の追悼のために礼拝をしてくれた。その後、我々は一人ずつ小さな贈物を受け取った。

  12月8日。日本の軍医が、我々の負傷と内臓の病気を診察してくれた。私の体重は19、40貫(原註:日本の重量単位。3.75倍してキログラムに換算。)だった。今後は、故国の戦況について、より多くの情報が聞けることになった。我々のクーロ中佐がいつも、イギリスの新聞からの最新の報告を読んでくれることになったのだ。それらはたいてい、ひどく負けていたが、しかし行間を読めば、我々の戦友がそこでゆっくりと、しかし確実な歩みを進めていることがわかるのだった。勝利が報告されると、我々はいつも大喜びし、そればかりか、間もなくここから再び出されるのではないかと期待した。夜は講演の続き。日本の憲法についてだった。

  12月11日。うんざりする一日の後、夜の講演は日本の宗教について。神道という宗教の話だった。

  12月15日。これまで日本側が運営していた厨房を、今日から我々が自分で請け負うことになった。日本の食事もそれほど捨てたものではないが、それよりも我々の厨房が用意する食事の方が、当然我々の口に合う。夜6時にまた講義、日本におけるキリスト教と仏教という演題だ。

  12月23日。クリスマスの準備。我々は色とりどりの紙と厚紙をもらい、それで鎖と横断幕を作り出した。宿舎をできるだけ飾り立てるために、全員が全力を尽した。

  12月24日。外国での、おまけに日本の捕虜として過ごす最初のクリスマス。全員が大喜びで、クリスマスツリーまでもらった。それがなければ、我々ドイツ人には楽しいクリスマスにはならないところだ。南日本や中部日本には樅がないので、東京のキリスト教日本青年会の提案で、ドイツ人学者と、彼が教えてドイツで博士号を取得した日本人学生が、55本の素晴らしい樅を探し出し、各地の収容所に送ってくれたのだ。彼らは2人とも北日本に暮らしている。日本の鉄道省は、これを急行で無料配送することを引き受けて、援助してくれたのだ。夜6時に、すっかりきれいに飾り終えた時、祝典は始まった。日本に住んでいる同国人から、たくさんの贈物が送られてきた。私は、暖かい靴を一足、りんご4個、木の実、胡椒のケーキ1包それにタバコ1カートンをもらった。全員のためにさらに福引きが行われ、何がもらえるかは運次第だった。私が獲得した包みは、靴下一足と便箋だった。私を一番喜ばせたのは、各自に配られた2円のお金だった。クーロ中佐が演説を行い、合唱団が二、三曲歌った。こうして私は、期待していたより素晴らしいクリスマスを祝った。我々は誰もが、満足しているように見えた。

  12月25日には、礼拝が行われた。午後と夜は、陽気に機嫌よく過ごした。私はいくらか逃避して、故郷の愛する者らの上に思いを馳せた。夜10時まで起きている許可が与えられていた。

  12月31日。いつもの日課の後で、夜6時から大晦日の祝典が始まった。初めに合唱団が歌った。「一年の最後の時」の響きは、深い感動を与えた。それからクーロ中佐が、今次の戦争について演説を行った。夜10時まで起きていることが許されていたので、残りの時間は歌と踊りで過ごした。

 

1915年(大正4年)

 1月1日。クーロ中佐が、諸君、新年おめでとう!と挨拶し、昨日の演説を結んだ。その他には、書き止めるような出来事はなかった。

  1月7日。 今日、東京は最初の大雪になる。だんだんに寒くなり、ここの簡易な造りの建物では、それが身にしみて感じられる。我々の部屋にはガスストーブが二、三あるが、部屋中を暖めることなど出来なかった。夜には講演。演題は日本の教育。

  1月12日。今日は講演の他、特に何もなし。演題は、 日本とドイツにおける学校と教会の違い。

 1月14日。我々は、収容所からそれほど遠くない東京の地区である浅草の幼稚園から、贈物として絵はがきをもらった。また、娯楽のために蓄音機1台を手に入れた。

 1月15日には、各自に60銭が与えられた。日本人から支給されたものだ。

 1月19日。講演。演題、日本の産業と繊維工業。

 1月23日。日本の鉱業と精錬業。1月26日には、家内工業について。

 1月27日。我々は、皇帝の誕生日を祝った。礼拝の後、クーロ中佐はスピーチを行い、それは皇帝万歳の三唱で終った。合唱団は祝典を結ぶため、二、三曲を歌った。夕食の後、我々は将校らと一緒に二、三時間を過ごした。歌と「ブレーメンの音楽隊」の芝居で、この数時間を出来るだけ居心地よいものにしたのだ。日本の羽生中尉までも、ドイツ皇帝万歳を唱えてくれた。今日は一人あたま、30銭とビール1本、胡桃をもらった。我が艦の技師から我々機関兵は、30銭とタバコや葉巻を二、三本、それに小さなソーセージ1本をもらった。

  1月28日。今日は、帝国海軍省が日本にいる捕虜のために、75,000マルクの支給を承認したと知らされた。各自、月1円25銭もらえるはずである。

  1月29日。今晩は、日本の家内工業についての講演が続けられた。2月2日には、商業、陸軍、海軍に関する日本についての講演が終了した。

  2月8日。ドイツからの最初の慰問品が届いた。また、所長からニュースが知らされた。

  2月15日には天津からの義捐金で、50銭をもらった。2月19日には、最後のあり金をはたいて長崎に、故郷に記念の土産に持ち帰れるよう、紋章の飾り物を注文した。2月26日には、二度目の大雪が降った。

 3月1日。今日は例の75,000マルクから、第2回の支払い。各自1円20銭だ。また、マニラの在留ドイツ人から葉巻の形で、慰問品が届いた。一人当り19本、素敵な香りだ。

 3月3日。私は今日、ひっそりと24歳の誕生日を祝った。偶然なことに、幸運にもこの日は、日本でもお祝いの日なのだ。3月3日には毎年、日本の女の子がすべて共通に、その誕生日を祝うのだ。男の子は同様の日を5月5日に祝い、女の子のための祝いより一層重要なのだ。

 3月7日。今日、日曜日の午前、横浜から来たドイツ人聖職者によって、寺の前庭で礼拝が行われた。彼は、既に半年に及ぶ我々の捕虜暮らしの中で来訪を許された最初のドイツ人だった。異国でこれほど長い間過ごした後、同国人が話すのを聞くということは、我々全員を喜ばせた。彼が行ったのは、素晴らしい、感動的な説教だった。

 3月10日にはようやく、故郷から私に最初の郵便が届いた。従兄弟からの一枚のはがきだが、それには彼が赤十字にいて、フランスの戦場にいると書かれている。

 3月13日。また大雪。3月15日には、義捐金から一人あたま2円が支給された。

 3月19日。今日私は、友人のブルーノ・フォン・エラーンから手紙を受け取った。彼も今は前線に引き出され、ロシアにいると書いてある。元気でいるらしく、嬉しかった。3月20日。オーバーゲルツィッヒからはがき1枚受け取る。

 3月21日。うれしくも、友人ヴィリー・ヴェントからの手紙によって驚かされた。彼も予備役に召集されている。彼の親愛な手紙は、最近あまり調子がよくなく、心配事が多いと言っている。さらに不運なことに母親は死に、若妻も病気なのだ。可哀想なヴィリー。

 3月30日。長いこと心配しながら待ち焦がれた、両親からの初めての音信が、34スイス・フランほど(13円37銭)の郵便為替の形で、今日届いた。この金はスイス(ベルン)経由で来たもので、2月15日と3月29日の東京局の消印が押されている。怪訝なことに、両親からはまだ何の手紙も届いていないのだから、故郷からの最初の手紙は紛失されてしまったのではないかと心配せざるを得ない。

 4月1日に、私の兵役期間の半分が過ぎ、今日から折り返しだ。今日はビスマルクの生誕100年の日で、ここでも彼を記念する質素なお祝いが行われた。クーロ中佐が、かの帝国宰相の栄誉に満ちた活躍について講演した。午後には、各自に1円ずつ配られた。ミュンヒェンからの義捐金だ。うれしいことに、夜には友人のFr.H.が故郷からくれた手紙を受け取った。また、両親が送ってくれた金も、決済された。今や、困ったことはない、すべて揃っていると言うことができる。

 4月4日。イースターだ! 日本の捕虜として迎えるイースター、悲しいイースターだ! 祝日の1日目は午前中に礼拝。これは宣教師によって行われた。午後は合唱団が、音楽会を開いた。私が最も喜び、故郷でのうれしいイースターのお祝いを思い出させてくれたのは、イースター・エッグだった。本当に色をつけたイースター・エッグが、朝食と夕食に、一人あたま5個配られた。

 祝日の2日目は、静かに何の騒ぎもなく、普段の日と変らずに過ぎた。我々はいつまでここに居なければならないのだろう? 聖霊降臨祭、それどころかもう一度クリスマスを、この極東でこんな孤独のうちに過ごさなければならないのだろうか?

 4月9日。半年も日本にいてやっと今日、両親からの最初の手紙を受け取った。その内容からは、日本への最初の郵便物もその逆も、なくされてしまったことが窺われる。午前中、ヤーグアル乗組員はハイムダール少尉殿に写真を撮ってもらった(集合写真)。

 4月10日。驚いたことに今日、11.36スイス・フラン(4円47銭)もの郵便為替を、故郷のクーベ家から受け取った。こんなことは夢にも思わなかった。世界にはまだ、良い人もいるものだ。願わくは、感謝を述べることが出来る日が早く来たらんことを。

 4月11日。1年前の今日、日本の皇太后が亡くなっていた。収容所の日本人将校は、正装を着ている。我々は、静かにしているように命じられた。楽器の演奏や歌は禁止された。我々までが、墓の中の皇太后が邪魔されないよう心配しなければならないとは。雨がふりそうな日で、我々はみな、毛布をかぶって寝ていた。

 4月14日。2月19日に長崎に注文しておいた紋章の飾りが、今日届いた。行き届いた仕事とその美しい外観は、私を喜ばせた。これは素晴らしい記念品だ。

 4月16日。チンタオから1枚のはがきをもらい、今晩はわくわくした。その内容はこうだ。親愛なるカウル様、あなたの家の管理として、ある日本人医師に月額100円で貸したいと思います。この収入を稼ぐために、私に委任状を送っていただけますか。この収入は保管しておきますか、それともあなたに送金しますか。ヴェッツエル警察署長は利息も取るべきだと主張しており、これも支払われなければなりません。私がどうすべきか、はっきりと書状でお知らせください。フェーリング拝。

 4月17日。今日は、捕虜暮らし以来3度目の体重を量った。体重は19.04貫だ。

 4月18日。今日は、日本の華麗な花々を観賞する機会を持った。あれやこれやの植物が大きな寺院に並べられて、我々の花好きを知った日本人が、この展示を見るよう招いてくれたのだ。また我々は、西郷中佐の勧めにより、たくさんの植木鉢を受け取った。

 4月24日。今日は各自、ニューヨークのジーメンスからの寄付金から1円25銭を受け取った。

 4月29日。日本の一等軍医が一人、今日別れを告げた。また、両親からの手紙を受け取った。

 5月1日。微々たる病気で、医務室に行かなければならなかった。医者は痔だと見立てた。5月5日に1円25銭支給。

 5月9日。今日、日曜日は横浜のシュレーダー牧師による礼拝が行われた。まだ医務室にいなければならなかったので、残念ながら私は参加できなかった。

 5月12日。やっと治って、医務室から解放された。

 5月14日。夜、ユーバーシェール博士による新しい講演。演題は、ドイツ国家学の概論と入門。

 5月17日。ミュンヒェンの同国人の募金から、各自1円50銭を支給される。5月21日、講演。ローマ帝国、その崩壊と再興。

 5月23日。今日、聖霊降臨祭の1日目は、宣教師によって礼拝。夜は、将校連と一緒に過ごす。誰もが、楽しい時間を過ごすことに全力を挙げた。合唱団の歌と体操部の自由演技、ヤーグアルの頑強な男たちによるピラミッドの力技が交互に演じられた。生粋のベルリン出身の若者が、この場に必要な笑いを提供してくれたので、笑いの渦が収まらなかった。お祝いの2日目はきわめて静かに過ぎた。午後は歌と踊り。今回の祝日もまた、外国で過ごさなければならなかった。願わくは、解放の日がそれほど遠からざることを。

 5月28日。夜は、ドイツ憲法第1条についての講演の続きがあった。

 5月29日。今日はベルタからの手紙をもらった。その中で彼女は、リヒャルトも今ロシアにいると伝えている。

 5月30日に、両親からの手紙を受け取った。5月31日には給与とジーメンス及び帝国海軍省の募金から、一人あたま1円20銭が支給された。

 6月4日。驚いたことに今日、フリードリッヒ・ライプナーから手紙をもらった。夜は講演。演題は、英独間の国家概念の違いについて。

 6月6日。日曜日。横浜から来たシュレーダー牧師による礼拝。6月11日。夜は講演。演題は、君主の権力と国王大権。その他、特になし。

 6月14日。マニラの同国人が送ってくれた贈物に、今日は大喜びした。すばらしい香りの葉巻だった。各自20本ずつもらった。私はマニラに駐在しているドイツ海軍協会の代表者宛に、この礼状を送った。二人いる日本の中尉の内の一人が交替になり、今日連隊に帰った。

 6月15日。今日は賃金の支払。各自1円50銭。

 6月18日。今日は、ドイツのUボートが日本の巡洋艦を一隻撃沈したと報じられた。午後はまた、医師による診察。私の体重は今回は18.18貫だった。私は日本に滞在している内に、9ポンド減ったことになる。夜には、ヤーグアル乗組員へと上海から届いた慰問品が配られた。各自シャツ1着、ハンカチ3枚、タオル1枚、靴下1足、それに喫煙者はシャグ〈訳註:細かい刻みタバコ〉用のパイプをもらった。夜は講演。君主の大権、王位継承と領邦議会。

 6月25日。ニューヨークのジーメンスと帝国海軍省から、我々に再びお金が届いた。各自1円20銭をもらう。

 7月7日。両親から手紙が届く。格別変ったことはなし。7月14日。今日は従兄弟のハインリッヒから初めて手紙をもらった。そこから、前にも私宛に手紙をくれたのに、なくされて届かなかったことが読み取れる。

 7月15日。午後、西郷中佐により義足と義眼に関する告示があった。

 7月18日。夏中ここを支配する、蚤と蚊の大被害で、今日は一日、徹底的な大掃除。

 7月19日。今日は、アメリカのグァム島から、帝国軍艦コルモランの戦友の絵はがきが届いた。彼はそこで抑留されているのだ。今日の支給、1円20銭。

 8月1日。今日で、ドイツが敵に開戦してから、1年が過ぎ去った。ワルシャワが占領されたという知らせは、この収容所では大喜びを引き起こし、ふさわしい形で祝われた。

 8月10日。朝7時頃、日食が見られた。8月11日には、両親からまた手紙。また、8月16日には医師の診察。体重は18.30貫。

 8月21日。とうとう今日、長らく待ちわびた小包が届いた。それは既に、4月12日にノイケルンで発送されたものだった。中身の品々は良好に保たれているようだ。おいしければよいのだが。

 8月26日。我等が技師長が今日、ディーゼルエンジンについて大変興味深く、技術的な講義を行った。この講義は最初、下士官だけのために始めたのだが、既に機械類について実務経験を有する兵卒についても、同席できるようになった。

 9月3日。9月6日に我々は新しい収容所に引っ越す、ということが今日発表された。それゆえ、わずかばかりのがらくたを荷造りする大仕事になった。

 9月4日。一日中、引越しのための片付け。

 9月6日。荷物を車に積み込む。9月7日。早朝2時30分には起床。ゆっくりと身支度。我々にもわかった日本式の回りくどさからすると、まだ出発しそうにないからだ。やっと4時20分になって、寺の前の小さな庭で出発式が行われ、それから駅へ向って行軍が始まった。約30分ほどの距離だ。朝早くの時間なので、それに我々の出発は秘密裏に行われたので、我々は路上で煩わされることはなかった。それにもかかわらず、この時の写真が何枚か知られている。駅前や駅の中で、たびたび写真を撮られたからだ。客車の割り当てと乗車の後、すぐに出発した。荷物を輸送する面倒がなかったので、私は2つの大きな植木鉢を抱えていた。これはクーロ中佐がくれたもので、やむを得ず一緒に持って行くことにしたものだ。同様に、飼いウサギや「空中艦隊」(原註:Luftflotte。おそらく鑑賞用の小鳥のことだろう。)も一緒に連れてきていた。二、三の戦友が、この仕事を私にも打ち明けた。列車は1時間走りつづけた。私には、実にのびのびと、再び大空を見たような気がした。列車は稲や蓮根の田を抜け、村々や小さな町々を過ぎた。ある場所からは、ちょっと海すら眺めることも出来た。それで自由への思いはだんだんと大きくなっていった。出発した錦糸町から、列車はカメイダ〈訳註:Kameidaとあるが、もちろん亀戸〉、平井、小岩、船橋を過ぎ津田沼へ向った。そこが我々の終着駅なのだ。早朝6時30分だったが、駅の建物の前の小さな場所で整列し、新しい収容所に向って行進を始めた。始めは良かったが、あとはほとんどぬかった道だった。歌を歌うことは許可されたので、すぐにそれを使って歌いながら村々を抜けて行ったのだが、そこの住人は好奇心にかられて道端に立っていた。兵隊が歌うのは珍しいようだった。日本の軍隊では、そんなことはないのだ。1時間ほどして、我々は目的地、千葉半島にある習志野に着いた。我々の宿舎は、4つの大きな兵舎だったが、それはドイツでも練兵場にあるようなものだった。ここの利点は、いつでも兵舎から出て、すばらしい澄んだ空気を吸えること、たくさんの空き地がスポーツに使えることであり、他方欠点は、東京にいる時よりも一層世界から隔絶されたことだった。ここでは敷布団をもらい、毛布も持ってくることが出来た。健康の面でも、ここの方がずっと利点があった。何も仕事がないときは、私は朝食後、体操の自由演技をやったり、散歩をした。朝食はここでも、パンとお茶、卵1個だった。その後で、知的な、あるいは決まりきった仕事をしたり、そういったことで過ごした。1時間の昼寝は、食事の後にした。それからまた仕事をして、夕食の後は散歩か、あらゆる気晴らしの時間だった。そうやって、ここでの一日はいつも同じ、永久に続くような単調さで、間もなく平和が来るという望みは、慰めのままだった。

 9月11日。日本の将軍が一人、今日収容所を見学した。9月12日。午前中、シュレーダー牧師の礼拝。ヴィルスターから写真の絵はがきで、最初の便りが届いた。

 9月19日。うれしいことに今日、故郷から二、三、新聞が届いた。フュルステンヴァルダーやベルリンのものだ。

 9月21日。妹がベルリンから、二、三の新聞を送ってくれた。大いに喜ぶ。これは私のこの東アジア滞在の中で、彼女からの最初の消息だ。

 9月26日。ユーバーシェール博士の、ドイツ国家についての講演の続き。9月30日。妹からはがきをもらった。その上、ベルリンの新聞。旧友のカールもはがきによれば、私のことを案じてくれているようだ。10月2日。久し振りで今日、両親から手紙をもらう。6月18日に投函したものだ。10月3日。ベルタから野戦郵便でタバコ6箱届く。残念ながら、中身は全部ばらけている。しかしそれらはありがたい。妹からも、新聞の第二便が届く。

 10月7日。うれしいことに、両親から小包が到着。中身は、随分前に注文しておいたタバコだ。

 10月8日。今日は風の強い一日で、フジヤマが沈む夕日の中で輝くのが、とりわけはっきりと見えるという、めったにない機会に恵まれた。

 10月13日。うれしくも今日は、ベルタから小さな小包でタバコ20箱が届き驚かされた。願わくは、君に間もなく、たくさんの贈物で充分なお返しが出来るように。

 10月14日。ヴィルスターから今日、ささやかな義捐金として3円58銭(10.75スイス・フラン)を受け取る。毎日何か、昨日はタバコ20箱、今日は金と、窮乏が大きくなると、次に救いがやって来る。だから、まったく滅亡などしないのだ。

 10月19日。午前、医者による体重と歯の検診。私の体重は18.61貫。今日からエーラー海軍中尉に、幾何学の講義を受けることにする。

 10月24日。ユーバーシェール博士の講演の続き。ドイツの国家概念について。

 10月26日。横浜からシュレーダー牧師が来て、礼拝。蒸気タービンについて技師長の講演。

 10月31日。ドイツの国家概念についての講演が終了。次に、日本の国家概念へと進む。日本の皇帝の誕生日。食事の時に、果物と砂糖が出る。

 11月10日。日本の皇帝の戴冠式の祝日。食事もいつもより良い。衛兵が特別な式典を行う。故郷から、頼んでおいた本が到着した。

 11月12日。夜、強い地震。地震はだんだん弱まりながら、一日中続く。日本では年間、約150回も地震があるのだ。

 11月14日。今日は体育祭の開催で、大変面白い一日を過ごした。1560メートル競争、擲球、石投げ、円盤投げ、500メートル競争、拳球、走り幅跳び、走り高跳び、棒高跳び、100メートル競争、卵競争、リレー、サッカー、綱引き、じゃが芋競争、それに障害物競走と、それに続いて表彰式が行われた。ヤーグアルと海兵中隊には、6つの一等賞、4つの二等賞、それに1つの三等賞が配分された。賞品は、暮し向きにふさわしいものだった。我等が皇帝万歳、を唱えて、行事は終った。

 11月15日。今日は支給日。各自に1円30銭。ようやく故郷から(両親から)手紙が届く。11月16日。一日中、突き上げるような強い地震。11月21日。今日は「死者の日曜日」で礼拝。

 11月30日。冬の下着の支給。神戸のドイツ人から各自、小箱と靴下2足をもらう。午前はシュレーダー牧師の礼拝。12月2日。両親からはがきが届く。11月2日に投函したものだ。その前日にもはがきが届いた。既に10月22日に投函されていたものだ。

 12月3日。今日は額縁を一つ作り始める。我等の技師長に、クリスマスに贈ってやろうと思うのだ。製作は、ヤーグアルの下士官一同から私に任されたのだ。クリスマスへの他の準備も始まった。

 12月4日。両親からはがきが届く。9月25日の投函。

 12月11日。妹が送ってくれたクリスマスの小包を、大喜びで受け取る。

 12月17日。医者の診察。体重18.28貫。講演、日本の教育。12月21日。支給日、各自1円15銭。技師長への額縁が仕上がった。

 12月23日。クリスマスの準備。たくさん豚を屠って、ソーセージ作り。

 12月24日。クリスマス・イヴ。このクリスマスを故郷で迎えられたら、という私の願いは充たされなかった。はるか遠い所でこのすばらしいお祝いを過ごすことを、何度余儀なくされているのだろうか。来る年こそ、平和の年になって欲しい。今日最初に与えられた喜びは、ベルタからの手紙だ。夜には礼拝と、それに続くプレゼントの交換。愛すべきサンタクロースの登場まで、忘れられてはいなかった。収容所中を覆っていた、重苦しい雰囲気を、我等が将校連は、愉快な顔と冗談で追い払おうと試みたのだ。プレゼントの後は、誰もが何かしらもらえる福引だった。日本側から、11時15分まで自由に過ごせるよう取り付けてあったので、それまで我々のお祝いに熱中した。だんだんと雰囲気が盛り上がってきて、むしろ強がって冗談を言っているようになった。それからベッドに向かい、故郷へ向けた思いを抱いて眠り込んだ。

 12月25日。楽しく過ごした夜の後、朝食を済ませると、ストーヴの周りにたむろして朝酒をやった。ほとんど誰もが持っていたわずかな貯えから、ビールを二、三本奮発した。こうして午前中を過ごした。昼には礼拝だ。午後は将校連と兵隊らの協力で、音楽会が開かれた。ピアノ一台と、一部は自作のヴァイオリンで演奏された。その後、私の親しい戦友らと居心地良い茶話会となり、そのためにもちろん、それぞれが故郷から届いた小包の菓子を持ち寄った。愉快な冗談と戯れ歌の演奏で、8時まで一緒に過ごした。

 12月26日。今日は2日目のうまい朝食を、クリスマスの小包から奮発した。カール伯父さんからの手紙が届いた。12月31日は、かなりひっそりと過ごした。夜は30分も消燈を延長して自由に出来たのだが、私は早々と床に就いた。

 

1916年(大正5年)

 1月1日。午後は合唱団が音楽会。私も耳を傾ける。1月5日。長らく待った両親からの手紙が2通。1月6日。ブルーノから手紙が届く。彼が元気で、まだ生きているのをうれしく思った。

 1月8日。講演「日本の学校」。1月12日。2度目のタバコの小包がベルタから。発送は12月6日だ。久し振りに、フュルステンヴァルダーの新聞(1915年12月12日付)も届いた。

 1月14日。講演、世界大戦下の日本の地位について。駐英大使の大隈と、その弟子のタカトー〈訳註:大木喬任のことか?〉について。

 1月17日。突然、収容所中に私物の検査。1月21日。講演。ドイツ人と日本人の精神的な違い。

 1月22日。妹からの手紙を受け取って、私の喜びは大きかった。二、三の愛らしい手紙は、もうずっと受け取っていなかったものだ。両親からも手紙が届く。なおまだ二、三個の小包がこちらに向けて送られているらしいことが、その文面からうかがわれる。

 1月27日。皇帝誕生日。午前中礼拝。クーロ中佐のスピーチ。合唱協会の演奏。技師長から50銭。その他に、一般に一人あたま20銭とビール2本。

 1月29日。手紙を3通受け取る。1通は両親から。また久しぶりにヴェント夫人からの便り、それによってヴィリーの正確な住所もわかった。シュミートケ夫人は、ブルーノを通じて挨拶をくれた。

 2月7日。これまでで一番の降雪。まったく予想しなかったことに、クーベ一家から小包と、フュルステンヴァルダーの新聞を受け取る。うれしい一日。

 2月11日。講演。ドイツ人と日本人の相違。この日は、日本の古い伝承によれば、天から来た最初の皇帝が位についた日とのことだ。

 2月14日。待ち焦がれていた、両親からのクリスマス小包が届いた。2月21日。2番目の大雪。

 2月23日。技師長の内燃機関についての講演。2月24日。天津からの義捐金が届く。一人あたま1円31銭。2月25日。アメリカ赤十字からの3人の婦人が収容所見学。

 3月2日。講演。日本人の栄養についてドイツ人との比較。1911年のある統計によれば、日本人労働者の平均の日収は60銭で、その内3分の1の20銭を食糧費に使う。ドイツ労働者の一日当り平均賃金は(金属労働者と左官職人)3.60から4.00マルクで、その内90プフェニヒを食糧費に使うので、4分の1だ。

 3月6日。ブルーノから手紙が届く。3月8日。突然病気になる。下腹が冷えたようだ。3月11日。病室から今日、解放された。

 3月13日。合唱団の一員として、フォン・ヴェルツキー大尉の誕生日に招かれた。

 3月15日。東京のアメリカ公使館員2人が収容所を視察。

 3月26日。スイス人牧師による礼拝。3月30日。フリードリッヒ・ライプナーにはがきと、ベルタに封書を送る。3月31日。久し振りに今日、フュルステンヴァルダー新聞の送付を受ける。

 講演。日本の憲法について。

 4月5日。1円30銭が、金のない者すべてに支給された。4月7日。日本についての講演は、さらに進む。4月22日。中佐から40銭。

 4月23日。イースターだ! またも、このすばらしい祝日を捕虜収容所で過さなければならなくなった。私の今の状況がまだいつまで続くのか、誰にもわからない。いつ平和が来るのだろう? 長い捕虜暮らしは既に、祝日を我々の状況にふさわしく、自分らで出来るだけすばらしくする術を教えてくれた。今日もまたそうなのだ。午前は礼拝。夜は将校連の協力の下、合唱団の音楽会。クーロ中佐まで、これに参加してくれた。こうしてすばらしい時を二、三時間手に入れ、よく知っている歌を歌って、故郷にいるかのように振る舞った。満ち足りて、新たな希望を持って、その後、床に就いた。

 4月27日。クーロ中佐の誕生日。夜には、合唱団まで招かれた。我々の歌と寄付された70リットルのビールを平らげたことによって、この晩も出来るだけ居心地良く過ごしてやった。

 5月5日。中佐の日露戦争に関する講演。5月14日。第2回体育祭が開催された。5月17日。日本の一等軍医が交替した。

 5月25日。今日は夕方、まれに見る美しい日没を観察する機会を得た。

 6月5日。今日は、真剣な使命をまっとうしなければならない。陸軍病院で肺結核で死んだ海兵中隊の戦友のために、最後の栄誉を示してやらなくてはならない。日本側は、希望者は誰でも葬儀に参列できるよう許可してくれた。埋葬は習志野の陸軍墓地で行われた。弔辞は、収容所内の2人の宣教師によって行われた。合唱団は、復活の歌と「俺には一人の戦友がいた」の歌を歌った。日本側の将校からは、西郷中佐、原田中尉と一等軍医が参列した。

 6月11日。聖霊降臨祭の1日目。今年もこのお祝いを、捕虜収容所の中で過ごさざるを得ない。午前中は礼拝、夜は兵舎の間に集って居心地良く過ごす。楽しく過ごすために、チェロとヴァイオリン2本、バンドネオンから成る楽隊が配慮されていた。合唱団も参加した。残念ながら私は、ビールを一本奮発する気にはならなかった。私の懐ろ具合はそれを許さなかったのだ。2日目はいつもと同じように、取り立てて書くような事件もなく過ぎた。

 6月13日。今日は、壁掛けの飾り皿が届いた。レフラー中尉に贈るために横浜まで製作を注文しておいた品だ。

 6月17日。医師の診察。体重は18.80貫。レフラー中尉の講演は、日露戦争の海戦について。

 7月7日。今日は、紙巻やタバコが入った野戦小包が2つ届いて私を大喜びさせた。その中にはエルゼの肖像まで入っていた。7月24日。両親に手紙を出す。1月13日以来、長く待ちわびていた小包が届いた。8月8日。クーベ夫人から小包を受け取る。残念なことに、食べられたのはオイル・サーディン2缶だけだった。地震、かなり強い。数十秒続いた。

 8月16日。医師の診察。体重は17.79貫。赤痢のような下痢による、急激な体重減少。

 9月20日。医師の診察。体重18.99貫。

 9月25日。1円30銭支給。

 10月11日。両親から手紙が届く。やかましい日本の規則によると、郵便は月当り一人手紙1通、はがき1枚しか出せない。便箋やはがきには、日本側がスタンプを押したものが配られる。

 10月21日。今日は、ここで組織された体操協会の主催で、ドイツ体操の練習が行われた。

 10月22日。福岡収容所から73名が到着。我々の収容所は、今や約500名となった。日本側の許可を得て、今回はクリスマスカードが出せるようになった。これにはしかし、私には気に入らない条件が付いており、むしろ私はあきらめた。

 10月26日。支給。一人あたま1円30銭。

 11月1日。日本の皇帝の息子が、皇太子になる布告。

 12月1日。最近、日本側が捕虜に対して過酷な措置を取るのが、私の目につく。例えば、取るに足りない理由で逮捕し、即座に処罰するのだ。我等の将校連は今、兵隊と同じ時刻に起床しなければならない。彼らはもはや、兵隊の居住区に入って新聞記事を読み上げてやるのも出来ない。そして、今度は食事もだ。福岡収容所の73名が加わったのに、もう肉は以前ほどにはない。唯一ふんだんにあるのは、じゃが芋ばかりだ。肉は夏には、ほとんど食べられなくなってしまう。なぜなら、届いた時から既に臭うのだ。また、たいてい脂身ばかりで、誰も食べられたものではない。配達されたレバーが傷んでいるので、すぐに埋めてしまわなければならないようだ。昼食はたいていじゃが芋か、グーラシュと米飯だ。肉を皿の上に見かけることなど、ほとんどない。一人前が、驚くほど小さい。夕食はキャベツや黒い豆、そら豆、にんじんやインゲン豆のような野菜ばかりだ。その成分はほとんど、ただの水とたくさんの玉ねぎと、二、三のじゃが芋なのだ。野菜は今や、ほんのわずかな量なので、どんなに捜しても何も見つけることは出来ない。肉は二、三の脂身の塊で、もし皿の上に見つけたとしても、すぐに消えてしまうような代物だ。目下の食事は質も量もこういったものなので、やっと生きていられるほどのものなのだ。ここに長くいればいるほど、待遇は悪くなっていくようだ。

 12月3日。9月19日付の、エルゼからの野戦小包が届いた。中身は本1冊、3箱のタバコと写真1枚。

 12月18日。ベルタから、50箱のタバコの入った野戦小包を受け取る。11月2日に発送したものだ。

 12月20日。ギター教室の歓迎会。

 12月21日。医師の診察。体重18.78貫。

 12月28日。クリスマスも過ぎた。3回目もこのお祝いを、捕虜暮らしの中で過ごさざるを得なかった。故郷から、中国や日本、アメリカから、我が同国人のお金や物がふんだんに贈られたのにもかかわらず、このお祝いを、故郷で愛する者に囲まれて祝うことが出来ないという絶望感は大きかった。いくら習慣の力は大きく、気のおけない故郷の楽しみも抜きに過ごすことに、もうずっと慣れてしまったとは言え。私はただ、これが故郷も両親の家もなしで過ごす最後のクリスマスであってくれたら、と願うばかりである。少なくとも手紙1通、はがき1枚でも届いていればまだましだったろうが、何も来なかった。まだこれから届くのならば、と願っている。

 12月30日。ようやく、オーバーゲルツィッヒからはがきが届く。それで、両親がまだそこにいることを知った。

 

1917年(大正6年)

 1月2日。古い年は過ぎ去った。希望も新たに1年を区切り、新しい年に進んで行こう。平和の噂とかすかな平和の響きがこちらへ、我々の孤独へと近づいて、おそらくこの新しい年が平和の年となるだろうと、受け取られている。そうなれば、この大きな戦いと捕虜としての暮らしにも、終止符を打つ時となるのだが。

 1月25日。クーベ夫人から、タバコと葉巻12本が入った小包を受け取る。

 2月9日。クーベ夫人から小包を受け取る。中身はビスケット、チョコレートとオイル・サーディン。

 2月19日。両親から手紙をもらう。2月24日。ハインリッヒから小包をもらう。去年の10月8日に発送したものだ。菓子、紙巻35箱、葉巻25本、にしん1ダース、オイル・サーディンとタバコの小箱だ。

 3月3日。今日ひそかに、26歳の誕生日を迎えた。

 4月8日。味気ないイースター! 唯一面白かったのは、将校連と合唱団が催した音楽会だった。

 4月11日。一回限りの支給。15円30銭もの金が支払われた(戦争後に返済する見込みだ)。

 5月17日。驚いたことに、今日フリードリッヒ・L・ペチュケから手紙をもらった。

 5月27日。聖霊降臨祭もいつものように過ぎた。唯一の気晴らしは、どちらもたいへん素敵に演じられた2つの小劇の上演だった。それ以外の時間は、単調さと無気力さが強く物語っていた。

 6月10日。フリーゲルスカンプ中尉のために、箱を作ってもらう。これは3円稼いだ。

 7月10日。あっと言う間に収容所を、当然の苦情を訴える口実を与えるような空気が広がっていった。とりわけ険悪だったのは、食事についてだった。それは例えば、塩漬肉に関わるもので、すでにだいぶ臭うとか、一部は蛆がわいていた、というものだった。軍医が、肉は確かにあまり良くはないとしても、まだ食べられるものだと説明したにもかかわらず、調理員らは肉の調理を拒否し、司厨曹長が拘留されるような始末となった。また何回か、ひどく臭う魚が出た。もちろん誰も受け取らなかった。奇妙だったのは、どんな小さな違反も必ず拘留で処罰されたことである。例えば、朝の点呼にちょっと遅刻すると、拘留5日だった。

 9月19日。今日は横浜のエーファ・シュラム夫人から、小さな小包を受け取った。中身はポークペーストとレバーソーセージの半ポンド缶2つだ。

 10月1日。昨夜、今までの人生で経験したことのない大嵐に遭った。我々の兵舎が倒壊したり、まして地表から消えたりしなかったのだけは、幸運な偶然だったと思わざるを得ないだろう。朝の4時頃だっただろうか。突然入り乱れる声で目覚めた。驚いたことに戦友らの大半は既に起きており、部屋の一角の寝床に重なり合って寝ていた。彼らの早起きの理由を問う必要は、なかった。不気味にうなる嵐と降り注ぐ雨は、充分な説明を示していた。私も寝床を飛び出した。至る所で雨漏りして、突風が兵舎を震わせガタガタ言わせて、今にも倒壊するのではないかと思わせた。幸運にして、そうはならなかった。明るくなって外に出てみると、悲惨な光景を呈していた。二、三か所の屋根のブリキの切れ端や板を除いて、確かに収容所中の建物に損傷はわずかだった。しかし、我々下士卒や将校連の庭、そして収容所の外を見ると、一層悲惨な状況だった。数日前までまだたくさんの花が咲いていた庭からは、もはや何もなくなっていた。あずまやは、瓦礫の山になっているか、吹き飛んでいるかだった。日本の歩哨の見張り小屋は、残骸になって遠く一面に散らばっていたり、ぺしゃんこになって垣の際に投げ出されていた。我々の収容所のすぐ裏手に立っていた兵舎(軍馬の厩舎)はすっかり崩壊していた。少し離れた所にあった軍用兵舎は、ほとんどの屋根がぼろぼろになり、引き剥がされていた。我々の収容所のすぐ裏にあり二重の垣根を回していた農家は倒壊し、一家中が全滅していた。家屋の一部や中の家具は、こちらの広場にころがっていた。電線もちぎられて、もともと単調だった夜は、獣脂ろうそくで過ごさざるを得なかった。こういったところが、ここからわずかに見渡すことが出来る範囲で、私が観察した被害だ。新聞(ジャパン・アドヴァタイザー)で読んだところでは、被害ははるかに甚大だ。今晩までに報道されているところでは、東京だけで、家を失った者15万人、漁船の沈没1万6千艘、千葉半島の学校の倒壊53、という。稲の収穫やその他農産物の損害は600万円。300人の住民のいた島が一つ、跡形もなく海没した。鯨が6匹、陸に打ち上げられた。岸に大きな商船が座礁している。台風は既に二、三日前から予報されていたが、その目は60キロも海寄りだった。一番巻き添えを食ったのが、東京から習志野までの地域だったのだ。我々は、台風の縁がかすめて行ったただけで、幸運だったのだ。

 10月2日。好天に恵まれて今日、例年の体育祭が開催され、非常な好成績が示された。おなじみの体操や器械体操が、引き続く体操ショーや人間ピラミッドと共に演じられた。

 10月31日。今晩は、宗教改革400年の記念日に小さな式典が行われた。ユーバーシェール哲学博士の非常に興味深い講演は、ドイツ民族が400年前から始まった新時代に入ってから、いかに発展してきたか、というものだった。30人からなる、あらたに組織された弦楽オーケストラ、それに合唱団がこの式典に花を添えた。

 11月18日。食事の不十分さは、それについて書き留めておくために、再び私にペンを取らせた。じゃが芋と野菜、肉が出るべき、また以前はそうなっていた夕食は、まったくひどいものだ。今や食事は質の悪いものになり、本当のところ、どんな材料から出来ているのか、確かめも出来ないようなことがしばしばだった。85パーセントが水、5パーセントの小麦粉、2パーセントのじゃが芋、2パーセントの肉、5パーセントの野菜、1パーセントの香辛料、といったところだ。485名に15ポンドのえんどう豆や他の豆、あるいはキャベツしかないのだ。昼食も、以前よりかなりひどいものになった。肉は大きさも厚みも、一人前5マルク分ほどであることが珍しくなく、それにじゃが芋が3切れか5切れだ。これでは、生きていくのにやっとというところだ。

 11月20日。食事の改善のためにドレンクハーン氏から、野菜、じゃが芋、かぶを手に入れるため、以後僅かながら加俸をもらえることになった。それによっても、たいした改善にはならない。何を加俸してもらっても、日本側がまた持って行ってしまうからだ。上層部への苦情も無駄だ。こんな状態にもかかわらず、ここで月々給料をもらっている連中はドイツへの報告に、我々はとても元気に暮らしており、不足しているのは庭にやる肥料だけだ、と書いているらしい。

 11月22日。6月27日以来やっと、両親から手紙を受け取る。11月24日。横浜のシュラム夫人から、ソーセージ2本の入った小包。

 12月22日。横浜のシュラム一家から、手紙を受け取る。

 12月25日。今日は本当に幸運な日だ。ようやく横浜から小包を2つ受け取ったのだ。1つはシュラム一家から、もう1つはポール一家からだ。その他に、横浜のアルトシューラー夫人からソーセージ1本。とりわけ私を喜ばせたのは、故郷からの送金と我が友ブルーノからの手紙だった。

 12月27日。クリスマスのお祝いは、いつもどおり過ぎた。順番に、礼拝、プレゼントの配布、そして夜中の12時まで一般的なお祝いだった。

 

1918年(大正7年)

 1月2日。新年のお祝いもまた、いつものやり方で過ぎた。お金を受け取っていたおかげで、大晦日の夜は、自分を出来る限り居心地良くしてやれる立場にいた。まぁ、この国で新年を迎えるのも、これを最後にしてもらいたいものだ。

 1月8日。横浜のシュラム一家とポール夫人宛に手紙。3月11日。横浜のシュフナー氏から手紙を受け取る。ベルリンの職業学校の経営陣に、手紙を書く。

 3月13日。横浜のシュラム一家から小包。ソーセージ1本とワイン1壜。3月14日。横浜のシュフナー氏から小包。ソーセージ1本、ハンカチ7枚、それに石鹸1つ。

 3月25日。今日は、福岡に残っていた捕虜の残りが送られてきた。元のチンタオ総督マイヤー=ワルデックと幕僚将校を含む75名だ。

 4月4日。今日は両親から、クッキーの入った小包が届く。しかしながら、全部押しつぶされていて、とても食べられなかった。

 4月25日。今日は、私への貸付金として27円54銭もの金を受け取った。多くて2円か3円だろうと思っていたので、うれしくも驚いた。

 5月2日。ちょうど今、両親からの手紙が届いた。

 6月5日。今日初めて、我々は外へ連れ出された。遠足は、我々の収容所からおよそ2時間半ぐらい隔たった所にある村まで続いた。我々はそこで、30分ほど休憩し、その村の中で自由に動くことが出来たので、商店でちょっとした買い物をした。帰り道は二、三の村を通り抜けたが、そこでは、我々ヨーロッパ人には非常に興味深いものが見られた。

 6月7日。今日、横浜から来た面会者からソーセージを渡されたときには驚いた。シュラム一家が託してくれたのだ。

 6月16日。今日は再び、小体育祭が行われた。私も番外の綱引きに参加した。

 7月8日。横浜の小さな友人ゲルハルト君から、手紙をもらった。10月4日。ベルリンの職業学校から返事を受け取る。

 11月3日。時が過ぎる間に何度も起った、昔からの持病が、今日また、医務室を訪ねざるを得なくした。

 11月8日。横浜からシュラム一家が、今日収容所を訪ねてくれた。残念ながら私は、病気のおかげでベッドから離れられなかったので、彼らに挨拶することが出来なかった。彼らは私に、ワイン、ソーセージ、ビスケットの包みを運んできてくれた。

 11月18日。今日は再び、医務室を離れることが出来た。

 11月25日。義捐金の配分がいい加減だったので、収容所に緊張が走った。兵隊らが集会を開き、代表者を選出した。幕僚長に、是正のための陳情を行なった。

 12月5日。今日、陸軍病院で医者のM.シュルツ〈訳註:事実は、グスタフ・シュルツェ〉が死亡した。陸軍省からの指示により、亡骸は火葬され、土葬には出来なかった。

 12月18日。私の小さな友人が、横浜から手紙をくれた。その中で彼は、また私に小包を送ったと予告している。

 12月24日。うれしいことに、今日両親からの送金を受け取った。30マルクが8円33銭だ。横浜からの小包も、今日届いた。

 

1919年(大正8年)

 祖国の状況にかんがみて、クリスマスのお祝いはとても静かに過ごされた。全般的に重苦しい雰囲気が支配していた。

 新年は私にとって、悲しい幕開けとなった。私はまた病気になり、ベッドに寝ていなければならなかった。概して私の健康は、悪い状態である。4年に及ぶ捕虜暮らしは一人の人間を徐々に、抜け殻のようにしているのだ。健康で、思考し、罪もない人間を鉄条網の中に閉じ込めておくのは、人間性に対する犯罪ではないのか。ましてそれが、4年以上になるとは。これが、20世紀の進歩と呼ばれている。

 1月9日。新年になって最初の郵便を、ブルーノと両親に送った。シュラム一家には、はがきを1枚。

 1月22日。5ヶ月の休止の後、今日再びエルゼと両親から手紙を受け取る。

 1月26日。今日のような日曜日を経験することは、おそらく二度とないことだろう。およそ6日ほど前から、収容所中に流感が広がった。今日、この病気は最高潮に達した。約650名が横たわっている。8名の重病人は、この収容所から45分ほどの距離にある陸軍病院に運ばれた。道はほとんど、舗装されていない。4人が病人を運び、さらに4人が運び手を支え、他の4人は交替に付いて行った。病院で病人は、収容されるまで数時間待たされた。どうしようもない状態だった。一人は今日、病院で死亡した。

 1月27日。今日も8人の病人が、病院に運ばれた。また、今日も死者が一人出た。

 1月28日。最後の4人の重病人が病院に運ばれた。

 1月29日。陸軍病院が満員のため、今日から兵舎一棟が全部、病室として整えられた。130名の重病人がそこに収容された。5人の軍医と多数の衛生下士官・衛生兵が、今この収容所にいる。陸軍病院で2名が死亡し、この収容所内の病室で1名が死んだ。数少ない元気な者が、病人の搬送、埋葬、寝ずの看護あるいは世話の奉仕、その上いつもの収容所の仕事と、大変な苦労をしている。

 1月30日。今日1名が収容所の病室で、1名が陸軍病院で死亡した。

 2月1日。今日もまた死者が3名。2人は収容所の病室で、1人は陸軍病院で。

 2月2日。2名が収容所の病室で、1名が陸軍病院で死亡。

 2月3日。今日は、収容所の病室と陸軍病院で1人ずつ死亡。

 2月6日。今日1名、昨日1名が、収容所の病室で死亡。

 2月8日。収容所の病室で死者1名。

 2月10日。2名が今日、収容所の病室で死亡した。

 2月22日。流感で死亡した者らのために、本日葬儀が行われた。プロテスタントのためにはシュレーダー牧師が説教し、カトリックのためには静かなミサが執行された。

 3月3日。今日は28歳の誕生日を迎えた。捕虜暮らしで5回目だ。

 3月5日。横浜のシュラム一家が今日ここに来て、ズィーベル少佐と私を訪ねてくれた。私に持ってきてくれた細々としたものを除いては、ちょっと彼らと話が出来たのがうれしかった。しばらくぶりにドイツ語で、極東の同国人と少しでも話が出来るということは、ことのほかうれしいものだ。

 3月7日。今日は、フリードリッヒ・ヴッティッヒからの手紙に驚かされた。この5年間で2度目だ。

 4月17日。果てしなく待ちわびた両親からの手紙を、今日受け取る。奇妙なことに、以前ほど大喜びはしなくなった。決まりきった文面は、いつも何も語っていないように思われる。愛する両親を非難するつもりはない。しかしまた、そうとしか感じられないのも、私のせいではないのだ。

 4月22日。またイースターのお祝いが過ぎ去った。捕虜暮らしで5回目だ。二、三時間ここで愉快に時を過ごしたが、うれしくもないし、特に何か思い出に残ることもないまま過ぎ去った。愛する懐かしい故郷にいた日々とは、なんと違うことか。もう一度ああいった時間が、戻ってくるのだろうか。ああ、この無意味さを何と書いたらよいのだろうか。感傷的な言葉もなくなった。

 4月26日。今日は横浜から、小さな友人ゲルハルト君の手紙を受け取った。彼は、両親と一緒に次の日曜日、私を訪ねてくると告げている。つまり、今度の日曜日にはこの収容所で体育祭が開かれ、東京や横浜のドイツ人は陸軍省から、収容所を訪問する許可を取り付けてあるのだ。これは我々のぼんやりと落ち込んだ気持ちに、またささやかな気晴らしを与えてくれるだろう。

 4月27日。ちょうど今、また本を1冊読み終えた。収容所図書室の良書の中の1冊だ。こういうものが我々全部にとっては本当に宝物だし、特に私にはそうだ。既にたくさんの本をそこから借りて読んだし、そこからたくさんのものを学んだ。これらは、私が心の栄養を汲み取る泉である。これらは私の考えを元気付け、私が住むことが出来ないいろいろな世界へと導いてくれる。それを通じて私は、他の社会にいる人間の信念や多面性、気骨や人生を知り、何が最も重要なことか判断することを学んだ。それは私に、良き教えと知性をふんだんに提供してくれ、精神と魂を豊かにしてくれた。

 5月16日。我が友ブルーノからの手紙は今日もまた、ちょっとした気晴らしを与えてくれた。驚いたことに彼の手紙を読んでいると、彼と会っているかのように感ずる。なるべく開けっぴろげに書いてくれと頼んでおいたからだろう。旧友がこの願いを聞き入れてくれるだろうと馬鹿なことを考えるたびに、私はまるで自分をだましている訳だ。人生そんなものだ。

 5月28日。今日は、両親から手紙を受け取った。彼らは私が、既に帰国の途についていると思っているようだ。しかし、私はまだここで鉄条網の中に座っているのだ。

 7月8日。わずかの間の病気の後、今日この収容所で予備役の、商船の船長が死んだ〈訳註:フーゴー・レーマン〉。亡骸は火葬された。

 うれしいことに、両親から手紙を受け取った。

 7月11日。しばらくぶりに今日、再び故郷にちょっと書き送った。両親宛の手紙と我が友ブルーノ宛だ。

 7月14日。ほとんど1年ぶりに今日また、二、三時間、鉄条網の外で過ごすことが出来た。そこまでおよそ1時間半ほど離れた、太平洋岸までの散歩だった。道は田を抜け森や村を抜け、私は日本の田舎の暮らしを覗く機会を得ることが出来た。ここでのそれは、ドイツとまるで違っていた。海にはちょうど引き潮時に着いた。ああ、ほとんど5年ぶりにもう一度青い海を眺め、1時間も視野に他のものを映すと、なんと目に心地よいことだろう。1時間にわたって、我々は浜にとどまり、村を自由に歩き回り、ちょっとした買い物をすることが出来た。それからもう一つ別の道を帰り、再び鉄条網の中に着いたのだった。

 7月23日。体操協会の体操ショーに今日、横浜や東京のたくさんのドイツ人同胞が、ここを訪問してくれた。収容所の中にまで入ってくることは許されていなかったので、残念なことに彼らは、体操を一緒に見ることは出来なかった。まったく日本式の卑劣さだ。訪問客の中には、私の後援者シュラム氏も、息子と一緒に横浜から来ていた。子供だけが収容所内に入ることを許され、私は、捕虜暮らしの中で得た9歳の我が友に、体操家の運動の成果や収容所の「豪華さ」を見せてやる楽しみを得ることができた。

 9月9日。日本の収容所事務所と長い交渉の末とうとう、この収容所で活動写真を見せてもらうことが出来るよう、要求貫徹に成功した。既に準備は始まっている。

 9月14日。今晩は、活動写真が上映されたが、ざあざあ降りの雨に妨げられた。それにもかかわらず、観客は皆、おしまいまで頑張り抜いた。全員が、全身びしょ濡れになった。こんなことにさえ習志野の馬鹿げた捕虜たちは何かを成し遂げようと夢中だったのだ。

 9月22日。とうとう、ここ日本にいる捕虜も、気にかけてもらえるようになってきたらしい。まだ平和条約(原註:6月28日のヴェルサイユ講和条約のこと。)の批准を待って、我々は解放されるはずだ、という報告が今日届いた。スイス公使館が、我々の帰国輸送を引き受けてくれた。そのための準備は、速められるだろう。

 ありがたい。とうとうそれは、そんなに遠いことではなくなった。いくらか明るい見通しを持てるようになってきた。準備にはまだ4週間から6週間が必要であるらしいが、そうだとするとたぶん、クリスマスの祝日には故郷にいることが出来るのだろう。

 10月16日。スイス公使館は今日、こんなニュースを伝達してきた。電信を使ってドイツ政府から、ドイツ捕虜を引き取り故国へ輸送する旨の委任を取り付けた、と。そうだとすると、準備の6週間が必要になってきた。

 10月20日。ザークセル大佐が許可を得て、東京に赴き、スイス公使館や日本政府の数人と、帰国輸送について協議することとなった。

 10月31日。突然の発病で、陸軍病院に運ばれた。11月9日。回復して退院。

 11月17日。ザークセル大佐とスイス公使館、日本政府それに船会社二、三社との間の交渉は、汽船3隻をチャーターして、12月15日と12月20日、それに12月末に出発することとなった。

 11月18日。日本から最後の手紙を、両親と妹に発送する。その翌日、同様にリヒァルト宛。

 11月26日。3人のポナペ人、ヴィルヘルム、ゲオルクとザムエルは、チンタオではヤーグアルの艦上で軍務についたのだが、今日ここから解放された。彼らは今や日本臣民だ。それならば、もっと早く故郷に帰してもらえなかったものか、不思議に思う。

 12月12日。隣に寝ていた戦友の不注意によって、今日私のギターが壊れてしまった。1916年に原始的な工具で、自分で作ったものだったのに。これで何度も、捕虜暮らしの暗い時間を追い払ったものだし、記念に故郷へ持ち帰ろうと思っていたのだが。

 12月15日。横浜のシュラム氏から今日、手紙を受け取る。彼はその中で、ドイツへの出発前にもう一度彼と家族に会うために、休暇を取って横浜へ来られないか、と望みを述べている。また、私に横浜を見せたいのだという。いろいろな理由から、残念ながらそれは不可能だ。

 12月17日。思いがけず今日、シュラム氏が現われ、ズィーベル少佐と私を訪ねてくれた。彼は出発前に、もう一度会って話したいと望んでいた。彼は家族からの挨拶を携えて来てくれ、エナメル表紙の写真アルバムを個人的なお別れの贈物として持ってきてくれた。

 12月18日。収容所中がすべて、大忙しだ。輸送用の箱に、荷詰めと縄かけ。箱を駅に向けて発送。

 12月19日。今日、神戸港で習志野収容所に割り当てられた汽船キホクマルを我々の到着までに整えるため、将校1名と兵員32名規模の先遣隊が、収容所を後にした。我々も解放される日までもうわずかしかないのにもかかわらず、まるでもう二度と会えないかのように別れを惜しんだ。

 12月23日。今日は、祖国から直接やって来た最初のドイツ人の訪問を受けた。彼は喜ばしい知らせを持って来てくれた。

 12月24日。出発の準備。食糧の分配、車両の等級や船上での分隊の割り当て。ありがたや! とうとう本当に、祖国への旅が始まるのだ。

 午前11時に我々は、ヤーグアルの艦隊将校ディーズィング中尉に別れの挨拶をお願いした。彼は第一便で収容所を去ることになるからだ。真摯な言葉で彼は、海軍での、そして捕虜暮らしの間の共同生活をふり返り、帰路の無事と故郷への安着を祈ってくれた。

 多少の金と食糧をもらったので、この国での最後のクリスマスを、できるだけ心地よくしてやろうと試みた。素晴らしい夕食を用意し、帰路と愛する祖国への到着の前祝いに、豪勢に飲み食いした。

 ちょっと部屋まで来て欲しいという技師長の希望で、私は楽しいおしゃべりから抜け出した。30分ほど話した後、また戦友たちのところへ戻った。我々は最後のグラスを、これから始まる旅行のために飲み干し、とうとう解放の時が今来たのだという思いを胸に、床に就いた。鉄条網の中で眠るのも、これが最後だろう。

 12月25日。クリスマスの第一日。大掃除と出発の準備。10時10分に大きな広場に整列。日本の収容所長が別れの演説。12月25日11時18分、私は取り戻した自由に向けて第一歩を踏み出した。12時50分、津田沼駅到着。ここで私は、故郷の両親から最後の手紙を受け取る。午後1時27分、津田沼駅発車。夜12時40分頃、横浜を通過したが、ホームにはドイツ人が二、三人待っていてくれた。

 12月26日。品川に到着。4時間の停車となる。朝6時過ぎ、我々の列車はフジヤマを過ぎた。雪におおわれた頂きは、別れを告げているようであった。

 12時27日。朝8時38分、神戸駅に到着。昼1時30分に、波止場へと出発。私は病気で汽車旅の最後の数時間中、とても苦しんだ。それで波止場へは、私は人力車を頼まなければならなかった。我々は、10時には桟橋にいた。スイス公使館の依頼で、東京の救援委員会のケストナー氏が捕虜を受け取った。今や我々は本当に解放され、自由な市民であった。自由であり、どこへでも自由に歩けるということは、高揚した気分にさせた。この受領の後、直ちにキホクマル〈訳註:喜福丸。但しこの船は、12月28日横浜出港と記録されている。〉に乗船した。午後は荷物の受け取りに没頭した。各自ベッドをもらった後、我々は上陸することが出来た。

 12月28日。悪天候の中、今朝8時に神戸を出港した。

 12月29日。午後4時、門司に到着。九州の北、下関水道に臨む小さな港だ。何人かの落伍者とその荷物を受け取る。

 12月30日。午前10時50分、非常に寒く、みぞれ交じりの天候の下、門司を出港。夜7時には、機械の故障で海上でしばらく停船。

 12月31日。持病の症状が出る。キホクマル船上では初めてだ。年越しの夜を、日本と中国の間の洋上で迎える。具合が悪い。

 

1920年(大正9年)

 1月2日。夜2時にチンタオ港外の錨地に到着、朝8時15分に港に入る。少なくなったドイツ人が、沸き返るようなフラー〈訳註:万歳〉の声とハンカチを振って迎えてくれた。中国人も大勢待っており、到着者の中に以前のご主人様を見つけると喜んでくれた。夜は、1914年にチンタオに残してきた我々の荷物の受け取りが始まる。

 1月4日。休暇。ファーバー病院のヴァイヒェルト博士が、病人の診察を申し出てくれて、助言を与え、出来る限り薬を手当してくれた。私は出かけてしまった。残念ながら診察は、ようやく午後も遅くなってから行われるというので、私は断念したのだ。午後は二、三人の戦友と共に、エッガー夫人から招待を受けていたからだ。そこに着くと我々はそれぞれ、温かい風呂を与えられ、ウサギ肉のロースト、じゃが芋に赤キャベツから成る昼食をごちそうになった。それから気楽なおしゃべりが、夜まで続いた。さらに、火を使わない簡単な夕食をごちそうになり、紙巻や葉巻をふんだんにもらって、この厚遇してくれた家を辞した。船に戻る道すがら、我々は懐かしいペーターの中国風カフェを訪ねた。

 1月5日。午後2時に、とどまる人らのハンカチの波に送られて、チンタオ港を出港した。残念ながら、1人の死者を置いてこなければならなかった。我々の航海は、さらに蘭領インドへと続いた。

 1月17日。今日は、24時間病気で苦しんだ後、火薬手のヴァイスが肺炎で死んだ。午後2時に、シンガポールとサバンの間の洋上で、水葬した。

 1月18日。今日、キホクマルに乗り込んで最初の発作。午前10時にサバンの港に着き、投錨した。午後、我々の船は突堤に繋がれた。4時には上陸が可能となったが、私はそれを利用することは出来なかった。

 1月19日。石炭、家畜、食糧、氷と水の積み込み。

 1月20日。午後4時30分にサバンを発つ。サバンに職を得た数人の者は、ここに留まった。

 1月24日。午前9時には、セイロンの沖。

 1月25日。サバンで始まった私の呼吸困難は、またひどくなってきて、今日はベッドから起きられない。この病気は、実に嘆かわしい。もしかすると、もはや故郷まで生きて着けないかも知れない。

 1月28日。症状もかなり回復して、起きられるようになった。

 1月29日。突然再発して、船の医務室に運んでもらわなくてはならなかった。

 1月31日。よくならない。故郷で愛する者らに再会する希望も、あきらめなければならないか。

 2月1日。だいぶ具合よく夜を過ごした後、朝少し回復。船はアデンを過ぎて、バべル・マンデブ水道に入った。

 2月2日。夜昼を通じて、ずっと良くなってきた。2月5日。ようやくベッドから起き上った。

 2月6日。紅海の昼の陽光を浴びて休養。毛布にくるまり椅子に腰掛けて、面白い読書。

 2月7日。正午。またすっかりくるまって、デッキの手すりの所に座り、まもなく帰郷することを考えていた。医務室を出る。両親に宛てて手紙を書く。夜10時、スエズ到着。

 2月8日。スエズ運河を通過。1914年5月に私が最初に通った時とは、ここは何と変ったことだろう。トルコ人とイギリス人の戦闘の跡が、明らかに見て取れる。運河の両岸に大きなイギリスの兵営がある所を通過。

 2月9日。元のドイツ船が船上にイギリスの兵隊を乗せているのを、何度も眺める。午前10時、ポート・サイド。

 2月10日。ポート・サイドで食糧、生きた家畜、水を積み込む。午後2時出港。地中海のきびしい気候。

 2月17日。機雷の危険があるため、突然北へ変針。

 2月19日。絶え間ないきびしい気候の中、地中海を9日間航海して、今晩ジブラルタル海峡に着いた。

 2月24日。発作の予兆。

 2月25日。夜10時、ドーバー・カレーを通過。病気のためベッドで過ごす。

 2月26日。午後、濃霧の中で、ハーケの灯台船を見つけるため何度も停船。捜索は無駄で、既に33海里も北へ行ってしまった。夕方5時、投錨。水先案内なしにさらに進めるかどうか、ヴィルヘルムスハーフェンに電信で問合せ。停泊場所を申請し、進路の指示を頼む。

 2月27日。朝6時に抜錨。ヴィルヘルムスハーフェンからの回答が着く。我々の船は、機雷原のすぐそばにいる。新しい進路が申請され、これならば水先案内なしでもさらに進めそうだ。

 私の病状はかなり回復し、また起きていられるようになった。

 2月28日。真夜中を少し回って、ヤーデの灯台船を見つけることが出来た。そこから水先案内人が乗り込んでくれた。これで船は、ヴィルヘルムスハーフェンの水門までアウセンヴェーゼルの水路を進み、午前3時、そこに投錨した。我々はとうとう、この船旅の最後の山を越えて、安全にドイツの港に入ることが出来た。この旅は64日間続いた。そして、病気だったにもかかわらず、きびしい天候、絶え間ない機雷の危機をうまく乗り切ったことは幸運だったと言わなければならない。全航海中、船酔いはまったく感じなかった。

 朝8時、ヴィルヘルムスハーフェンの港内に入る水門を通った。我々がこの水門にいる間、ある海軍の高級士官が感動的な言葉で、歓迎の挨拶を述べられた。儀仗中隊が居並んで捧げ銃をし、海軍軍楽隊の演奏はゆっくりと港内に響いていった。心を込めた歓迎にもかかわらず、港にたくさんの残骸がころがり、不気味な静けさにおおわれている光景に、我々はぎょっとした。私が1914年4月22日にここを出発した時には、ここに堂々とした船が何艘も並び、機敏に忙しく働く姿があちこちに見られたのに。何と悲しい光景なのだ! 残りのドイツも、どんなに見えることだろうか。波止場のすぐ前には、ホーホクマル〈訳註:豊福丸。12月30日神戸出港、2月24日ヴィルヘルムスハーフェン着〉がいた。我々が着く二、三日前に、解放されたドイツ捕虜を乗せて日本からここへ到着していたのだ。10時に着岸して、荷物を持って秩序正しく上陸した。ようやく私は再び、6年ぶりに初めて、我が祖国の地に立ち、次の出来事を待った。すぐそばに停泊していた宿舎船で給食をとり、風呂を浴び、医者の診察を受け、着替えた。最後に残った日本のお金を両替する機会があった(1円は40マルクだった)。直ちに家に電報を送り、もう間もなくとなった到着を予告した。近くの兵営に、我々の今夜の宿所があった。