俘虜郵便について(2

 

 筆者は本研究誌の第2号で、高松市在住の郵趣家三木 充氏所蔵の四点の俘虜郵便を紹介して、若干の註解も施した。本号では、高知県土佐市在住の郵趣家河添 潔氏所蔵の七点の俘虜郵便を紹介するものである。第2号では丸亀俘虜収容所と板東俘虜収容所関連が各二通であった。今回は丸亀俘虜収容所関係二通、姫路俘虜収容所関係一通、似島俘虜収容所関係二通、松山俘虜収容所関係一通、静岡俘虜収容所関係一通の計七通である。

 今回、再度俘虜郵便の紹介をすることにしたのは、先頃久留米市教育委員会から発刊された『ドイツ兵捕虜と収容生活』(20073月)で、俘虜郵便30通近くが紹介されていることに意を強くしたからである。従来日本では、俘虜郵便については余り顧みられなかったように思われる。インターネット上で紹介されているものを除けば、習志野市教育委員会による『ドイツ兵士の見たNARASHINO』(平成1112月)等で僅かに紹介されている程度であろう。

 俘虜並びに俘虜収容所研究の上で、ドイツのフィラテリスト(郵趣家)が果たした役割は実に大きい。一次資料と言える俘虜郵便が、今後の俘虜、俘虜収容所研究に多少なりとも資すればと考える。

 なお、貴重な俘虜郵便のコピー、並びに本誌への掲載を許可して下さった河添 潔氏に厚く御礼申し上げます。

 

河添 潔氏所蔵俘虜郵便の紹介と註解

 

1) ナカムラからヴィオレット宛

 発信地不明、大正31225日消印

[松山俘虜収容所]ヴィオレット様

 

Dear Sir                 拝啓

I am very glad to              無事日本に戻られたことを知り、

know your safety back           とても嬉しく思います。

in Japan.Allow me             新年に当り、

to send you my best re-          深甚なるご挨拶を

gards & good wishes onHappy       申し上げます。

New Year. Yours faithfully         敬具

S.S. K.K.                不明

  Kobe Works Nakamura         神戸工場 ナカムラ

 

註解:

市販の絵葉書を使用。表の宛先が「松山俘虜収容所」のヴィオレット宛となっているが、ヴィオレットは実際には丸亀俘虜収容所に収容されていた。日本への移送一ヶ月余の郵便なので、収容先がまだ充分には周知されていなかったことを示している。松山と丸亀の二ヶ所の俘虜収容所検閲印が押されている。裏の絵は「大阪松嶋遊廓」を描いている。

ヴィオレット(Frederic Violet)は3海兵大隊7中隊の予備役副曹長で、応召前はジームセン商会(Siemssen & Co.)大阪支店に勤めていた。板東時代、公会堂での工芸品展に拡大写真を出品した。また、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。ベルリン出身。(2104:丸亀→板東)

 

2)イルゼ・松野からエフ・ヴィオレット宛

 神戸三宮(大正415日)発信、丸亀(大正416日受け取り)

Herrn F.Violet Marugame

丸亀俘虜収容所 エフ・ヴィオレット様

差出人:イルゼ・松野(Ilse Matsuno

 

 

Lieber Herr Violet! Vielen Dank für Ih-

re freundlichen Festgrüße,die uns sehr

erfreuten. Wir freuen uns sehr,daß Sie wie-

der wohlbehalten in Japan angekommen

sind und wünschten Ihnen für die Zukunft

alles Gute! Daheim scheint es ja gut zu ste-

hen,hoffentlich kommt es auch bald zu

einem günstigen Fiedensschluß!! Dann

aber nicht mit dabei in Berlin sein zu

können! Das ist schmerzlich,nicht wahr?

Ich habe seit Ausbruch des Krieges auch keine

Nachricht von daheim erhalten.Weiß daher

auch nicht was aus meinen Brüdern ge-

worden ist. Sonst geht es uns gut. Die Da-

men arbeiten alle sehr fleißig für die

Gefangenen,auch Spätzchen strickt

eiflig. Wir würden uns freuen

wieder einmal von Ihnen zu

hören.Nehmen Sie der Grüße

viele von meinem Manne,

Spätzchen und Ihrer Ilse Matsuno.

 

Kobe,d.4.1.1915.

 

親愛なるヴィオレット様

心のこもった祝日のご挨拶有難うございます。

私たちはとても嬉しく思いました。

私たちは貴方様が無事に日本に戻られたことをとても嬉しく思い、

また貴方様の未来がすべてよいものでありますよう願っております。

故国も順調であるように思います。

和平の締結もじきに訪れるものと期待しております。

でもその時に一緒にベルリンにいることは出来ないでしょう!

それは悲しいことですよね?

私も戦争勃発以来、故国から便りを全く受け取っていません。

そのため私の兄弟たちがどうなったのか知りません。

それ以外は私たちには変わったことはありません。

女性達はみんな俘虜のために一生懸命働いています。

おちびちゃんも熱心に編み物をしています。

また貴方様から便りがあれば嬉しく思います。

夫からもくれぐれも宜しくとの事です。

  おちびちゃんとあなたのイルゼ・マツノからも。

 

191514日、神戸にて

 

註解:

市販の絵葉書を使用。1)の葉書よりは10日ほど後に差し出されたが、表の宛先は丸亀俘虜収容所になっている。裏は狂言の演題「瓜盗人」をあしらったものである。差出人のイルゼ・松野夫人については不明。なお、ヴィオレット宛の葉書は郵趣家の元に多数残されている。

 

 

3) ゲオルク・クルーゼヴィッツからM.クルーゼヴィッツ夫人宛

姫路大正4220日 姫路消印

 

 

 

 Frau M.Krusewitz                 M.クルーゼヴィッツ様

  in Tsingtau                       青島

 

Abs.Krusewitz,Himeji,20.U.       発信人:クルーゼヴィッツ、姫路、220

Mein Liebes Fuglein! Weil Mutti     可愛いフークちゃんへ!ママからの便りでは、

mir schrieb,daß Du Freude an den    葉書が届いて嬉しかったそうなので、

Karten hattest,sollst Du auch heute   今日も一通送ります。

eine haben. Du bist auch immer brav  いつもおりこうさんにしているでしょうね?

nicht wahr? Gleichzeitig Brief an      ママとテオ宛にも送ります。

Mutti u. Karte an Theo. Herzlichen Gruß   心をこめて、パパより

u.Kuss- Dein Vati.

 

註解:

姫路俘虜収容所に収容されていたクルーゼヴィッツから、青島に住む妻に宛てて出された俘虜郵便。外国人向けに製作された写真絵葉書を使用。表にはフランス語による「俘虜郵便」と、「俘虜郵便検査済」の印が押してある。上部には「郵便ハガキ」の文字が手書きで書かれている。裏の写真は横浜公園を散歩する親子連れと思われる。

クルーゼヴィッツ(Georg Krusewitz)は砲兵兵站部の1等砲工技手で、青島時代はダンチヒ街(Danzigerstraße;日本による占領・統治時代は大阪町)に住んでいた。妻マルガレーテ(Margarete)は子どもニ人と、大戦終結してクルーゼヴィッツの解放まで当初は青島に、やがては上海で暮らした。プロイセンのオステ(Oste)河畔ノイハウス(Neuhaus)出身。

 

 

4)E.ケーニヒからリーナ・ケーニヒ宛

(大正688日 宇品消印)

 

 

 Frau Lina König                  リーナ・ケーニヒ様

  Rosslau a. E.                                エルベ河畔のロスラウ

  Schulstraße No. 10                              学園通り 10番地

Deutschland                                  ドイツ

Absender E. König No 640                発信人:E.ケーニヒ 番号640

 

  Kriegsgefangenenlager Ninoshima(Japan.)       似島俘虜収容所(日本)

 

Meine Liebe.Ninoshima. d.6.August 1917

Herzl.Dank für die Karte vom 3.Mai.

Ich habe mich auch gefreut, dass □□□□□□

euch besucht haben. Hoffentlich

seid ihr alle gesund und munter.

Mir geht es gut,ich denke viel

an euch meine Lieben und

möchte so gerne bei euch sein.

Ich hoffe immer auch, dass der Spät-

herbst uns den Frieden bringen

wird. Dann wird ja alles gut,

Bleib du mein liebes Linchen

nur gesund und sorge dich nicht zu-

viel. Küsse die Kinder und grüße

die Eltern, Marthe Hansen und alle

 Bekannten.

 Es grüßt dich Dein Ernst

 

私の愛しき人、似島、191786

53日の葉書有難く拝受しました。

□□□□□が君たちを訪ねたことを

僕も嬉しく思いました。多分

君たちみんな健康で、元気にしていると思います。

僕も元気です。愛する君たちのことを

僕は絶えず考えていて、

君たちの側に居ることができれば、と願っています。

晩秋には僕たちに平和がもたらされることを

いつも期待しています。

 

註解:

外信用の葉書を使用。葉書の表には、「俘虜郵便」を示すフランス語とドイツ語の表記が印刷されている。ドイツ語の部分は「Kriegsgefangenenlager NinoshimaJapan)」とあることから、似島俘虜収容所専用の葉書と考えられる。□の部分は判読不可。

エルンスト・ケーニヒ(Ernst König)は海軍膠州砲兵隊第2中隊の1等砲兵だった。ポーゼン州(今日はポーランド)ポツォリッツ(Podstolitz)出身。

 

5) L.ベールマンからE.キルン宛

 静岡(524日)

 

 

 Herrn E.Kirn                        E.キルン様

  Tientsinn                            天津

Mummenstr.                               ムム街

 

  Shidzuoka d.24.5.                          

 Lieber Herr Kirn!

Heute komme ich mal wieder dazu Ihnen

zu schreiben.Wir hatten vor einigen Tagen

ein größeres Erdbeben,es ist aber für

uns gut abgelaufen.Gesundheitlich geht

es mir gut. Ihnen hoffentlich auch.

Fröhliche Pfingsten. Ihr Gustav Mätzold.

Auch ich wünsche Ihnen fröhliche Pfingsten

             L.Beermann

 

静岡、524

親愛なるキルン様! 

今日、再び貴方に宛てて筆を執っております。

数日前、比較的大きな地震がありましたが、

私たちには何事も起こりませんでした。

健康の面でも元気にしています。

多分貴方様も同様と思います。

聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。グスタフ・メツォルト

私からも聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。

L. ベールマン

 

註解:

 裏面には、「大日本静岡俘虜収容所用葉書」と印刷されている。収容所専用の俘虜郵便葉書であろう。表の検閲官の印は不明。

グスタフ・メツォルト(Gustav Mätzold)は海軍東アジア分遣隊第2中隊の2等歩兵だった。なお、寄せ書きしたベールマン(Laurentius Beermann)も同じ海軍東アジア分遣隊第3中隊の2等歩兵。

 

6)エルゼからローベルト・クレーマン宛

 Zeitz(ツァイツ;1622日 消印)、敦賀(1633日 消印)

 

 

 

 Service des prisoniers de guere       俘虜郵便

          Kriegsgefangenenendung

 Vizefeldwebel d. R.             予備副曹長

                Robert Kleemann      ローベルト・クレーマン

      

V.S.B.       Matsuyama-(Shikoku)     松山(四国)

6.Komp.         Japan           第6中隊   日本

 

Mein inniggeliebter Robert!         

 

Nun weile ich seit einigen Tagen

wieder daheim und bin auch recht

froh darüber, denn daheim ist's

doch am besten.Die ganzen Verhält-

nisse in Naumburg sagten mir

überhaupt nicht zu. Aber ich wollte

Hanna doch den Gefallen tun und

ihr ein wenig beistehen.Dass diese

Ehe sehr wenig glücklich zu nennen

ist,schrieb ich Dir ja wohl schon,

man könnte Angst bekommen

aber nein.Die Menschen sind ja

Gott sei Dank verschieden.-Wir

wollen mit gutem Beispiel voran-

gehen,nicht wahr,mein Lieb.-

Eigentlich müssten diese Menschen

glücjklich sein.Sie haben zwei so liebe,

süsse Kinderchen.

Nun muss ich schon wieder bald

verreisen und zwar nach Crimmitschau,

soll längere Zeit dort bleiben, werde

ja sehen, wie alles wird.Aber ich

bilde mich zum richtigen Reise-

Onkel aus. Nett fnde ich dies zwar

nicht. Man kommt überhaupt

nicht zur Ruhe,habe mir schon

vorgenommen nie wieder zu verrei-

sen,aber es kommt eben immer

anders wie man möchte.

Doch wie geht es Dir,mein Lieb?

Bist Du wohl auf und gesund? Ich

hoffe es von Herzen.Möge nun

auch bald die Freiheitsstunde schlagen.

Wie glücklich wollen wir alle auf-

atmen,doch bis dahin heisst es noch

immer geduldig harren und warten.

Einmal muss es aber doch werden.

Wie ist denn dort in Japan die

Witterung,mein Robert? Kälte

habt Ihr wohl gar nicht gehabt?

Bis jetzt hatten wir fast keinen

Winter, allerdings im November

war es ziemlich kalt, aber allem

Anschein nach bekommen wir

einen tüchtigen Nachwinter. Denn

augenblicklich ist es empfindlich

kalt doppelt zu spüren.Da wir bis-

her das schönste Frühjahrswetter gehabt

haben an vielen Sträuchern, sind

die Blättchen vollständig raus. Es ist

jetzt eben alles verdreht.

     Lebe wohl mein Robert,

sei herzinnig gegrüsst und geküsst

        von Deiner Else.

 

   Herzl.Grüsse von meinen Eltern.

 

最愛のローベルト!

 

数日前からまた里にいます。

それをとても嬉しく思います。

里は何と言っても最高ですから。

そもそもナウムブルクでは何もかもが

私には全く合いませんでした。

でもハンナにはやはり気に入ったことを

したかったし、少しでも側に居てあげたかった。

この結婚はあまり幸せなものと言えない、

と私はあなたに多分もう既に書いたと思います。

でも不安を抱くものではないでしょう。

人間というものは幸いな事に色々です。

私たちは良い先例として歩みましょうよね、

そうでしょう貴方。

本来この人たちは幸せです。

実に愛らしい、可愛い子供が二人もいるのです。

ところでもうまたじきに旅行に出ます。

しかも行き先はクリミチャウです。

しばらくそこに滞在して、すべてがどうなるかを

見ることになります。でも私は旅慣れた人間ではありません。

確かにいやだとも思ってはいません。

そもそも休息することも出来ません。

もう決して旅行に出ることは考えていませんが、

いつも思うようにはならないものです。

貴方の方は如何ですか。

申し分なく身体も健康ですか?心からそれを願っています。

何はともあれじきに平和な時が告げられますように。

私たちみんなが安堵の思いになればどれほど幸せでしょう。

でもそれまではじっと辛抱し続けて、待ちわびねばなりません。

ところで、ローベルト、日本の天候は如何ですか?

ひょっとして風邪等ひいてはいないでしょうか?

今までドイツは冬と言えるほどではありませんでした。

もちろん秋はかなりの寒でした。

どうやらしかし、したたかな遅い冬に見舞われそうです。

というのも、目下寒さが倍に感じられるからです。

これまで、多くの茂みでも実に素晴らしい春の気候だったので、

小さな葉がすっかり芽を出しています。

今はまさに全てがへんてこになりました。

  お元気で、私のローベルト、

心からの挨拶と口づけを送ります。

貴方のエルゼより。

 

    両親からもくれぐれも宜しくとのことです。

 

 

註解:

この俘虜郵便は、裏面に封緘票「Siegelmarke Kriegsgefangenenlager MATSUYAMA」の貼付された珍しいものである。「俘虜郵便」、「松山俘虜収容所」、「検問済」の文字が三段で一つの楕円印に収まっている。収容所所員と思われる「本宮」の四角の印が押されている。便箋3枚に記された長文の俘虜郵便は非常に珍しい。

ローベルト・クレーマン(Robert Kleemann)は第3海兵大隊第6中隊の予備役副曹長だった。ベルリン出身。

 

7) エルンスト・フィッシャーから青島のアニー・フィッシャー宛

大正8726日 宇品消印

 

 

 

 

 

 

 

  Frau Anni Fischer                 アニー・フィッシャー様Tsingtau                        青島

 

Kriegsgefangenlager Ninoshima, Japan.         似島俘虜収容所、日本

Den 19. Juli 1919                    1919719

 

  Hiermit bestaetige ich den Empfang       712日付けの小包、確かに受領

  des Paketes von 12.7.              しました。

  enthaltend:Zwieback, Schmalz          内容:菓子パン、ラード

  Mus,Paste                   ジャム、ペースト

 

  mit besten Dank u. Gruss.           感謝と挨拶をこめて

  Absender:Dein Ernst              発信人:君のエルンスト

 

横の部分:Abs.Ernst Fischer,       発信人:エルンスト・フィッシャー

                Landessekretär     土地管理部秘書官

 

註解:

予め印刷された、似島俘虜収容所専用の小包受領葉書と思われる。表には楕円の上部と下部に「俘虜郵便」と「Ninoshima」の文字が印刷されている。検閲済の印は、61ミリ×26ミリの大型印である。検閲官の印は不明。裏面は予め印刷されていることから、小包等受領専用葉書と考えられる。

エルンスト・フィッシャーErnst Fischer;1875-)は総督府の土地管理部秘書官で、青島時代はブレーメン街(Bremerstraße;日本による占領・統治時代は馬関町)に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーテン(Cöthen)出身。