ルードルフ・エーレルトの獄中書簡

 

                      高橋 輝和

 

 防衛研究所図書館所蔵の『俘虜ニ関スル書類』の中に1917(大正6)年128日付けで板東俘虜収容所長の松江豊寿が陸軍省の軍務局長に宛てた「宣教師ノ入監者訪問ヲ禁止セラレ度キ件通牒」という文書が保存されている。その内容は次の通りである。

 

    在日本各俘虜収容所訪問許可ヲ受ケ居ル瑞西国宣教師「フンチカー」(Hunziker

   及ビ独逸宣教師「シュレーデル」(Schröder)ハ、目下当所ヨリ高松監獄ニ入監中ナ

   ル俘虜「エーレルト」(Ehlert)ノ書簡(同封送付)ニ依レバ種々通信ヲ仲介スルノ

   疑有之候條、爾後同人等ノ入監者訪問ヲ禁止セラレ度ク此段及通牒候也。

    追テ「フンチカー」収容所訪問ノ際ニ於テモ其ノ態度・言語等、宣教師トシテノ

   資格ヲ有セザルモノト認メ候條申添候。

 

 この報告・要請を受けて陸軍省は司法省にその旨の禁止通達を送付したことが「次官ヨリ司法次官ヘ通牒案」から分かる。

 

    従来許可ノ外国宣教師ノ入監俘虜訪問ハ爾今禁止スルコトト相成候条、関係監獄

   ヘ然ル可ク伝達方御取計相成度ク候也。

 

 問題の押収されたエーレルトの書簡の現物(図版)も『俘虜ニ関スル書類』の中に綴じ込まれていて(注1、俘虜情報局が作成した訳文も添えられているが、それには訳者の「本文ハ独乙文ノ外、英語、蘭語、或ハ羅甸語等ノ文字ヲ用ヒ、判読・了解シ難キヲ以テ其ノ大要ヲ摘訳シ置ケリ」という付箋が付いている。そこで先ず以下に私が行なった完訳を示す。

 

                          19171019日、高松

     親愛なるピーア姉様!

    僕が213日に出した最後の手紙は送付されませんでした。その中に悪イ事

   (bad things)が入っていました。悪イ事(bad things)とは知者ニハ注釈不要

sapienti sat)です。しかし僕は425日に中立国人、スイスのフンツィカー氏

を通して、事実(matter of fact)を記した手紙が東京のスイス大使館の仲介でママ

に送られるとの約束を得ました。そうなったものと思います。僕自身は何も書けな

いのです。でも、貴方はまだ知るべきではないのですが、何故に僕がここでカンゴ

ク(kangoku)に入っているのかを簡単にでも伝えなければならないでしょう。

 僕は一人の戦友と共に逃亡しました。そしてこの犯罪―この菊の国ではそう言わ

れます―で我々はそれぞれ懲役1年半の刑に服さなければなりません。それでも僕   

はビョールンソンの『陽気な若者』の中のオクフィント(オグヴィンド)のように

考えています。「たとえ失敗が君にとって辛かろうとも、直ちに落胆するには及ばな

い。君はどうせやり遂げるだろう」。

 928日に再び訪問者がありました。東京・横浜ドイツ人教区のシュレーダー牧師がここにいました。「調子はどうですか」。肩すくめと「タトエ今ハ悪クテモ、長クコウデハナイデショウ」(Et si male nunc, non olim sic erit)というのが僕の答えでした。

 親愛なるピーア姉様、30分の間、幾つかの言葉を話せることがいかに嬉しいか、貴方には分からないでしょう。ここでは管理職も博士も上級公務員も全員、日本語しか話しません。通訳は仏教僧で、彼の話すドイツ語も英語もよくは理解できません。それで話し合いが終わる度に「大部分ハ理解シマシタ」(Most part I have under-

stood)と言われます。

 貴方の坊やにはかなり早く美しい母語や意味も教えてやって下さい。カルル5世の発言を引用してこう言えるのはとても素晴らしい事ですね。「新たに習得したどの言語ででも人は新しい心を認識する」。故国ではどの年老いた洗濯女でも、ペルロやドッグ、イヌあるいはシアン(perro, dog, inu, chien)が英語か他の何語かは知らずに、幾つかの良き愛すべき心を知ってはいます。

 訪問者があるとすれば、医者ですが、彼はドイツ語を話します。聞き知る事は全く何もありません。シュレーダー牧師もママに手紙を書くと約束してくれました。それから別れを告げることになって、心底からの善意が輝く、真にドイツ人らしい碧眼に見つめられると、全ての事を忘れてしまいます。聖書には「蛇のように賢くある」と書かれているそうです。最後の最後にさらに尋ねます。「そして故国は?」。

「心配ありません。万事順調です」。すると歓声を上げたくなります。これが多分30

分間で最も素晴らしい瞬間でしょう!

 僕が再び23房(niju san bo)に戻ると、「ヤカマシイ(yakamaschii)、黙れ」という声にもかかわらず、「ドイツ、世界に冠たるドイツ」を声に出して歌うか口笛で吹くかをしない訳にはいきません。そしてさらに一瞬間、僕の苦労仲間を見ると、快活になって、あらゆる事に負けずに意気軒高となります。

 僕の所には「逃亡はもっと大きな愚行だった」と言う声が聞こえて来ます。親愛なるピーア姉様、そうではありません。死を無視したいと望み、「逃亡に我々の生命を捧げよう」と言う声がいつも耳の中で響いている二人の若者が何も敢行してはいけないのですか。確かにものすごく多数の可能性を考えると、何かを試行することは許されません。僕もこの四つの壁の中でまだ一瞬たりともゲルマン人ノ憤激(furor

teutonicus)を疑ったことがありませんし、(僕達)二人の海兵がいなくても156人やそれ以上の敵を片付けられないことはないでしょう。多くの敵は多くの栄誉です。

 ママにどうか、僕が2通の手紙と2通の復活祭葉書、さらには1916年のクリスマス小包を受け取ったと、僕が元気でピンピンしていると書いて下さい。貴方からの写真とチョコレートは見ました。とても感謝しています。この手紙をフォースおばさんかモッテンポストおばさんに送って下さい。二人とも、僕がまだ生きていると聞けば、喜んでくれるでしょう。

 偉大な祖国にいる貴方達に間もなく再会できるまで挨拶を1,000回送ります。

                 貴方達のルードルフより  

 

 この手紙が入っていた封筒の宛名には、姉と思しきBerlin-Steglitz在住のFrau Pia Pultkeの名前が記されていて、配達不能の場合はDanzigEhlert家へ転送するよう指示されている。 差出人はR. Ehlertエーレルト, Takamatsu-shi高松市, Kangoku, Shikoku, Japanと書かれていて、表には板東収容所の検閲印「アラカワ」と行き先印「独逸」が押されていることから考えると、高松監獄から送付されて来たこの手紙は板東収容所で検閲を受けてドイツへ発送される寸前の所で内容に不信感を抱いた収容所管理部によって陸軍省に送達されたものであった。

 エーレルトは当初は丸亀に収容されていた俘虜であるが、彼と戦友の二人に関して『丸亀俘虜収容所日誌』の19161031日の所に次のような記載が見られる。

 

    午後、俘虜第2中隊卒「ボート」、同「エラート」ノ2名、同中隊兵卒3名(バル

ドウイン、シエック、チンマーマン)ニ殴打セラレタル旨、訴ヘ出シニ依リ、所員

諏訪中尉、取調ベタルニ前記2名ハ居常、言行不謹慎ニシテ、同僚間ニ排斥セラレ

居リシヲ以テ、独逸軍隊ノ習慣ニ依リ同僚制裁ヲ受ケシモノノ如シ。依テ両中隊班

長ヲシテ一般ニ将来ヲ誡飾(正しくは戒飭[カイチョク])セシメ、又補助将校及ビ

衛兵ニ相当ノ注意ヲ促シ、逃亡等ノ失態ナカラシムル様、警戒・取締ヲ為サシム。

 

 この喧嘩について111日にはフランツ・シェックに「上官ノ注意ヲ遵守セズ、私怨ヲ

以テ再度他人ヲ殴打セシ科ニ依リ重営倉7日」、ヴィルヘルム・バルドゥインとゲオルク・

チンマーマンには「私怨ヲ以テ他人ヲ殴打セシ科ニ依リ重営倉5日」、ヨーゼフ・ボートと

ルードルフ・エーレルトには「妄(ミダ)リニ他人ヲ誹謗シ争闘ヲ惹キ起サシメタル科ニ依リ重営倉3日」の処罰が言い渡された。

 ボートとエーレルトの二人は満罰・出倉後は収容所管理部の配慮により他の俘虜と別居するために10日間程度、丸亀歩兵連隊の営倉に預け入れられ、その後は収容所に戻されていた。

 そこから彼らは1123日に脱走したのだが、しかしもう翌日には近くの海岸で逮捕されている。その結果として二人は121日に善通寺第11師管軍法会議にかけられて「多衆共謀逃走及ビ器物毀棄罪ニ依リ懲役16ケ月」に処せられ、高松監獄で服役することになった次第である。彼らが服役中の19174月に丸亀収容所は新設の板東収容所に統合されたので、彼らの管理も板東収容所に引き継がれている。

 エーレルトとボートの二人が戦友達から激しく排斥された原因の「言行不謹慎」とは何事であったのか、何故に収容所管理部は二人を特別扱いしたのか、何故に彼らは脱走しなければならなかったのかは『丸亀俘虜収容所日誌』からこれ以上読み取ることができない。ところが、丸亀収容所では『機密日誌』もつけていて、これが奇跡的に防衛研究所図書館に保存されているが、この中に二人に関わる情報が記されていることが判明した。さらにはより詳細な報告が丸亀収容所長から陸軍大臣になされていることも確認できた(注2。この情報は今日から見ればもはや機密として保持されるべき程のものではなく、本人達の名誉に関わる程のものでもないので、さらには収容所管理部の措置の実態を伝えるためにも、ここに陸軍大臣宛ての報告を全文取り上げる。

 

        俘虜自殺未遂報告

      海軍歩兵卒 Josef Both ヨセフ・ボート(情報局名簿番号1832

            同     Rudolf Ehlert ルドルフ・エーレルト (同1876

    右2名ハ116日午前6時頃、収容所内ニ在ル毒素(夾竹桃ノ葉)ヲ煎ジ、之レ

ヲ服用シ自殺ヲ企テタリ。

   原因

 右2名ハ飲酒ノ上、手淫ヲ為セリト云フモ其ノ実ハ鶏姦ニ依テ欲望ヲ遂ゲントシ、

同輩ノ認ムル処トナリ、其ノ排斥ヲ受ケ、遂ニ腕力ノ制裁ヲ受クルニ至リ、甚シク

懼慮(クリョ)セルト。

 猶被姦者タル「エーレルト」ハ窃盗ノ嫌疑ヲ受ケアルト、加姦者タル「ボート」  

ハ情交ヲ続ケントスルモ意ノ如クナラザルニ依リ遽(ニハカ)ニ悲観シ自殺セント

セシモノナルカ、若クハ同輩ト同居スルヲ嫌ヒ他住ノ希望ヲ以テ一時、虚偽的自殺

ヲ企テシモノナランカト思惟セラル。

   経過

 「ボート」、「エーレルト」ノ両名ハ1031日、同輩ヨリ殴打セラレタル旨、報

告シ来リタルヲ以テ取調ベタルニ、其ノ前日、海軍歩兵卒「シエック」、「チムマー

マン」、「バルドウイン」ノ3名ヨリ殴打セラレタルモノニシテ同班取締タル准仕官

「カール・バウツ」ハ当日、一般ニ注意ヲ与ヘタルニ拘ラズ、「シエック」ハ31日午後2時頃再度、彼等ヲ殴打セリ。当時取調ベタル処ニ依レバ被害者2名ハ同輩ヲ誹謗シ、且ツ虚偽ノ言行ヲ為セリト云フノミニシテ他言セズ。故ニ種々取調ベタルモ人種等モ純プロイセン人ニシテ其ノ他ニ原因ヲ発見セズ。依テ他人ヲ殴打セシ科ニ依リ「シエック」ヲ重営倉7日、「チムマーマン」、「バルドウイン」ヲ重営倉5日、「ボート」、「エーレルト」ハ他人ヲ誹謗シテ争闘ヲ起セシ科ニ依リ重営倉3日ニ処セリ。然ルニ「ボート」、「エーレルト」ハ入倉中去ル3日、自己ノ行為ニ就キ書面ヲ以テ左ノ件ヲ上申セリ。

    飲酒ノ上、手淫ヲ為サントシ同輩ニ認メラレ遂ニ腕力ノ制裁ヲ受クルニ至レリ。且ツ満罰後ハ猶同輩ノ怒ヲ増加スルニ至ルヲ以テ爾後一般ノ同輩ト同居スルコト能ハズ、他ニ収容セラレタシ。

    故ニ更ニ調査ヲ進メタルモ手淫云々ノ事ノミニシテ同輩モ此以上多ク云フヲ耻ヅ

トテ、言明セザルモ判断スルニ両名ハ鶏姦ニ依リ欲望ヲ満サントシ、同輩ニ発見セ

ラレシモノノ如シ。然ルニ去ル6日、満罰・帰所セルヲ以テ(歩兵第12連隊営倉ニ

入倉シ置ケリ)所長自ラ一般ニ向テ自今腕力ノ制裁等ヲ用ヒザル様、注意スベキ事

ヲ命ジ、猶両人ニハ能ク注意ヲ与ヘテ破廉耻ノ処為ナキ事ヲ命ゼリ。然ルニ両名ハ

居室ニ帰ルヲ絶対ニ拒絶シ、永ク営倉、若クハ他ニ移サレンコトヲ熱願セリ。依テ

先ズ其ノ感情ヲ緩和スベク所内ノ休養室ニ収容シ厳重ニ監視ヲ命ジ置キタリ。然ル

6日、朝食時ニ自殺ノ目的ヲ以テ夾竹桃ノ葉ヲ煎ジ飲ミ、吐瀉ヲ催セルモ正午頃

ニ至リ全ク全快セリ。

   爾後ノ処置 

 目下危険ヲ予防スル為、歩兵第12連隊ノ営倉ニ室ヲ異ニシテ預ケ居レリ。而シ

テ興奮セル感情ノ冷却ト、且ツ一般トノ緩和ヲ計リ徐ロニ帰所セシメ極力不慮ノ事

ナキコトヲ期ス。

   

 この報告から明らかなように、丸亀収容所の管理部はボートとエーレルトの二人に対しては格別に十分な配慮をしていた訳であるが、それにもかかわらず彼らが行なった脱走はもはや収容所管理部の管轄外の事であるので、軍法会議の厳しい処置に二人を委ねざるを得なかった訳である。収容所管理部の遺憾の意も読み取ることができよう。 

事件の発端となった同性愛関係は、俘虜として多数の青・壮年の男達が長期間にわたり閉鎖的で狭隘な収容所の中で共同生活を強いられているような特異な状況下では珍しくはなかったものと思われる。同じく丸亀と板東に収容されていたルートヴィッヒ・ヴィーティングもその回想記(注3の中で、恐らくは板東収容所内でも、「ホモの関係(Warme Brüder)に陥ったり、そうしたことをネタに人を脅かす「黒い手」という犯罪団もあった」と述べているからである。

 エーレルトらに対する「逃亡はもっと大きな愚行(höherer Blödsinn)だった」という非難の声は彼らの同性愛関係との比較から出たものであることも分かる。  

 問題の獄中書簡を読み直してみると、エーレルトとその姉は知的な家庭に育ち、かなりの高等教育を受けていたのではないかと思われる。彼の手紙の中には英語のみならず、ラテン語の文章も出て来るからであり、またノルウェーのノーベル文学賞受賞作家Bjørn- stjerne Bjørnsonの作品からの引用もなされている。さらには彼が言語・外国語に大きな興味を抱いていたことは神聖ローマ帝国のカルル5世の発言を引き合いに出したり、犬を意味する単語をスペイン語、英語、日本語、フランス語で書き並べたり、獄中で覚えた日本語を混ぜたりしていることから判断される。

 終戦・解放後のエーレルトの消息は知られていないが、ウェブ検索によると、Rostock出身の同姓同名の人物が193041日から193161日まで北Vorpommern Kloster Wulfshagenという村の学校で教員を勤めていたとある。年代、場所、職業から考えて、これが問題のエーレルトであった可能性は大きいように思える。

 

注記

1)コピーでは喉の部分が写っていないが、現物は喉を押し広げて読むことができる。なお

エーレルトの筆記体は、ドイツ語はドイツ文字、外国語はローマ字体である。

2)『欧受大日記』(アジア歴史資料センター・データベース)丸亀俘虜収容所長より陸軍大

臣宛て「俘虜自殺未遂ノ件報告」(1916117日付け)。

3)田村一郎/ローランド・シュルツ「『ルートヴィッヒ・ヴィーティングの回想』から」

 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2200431ページ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図版1.ルードルフ・エーレルトの書簡(第1ページ)

 

 

 

 

 

図版2.ルードルフ・エーレルトの書簡(第2ページ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図版3.ルードルフ・エーレルトの書簡(第3ページ)