アードルフ・メラー著

『第1次大戦中の青島守備兵らの運命―私の父の遺品より』

「在日俘虜として、19141115日−19191225日」

 

                              高橋 輝和

 

 今回ここに取り上げるのは、当初は丸亀に収容され、後に板東に移されたWilhelm Meller

氏(18841962)の子息Adolf Meller19232003)氏が亡父の遺品に基づいてまとめたDas Schicksal der Verteidiger von Tsingtau im Ersten Weltkrieg. Aus dem Nachlaß meines Vatersの後半部分の和訳であるが、概要は既に瀬戸武彦氏によって紹介されている(注1

この本自体はStudien, Quellen und Perspektiven zum Leben der Deutschen in Ost-

asien, Band 2としてStudienwerk Deutsches Leben in Ostasien e. V. (StuDeO、僑居東亜生活資料集), Bonn から2002年に出版された。原本の送付に対してシリーズ編集者のDr. Horst Rosatzin氏とStuDeORenate Jährling夫人に感謝いたしたい。今回の和訳公表に関してはElke Meller夫人より許可を得た。Meller夫人からは原稿の送付を受けたことも感謝している。

 故Adolf Meller氏が記述の基にした亡父の遺品とは日誌、Die BarackeDie Heimfahrt

4½ Jahre hinter’m Stacheldraht, Skizzen-Sammlung、写真アルバム、各種の音楽会プログラム、演劇会広告であり、現在そのほとんどはStuDeOに寄贈されているとのことである。本論末尾の図版に採録した写真はDirk van der Laan氏がMeller氏の所で複写していたものである。

なお故Adolf Meller氏はFluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkriegという論考もHans-Joachim Schmidt氏のサイトTsing-

tau und Japan 1914 bis 1920. Historisch-biographisches Projekt (www.tsingtau.info) に載せている。

 

私の父が戦友らと共に乗った貨物船「福洋丸」[正しくは福寿丸]は1112日の晩に膠州の海岸を後にして南東に向かった。

 翌朝、左手に朝鮮本土の手前の島々が現われた。船上での給食は日本製の乾パンと缶詰肉から成っていた。1日に3回、湯をもらって来ることができた。1皿のご飯は2セントの

価値だが、1ドルも支払わなければならなかった。それどころか何度か1ドル払えば、アサヒ・ビール2本を買うことができた。

 1115日の朝、船が下関水道に舵を向けると、日本の海岸が見えてきた。14時に汽船は九州島の門司で投錨した。北の反対側には下関の町があった。2番目の汽船からはもう俘虜らが降ろされた。福寿丸からは第5中隊[正しくは第4中隊]と予備役野戦砲兵中隊が下船させられた後、航行はさらに内海を通って続いた。

 1116日に汽船は四国島にある多度津の錨地で停船した。艀(はしけ)による下船と上陸の様子はそこでぎっしり押し寄せた多数の人々に見守られた。空けておかれた場所で俘虜らは一人の日本人将校の指示で整列しなければならなかった。彼は「気をつけ!」と叫んで、石井中佐に報告した。この中佐は比較的長い演説を日本語で行なった。平服で眼鏡をかけた一人の通訳―彼は後に収容所内で自らの不実故に「眼鏡蛇」と呼ばれた―彼のひどい翻訳から俘虜らは次のような文言を推定した。「ドイツ兵の栄誉を傷つけるつもりはない」、「上下関係はドイツの兵舎における通りに存続させる」、「ドイツの軍隊におけるような平静と秩序」、「違反者は罰する」、「戦後は全員帰国する」。先に現われた日本人将校は片言のドイツ語で福嶋大尉にして俘虜収容所の指揮官であると自己紹介した。

 その場所の片隅には机が一つ置かれていて、誰でもそこで暖かい茶を一杯飲むことができた。その後、再び「整列!」と命令された。日本のカメラマンも一人その場にいたが、彼が撮影する時、全員彼に背中を向けた。

 その後、俘虜らの行列は進み始めた。行列を特に長く見せるために、2列になって行進しなければならなかった。ここでは恐らく初めて外国人を目にする現地人らがそうして珍しい「獲物」をより良く観察することができた。道は全て旗で飾られていた。人口8,000人の多度津と人口27,000人の丸亀の学童が道の両側に立っていた。

 私の父と並んで歩いたのは大隊鼓手の下士官、シュナイダーだった。彼の両肩に金色の軍楽隊員肩章がついていたので、彼は少なくとも将官だと思われた。と言うのは、人々は彼に指を指したり、「アー」という驚きの声が群集の中から聞こえたりしたからだ。しかしその他の点では全員静かに振る舞った。50名ずつに分けた間に銃剣を持った1隊の兵士とその先頭を将校が馬に乗って行進した。その縦列の最後には日本人が俘虜らの荷物を手押し車で運んだ。

 多度津[正しくは丸亀]に向かって街道をさらに進んだ。丸亀に着く約20分前に彼らはその町の郊外の[六郷村]村長の家の側を通り過ぎた。その庭垣には大きな張り紙が張られていて、そこにドイツ語で「心より大いに同情して歓迎します」と書かれていた。その直ぐ背後には大きな寺院[塩屋収容所]の施設が隣接していた。

それは、日本ではかなり有名な、豊かな仏教宗派([西]本願寺)のものだった。これが今やドイツ兵俘虜らの「ホーム」だった。次の2年半の間。寺院の個々の建物の間に比較的小さな空間があって、石灯籠や樹木が立っていた。ある空間には井戸と大枝を広げて全てを見下ろす松の古木があった。その何メートルもの長さがある大枝や小枝は2メートル以上の高さで、広範囲に及ぶ桁組みの上に広がっていたので、俘虜らは日陰を恵む大きなパーゴラの下にいるような感じで滞在できた。

巨大な木造の仏陀からは俘虜の到着前に両目が取り出されていた。

調和の取れた施設の光景は新設された、約20メートルの長さの小屋とそのブリキ屋根によって妨げられた。小屋の内部には幾つもの大釜や竈が備えつけられていた。それは後に約8名の俘虜が調理要員として白い前掛けをつけて働くことになる調理場だった。西洋料理を仕度するために、挽肉機を含めた必要な調理器具や戸棚、机が備えられていた。

寺院の建物の中に入る前には長靴を脱ぐ必要があった。床にはむしろが敷かれていた。どのむしろも長さは1.8メートル、幅は1メートルで、くっつけて敷かれていて、各人に1枚割り当てられていた。それは寝場所、居場所、食事場所、戦友同士のコミュニケーション場所にして、長靴をはいた歩哨[夜間の火の番]のためにも使われた。頭の側にはトランクやその他の荷物が積み上げられた。その上の方には紐が張られていて、いつも洗濯物が一杯つるされていた。時々掃除が告げられた。その時はむしろに至るまで全てが取り除けられて、1階建ての建物の木の欄干に掛けられた。

このように生活空間が狭いにもかかわらず、俘虜らは多種多様な方法で肉体的、精神的に活動するすべを心得ていた。

彼らは何らかの労働も強制されず、またひもじい思いを強いられることもなかった。1枚の写真では、今まさしく屠殺したばかりの1頭の豚を扱っている3人を笑顔の戦友らが取り囲んでいる様子が見られる(図版1。私の父はその下に「エルヴィーラ―最初の豚」と書き記した。それに加えてタイプライターで補足している。「最初の豚は最後の豚でもあった。聖なる境内で動物を屠殺することは許されていなかったのだ」。

3海兵大隊の第7中隊には宣教師が3名いた。その一人、ヴァンナクス上等兵は叙任された牧師だった。1枚の写真は、彼が寺院の松の大パーゴラの下の即席祭壇―白い布とその上に描かれた十字架で被った木箱だが―その後ろで日曜日の野戦ミサを挙行している様子を示している(図版2

丸亀収容所では海兵のA. テンメが死亡した。1枚の写真には彼の新しい墓が見える(図版3。それは、花輪が不足していたので、大きな棕櫚[正しくは蘇鉄]の枝と白いリボンのついた小さな花束で飾られている。頭の側には白い墓標の十字架が立てられていて、側面に日本の文字が書かれている。その墓は松の木々の下のどっしりした防御柵の直ぐ側にある。背景では柵の向こうに多数の群集が見える。恐らくつい今しがた終了したキリスト教の埋葬の見物者らであることは明白だ。どうやら墓は、約1,000名[正しくは324名]の俘虜が滞在していた寺院の施設の直ぐ外に設けられたようだ[正しくは3.5キロメートル東の陸軍墓地]。

態度が良ければ、毎日1時間、寺院の前の通りで散歩をすることが彼らには許されていた。ここで彼らは、再び大きな、丸太のようなヨーロッパ人に感心する小柄な現地人らに出会った。

このような出会いの頂点は、俘虜らが念入りに、多大な労力をかけて準備した1916年[正しくは1917年]3月の展覧会だった。彼らはそれを、幾分皮肉を込めて「万国博覧会」と呼んだ。このために工作を行ない、素人仕事を行なった。道具と材料も並べられた。その結果ついには周辺の招待された住民は俘虜外国人の手仕事の技能に感心し得た。もっとずっと大規模な展覧会を後に、ここでなされた経験に基づいて板東で組織することができた。 

「居住事情」はその寺院の施設内では大変窮屈だった。しかしながら俘虜らは自分達のために多種多様な活動や娯楽を具体化する点である種の調整を見いだしたことが分かる。音楽団が演奏会を行ない、その際、多数の聴衆はデッキチェアでくつろいだ。他の者らはスカート[トランプ競技]の輪に集まったり、何度も試みた後にいわゆる体操の模範演技を催し、その際とりわけ4段ピラミッドを見せたりした。

最寄りの寺院、金蔵寺へ連れて行かれる遠足は、俘虜らが収容所のもっと外に滞在できる数少ない機会の一つだった。四国島は、島中に散在していて、日本の他の地域からの巡礼者に参詣される85以上の寺院のあることで知られている。

私の父は戦友4名と共に、ある俘虜仲間の指導で漢字の授業を受けた(図版4

ヨーロッパにおける戦場の結果は注意深く見守られた。このために寺院の松の枝の下の横木に大きな地図が掛けられていた。彼ら自身が俘虜であるという事実を彼らは毎日毎日―一切を取り囲む有刺鉄線の他に―朝晩その都度命令される点呼によって思い知った。そのために「整列!番号!」と命じられたのだった。

 

板東収容所への移転

青島が陥落した時、4,500名[正しくは約4,700名]が日本の俘虜になった。日本人は彼らを受け入れる心構えができていなかったように思われた。それで寺院の施設が俘虜の収容に指定されるということになった。丸亀におけるのと同様に他の至る所でも日本軍に対して大きな憤慨が生じない訳にはいかなかった。俘虜収容の他の場所は松山、久留米、福岡等々だった。

四国島の東部にある―徳島県板野郡の―板東という小さな町で日本人は連丘の麓の平野に大きなバラック収容所を建設した。

このニュースが丸亀にいる俘虜らに届いたのは19173月の初めだった。ある種の暗示をしたのは先ず一人の商人だった。ドイツ人の通訳らが彼にその事を尋ねた時、彼は突然それについては何も知らないと言い張った。何日か後に日本のある歩哨が「菜園地区」で、収容所は徳島へ移されることになっているとほのめかした。他の商人らがさらにその噂を収容所にもたらした。

1917316日に収容所指揮官は、俘虜らが徳島へ移ると告知させた。そこのバラックはようやく23か月後には完成するだろうと。その何日か後にはもう、47日に出発すると言われた。それからは活発な片付けと荷造りが始まった。2年半の間に多くの物が集まっていた。収容所に関わっていた民間の日本人らのために競売が催された。応募者は商人や果物屋、洗濯屋、その他の納入業者らだった。持って行けない石油ストーブやカナリアは激しく買いたたかれた。どの俘虜もビール箱の大きさの荷物を二つ持って行くことが許された。その他の物は自費で送ることができた。

46日に荷物は手押し車で6キロメートル離れた港町の多度津に運ばれた。そこは俘虜らが1914年に下船させられた町だった。日本人はその後、荷物を用意されていた船に運び上げた。毛布も搬出されたために、俘虜らは最後の夜は新聞紙の間で眠った。

 翌朝191747日、復活祭の土曜日、彼らは寺院の門を行進して出て行った。気分は最低だった。門が自由の方向に開いたのではなくて、次の俘虜収容所への道を開いたに過ぎなかった。

 港では小さな突発事件があった。警備員の一部がイタリア系オーストリア人俘虜らの監視強化に振り向けられた。彼らは大阪収容所[正しくは青野原収容所]で常に[ドイツ人俘虜と]殴り合いをしていたために丸亀[の浜町収容所]に移されて、他の俘虜とは離されていた。今や彼らは板東へ移されるのを拒んだ。彼らは力ずくで荷車に縛りつけられて、船に積み込まれた。何週間か後にイタリアは中欧諸国同盟から脱退した。その反抗的な者らはオーストリアに対する戦いに志願し、イタリア大使の仲介によりイタリアへ移送された。

 13時に俘虜らを乗せた船は出港した。真夜中頃に小松島の埠頭に停泊した。そこは貨物列車のいる線路の直ぐ側だった。早朝までに日本人は俘虜らの荷物を全て降ろして、貨物列車に納め、それを徳島へ輸送した。

 員数を数えた後に、俘虜らは復活祭の朝、極めて素晴らしい春の天気の下で12キロメートル離れた所にある人口70,000人の徳島市に向かって行進した。鉄道駅の直ぐ側の学校の校庭で休息を取った。荷物は再び日本人によって貨物列車から一連の牛車に積み換えられた。その後、板東に向けて18キロメートルの最後の行程へと進んだ。

 午後遅く連丘の端にあるバラック収容所が遠方に見えた。この最初の光景は少しばかり懐疑を彼らに引き起こした。施設が厳しくて、単調に見えたからだ。太い所内道路の左右に長く延びたバラックが並んでいて、頑丈な囲いに取り巻かれていた。

 しかしながら疑念は収容所の門を通って入ると全く本当の意味で吹き払われてしまった。

既に前日、徳島に[正しくは徳島から]到着していた海軍砲兵隊の行進楽団が戦友らを軽快な行進曲で歓迎した。次の日には松山収容所の戦友らも到着した。

 

 板東収容所内の生活

 驚くほど短期間に約1,000名の俘虜は新しい収容所内で設備を整えた。彼らは事実既に

2年半の経験を携えて来ていたのだ。青島の包囲を共に体験した戦友のクッデルも今や板東にやって来た。彼はおとなしい赤毛猿で、今では写真アルバムの中に自らの姿をとどめている。

 早くも19179月には収容所内印刷所が開業した。その印刷所は毎週『ディ・バラッケ』という名前の、ほぼA4版で平均23ページの収容所新聞を発行した。最終刊は1919年の7月、8月、9月の月刊誌3部から成っていた。1ページ1ページ鉄筆で蝋原版に手書きされた。最大部数は19189月、10月に320部を越えた。それらは収容所内で売られた。何部かの献本を伍長らが関心を持つ者への回覧用に受け取った。私の父は収容所内で1冊に製本された週刊誌32部と月刊誌3部、並びに収容所生活に関するテキストと愉快な線描画の入ったスケッチ集を私に残してくれた。このスケッチ集も有刺鉄線の向こうで印刷されて、製本されたものだ。

 ざっと目をやると、しばしばあの戦時中にあった通りの俘虜収容所の印象を受ける。鉄条網、武装した衛兵、トランペットの合図を伴う起床と消灯。毎日、朝晩行なわれる点呼。そして無限に続くように思われた時間。

 しかしながら板東のこの俘虜らが時間を自分達のために利用し尽くすすべを心得ていた様子は特別な注目に値する。板東は実際のところ模範的な収容所だった。極めて短期間の内に俘虜らは自ら活動的な(生き抜き)生活共同体を組織して、小さな町に似た諸施設を作り出した。最初の仕事の一つとして松山収容所からばらして運んで来たボウリング場が再び組み立てられて、1917525日に完成した。

後に挙げる収容所内外の全ての活動の前提としては財政的な状況があるように私には思える。俘虜になった時に[青島]守備兵らは身につけていた物を全て保持することが許された。それには金銭も含まれた。例えば私の父は、第2歩兵堡塁の第7中隊へ行った時、200銀ドルを雑嚢に入れて持っていた。

 収容所では階級に応じて日本の兵士の給与が各員に支払われた。貴重な財政支援を収容所は東京のドイツ救援委員会から受けた。この委員会は故国と日本や中国の同胞から義援金を集めて、日本国内の種々の収容所に配分したのだ。これに加えて言及しておく必要があるのは、日本も中国もドイツ人の家族を抑留しなかったので、彼らは平和時と同様に生活し得たことだ。定期的な義援金が、ジーメンスのような、在中国のドイツ企業から届いた。このような義援金がなければ食料状況は悪く見えただろう。と言うのも日本政府は、

食料品が100パーセントも高騰したにもかかわらず、一人当たり0.25円の1日分食料支給額を変えなかったからだ。

 支援金のお陰で調理場や酒保は、1918年当時のドイツではほとんど考えられなかったような食べ物や飲み物を提供できた。

 私の父の日記帳の最終ページに彼が「19179月の支出」をリストアップしているのを見つけた。27.56円の総計には「衣服の新調なし」という覚え書きがついていた。12.48円という最大額を肉やソーセージ、卵、果物、野菜、バター、ミルク、マーマレード、菓子のような食品が占めていた。このような追加的な食べ物が通常の収容所内給食を補っていたのだ。次に大きな金額として私の父はビール代4.04円を書き留めており、洗濯屋には

2.20円支払っている。その他の比較的少額の15項目としてトイレットペーパー、石鹸缶、便箋、吸い取り紙、写真、さらに蚤取り粉のような日用品も見受けられる。

 収容所では収容所内金庫が一般的な目的のために設けられた。私の父の9月の明細書によれば彼は0.50円を預け入れていた。個々の俘虜らが所有していた金銭は調査できなかったが、極めて様々に配分されていたことは確かだ。収容所自体も何人かの入所者らも郵便振替口座を持っていて、払い込みや振替送金がなされた。この例外は、青島に配置されていた現役兵の多数だった。これらの、大抵は若い人々はドイツの家族としかつてがなく、物質的な援助は期待できなかった。そこで彼らは収容所内で稼ぐ機会を求めた。その機会を彼らは、我々が今日なら言うであろうように、サービス業界で見出した。何銭かのために彼らは長靴を磨き、有料で他人の庭掃除当番の代わりを引き受け、調理場ではジャガイモの皮むきで少額を得た。

既に手工業職を習得していた他の者らは靴屋や家具屋、仕立屋の仕事場を設けた。農業畑の男らは鶏や鵞鳥、家鴨、家兎、豚を飼育した。また他の者らは野菜を栽培して「何とか切り抜けた」。肉屋や食堂、小料理屋(焼肉屋)で肉職人や調理人は仕事を見つけた。活発な商売が行なわれた。かつての衛生兵は「薬屋」を開いて、そこで口すすぎ水やヘアトニックの他に色々な薬草の入りのリキュールも売った。飲み屋もあって、わざわざこのためにアメリカの手本にならって飾りつけたバーでウイスキーを提供した。

アルコール、特にビールの消費量は最後の1919年には、収容所新聞の7月号から読み取れる通り、特に著しく増加したようだ。酩酊はしばしば喧嘩を引き起こした。何人かの者はそのために「フィーリップ親爺」(禁錮房)のお世話になった。

仲違いは金銭故にも生じた。それで、やはり1919年に「収容所内負債裁判所」が作られて、ドイツ人副曹長1名と日本人大尉1名によって管理された。ここで問題になったのは、とりわけ支払日における「債権者」と「債務者」の間の金銭債務だった。

全員にとって比較的嬉しい収容所生活の一面はパン・菓子屋が与えてくれた。ここでは平和時に手に入った全ての物を買うことができた。ここでは8軒のパン屋と2軒の菓子屋が仕事をしていた。ケーキ1個は5銭で売られた。約2年の内に36.25トンの小麦粉と131,000個の卵が加工された。日本や中国にいる同胞による支援のお礼として菓子屋は、特にクリスマスに、彼らに合計して約500キログラムのペパーケーキと200キログラムのマルチパン、120キログラムのパウンドケーキを発送した。

このような嬉しい追加の食べ物に加えて音楽も「収容所躁狂病」が生じないように配慮した。第3海兵大隊と膠州砲兵隊の楽団が楽器と共に収容所にいて、交互に演奏会を開いた。1918519日にはエンゲル管弦楽団が聖霊降臨祭に第9回演奏会を催した。弦楽器の一部は贈り物で、一部は買ったり、自作したりもした。プログラムにはとりわけ指揮者作曲の「青島行進曲」、並びにリンケの曲や前奏曲「詩人と農夫」が挙がっていた。この管弦楽団は室内楽の夕べやシンフォニーコンサートのような「より程度の高い」演奏会も開催した。1917年のクリスマスには徳島管弦楽団がクリスマスコンサートを行なった。クリスマス祭は一般目的用のバラック1で座席の都合から、かつての松山収容者と丸亀収容者、徳島収容者のために3回に分けて挙行された。

収容所外での滞在禁令は年が経つ内に日本の軍当局により次第に少しずつ緩められた。

先に報告したように、丸亀では既に監視下で短時間の散歩が行なわれた。当時の展覧会も、準備と展覧会自体に関わった多くの人々が収容所の外に出るという結果を伴った。板東では191810月の大掛かりな日帰り遠足が忘れ難い体験となった。それは軍隊に監視されず、一握りの警官にのみ付き添われて実施することができた。その時、収容所の半分―将校18名と兵卒509名―が出かけて行った。先頭の吹奏楽団二つと鼓笛手らと共に。調理担当の下士官2名は既に早朝に湯沸かし二つと紅茶やコーヒーを持って先に行き、縦隊が峠の頂で大休止する際に飲み物を供給した。3ページに渡って報告者は歩き回った地域の美しさを絵のような内海への展望と共に記述している。

 1919年の1月と2月には半日の遠足を10回行なうことができた。その都度、別の方向に遠足した。参加者は112名から255名の間だった。1度だけはたったの70名だった。しかし、これは全員にとって重要な事だったが、衛兵の同伴はなかった。2番目に大きな日帰り遠足は218日に行なわれた。これには225名の戦友が参加した。

 1919323日に板東公園の開園式が挙行された時、膠州砲兵隊の吹奏楽団が遊歩演奏会を催すことが許されて、「戦友らの間で」とか「誠実にしてドイツ人らしく」等の行進曲を演じた。これらの行進曲のタイトルは多分、日本人には知られていなかっただろう。

 191810月の最初の大掛かりな日帰り遠足と1919年初めの何回かの遠足の間に突然、11月初旬にインフルエンザが発生し、収容者の約70パーセントが罹患して、3名の戦友が亡くなった。

 一切の活動が途絶えた。日本の収容所管理部は思いやりを持ち、毎日の朝の点呼を断念した。健康保険は過大な請求を受けたが、しかし収容所内での2回の募金と東京のドイツ救援基金からの補助金でもって必要な医療品を調達して、追加的な病人食の費用を負担し得た。

 最悪は、故国から戦争に負けたという知らせが届いたことだった。まだ1918127日には『ディ・バラッケ』の編集部は皇帝誕生日の記念特別号を―期待と確信に満ちて―発行した。

 4年間、俘虜らは、『ディ・バラッケ』の多数の号の中から読み取れる通り、大いに関心を持って故国の戦況を追跡した。毎日、ヴェルダン近郊の壊滅的な塹壕戦に至るまで、前線の動きを示す大きな地図が掛けられていた。1914年以来、一人の敵兵もドイツの領土に足を踏み入れることはできていなかった。

 今や皇帝が退位して、オランダに留まっているという報道が届いた。屈辱的な条件で停戦の条約が締結されたのだ。収容所内では深い落胆が広まった。

 編集部は勇気づける出版物を連続させて、意気阻喪に対抗し、俘虜らが全員再び帰郷する際に求められる全ての力の結集を指示した。事実間もなく解放が目前に迫っているという噂が立った。しかしそれが事実となるまでにはさらに1年以上、時間がかかることとなった。収容所内の雰囲気は長年の間いつも動揺に曝されていた。編集部はこの事をさほど明白には示し得なかった。私の考えによればこれには二つの理由があった。一つ目は、楽観主義が成り行きとして支配的だったこと。書かれる事が全て、言うまでもなく現在に関わっていて、後世には向けられていなかった。二つ目は、日本の収容所管理部による検閲があったことだ。

 それでインフルエンザと落胆の後に再び人々は気を取り直して立ち上がり、多くの人が定期的に何年もの間、有刺鉄線の向こうでやっていたスポーツ活動を再開した。

 板東収容所には幾つかの運動場があって、種々のグループが定期的に利用していた。670名が正会員として一つのテニスクラブに属していた。私の観念ではテニスは比較的モダンなスポーツなので、私はいつからテニスがあるのか参考書で調べてみた。イギリスではその原形が既に1400年頃に知られていた。しかしイギリスのW. ウィングフィールド少佐が初めて1873年頃に、今日と同様のコートの大きさとルールを確定したが、板東でも1917年にはこれに従っていて、競技会さえ何度も催された。収容所内で行なわれた打球技と板東でホッケーと呼ばれた棒球技は、当時ほとんど普及していなかった別の二つのスポーツだった。スポーツへの関心はさらにサッカーや拳バレーボール―年配の連中には器械体操と徒手体操に分かれた。閉じられた場所の中ではボウリングは非常に人気があった。一切の付属品が揃ったビリヤード台も大いに利用された。

 私の父はこれらのスポーツに参加しなかった。彼はむしろ自由な自然の中に入って行って、そこで体を動かしたいと思った。それで彼は伐採工になった。それも次のようにして。

1917年の内に日本で生じた食料品の高騰は収容所内でも感じられるようになった。収容所の最高責任者、松江大佐はそれ故に、俘虜らが調理場とパン製造所のために必要な薪を森で切ることによって俘虜自らが自分達の状況の改善に寄与し得ることを提案した。この日本人将校は俘虜らの利害を大いに心配していたので、『ディ・バラッケ』の中で何度も称賛の言葉をもって言及されている。高位の正装を身につけた彼を示す1枚の記念写真も私の父のアルバムの中にある。松江大佐はその後、収容所から約3キロメートル離れた、起伏のある森の中で樹木を伐採する許可を得ることに配慮した。191824日に初めて一群の志願者らが営林監督官で国民軍曹長のクリマントの指揮下で、手斧と鋸で武装して、その山林に向かった。私の父も同行した。

 伐採された樹幹は50センチメートルの長さに鋸でひかれた後に割られた。薪片は約1キロメートル下の谷の運び出し口に運ぶ必要があった。これは恐らくこの作業の最も困難な部分で、『ディ・バラッケ』から引用すると、「多くの汗水と、収容所に帰還後はしばしば多くの金銭も費やした」。これでもって勿論ビール消費量の増加が意図されていた。1年間ずっと毎日毎日、伐採工らは出かけて行って、私の父の言うように、「神の自由な自然の中で」働いた。

 彼のいたバラックの窓の直ぐ前に彼は1平方メートルの菜園を設けていて、4本の細い竹の棒に葉の茂る植物を這い上がらせた。こうして彼はそこでも緑を眺めていて、向かい合っていたバラックの味気ない光景を部分的に見ないで済ませていた。私の父は日本人軍医との面談後、バラックの窓からの見晴らしを美しくするという考えに至っていた。

 診察は定期的に収容所内で行なわれた。その際には体重も記録された。ある男の体重が226.5ポンド[113.25キログラム]だったことを読むと、恐らく誰も栄養失調で苦しんではいなかったと思われる。既にずっと「ライト級」だった私の父はしかし目に問題があった。彼は私に一度、日本人医師が眼科検査の結果を、困惑の微笑を浮かべて、言葉にした時の様子をやって見せた。「あなたは―アー、フスー、あなたは―眼が見えなくなりますよ!」。日本人らはしばしば特定の心理状況では呼吸気を音が聞こえるように吸い込む。この打ちのめす診断の後に私の父は中国語の勉強をやめて、彼の言う通りに、目をいたわるために、目を自然の緑に向けるように努めた。彼はその後、収容所内図書室にも2度と行かなかった。その図書室は1918520日には開設1周年を祝うことができ、その時には立派な5,420冊の蔵書を公表し得た。しかし彼は間違いなく多くの講演の際には聴衆の一人であり、演劇の際にはチケットを買った観衆の一人であったはずだ。

 舞台衣装には金がかかっていて、平和時の他のどの舞台とも肩を並べ得ただろう。遺品の中に私は若干数の色刷りされた演劇広告を見つけた。イプセンの「社会の柱石」という舞台作品は『ディ・バラッケ』の中で10ページ以上に渡って詳しく論じられた。このような演劇批評には少数の入所者しか興味を持たなかったと思う。

 19179月に収容所の近くで、小さな河道を越えて板東村[正しくは板東町]へ通じることになる木製の小橋を自発的に架ける機会があった時に33名の工兵が志願した。間もなく他の部隊の男らも彼らに加わった。

 収容所の遥か下の方に本来の渡り橋があったが、これは川が増水する度に押し流された。村民らは、ドイツ人らが新しい木橋を架けるまでほとんど待っておれなかった。本来はむしろ歩道で、以前はいつもぬかるんでいた、橋の両側の道は拡げられて、固められた。木橋の完成した状態は長さが15メートルで、幅は1.4メートルだった。その工兵らからは次第に自発的な仕事をやめる者が増えだした。収容所内では他の仕事で少しは稼ぐことができたからだ。彼らは青島の現役守備隊に属していた。他の者らは収容所外での仕事に職を得た。

 大麻比古神社の近くの森で大小多くの道を修復したり、新設したりする機会が生じた。この仕事は数か月以上も長引いた。仕事の期間は誰からも定められなかったからだ。多くの者はその機会を利用して、小さな保養の散歩道を作ったり、現地人らが神社に参詣するのを観察したりすることもできた。何はともあれ、仕事の成果は人に見られても恥ずかしくはなかった。最初の木橋以外に1,130メートルの道が設けられ、幅1.75メートルの石畳と傾斜路、長さ8メートルと3メートルの石段が作られた。それに加えてさらに小さな木橋5本、石の小さなアーチ橋3本と最後に比較的大きな石橋が1本架けられたが、これはここで特別に言及しておきたい。

 大麻の森の北西部には、ある特定の神を祭る聖地に上がる110の石段が通っている。神社の施設からそこへの道は険しい崖っ縁のある、深さ3メートルの谷を越えて行く。橋渡しは昔から柴と土で被われた2本の丸太でできていた。従ってそれは古代からの原始的な渡り橋以上のものではなくて、下に落ちている丸太の残骸や枝が示していた通り、繰り返し崩れ落ちたに違いなかった。この事が再び起きて、その道は不通になっていた。

 19194月初め架橋工らはその谷のぬかるんだ底で古い木材の残骸を除去した。それはその事業全体の中で最も不快な作業だった。その後、彼らは1メートルの高さの土台を石で築き、次に両側に土の端を保護するために迫台(せりだい)と側壁を築いた。橋には半円アーチがつけられた。モルタルが使えなかったので、石は組み込む前に切り整える必要があった。作業の進行は常に現地民らによって大きな関心をもって見守られた。ついに627日に最後の要石が宮司らの立ち合いで石のアーチの中に据えられ、その際、年老いた宮司長は、新しい橋が10,000×50年間存続するようにとの願いを込めて、その石をハンマーで3回たたいた。

 最終的に完成すると、つまり橋に2メートル幅の路面をつけると、それまで熱中していた架橋工らは幾分長めの時間をかけて、夏の太陽に守られた森の中で何時間もの休憩を取った。彼らは、伐採工らと同様に有刺鉄線の外での相対的な自由を楽しんだ。言うまでもなく、それは自発的で、無料の作業であり、それでもって俘虜らは記念碑を建てたのだ。多分この橋は今日でも架かっているだろう。

 収容所の外で仕事をする機会を他のグループも利用した。彼らは徳島にある小さなカトリック教会のスペイン人司祭の陳情に基づいて教会の内部を修復することが許された。その神父はきっと、援助者らがその仕事にたっぷり時間を費やすことに理解を示していたに違いない。

 

 展覧会

 ここで記述した、収容所外の相対的な自由の中における俘虜らの事業の基盤だったと考えられる出来事は、ほとんど全ての俘虜が協力して19183月に開催した、あの大きな展覧会だった。日本の収容所司令官、松江大佐の太っ腹と支援のお陰で展覧会は収容所の近隣のみならず、それを越えて日本の他の地方にも知られた。準備は既に3か月前から始まった。展覧会場として複数の大きな控え室と前庭のある町の集会所が提供された。松江大佐は、収容内で色々な工作を行なえる小屋を建てることにも配慮した。収容所報告では言葉通りに次のように言われている。「・・・管理部により一切の有益な困難軽減が認められた。原材料の買い付け資金が立て替え金として与えられた」。板東軍人会と消防団は展示品の警備を保証した。準備期間中につてを持つ俘虜らは、例えば玩具には確実な注文が前もってあるように取り計らった。在日ドイツ人団体は発注できるようカタログを望んだ。

 191838日の開会に際して私の父は次のように書いている。「板東俘虜収容所では本日やっと手工芸展覧会が板野郡の公会堂で開かれた。既に前もって板東町は阿波鉄道会社と観覧客のために20パーセントの運賃割引を取り決めていた。公会堂の集会室は内部が、壁も柱も白く塗られている。壁や柱には油絵が描かれているか、緑の葉で飾られた柱が立てられていて、普通の簡素な公会堂は完全に改造されている。・・・全ての展示品の中に経済性が無視されている物は何一つ存在しない。無価値な物を利用する技能は驚異的だ。それで例えば、煙草の「ゴールデンバット」が包まれていたアルミ箔から文鎮が作られている。ビール瓶の蓋の利用法は極めて興味深い。展示品は全て売り物だ」。

 最初の数日は日本の役所の幹部らが展覧会に訪れた。例えば徳島市駐屯軍司令官・山口少将、第62歩兵連隊の多数の将校、徳島県知事、農業省代表、県議会議長、多くの役人、市会議員、製造業者,商人。

 展示品は次のような分野を含んでいた。

 「画像芸術」―水彩画、油彩画、チョーク画、墨絵、木炭画220点、並びに工業図面、戯画、引き伸ばし写真。

 全ての分野は種々の審査委員会によって審査されて、個々に表彰された。

 「手工芸」―ここでは、例えば5本マットの帆船やボトルシップ、巡洋艦エムデン、個々の部分が全て設計図通りに100分の7に縮尺された「プロイセン号」のような多くの船舶模型が人目を引いた。全グループの中のこの最大グループには種々の金属工芸品や焼き画、

削ぎ彫り、糸鋸細工、象嵌細工を施した木工品、玩具、織り物や編み物、楽器、日用品、器具や採集品があった。

 金属工芸品の一つは真鍮製のシャンデリアで、天井につるされていて、日本の観覧客らは見たことのない、驚異的な作品だと賛嘆した。玩具の中には寄せ木細工の床と電灯がついていて、住み心地の良い家具を備えた人形の家があった。楽器の数に私の父が番号つけると14あった。「チェロやチター、マンドリンは極めて芸術的に良くできていた」と彼は書いている。

 織り物と編み物では編んだテーブル掛けやカバー、それどころか種々の編み靴下が人目を引いた。

 「写真用具」のグループでは写真の引き伸ばし機が1等賞を得た。その性能は展示された拡大写真で示された。

 日本の観覧客らは「採集品」の部門に押し寄せて、その特性的な姿勢で剥製にされた種々の鳥や、蝶々、植物、種子の採集品に見飽きることがなかった。

 パン屋と菓子屋は特別な事を思いついて、それが全ての俘虜仲間に感嘆の念を引き起こした。そこにはペパーケーキの家が建っていて、屋根には砂糖をねじって作った藁の巣がついており、家は砂糖でできた垣根に囲まれていた。しばしば縁飾りをつけたバウムクーヘンやウェディングケーキ、種々のケーキを見て「うまそうだ」という言葉が聞こえた。

 最後に肉屋らの屋台では豪勢に飾られた子豚や豚の頭、肉入りパイ、ゼリー入り肉、特大ソーセージを眺めた時に、俘虜仲間らは口からよだれが出たに違いない。

 展示品のリストは、完全ではないにしても、以下のような物で続けることができる。自動式噴水のある水槽、自動記録装置のついた雨量計、計算尺、種々の製造段階の長靴1足、付属品のある蜜蜂の巣、さらに本、地図、カレンダー、カラー印刷物、ポスター、それに童話本といった収容所内印刷所で作られた全製品の完全な見本集。化学実験室も若干の化粧品と薬品の標本と共に見ることができた。

 38日から19日までの展覧期間は交互にドイツ人と日本人の観覧日に分けられていた。

全部で50,000名以上の観覧者が数えられた。ドイツ人の観覧日には東京のシュレーダー牧師や徳島在住のドイツ人女性ら、神戸にいる若干名の同国人のような民間人もやって来た。

 毎日戸外では大小の規模で吹奏楽団や管弦楽団により娯楽音楽が演奏された。ここには複数のテントが張られていて、その下の机や長椅子で買ったコーヒーや茶、ケーキを楽しむことができた。日本人の日にはかなり賑やかだったに違いない。『ディ・バラッケ』からの引用によると。「果てしなく行列を作って、あらゆる階層の老若男女が入口を取り囲んだ。

ドイツ兵俘虜らの驚くべき作品と、勿論ドイツ兵俘虜自身をも間近で見るために皆が殺到した。言うまでもなく、行列の中でうまく手に入れた位置を失うまいと多くの人々が恐る恐る前の人のキモノに身を寄せていた。その後やっと会場の内部に達して、我々の、疲れを知らない通訳らの明快な解説に耳を澄ますと、ただひたすら驚嘆していた。しかし最も好意的な反応を示してくれた観覧客は、教師の引率で展覧会に訪れた多数の子供らであっただろう」。

 通訳の多いことに私は驚かされた。それは17名、つまり曹長補1名、副曹長1名、見習士官1名、下士官1名と海軍歩兵らだった。

 会場の外の、絵のように美しい高い樹木の陰に小さな「遊園地」が設けられていた。割れ鐘のような声をした呼び込み係らが、ボールか輪、円盤を標的に投げつけることのできる投擲遊戯の小屋に見物人らを誘った。その中には中央に「力試し器」があったが、多分ドイツ人しか試みなかっただろう。

 私は、空気銃のある、本当の射撃小屋が言及されているのには大変驚嘆させられた。俘虜らに射撃が許されていたことを、私はあり得るとは思いもしなかっただろう。私の父は自分が利用した標的を本の中に貼り込んでいるが、リング112回、リング1091回ずつ、リング81回、合計5回の弾痕があって、1918318日の日付を書き添えている。先に述べた彼の眼病は後になってその年の内に現われたが、しかしその後、完全に良くなっていった。

 独自の展覧会郵便局で俘虜らは収容所内印刷所が作成した絵葉書を買って、特にこの機会のために作られた特別印を押してもらうことができた。

 舟艇建造工らは野外で比較的大きな帆船とカヌーを組み立てていた。両方とも完全に実用性があって、翌年には使えるようになった。

 展覧会の成功の話が広まった。思いがけず52日に、板東近くの港の撫養で特別展を設けるようにとの要請が来た。これは、四国一週旅行で徳島に滞在中の東久邇宮親王[明治天皇の女婿]によって提案された。ドイツ兵俘虜らの展覧会について彼に報告された後に、彼は展示品をできるだけ多く見たいという要望を表明した。

 荷物を一杯積み込んだキャラバン隊が収容所から撫養に着いた時、その町は既に旗を飾って高貴な訪問客を迎える準備ができていた。ある金持ちの日本人商人が海を見下ろす岡の上にある自らの大邸宅をその親王の使用に供していた。急いでここで展示品が組み立てられた。親王の到着の際には通りに学童や大人らが人垣を作って、親王殿下を大きな「万歳」の叫び声で歓迎した。

 親王は1時間半の時間をかけてドイツ兵らが作った物品をじっくり眺めて、全てを詳しく説明させた。それで同じ時に決められていた行政官らの謁見は中止して、彼らを帰さざるを得なかった。幾つかの物が彼は気に入って、購入を指示した。

 

 東シベリアにおける戦友らのための義援金

 1918114日に収容所は、種々の俘虜収容所を回っているスウェーデン人牧師、ネアンデルの訪問を受けた。彼が行なったシベリアの全収容所における状況の描写は板東の俘虜らに考えるきっかけを与えたに違いない。しかしながら1年後に初めて1通の手紙が特別な行動を引き起こした。この手紙はあるシベリアの収容所にいるドイツ人将校のヴェンモス少尉によって書かれたものだった。彼の描写は直接、当事者から由来するだけに、深い印象を板東人らに与えた。

 1917年にドイツ兵俘虜の大部分はロシアのヨーロッパ地域より、その当時生じた革命の混乱の中から故国へ逃れることができたが、東シベリアの俘虜らは混沌とした状況に委ねられていた。その手紙からは、ウラジオストックにいる948名の俘虜の内、将校30名と兵卒414名は19181120日に日本の特別部隊によって引き取られたことが判明した。

 その手紙が板東で種々の行動を引き起こした結果、最終的には1,771円と28ルーブルの義援金を日本の陸軍省を通して[現地の]日本の収容所司令官に、ヴェンモス少尉に手渡してほしいという依頼を添えて送付することができた。その金額は主に収容所内での募金活動と膠州海軍砲兵隊管弦楽団の演奏会、並びに収容所内印刷所が組織した籤引きによって得られたものだった。後日、石版印刷所で作られた絵葉書の販売によってさらに66円の義援金が追加された。

 

 1919年―解放の年

 故国から終戦のニュースが届いた191811月はインフルエンザの流行で収容所は手一杯だった。先ず脳裏に浮かんだ解放に関する問いは一先ず押し返された。屈辱的な停戦との対決で頭が一杯になっていた今、俘虜生活をも終わらせるということを考える余裕が与えられなかったものと思われる。

 19191月に解放が差し迫っているという最初の噂が幾つも生じたが、しかし再び消えていった。2月には俘虜生活の初めから錠をかけて仕舞ってあった私服が配給された。この措置と中国在住のドイツ人らから日増しに届く衣類や下着の小包は目前の解放を確信させた。通信の自由も拡大され、日本側の郵便検閲もなくなった。

 収容所生活は、有刺鉄線外での運動の自由が以前より大きくなってはいたが、慣れた通りにさらに続いた。事前の喜びは見て取れなかった。逆に、長期間の窮屈な共同生活が引き起こしていたように、互いの間での苛立ちと神経過敏の状態が持続していた。紙や厚紙でできた薄い壁でもって何人かはバラックの中の寝場所で最小限の私生活を手に入れようと試みていた。しかしそのような壁では喧嘩やヴァイオリン演奏、歌、賑やかなトランプゲームによって生じる多くの騒音を一緒に聞かざるを得ない状況をどうにも変え難かった。

 しかしながらその際、収容所内で死亡して、言うまでもなくもはや目前の自由を生きて目にすることのできない者達を回想する人々が何人かいた。ドイツと日本の収容所管理部の同意を得て、徳島市駐屯軍司令官に、板東で亡くなった俘虜らの記念碑を建てる許可が申請された。肯定的な裁決に従ってバラック1には、必要な資材―石、砂利、砂、銘板の費用を集めるために呼び掛けが掲示された。収容所の最果て、上の池東岸の静かな位置に、死亡者らの骨壷を納めることができる記念碑の場所が定められた。

 19196月に最初の者らが収容所から永久に立ち去ることが許されたが、勿論もはやドイツ人としてではなかった。それは今やフランス人となった28名のエルザス出身者で、少し後には西プロイセン出身の他の7名が今度はポーランド人になっていた。仲介の任務を引き受けていたのは在東京スイス大使館で、後にも全員の解放を組織した。

 これらの出来事は勿論「我々はさて最終的にはいつ立ち去るのか」という質問を引き起こした。再び噂が収容所内に、日本の商人らによって持ち込まれて、生じた。その際、大阪の集結キャンプへの移送が話題になった。しかしいつ?

 この一つの、しつこい質問にもかかわらず、既に何年も前からの通り、演奏会や散歩、講演会によって気分転換がなされた。全く静かに再び13名の人々が絵画に携わっていた。

それぞれが数点の絵を描いた。それで720日と21日に絨毯や花綱、花々で美しく飾り立てられた部屋で絵画展を開くことができた。『ディ・バラッケ』の7月号では次のように読める。「このようにほとんど創作の喜びがなくて、気をそらせる噂に満ちた俘虜生活の時の中で我々の画家らは確固として静かに自らの芸術に勤しんでいた」。

 

 海辺の自由時間

 1919年の夏は週に2度、海辺で1日を過ごすことができた。そこまで2時間半の遠い道は物ともされなかった。誰もが自然の美しさに感銘していたからだ。この事は第25回の日帰り遠足の際に作られた28節の詩の中で表現された。私はそこから四半行詩6節を抜粋してみる。

 

    さらば汝、かび臭い部屋よ―さらば汝、有刺鉄線よ。

     さらば汝、生活の苦悩よ―今日私は驚嘆すべきものを見てみよう!

    今日私はこれ以上、年を取らない―私の血は若々しく歌い、鳴り響く。

     私は谷と森を通って歩き回り―今日私は再び勇気を出す!

山々に私は登るつもりだ―静かな谷を通って。

そこには高い樫の木々の間に―夢見るような寺院が立っている。

そこでは祖先の墓が輝いている―暗いトネリコの森苑で。

そしてそこでは水田に―稲が緑の行列を作って立っている。

そして山々の頂から―私は見よう、近くで神々しく

太陽の黄金の光の中で輝くのを―広い、広い海が!

汝の浜辺に寝そべり―太陽の灼熱に焼かれて 

汝の水面で揺れながら―波の戯れに愛撫されて。

 

 その海は「内海」という地理学的な名称を持っていて、主島の本州と島の九州や四国との間の入り江だ。

 小漁村の櫛木の地元民にとっては、午前中に長い列をなして、山道を下って来るドイツ人らを見かけるのは慣れた光景となった。一団の到来が村中に言い広められるや否や、そこから一種の反対運動として人々が出て来た。今や村民らは飲み水を入れた桶や果物、魚、卵、ビールの入った籠、むしろ、わらじを担いで浜辺に向かった。俘虜らが買い手だった。わらじは小石で被われた海岸では好んで利用された。

 到着すると直ぐに、ここかしこで小さな火が起こされ、持参したフライパンで魚や卵等がジュージュー焼かれた。薪は近くの松林が提供した。擦り切れたり、壊れたりしたゲタ―足底に2枚の横木のある日本の木製の履物―は燃やすのに特に適していることが分かった。

 時には漁師の妻らがドイツ人らの「焼き技」を興味深くじっと眺めた。村の青少年らはそうこうしている内にもうそれほど異質ではなくなった大きな人々に対する怖じ気を急速に抱かなくなった。間もなく彼らは[村に]到着したばかりの人々にドイツ語で「今日は」と挨拶するようになった。

漁業は村人らの共同で行なわれた。そのために巨大な魚網が投げ入れられた。海岸の高い見張り場から発見された魚群を目にすると、漁師らは小舟に飛び乗って、その魚らを網の上の方で包囲した。長くて太い綱が網から海岸にある一種の揚錨機に通じていた。ここで長い木の横棒が4本差し込まれ、これによって今や手でその揚錨機を回し、そうして綱を巻き上げた。そうするとピチピチ跳ねる魚で一杯の網がゆっくり陸に上がって来た。この仕事には年寄りや女子供も加わった。残念ながらこの写真はないが、1枚のスケッチだけはあって、キモノを着てゲタを履いた女らや小さな少年らと、何人かの海水着をつけたドイツ人らが一緒に力を貸す様子を示している。

25回目の遠足日に俘虜らは水泳大会を組織した。長い準備と、最終的には許可を出した

日本の当局との交渉の後に、漁民からも水泳大会の日には内海を空けておいてもらうことができた。 

 既に朝の3時に建設チームが収容所から出発して、櫛木海岸で「海浜ホール」を建設し、その中でその後、アルコールのない飲み物、コーヒー、ケーキ、ソーセージ屋の製品を出すことができた。本隊の出発は7時に2部に分かれて、それぞれ音楽団と共になされた。9時半に彼らは鳴り物入りで櫛木に到着した。その大会の頂点は幾つかの種目での競泳で、最後に賞品が授与された。

 826日に俘虜らは再び自分達の根本的には惨めな状況を意識することとなった。7名のシュレースヴィヒ出身者の帰国で、彼らは北シュレースヴィヒの帰属―これまで通りドイツに留まるのか、デンマークに引き渡すのか―に関する故郷での投票に参加することが許されたのだ。彼らは何百人かの戦友に池谷駅まで見送られて、列車が出る時には大声の呼びかけとハンカチ振りで見送られた。前の晩にはさらにお別れ演奏会が収容所であった。

 既に述べたようにエルザス出身者らと「ポーランド人ら」の出発はそれに対してずっと静かになされた。シュレースヴィヒ出身者らの方はドイツ人として見送られたのだ。『ディ・バラッケ』の8月号では次のようにある。「・・・これまで我々を残して去ったのは、自らのドイツ魂を外国の、敵国の国民性と交換する気のある収容所住民らのみだった。今回初めて、自らの僅かな力をドイツの問題に役立たせようとしているドイツ人同胞らが我々から去った」。

 8月の水泳大会の後も次の数週間は日帰り遠足が続行された。31回目の時には10,000人目の参加者を数えることができた。10月には46回目の、海への遠足が記録された。総括報告では次のようになっている。「以前から海に慣れ親しんでいた者は櫛木海岸で故郷にいるのと同様の感じを持った。内陸育ちの者は新しい体験、美しい光景を楽しんだ。全員にとって自然に戻ることは良い効果があった。・・・美食家らもそこの戸外では自らの望み通りになった。・・・魚が焼かれ、焙られ、海老や蟹が茹でられた。・・・海水浴場での誕生パーティは確立した慣行だった。・・・漕艇と帆走は益々多くの愛好者を得た。・・・運動大会や水泳大会・・・我々のレスリング・チャンピオンらががっしりした漁民の相撲チャンピオンとやった格闘技の試合・・・」。

 数か月前から収容所内で死亡した者らのための記念碑の建設に従事していた小グループは8月にその記念碑とそこへの道を完成させた。831日、朝9時にほぼ全ての俘虜が上の池とその下の斜面に、落成式を行なうために集まっていた。記念碑に相対して管弦楽団と合唱団が整列した。日本人司令官もその参謀部の将校3名と共に式典に参加した時には、人々は心地よく感じた。

 初めの管弦楽曲と合唱の後にヴァンナクス牧師が記念碑への石段を登り、石碑を聖別して、式辞を述べた。その中で彼は次のような言葉で死者らを回想した。「彼らの遺骸を我々がここへ運び上げたのは、いつか最終的にはドイツの大地の懐の中へ移されるまで、しばし安らぐ場所を見つけてもらうためだ」。演説の後、建設作業に指導的に関わっていた予備役下士官のコッホが、日本の将校らに支援を感謝した後、記念碑と施設を収容所最古参将校のクレーマン少佐に引き渡した。彼は、石碑の前面に彫り込まれている「心中ではドイツ人らしく、戦闘では勇敢にして、苦境の中では誠実[であった]」という言葉でもってその演説を締めくくった[石碑では「死して自由[となった]」と続く]。クレーマン少佐の結びの演説の後に管弦楽団の伴奏により合唱団から力強くかつ荘厳にベートヴェンの賛歌「天は永遠なる方の栄光を賛美する」が響き渡った。板東では8名[正しくは9名]の俘虜が亡くなった。これと合せて日本国内の全13[正しくは16]収容所における死者は82名[正しくは87名]だった。

 

 解放

 『ディ・バラッケ』の編集部は「別れに際して」という表題を持った9月号で彼らの印刷所の閉鎖を公表し、その理由を次の言葉で述べた。「1か月以上も前の、間もなく解放されるという最初のかすかな前触れに続いて今度は東京在住のH.A.から来た、スイス公使館が我々の引き取りと送還の全権を得たという電報によってついに重大な見込みが生じた」。

 どうやら何人かは何度もバラック1に行って、この通告のある張り紙を読み、それがもはや噂ではないことを確信したようだ。それにもかかわらず、さらに2か月以上も経過した。しかし1914117日に俘虜になって以来5年が過ぎ去った後で、この期間は何程

のことだったのか。

 全員が故郷への思慕を持っていた訳ではない。少数の何人かはオランダ領東インドからの申し出を受け入れて、そこで植民地警察に入るつもりだった。23の人々は日本に留まる意図を持っていた。手紙や新聞によってドイツでは困窮と政治的な混乱が広がっていることを彼らは知っていた。

 収容所内では片づけがなされ、木箱やトランクに荷物が詰められた。小動物を飼っていた者らの所では鶏や兎が抽選で希望者に配られ、大規模な屠殺が始まった。俘虜生活における、今や6度目のクリスマスはそれどころではなかった。最後の日記に私の父はこう書いている。「1919年クリスマス、板東。明日、1225日、朝7時に我々は故郷に向けて行進する。今日は日本のラッパ手が最後の日本式消灯ラッパを吹く。我々はそれを5年と45日間聞いた。明日は我々のラッパ手がドイツ式起床ラッパで我々を起こす。今晩はハリー・メラー、グスタフ・アレスレーベンと私は静かな片隅でハリー・メラーの家兎を食べる。そして明日、我々は行進するのだ」。

 その後、彼はもう一度、短く書いている。「板東での1919年クリスマス、19191225日。我々のラッパ手ら、ドイツ式起床ラッパ。今日、故郷へ出発」。

 出発はその後、実際になされた。雨が降った。続く時間は一種の旅行記として記述されている。目的地は神戸港だった。

 19191225日。昼の1115分、手押し車に荷物を積んだ特殊部隊が収容所を後にする。1215分から13時まで本隊が収容所を去る。1630分、特別列車で徳島から小松島へ出発。20時「共同丸」小松島を出港。1226日、午前1時、神戸到着。7時下船。

 そこにまだ俘虜だった人々は、寝不足で、髭を剃らずに立って、グループで待っている。音楽が時を短縮してくれる。ドイツの民間人らが、子連れの家族らがやって来て、兵士らの中へ混じり込む。太陽が急に顔を出す。

 10時にドイツ帝国代表のケルステンがシルクハットを被って現われ、リストに従って全員の名前を呼び上げる。その後、短い挨拶の中で彼は俘虜状態の終了を宣言して、今後の幸運を祈ると締めくくる。今や彼らは自由だ。

 約100名の兵士は幸運にもドイツ人の家族に招待されて、彼らと共にクリスマスを祝う。大部分の残りは神戸で時間を潰した。

 4人の解放された者が昼食にTh. ホテルの食堂で椅子に腰掛けようとした時、彼らは丁重に外に戻された。他の客らがドイツ人らの同席を望まなかったためだ。この4人は戦前、上海からやって来て、このホテルに宿泊したことがあった。

 悪天候のために帰国用の船、豊福丸はやっと1230日に神戸を出港できた。

 

 ヴィルヘルムスハーフェンへの帰国航

 板東収容所から解放された人々は最初の輸送船で日本を後にすることができた。その豊福丸は1918年に初めて就航した貨物船だった。その処女航海で地球を一周したばかりで、10か月かかった。

 今度は900名の解放された人々の他に、ハンブルク向けの貨物も積まれていた。その登録総トン数5,800の船は奥山船長の指揮下で55名の乗組員がいた。これらの表記を私は船内新聞『ディ・ハイムファールト』から取った。この第1号は既に192018日に10銭で販売されたが、当分の紙不足故に150部に過ぎなかった。航路を記入した地図と並んで船内売店の価格表も掲載されていて、角砂糖から襟ボタンに至るまで、板東収容所でも買えた全ての品物が挙がっている。

 収容所内図書室の一部も船内にあった。本は船内図書室を通して借りることができた。

 次の船内新聞は2号と3号の合併号から成っていて、最初のページに、111日に死亡した予備役副曹長、ラーゼナックの追悼文を示している。彼は既に神戸で重い風邪を引いたまま乗船して、肺炎に倒れた。シンガポールの少し手前で同日の夕方、「彼の遺体は永遠の安らぎのために海に引き渡された」。

 114日の17時に豊福丸はサバング港に寄った。その小さな町はスマトラ北端の直ぐ前の島々の一つにあって、今日までその名前を保持してきている。ここで石炭が積み込まれ、新鮮な貯蔵食品が乗せられた。解放された人々は停泊期間中、上陸することが許されたが、これは長旅の間の最初にして最後だった。船内新聞はこの時の上陸に6ページ全面を当てている。もう初日から、夕暮れになりかけた時刻に、群れをなして飛び出し、その小さな町を探索した。翌日の早朝、帰郷者らは、益々炭塵で被われる船を再び後にした。近くにある熱帯の原生林は特別な体験だった。午後には帰郷者の選抜チームとオランダ軍のチームとの間でサッカーの試合が行なわれた。オランダ軍は入営した歩兵と沿岸防御砲隊であって、彼らの大部分は裸足で試合をした。競技は61でドイツ人の勝利で終わった。現地人にとっては大きな、この出来事の間中、報告の通り、船内楽団が一生懸命、演奏した。

 サバングでは9名の重病人がオランダの医師の保護に委ねられて、当地の軍隊病院へ収容された。116日の朝、船は航行を続行した。

 船内生活の記述を私は船内新聞から23短縮して以下に引用する。

「解放されてはいるが、我々が願っているほど自由ではまだない。俘虜生活への記憶がほとんど消えてしまったとは言え、しかし今なお我々の回りに同じ顔ぶれを目にし、相変わらず制約された状況の中にいて、配慮や譲歩を強く求められるが、古参の俘虜や兵士らの落ち着きと無関心だけがこの状況を免れさせてくれる。

・・・かくして我々は今、二重スクリュー式豪華高速汽船「豊福丸」で故郷に向かっているが、祖国の不幸によって狭量になり、長期間の隷属状態によってイライラさせられ、腹立たされ、有刺鉄線病の毒を移され、収容や給料について怒り、そして必ずしも全てがあるべき風に、あるいはあり得る風にない故にも怒り―それでも心の奥底では事態が終わっているのに満足していて幸福だ。・・・長く我々は我々の隣人愛に満ちた船旅の最初の日々をも覚えていよう。この日々に我々は互いの回りを走り、怒ってどなり合い、・・・次第に大きい不安定な状態に陥った。全てがぐらついていたのだ! 我々の船、デッキに沿って歩く時の船員ら。・・・洗面器はガタガタ音を立ててころげ回った。全てがぐらついていたのだ。胃袋だけはしっかりしたままで、何人かの年取った船乗りらは大いに不満だった。彼らはその時、23人で全員用の食事を平らげかねないと思っていたのだ。それとて何もならなかった。逆に、船酔いは我々に慈悲深く、潮風や解放された高揚感は健全な食欲を生み出した。・・・我々は船内生活に慣れてしまっているのだ。・・・一日に真水は早朝1回きり。・・・コーヒーの後は少しデッキでぶらつき回り、船首の方へブラブラ歩いて行き、船がどれほど先へ進んだのか、位置を測定し、それから船首あるいは船尾に集合して、小さな自慢話会になる。何人かは朝食後直ぐにトランプを始める。じっくり見てから売店の前に長蛇の列ができている。デッキ掃除から逃れるために。あるいは筏の上によじ登って、大抵は海水以外の何物でもない辺りに探りを入れる。

熱帯での航行は素晴らしかった。太陽はより明るく輝き、より高く登り、色とりどりに燃えながら海に沈んだ。星々はより明るい輝きをきらめかせた。オリオン座は真夜中頃ほぼ天頂に立っていた。白いシリウスと赤いアルクトゥルスはこれまで決して見たことのないほど閃いた。南十字星が我々の前に現われた。・・・

旅は続く。・・・喜んで我々は船首楼の回りに座り、長話をし、昼食と夕食を食べ、その合間に何本かのバナナとココナツを食べ、紅茶、コーヒー、レモネードを飲み、日陰でも30度の状況下でデッキか壁付けベッドで眠り、洗濯をし、歩哨に立つ等。しかし主として我々は全く何もしていない。実直な人々が看護室、調理場、製パン所、食料貯蔵室で根気良く皆のために汗をかいているのを別として。忘れてはならないのは我々の音楽家達や吹奏楽団、新設された弦楽合奏団だ」。

旅行日記には吹奏楽団や弦楽合奏団の演奏時間が表記されている。それらはいつも―多分、気候のために―早朝の時間帯だった。

船内新聞第4号ではスエズ運河通行に際して、その長い歴史が詳しく報告されている。ポートサイドでは複数の生きた雄牛が船上に引き上げられた。私の父のアルバムではこの出来事が写真に取られている。船内新聞第5号には次のようにある。「不幸な動物らを不慣れな船旅でこれ以上やせ衰えさせないために、もう翌々日には大急ぎで撲殺した。そして豊福丸は「屠殺船」になった」。

地中海を航行するにつれて天候は急変し、冷たくなり、雨模様になった。

船内新聞第6号は今や浮上する帰郷問題を扱っている。俘虜生活の中で得た認識は、今後の生活を制するために積極的に役立てるべきだ。それでとりわけこのように書かれている。「我々、かつての俘虜は他の誰よりも先ず、良き手本をもって先に立ち、一般的な仕事嫌いに対して、享楽欲や道徳の窮乏化に対して戦うことに適任だ。我々は全員、言うまでもなく、働くこと以外の何事も望んでいない」。

帰国航の最終日に日本人船長は次のような書簡を公表させた。

 

別れに際して。青島の勇敢な守備兵らに! 皆さんは巨大な勢力に対して最後の1発まで全力を込めて勇敢に戦いつつ、皆さんの軍務を果たしました。この事から皆さんは全世界の前で堂々としておれます。私は皆さんと共に、皆さんが今、大戦の最後にこのような状況下で故郷へ戻らなければならないことを残念に思います。しかし私は固く確信しております。30年戦争の重い苦難を克服した皆さんの民族のために、敗北を勝利に変える時代が来るであろうことを。5年間も長く不自由な生活を送らざるを得なかった皆さんに一切の可能な快適さを提供したかったのですが、我々の船の上では―大洋の中の小さな島の上では―その僅かしか実現できませんでした。私にとっては、皆さんをご家族の元へ、皆さんの奥様や子供さんらの元へ、ご両親やご兄弟姉妹の元へ無事に、快適にお帰しすることが許されたのは光栄です。皆さんのさらなるご繁栄をお祈り申し上げます。G. 奥山

 

1920224日に豊福丸はヴィルヘルムスハーフェンに入港した。神戸からここまでの船旅は56日かかった。 

 

 以上に和訳したヴィルヘルム・メラーの在日俘虜生活に関する記述の内で、後の板東収容所と帰国航の部分はほとんどDie Baracke Die Heimfahrtに基づいていることが分かる。しかし前の丸亀収容所の部分は本人の日誌と体験談によっているので、そもそも丸亀収容所に関するドイツ兵俘虜の記述が絶対的に少ないだけに、史料的な価値が高いと言える。

 丸亀収容所には終始一人の日本人通訳しか配置されていなかったが、この通訳、荒川充雄のドイツ語力はかなり怪しいものであり、また彼はその性格が「不実故に眼鏡蛇と呼ばれた」とある。収容所所属の通訳の不実・不正については、青野原収容所や大阪収容所でも、送られて来た俘虜宛の小包の中身が通訳らによって抜き取られると俘虜らが訴えている(注2ことから考えて、あちこちで同様の事があったものと思われる。

 「丸亀俘虜収容所」とはいえ下士官と兵卒を収容した塩屋収容所は当時、丸亀市に隣接する六郷村内にあった。俘虜らが到着した日にはこの六郷村の村長宅にドイツ語で「心より大いに同情して歓迎します」という大きな張り紙が張り出されていたという。同様の歓迎の言葉書きは当日、六郷村内の方々で見られ(注3、俘虜らを感激させたようである。このような事は他所では伝わっていない。

 塩屋収容所は本来、西本願寺派の塩屋別院であり、10年前の日露戦争時と同様に、俘虜の収容に際しては境内での宗教活動を中断していた。このために本堂の内陣は板で囲われ、本尊の仏像は俘虜らが起居した外陣からは完全に遮断されていた(注4。ただしメラーが言うような「巨大な木造の仏陀からは俘虜の到着前に両目が取り出されていた」ことはあり得ない。恐らく事前に行なわれた儀式の「魂抜き」を通訳が「目玉抜き」とでも誤訳か戯訳したのであろう。

 塩屋別院の借り上げには収容所から費用が支出されたと思われるが、『丸亀俘虜収容所記事』にその具体的な金額は記録されていない。しかし附表第2、第3、第4の「開設当時ヨリ大正63月迄ニ支払タル所要経費」から推定することが可能である。これらの附表によれば1914年(大正3年)度(191412月−19153月)の土地建物借上料は810

円、1915年度は2,367.05円、1916年度は2,478円で、28か月の合計は5,655.05円であったので、1か月の平均額は202円である。丸亀収容所では下士官・兵卒用に借りた塩屋別院の外に、将校用(後には特殊俘虜用)に丸亀市内の赤十字看護婦養成所跡と事務所用に塩屋別院前の尾崎邸を借り上げていたので、毎月の借り上げ料の半額101円、28か月の総額の半分2,828円を塩屋別院に支払っていたと仮定する。これを現在の貨幣価値に換算するために郵便葉書(当時は15厘、現在は50円)と封書の料金(当時は3銭、現在は80円)の平均倍率2,888によれば約29万円と約817万円となる。換算基準を米価(注5に取ると、1914年当時の標準米10キログラムは東京で1.08円であり、2004年は3,536円であったので、その倍率3,274によれば約33万円と約926万円となる。瀬戸武彦氏の換算率6,666(注68,000(注7によれば約67万円か約81万円と約1,885万円か約2,262万円である。

 塩屋収容所内で1度限りとは言え、豚の屠殺が認められたというのはこのメラーの報告のみであり、証拠の写真もメラー旧蔵のアルバムの中に発見された。塩屋別院は既に宗教施設であることを中断していた(注8ので、所内でキリスト教の行事や肉食が許されていた訳であるが、さすがに所内での屠殺は、恐らくは寺院側からの抗議があったために、2度と許可が下りなかったのであろう。

 丸亀収容所での死亡者は、191566日に病死したテンメ一人であった。『丸亀収容所日誌』の191568日の記載によれば、葬儀は丁重に行なわれている。しかしこの時、土葬にするのか火葬にするのかで収容所管理部は迷ったようである。

 

   午前930分、遺体ヲ所員、宮地中尉監視ノ下ニ人夫ヲ使役シ、丸亀衛戍病院出発、

  所附倉本軍医、及ビ同下士1名同行、陸軍墓地(綾歌郡土器村)ニ向フ。

   是レヨリ先、俘虜将校以下273名、該葬儀ニ列スベク午前9時、各収容所出発。船

  頭町収容所[=将校収容所]ハ補助将校、矢野中尉、別院収容所ハ補助将校、立花少

  尉監視ノ下ニ各所要ノ警護兵ヲ附シ陸軍墓地ニ到ル。

   午前10時、右柩、墓地ニ到着スルヤ、予テ掘開セル孔穴(墓地東北隅)上ニ之レヲ

  静置シ、俘虜ノ寄贈ニ係ル花環10数個ヲ供へ、俘虜一同霊前ニ整列シ、所長、所附職

  員一同立会ノ上、俘虜宣教師「ヒルデブランド」法衣ヲ纏ヒ宗教(新教)上ノ儀式ヲ

開始ス。

   儀式途中、午前1030分、在高松市宣教師、米国人「エー・ピー・ハッセル」該

葬儀ニ参列スベク衛戍司令官ノ許可ヲ得テ来場ス。

   午前115分、宗教上ノ儀式終了。柩ヲ埋没セントスルニ当リ偶(タマタマ)俘虜

  情報局ヨリ、従来遺族ヨリ遺骨ノ下附ヲ願出ルモノアリ、「テンメ」ノ死骸火葬ニ附シ

  テハ如何トノ照電ニ接シタルヲ以テ、俘虜ニ之レヲ諮リタルニ、当人ハ旧教ニシテ、

  宗教ノ慣例上、火葬ヲ好マズ、只埋没後、墓標ヲ設立シ、之レヲ撮影シテ、故郷ニ送

  附スルヲ得バ、遺族ハ満足シ、遺骨下渡ヲ願出ヅル事ハ全然ナカランコトニ付、土葬

  ニ附セリ。

   然ル後、俘虜ノ願出ニ依リ前記墓標ヲ撮影スルヲ許可シ、各位置ヨリ23種撮影ヲ

  為セリ。午前1115分終了、帰途ニ就ク。

 

彼の墓に取り敢えず立てられた木製の墓標を後日、石碑に代えて欲しいという俘虜仲間の要請は当初、収容所管理部に拒絶されたとドイツ政府宛の匿名告発文書に記されている(注9。しかし10月には希望通りに、ただし小さな石碑が建てられた。それが今も現存しており、そこにはAmandus Temmeと彫られている。彼の名前は『俘虜名簿』ではAmmandusと記されているが、Die Baracke最終号の死没者名簿でも Amandusとあるので、この方が正しい(ラテン語amándus「愛されるべき(者)」に由来)ことになる。なお19198月に板東収容所内に設置された慰霊碑では、最初は間違ってAndreas と彫られていたが、その後Amandusに彫り直されている(注10

 19173月に丸亀で開催された俘虜製作品展覧会は二日間で3万人もの日本人が観覧に押し寄せ、展示品の9割が売れたと記録されている(注11。この時の経験が板東で1年後の19183月に開催する大規模な俘虜製作品展覧会の開催に役立ったとのことである。

丸亀と板東での大成功を受けてその後、久留米や青野原、似島、名古屋で開かれる俘虜製作品展覧会も各地の日本人に大好評を博することになる(注12。こうした俘虜製作品展覧会はこの時代にドイツ人とドイツ製品に対する日本人の肯定的な観念を一挙に固めることになった一大要因であったと思われる。

 図版4の写真は中国語の授業風景であるが、左から3人目がメラーである。板書された中国語「人ハ懶惰(ランダ)タルベカラズ。懶惰ハマサニ貧窮ノ先兆ナリ」はいかにもドイツ人好みの例文であリ、船内新聞第6号からの引用文にも対応している。

 アードルフ・メラー著の板東収容所の記述部分では松江所長の人格や言動に対する俘虜らの感謝・尊敬の念が随所に読み取れる。ヴィルヘルム・メラーが終生、松江所長の肖像写真を大切に保持していたという事実もそれを端的に証していると言えよう。

 

注記

1)瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5)、独軍俘虜概要(2)」『高知大

   学学術研究報告』第52巻、人文科学編20039697ページ。

2)高橋輝和「サムナー・ウェルズによるドイツ兵収容所調査報告書」『「青島戦ドイツ兵収

容所」研究』創刊号20037824ページ。

3)高橋輝和「ヨーハン・クロイツァー「日本における私の俘虜生活」」『「青島戦ドイツ兵

   収容所」研究』第42006124125ページ。

4)高橋輝和「ヨーハン・クロイツァー「日本における私の俘虜生活」」『「青島戦ドイツ兵

   収容所」研究』第42006113ページ。『丸亀俘虜収容所記事』78丁表では「中央

  ノ仏間ハ板囲トシ遮断セシ・・・」。

5)「400年の米価」www.shizuoka.info.maff.go.jp/22syokuryou/zyouhou/data/bekatai.htm

6)瀬戸武彦『青島から来た兵士たち−第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』同学社2006

  65ページ。 

7)瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)、独軍俘虜概要」『高知大学学

術研究報告』第50巻、人文科学編2001141ページ。

8)『丸亀俘虜収容所日誌』によれば定期的な門前市等は催されていた。1915322

「午後、別院参詣者多ク、門前ニ雑踏セシヲ以テ運動ヲ取止ム」。58日「午後、当

塩屋市ノ為、別院門前頗ル雑踏ヲ極メタルニ依リ収容所表門ヲ閉鎖シ、門前運動ヲ停止

ス」等々。

9)高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」『岡山大学文学部紀要』第382002

  168ページ。

10)林 啓介『「第九」の里、ドイツ村―板東俘虜収容所』井上書房1993161ページに

    落成式当日の写真。現在の写真をお送り下さった田村一郎前鳴門市ドイツ館長に感謝

いたしたい。

11)高橋輝和「丸亀俘虜収容所のドイツ兵俘虜による技術指導と製作品展覧会」『文化共生

   学研究』第5200746ページ。

12)松山収容所では既に19161215日に俘虜製作品展覧会が開かれているが、この

   時、観覧を許された日本人は「松山市中等諸学校図画教師、並(びに)小学校、徒弟

学校長等13名」に過ぎなかった(森 孝明「松山ドイツ兵俘虜収容所関係年表」『青

島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第22004110ページ)。徳島収容所ではもっと早

19164月に俘虜製作品展覧会が開かれた(『「トクシマ・アンツァイガー(徳島新

報)」紹介』200628ページ)。しかし日本人に公開されたのか否かは不明。久留米

収容所では19159月と19169月、19181112月に俘虜製作品展覧会が開か

れたが、初めの2回は日本人に公開されていない。



図版1.最初にして最後の豚の屠殺



図版2.日曜日の野戦ミサ

 



図版3.テンメの墓

 



図版4.中国語の授業風景