丸亀俘虜収容所のドイツ兵俘虜による技術指導と製作品展覧会
高橋 輝和
1914年11月に日本軍が中国・青島のドイツ兵4,392名と援軍のオーストリア・ハンガリー兵305名を俘虜にして、日本へ移送し、各地の俘虜収容所に収容した後に、俘虜の全員から「俘虜収容通報」(Nachrichten über die Aufnahme der
Kriegsgefangenen)というカード、いわゆる銘々票を提出させた。このカードには氏名、本籍地、所属部隊、身分・階級、人種・宗教、生年月日の他に職業の記入欄もあった(注1)。
「俘虜収容通報」自体の調製・保管は国際法上の責務であったが、俘虜の職業に関する調査は国内的に極めて重要な目的を有していた。俘虜情報局は先ず「俘虜収容通報」に基づいて俘虜の職業に関する概要を調査し、その後に調査項目を定めて各収容所に再度、詳細な調査を求めた。この再調査された俘虜の職業統計を1915年2月に『俘虜職業調』(「大正4年1月10日現在」)として発行した(1917年5月に「大正6年4月10日現在」の訂
正再版発行)。『俘虜職業調』は陸軍省内関係各局、農商務省、参謀本部、外務省、海軍省並びに各収容所、収容所所在の地方庁に配布され、さらにその他の各省、商業会議所等にも発送された(防衛研究所図書館蔵『大正3年乃至9年戦役俘虜ニ関スル書類(俘虜取扱顛末)』。以下『俘虜取扱顛末』)。『俘虜職業調』の冒頭にはその調査目的が次のように記されている。以下の引用では漢字の旧字体は新字体に、漢数字はアラビア数字に直してある。
1. 独逸人ノ東洋ニ於ケル経営状態ヲ知ルコト。
2. 独逸人(訂正再版では独・墺[=オーストリア]人)独特の技能ヲ利用シテ、国産
上ノ伝習ヲナサシムル為ノ参考ニ資スルコト。
3. 俘虜ニ労役ヲ課スル場合ノ参考ニ供スルコト。
最も重要な調査目的は2であった。陸軍省次官が1915年2月に各省次官に発送した「俘虜使役ニ就テ」と題する通牒では次のようにその目的と方法が詳細に示されている(『俘虜取扱顛末』)。
1. 我国産業の発達・利益ニ資シ得ベキ種類ノ職業及ビ技倆ヲ有スル俘虜ヲ収容所外ニ
於テ使役・利用スルコト。
2. 右使役ハ官公立ノ試験所、製造所又ハ工業学校等ニ於テシ、尚余裕アル時ハ取締ニ
関シ遺漏ナキ措置ヲ講ジ得バ、私立会社又ハ私人等ニモ許可スルコト。
3. 使役俘虜ノ撰択ニ関シ陸軍省ハ使用者ノ依頼ニヨリ本人既往ノ経歴等、調査・通報
スベキモ、其ノ決定ハ使用者所管ノ各省ニ於テナスコト。
右調査ノ依頼ハ各省毎ニ其ノ所管内ノモノヲ取纏メ、調査事項ヲ附シ3月10日迄
ニ陸軍省ニ通報スルコト。
4. 使役俘虜ノ氏名、使役法、使役場所、取締方法、賃金決定セバ、各省ハ其ノ所管ノ
モノヲ取纏メ、3月尽日迄ニ陸軍省ニ通報・協議シ、陸軍省ハ最後ノ決定ヲナスコ
ト。
使役俘虜ハ使用場所ノ関係ニヨリ収容地ノ変更ヲナスモ、収容所所在地外遠隔ノ
地ニ於テ使用スルコトハ勉メテ之レヲ避クルコト。
5. 使役俘虜ノ賃銀等ニ関シテハ俘虜労役規則第5条及ビ第6条ニヨルコト。
附則
前記ノ如キ特種技能ニ係ルモノニアラズシテ、普通ノ労役ニ俘虜ヲ使用スルコト
ハ本邦労役者ノ職業ニ影響セザル範囲ニ於テ俘虜労役規則ニ依リ実施シ得ルモノ
トス。
1915年1月10日現在の『俘虜職業調』に示されている丸亀収容所の全324名の職業は以下の通りであった。△は副業者で、合算されず、括弧内は店員で、合算されている。
1. 現役軍人167名
将校及ビ同相当官4名、准士官5名、下士卒158名
2. 官公吏15名
行政官6名、外交官2名、鉄道郵便官吏1名、役場吏員1名、学校教師5+△1
名(注2)
3. 宗教及ビ技術家等27名
技師21名
機械3名、建築9名、電気4名、鉄道1名、染色1名、農業2名、園芸1名
弁護士1名、薬剤師1名、宣教師3名、音楽家1名(注3)
4. 商業91名
毛皮商(7)名、機械商1+(6)名、鉄器商(2)名、自動車・自転車商(1)名、電気物商(5)
名、銅鉄商1+(3)名、書籍商1+(1)名、文具商(2)+△1名、材木商1+(1)名、武
器商(2)名、雑貨商4+(15)名、羅紗商(4)+△1名、染料商1+(3)名、絹物(糸)商1
+(6)名、砿産物商(1)名、穀物商1+(1)名、化粧品商(3)名、時計商(2)名、両替商(1)
名、屠殺業1+(1)名、海運業(6)名、倉庫業1名、保険業(1)名(注4)、銀行員4名
5. 工業15名
帽子製造業1+(1)名、製材業1名、造船業(2)名、建築業1名、印刷業1名、製陶
業1名、麦酒製造業(1)名、麺麭製造業1名、製菓業1名、大工1名、左官1名、
革工(2)名
6. 農業1名
園丁1名
7. 其ノ他8名
旅館1名、料理店2名、珈琲店1名、新聞社員2名、水夫1名、給仕1名
1915年版の『俘虜職業調』では4,461名(1917年版では4,651名)の俘虜が調査されていて、その内、現役の軍人・軍属は3,322名(1917年版では3,324名)であり、非軍人はは1,139名(1917年版では1,327名)であった。これに比べて丸亀収容所で現役軍人(167名)と非軍人(157名)との割合がほぼ等しいのは、収容されていた海軍歩兵第3大隊の第2中隊がほとんど現役兵であったのに対して、第7中隊は開戦前に中国や日本で働いていた予備役兵のみで編成されていたからである。上掲の一覧表では、例えば「将校及ビ同相当官4名」は現役将校の数であって、予備役将校の3名は非軍人扱いされている。
丸亀に収容されていた現役下士卒中の115名の軍隊における特業は次の通りである。
縫工2名、靴工3名、機械工4名、通信手10名、信号手5名、探照燈手5名、
土木作業手11名、機関銃手40名、機関砲手18名、砲手2名、喇叭手2名、鼓手
3名、麺麭工1名、厨(炊)夫2名、筆(書)記4名、衛生部卒1名、担架卒1名、馭
卒(=御者)1名
現役下士卒が入隊前に有していた本業についても調査されていて、丸亀収容所の准士官を含む数字は以下の通りである。
1. 官公吏3名
役場吏員3名
2. 技術家等7名
建築技手1名、舞踏教師1名、画家3名、図案家2名
3. 商業14名
文房具商1名、雑貨商4名、獣肉商1名、屠殺業7名、倉庫業1名
4. 工業100名
車両製造業1名、ポンプ製造業1名、染色業1名、製本業2名、麦酒製造業2名、
菓子製造業1名、蒸留業1名、機械工7名、鍛工2名、電気工6名、旋盤工3名、
織工1名、竃工(そうこう)2名、靴工3名、大工3名、石工2名、左官2名、
印刷工1名、麺麭工1名、屋根職2名、桶職1名、錻力(ブリキ)職3名、煉瓦職4
名、蒲団職1名、機械鍛冶4名、船鍛冶1名、指物師5名、装飾師1名、錠前師
15名、鋳物師2名、金銀細工師1名、縫裁師2名、石膏細工師1名、坑夫10名、
工夫5名
5. 農業15名
搾乳業1名、農夫8名、牧夫3名、園丁3名
6. 其ノ他24名
理髪師1名、事務員5名、従僕1名、馭卒(=御者)2名、門衛2名、給仕3名、
料理人1名、烟突掃除人1名、水夫2名、労働者4名、雑2名
1915年6月に下士卒1名が病死し、1916年10月には全将校7名が大分に移され、その後に大阪から2名、青野原から13名、久留米から2名の「他ノ一般俘虜ト人種ヲ異ニシ、或ハ我邦人ヲ妻トスル等ノ関係上、[他ノ俘虜ト折合悪シク]寧(ムシ)ロ我帝国又ハ他ノ聨合国側ニ好意ヲ有スル」(『収容所記事』、[ ]内は「副官ヨリ丸亀衛戍司令官ヘ通牒案」)故に「特殊俘虜」と呼ばれたイタリア人13名、ポーランド人2名、ロシア人1名、ドイツ人1名(注5)が収容された結果、丸亀の収容者数は333名となった。丸亀収容所が1917年4月に閉鎖された後に作成された『丸亀俘虜収容所記事』(以下『収容所記事』)によれば最終的な収容者333名の職業は次の通りであった。
1. 現役軍人176名
准士官5名、下士卒171名
2. 官公吏14名
行政官7名、鉄道官吏1名、学校教師5名、外交官1名
3. 宗教及ビ技術家25名
技師19名
農業2名、鉄道1名、染色1名、庭園1名、建築8名、電気3名、器械3名
弁護士1名、音楽師1名、宣教師3名、薬剤師1名
4. 商業81名
時計商2名、絹糸商1名、穀物商2名、両換商1名、材木商2名、器械商7名、
染料商4名、雑貨商19名、羅紗商4名、文房具商2名、書籍商2名、絹物商4名、
皮革商7名、銀行員4名、鉄器商4名、鉄道材料商2名、自転車商1名、兵器弾薬
商2名、電気器械商5名、化粧品商3名、砿産物商1名(2名分不足)
5. 工業15名
革工2名、麦酒醸造業1名、製材業1名、製陶業1名、印刷業1名、造船業2名、
左官1名、帽子製造業2名、麺麭製造業1名、製菓業1名、大工1名、建築業1名 6. 雑22名
園丁1名、珈琲店1名、料理店2名、運送業6名、水夫1名、旅館1名、倉庫業1
名、保険業1名、屠獣業2名、給仕1名、新聞社員2名、事務員(簿記) 2名、地主
1名(注6)
俘虜の職業の中では技師や職人が多く、かつその多種多様なことに注目した陸軍省はこの分野で俘虜の技能を活用しようと考えた訳であるが、しかし俘虜の利用は幾多の問題があったために、陸軍省が期待していた程は進展しなかった。そこで陸軍大臣は1916年9月に陸軍省で開かれた収容所長会議における口演中の「4. 俘虜ノ労役ニ就テ」で次のように要請している(『俘虜取扱顛末』)。
収容所内外ニ於ケル俘虜ノ労役及ビ其ノ利用ニ就テハ昨年来、各官及ビ部外当局者
ニ対シテ奨励シツツアルモ、未ダ其ノ実施ノ効果認ムベキモノナキヲ遺憾トス。抑々
(ソモソモ)俘虜ノ労役ハ閑居ヨリ生ズル諸種ノ情弊を除キ、其ノ特殊技能ノ利用ハ
我産業ノ発達ニモ資スベキヲ以テ、各官ハ収容所附近ノ各部隊又ハ地方官民ト相図リ、
簡易・確実ナル取締ノ下ニ十分ナル利用ノ方法ヲ講ゼラレンコトヲ望ム。
続いて口演を行なった軍務局長はその事項5「俘虜労役ニ就テ」で次のように指示している。
俘虜ヲシテ労役ニ従事セシノムルノ必要ハ大臣ノ訓示セラルル所ノ如シ。而シテ我
国産業ノ発達・利益ニ資スベキ職業・技倆ヲ有スル俘虜ヲ収容所外ニ於テスル利用法
ハ昨年、各省次官会議ニ提出セラレ、各省ニ於テ使役場所、使役方法、賃金、取締法
等ヲ定メ、本省ニ通牒シ、本省ニ於テ最後ノ決定ヲ与フルコトニ協定セラレ、尚各府
県知事ニモ勧誘スル所アリシト雖モ、之レガ手順ニ繁雑ナルモノアリ。或ハ之レガ為
ニ通訳ヲ要シ、或ハ取締ニ困難ヲ感ズル等ノ事情ヨリ未ダ所望ノ効果ヲ挙グルニ至ラ
ザルヲ遺憾トス。
故ニ今後ニ於テハ使役者タル部隊又ハ地方官民ヨリ直接、使役上ノ要件ヲ具シテ収
容所長ニ協議又ハ願出テ、各官ハ之レヲ取捨シテ、衛戍司令官ヲ経テ申請セラルル方
法ヲモ講ゼラルルヲ望ム。此ノ場合ニ於テハ使役中ニ於ケル俘虜取締ノ責任ハ使役者ニ於テ負担シ、衛戍司令官及ビ俘虜収容所長ハ之レガ指導ニ任ゼラルベキニ至ルヲ以テ、特ニ之レガ取締法ニ就テハ単簡・確実ナル方法ヲ研究セラレ、地方官民ノ協議・願出ニ応ジテ、成ルベク繁多ノ取扱ヲ要セズシテ、広ク俘虜ヲ労役セシメ、以テ我国益ヲ増進スルコトニ顧慮セラルルヲ要ス。
最後に軍事課長が行なった口演の事項3では、特殊技能を有する俘虜を収容所の外部で利用する際の管理方法の検討を指示している。
収容所外ニ於テ特殊技能ヲ有スル俘虜ノ利用ニ就テ其ノ取締法ハ如何ニスベキヤヲ
局長指示ニ基キ至急研究セラレ、其ノ腹案ヲ軍務局宛通報アリタシ。之レニ関シテハ
収容所ヨリ通勤セシムル場合、及ビ全然俘虜ヲ使役者ニ托スル場合ニ就テ2箇ノ場合
ヲ考究セラルルヲ要ス。
先の軍務局長の口演ではそれまでになされた俘虜の労役の実例が挙げられているが、その実例は極めて限定的で、しかもそのほとんどは松江豊寿が所長を勤めていた徳島収容所の事例であることが特徴的である。
徳島収容所:塗漆―工業学校ニ伝習
指物(机、椅子、時計立、計算尺、書籍棚等)−地方商人ト契約販売
製靴(短靴、編上靴、革脚絆等)−原料ヲ市井ニ求メ、俘虜ノ依頼ニ
応ジ製作
金物細工(鍵、小刀、煙草入、煙草盆、写真立、灰落、文房具等)−
俘虜ノ依頼ニ応ジ、又ハ地方商人ト
契約販売
絵画(油絵、版画、木版等)−同前
裁縫、刺繍(机掛、敷物、鬘等)−同前
食品(腸詰、ハム、ベーコン、菓子等20余種)−同前
習志野、名古屋収容所:製麺麭−俘虜ノ糧食
習志野収容所:石鹸−俘虜洗濯用
大分収容所:食塩料理−軍隊ニ伝習
このような指示に基づいて丸亀収容所が香川県庁や
俘虜ノ労役ニ就テハ香川県庁、丸亀、高松両市役所、或ハ香川県ノ有志者、又ハ東
京、大阪等ノ企業等ニ対シ特有ノ技能ヲ有スル俘虜ノ履歴書ヲ送付シ、以テ傭役方ヲ
照会セルモ当初、適当ナル雇傭者無カリシガ・・・。
『丸亀収容所日誌』(以下『収容所日誌』)によると俘虜労役に関して何人もが協議のために収容所を訪れているが、これらの協議は全て不調に終わったようである。
1916年6月14日:
8月15日:
8月16日:
8月19日:香川県麦稈真田同業組合技手、小林東三郎
8月21日:仲多度郡書記、豊田浩太郎、麦稈真田製造具ノ他ニ関シ・・・
9月7日:
9月13日:香川県耕地整理課技手、小倉亀一
9月14日:在
9月17日:第11師団、高田参謀
10月12日:法学士、中浅朝太郎
10月20日:香川県属、長尾繁二郎、俘虜手工品ニ関シ・・・
10月23日:香川県麦稈真田組合長、真田製造ニ関シ研究方希望セシニ依リ、
俘虜パウル・ワルテル、ヨセフ・ミルツ、オットー・ストレー ヲ
事務所ニ招致シ、所員里見中尉立会ノ下ニ研究セシム。
12月13日:丸亀市葭町、中田宗助、皮革製造ニ関シ・・・
11月8日には所長自身が「俘虜産業利用ニ関スル協議ノ為」に
また丸亀収容所が俘虜の収容所外労役の機会を求めていることは次のように新聞(注7)にも発表された。
独逸俘虜傭役照会
丸亀俘虜収容所に収容の独逸人中、特有の技能を有する者は左の如くなれば、県内
当業者にして傭役希望者は所長に於て便宜を与ふる由なれば、
商工係に問合さるべしと。
指物師6名、麦酒醸造3名、革工3名、帽子製造2名、電気工9名、製陶1名、麺
包製造2名、金銀細工1名、染色1名(『香川新報』1916年11月8日)
収容所側からの働きかけの結果、
大正5年11月6日ニ至リ香川県立工芸学校ト協議ノ結果、該工芸学校ニ於テ図案及
ビ指物ノ技能ヲ有スル者、各1名ヲ雇傭スルニ決セシヲ以テ、別紙契約書ニ基キ俘虜2
名ヲシテ労役ニ従事セシムルコトトセリ。(『収容所記事』)
その際に結ばれた契約は次の通りであった(注8)。
俘虜傭役ニ関スル契約
1. 本契約ハ丸亀俘虜収容所ノ俘虜ヲ香川県立工芸学校ニ於テ傭役スル為、左ノ事項
ヲ契約スルモノトス。
2. 俘虜ノ収容所ト学校間ノ往復途中ノ警戒及ビ取締ハ衛戍司令官、之レニ任ズ。
3. 俘虜ノ学校ニ於ケル警戒及ビ取締ハ校長ノ責任トス。
4. 俘虜ノ授受ハ学校ニ於テ校長(若クハ其ノ代理者)ト衛兵トノ間ニ直接行ハルベキ
モノトス。
5. 俘虜トノ談話ハ校長若クハ教授トノ間ニ於テ労役、其ノ他、取締上ニ関シ必要ナル
モノニ限ルモノトス。
6. 俘虜ハ外来者ニ一切面会セシメザルコト。
7. 俘虜ニ電話ノ使用、電信・郵便物等ノ委托、及ビ伝言等ヲ為サシメザルコト。又
此レ等ヲ受ケシメザルコト。
8. 労役時間ハ一人1日実働4時間以内ニシテ、其ノ労銀ハ一人1日30銭トス。労銀
ノ授受ハ総テ證書ニ拠リ毎月末ニ行フモノトス。
9. 俘虜並ビ衛兵往復ノ汽車賃金ハ学校ノ負担トス。
工芸学校に課した付則は次の通りであった。
香川県立工芸学校使役俘虜ニ関スル附則
1. 俘虜労役中、若シ非違ヲ認メタル時ハ直ニ衛兵ニ知ラセ、且ツ電話ヲ以テ収容所
ニ通報スルコト。
2. 俘虜、若シ逃亡ヲ企テントスル時ハ前項ノ処置ヲ為ス外、何人ヲ問ハズ之レヲ抑留
シ、尚附近ノ警察ニ依頼シ之レヲ抑留又ハ逮捕スルコトニ努力スルコト。
3. 就業中、定位置ヲ離ルルハ用便ノ時ノミナルヲ以テ、遠ザカリテ監視スルコト。
4. 邦人ニシテ俘虜労役ノ状況ヲ視察セント出願スルモノアルトキハ、校長ノ許可シタ
ルモノニ限リ之レヲ許可スルコト。
5. 俘虜、喫煙ヲ欲スル時ハ之レヲ許可スルコト。
6. 俘虜労役中、収容所所員、憲兵、警察官ハ警戒ノ為、時々巡視スルコトアルベシ。
7. 俘虜、昼食ハ収容所ヨリ携行セシムルヲ以テ、湯茶ハ学校ニ於テ準備・供給スルコ
ト。
8. 俘虜、若シ彼等ノ飲食物等ノ購入ヲ依頼スルモ、之レヲ拒絶スルコト。
9. 俘虜ノ労役賃金ハ毎月、県庁会計係ヨリ収容所附主計ニ交付スルコト。
これによりやっと1917年1月9日より丸亀収容所からマックス・ノイマン(Max Neu-
mann)とアウグスト・アードラー(August Adler)の2名が香川県立工芸学校に監視兵付
きで通勤することになった。
当収容所俘虜中、指物師及ビ建築技師2名ヲ、香川県立工芸学校ト交渉ノ結果、本
日ヨリ通勤セシム。其ノ人名、左ノ如シ。
海軍歩兵上等兵マックス・ノイマン
同 アウグスト・アートラー
依テ歩兵第12連隊ヨリ監視兵トシテ歩哨1名を附シ、往復途中ノ警戒ニ任ゼシム。
毎日(休日・祭日ヲ除ク)午前8時2分、丸亀駅発列車ニテ出発シ、午後3時58分
丸亀駅着列車ニテ帰所ス。(『収容所日誌』1917年1月9日)
ただし新聞報道によれば当初は6名派遣する話があったようである。
工芸校の俘虜傭聘
県立工芸学校にては予(かね)て丸亀収容所の独逸俘虜を雇ひて学業に資する処あ
らんとせしが、今回6名を傭聘することとなり、9日先ず家具専門の者ノイマン及び
アートラーの2名来校す。(『香川新報』1917年1月10日)
納富所長はこの俘虜の技術指導に大いに期待する所があったと見えて、数日後には「状況視察ノ為」に工芸学校に出張した程であったが、しかし2名の通勤は早くも同年3月27日には終わらざるを得なかった。
俘虜労役停止
通勤延日数59日 海軍歩兵上等兵マックス・ノイマン
同60日 同アウグスト・アートラー
労役ノ為、本年1月9日ヨリ香川県立工芸学校ニ通勤中ノ処、本日限リ停止ス。
(『収容所日誌』1917年3月27日)
停止の理由は、4月7日に新設の板東収容所に移転することが決まったからである。丸亀収容所が閉鎖された後に、この労役の結果が『収容所記事』に次のように報告されている。
香川県立工芸学校ニ於テ俘虜傭役ノ件、大正5年12月14日欧受第1604号ヲ以テ
認可セラレタルヲ以テ、仝校長ト俘虜傭役ニ関スル左記ノ如キ契約ヲ締結シ、大正6
年1月9日ヨリ2名該校ニ往復、監視兵ヲ附シ通勤セシムルコトトナセリ。而シテ其
ノ労役賃金ハ1日一人30銭トシテ其ノ2割、乃チ6銭ヲ軍資金歳入ニ納附シ、残額
24銭ヲ本人ニ支給セリ。而シテ其ノ通勤日数ハ延119日ニシテ、其ノ労役金35円70
銭中、7円14銭軍資金歳入ニ納付シ、其ノ残額28円56銭、俘虜二人ニ支給セリ。
丸亀収容所の俘虜労役の収入35円70銭は俘虜情報局が最終的にまとめた「俘虜労役賃金並ビニ延人員表」(『俘虜取扱顛末』所収)によれば最下位であった。収入額順に並び替え、括弧内に最大時の収容人員(注9)と収容期間を示すと以下の通りである。そこには徳島収容所が挙がっていないが、板東収容所に含まれているものと思われる。なおこの金額と人員は収容所内と収容所外の労役を合算したものであって、丸亀収容所以外は所外労役の数字は不明である。
1. 名古屋収容所:47,500.00円−78,000名(500名−5年5か月)
2. 久留米収容所:12,397.79円−79,394名(1,309名−5年5か月)
3. 板東収容所:7,069.94円−100,999名(徳島:206名−2年4か月、板東:1,028名
−2年10か月)
4. 東京・習志野収容所:2,138.07円−113,593名(東京:314名−10か月、習志野918
名−4年6か月)
5. 似島収容所:1,292.35円−17,988名(548名−3年1か月)
6. 姫路・青野原収容所:960.03円−13,896名(姫路:323名−10か月、青野原:478
名−4年6か月)
7. 静岡収容所:475.00円−34,944名(108名−3年8か月)
8. 松山収容所:298.49円−6,664名(415名−2年5か月)
9. 福岡収容所:278.80円−3,992名(850名―3年5か月)
10. 大阪収容所:151.72円−11,140名(548名−2年3か月)
11. 大分収容所:137.78円−2,900名(216名−3年8か月)
12. 熊本収容所:62.73円−1,568名(650名−7か月)
13. 丸亀収容所:35.70円−119名(333名−2年5か月)
丸亀収容所における俘虜労役の実績が全収容所中最下位であるのは、取り組みの期間が極めて短かったことに加えて、丸亀周辺では俘虜の特殊技能を活用できる産業的な需要が僅少であったのが理由である。しかしながら丸亀収容所における僅少な事例は質的には大きな意味を有していた。この事は、新聞に詳しく報じられている香川県立工芸学校における二人のドイツ人俘虜の技術指導の様子と校長と記者の所感から十分理解できる。
俘虜の製作品を観る 邦人の学ぶべき点多し
規律正しき彼等
敵国の俘虜独逸人、製図アートラ、指物ノイマンの2名が工芸校に於て其の技に勤
しみ居れる事は曾て記せし処なるが、其の後に於ける彼等の職業振り其の他に就て聞
けば、我邦人に比し規律の正しきは感心すべきものにて、現在彼等は敵国人なりと雖
も邦人の学ぶべきもの也とは田雑校長の談なり。而して更に俘虜の職業振りに就て氏
の観察の一片を聞けば、彼等の仕事は
総て実社会的仕事
を為すにある点にて、製作其の物に対する実社会所望の判断脳力、製作上に於ける職
業の文明的脳力に至りては我国普通斯業者の脳力・知識を以てしては遠く及ばざるべ
きが、然も彼等は祖国に於て高等教育を受けたるものにあらず、普通教育をも完全に
修めたるや否や疑問なれども、其の職を実際に為す上に於ての知識に至りては我国の
高等教育を受けたるものも後(しり)へに撞着たらざるべからざるものあり。一例を
挙ぐれば、指物工の俘虜の如き化学室に入りて幾種の薬品中より所用のものを撰出し
て自由に使用するが如き、又作業上、電力を用ふる機械操縦の如き、毫(がう)も遅
疑する処なく、而も要領よく巧みに使用する等、敬服に価するものあり。彼等の行ふ
処は惣(すべ)て耳目の仕事、机上の理論仕事にあらずして、万事、実社会求望の実
物を調製する点なり。
機関の応用知識
紙上教育に於て修むる処、少なしと雖も祖国に於ける進歩せる実際的教育に拠りて養はれ、而して自ら発明し、自ら実行せよといふ祖国の主義を体得せる彼等なれば、指物大工の如きも応用の出来得る限りは機械を用ふる事、邦人の夫(そ)れ以上にて、先般工芸校に据付たる木工科機械の如き巧みに電力を懸けて自由自在に操縦し、其の応用方法は工芸校に於て使用し居れる以外の方面にも適用し、亦(また)以て参考とすべき点ありといふ。
仕事振りと能率
製図は頭脳を以て為すものなれば別とするも、指物は一度図案の下に仕事に着手せば、傍目も振らず、熱心に従事し、途中不規律に喫煙するが如き事なしといふ。然れば仕事の能率は応用の出来得る限り機械力を用ふると。人力に拠る仕事振り又規則的に行ふを以て其の能率、邦人に比し遥に優越なるものあり。而も彼等は廉価なる製作品と雖も親切を以て臨み、無暗に粗製濫造を為さざる点は我邦人の大いに省みざるべからざる処にて、彼(か)の国に於ても廉価なるものは釘を用ふるも、其の釘は上部の一部を平たくし、以て使用することなれば、一度打込みたる以上、浮くが如き事なく、又勿論、取らるる筈なく、其の辺の配慮に至りても周到なる注意といふを得べしと。
職業用器の相違
往訪者の希望により中食後の休憩時間を利用し、校長の案内にて俘虜の作業室なる木工科の一室に到り、先ず彼(かれ)の仕事台を見たるに、我国一般指物家の使用するものと相違せり。即ち削り台は我国の夫れより3倍位大なるものにして、構造余程
異なり、素人眼を以てするも便利なるを看取し得べく、仮令(たとへ)ば木を削るにも単に台上に乗せ、一ツの桟(さん)若くは止釘を以て削る事、我国の方法なるが、彼の台上には一面に坪木(つぼき)の大小に依りて前後の坪に止(とめ)を差して、
毫も動かざる様、為して、向鉋(むかひかんな)を以て作業す。故に仕事の早く、且(かつ)愉快気なる事、見るものをして羨ましむる程なり。
頭の発達と親切
実際上の智識に於て発達せるが為に作業其の物に就て敏捷なるのみならず、社会の嗜味と時代的要望の新品とを先んじて製作し、以て対内的にも対外的にも優勝の地位を占ん事を念として居れるを以て、製作品の嗜好に副ふのみならず、其の親切なる製作振りに拠りて購買者の信用を博するやにて、我国の如く廉価品といへば、不親切なる製作を為し、将来の事を毫も省みざるが如き思慮なき事は為さず、飽く迄、親切なる製作を為し、永久に購買の信用を得んとする彼(か)の国風も邦人の学ぶべき点なるが、現在彼が製作し居れるは象嵌机なる未製品なるも、其の象嵌の方法等にありても習ふべき点ありとの事なるが、素人観を以てするも、彼が製作振りと我国当業者の製作振りとの巧拙は識別するに難からざるなり。
彼の製作完成品
現在製作しつつある前に彼が製作せる彼(か)の国に於ける台所の準備台を見るに、
其の構造・着色共に見事なるものなり。而も其の用材たるや下駄に用ふる処のツブ材なりとの事なるも一見何人も之れをツブ材と見ざるべく、是れは着色の巧妙なると磨きの甚だしき努力とによりて然るもの也との事なるが、着色法の如きも我国にては概(おほむ)ね出来上がりたる後、為すものなれど、彼は最初着色したる上、組立つるものなれば、組上げ後、不体裁なる廉(かど)を認めず、又抽斗(ひきだし)の底の如きも我国にては直ちに打附けたるが普通なれども、彼が製作品を見るに、底は直接張りたるものにあらずして、桟ありて4・5分も揚げ居れり。之れは抽斗中、重量の物を入るるも、抽斗を使用する上に於て自由なるのみならず、器物其の物に狂ひを生ぜざる為なりといふ。当業者は軈(やが)て見るべき必要あるべし。(『香川新報』1917年3月11日と13日)
丸亀収容所で収入に結びついた所外労役はこれだけであったが、俘虜の特殊技能を示す機会はその他にも2・3設けられていた。
午後、香川県立高松師範学校外、県立4学校音楽教師ノ希望ニ依リ俘虜卒エンゲル
(音楽教師)及ビ同伍長スタインメッツ ノ2名、市川中尉監視ノ下ニ丸亀高等女学
校ニ到リ、試験的奏楽ヲ為ス。(『収容所日誌』1916年10月21日)
この試験演奏の後、1916年11月4日に丸亀高等女学校の書記が収容所を訪れて、「俘虜音楽教師ノ件ニ就キ」協議しているが、雇用の実現には至らなかった。恐らく通訳の不足がその理由であったと思われる。
11月6日には納富所長が香川県庁に出向いて、鞣革(なめしがわ)の製作について協議を行なった結果、助成金を得て1917年1月から試作品の製作に取りかかることになった。これが大いに期待されていたことは新聞報道から分かる。
鞣革の試製
独逸俘虜を傭ふて 成功したら日本製革界の革命
日本内地に於ける独逸俘虜の使用は漸次行はれつつあり。斯の如きは閑殺されんと
する俘虜も又、本邦産業上、他山の石たるべく一挙両得の次第なるが、我丸亀俘虜収
容所収容中にも麦酒醸造3名、帽子製造2名、電気工9名、金銀細工1名、染織(=
染色)2名、麺(=麺麭)製造2名、指物6名、製陶業1名、革工3名あり。已(す
で)に指物師6名は県立工芸学校に傭聘したること所報の如くなり。
然して革工3名に就ても客冬以来、本県製革業者等に於て鞣革試製の議あり。収容
所長は種々斡旋、県庁とも交渉の結果、寧ろ県費を以てせんと今回、県費150円(50
円の誤り)を支出し、試製を委托したりと云ふを聞くに、薬品・原料等諸費49円70銭を以て1枚7円の山羊鞣革2枚及び1枚15円の牛皮鞣革2枚を製する由にて、乃ち若し之れを売る時は合計44円を得るを以て試験費は僅々6円に過ぎざるべし。然して此の試製は成功の希望を以て既に準備に着手せし筈なりと云へるが、若し十分成功の暁は東京に於ても未だ完全に製工し得ざる立派なる独逸の鞣革を製出し得て、本県は勿論、本邦製革業界は一大新生面を開かるることとなるべし。
此の試製に従事する革工はヘルマン・クランク(=グランツ? Hermann Grantz)
(35)、ベルンハルト・フーベル(Bernhard
Huber)(21)、フェルヂナンド・ヂュー
ルコップ(Ferdinand Dührkopp)(36)の3名にして、英支両語に通ぜるものもあり。
今製革技術の如何なるものなるかは彼等が経歴の表示する処なるが、ヘルマンは英
語に可也り通じ、小学校卒業後3ケ年間、父の許にあり。製革術を修得し、後ノイミ
ュンスター、ヘルマン・ラーゲル製革会社に半年、チューリンゲン、ノイス・エル・
ウェベル製革会社に1年、バーデン・ノイスタット、ヴェ・フィルゼル製革会社に1
年、瑞西ガルレン、ゲェ・トレーカー製革会社に2年間、鞣革職に従事し、後皮革鑑
査掛として上海カルロウィツワ商会に4年半、青島ハー・ディデリヒゼン商会に5年
就職し、ベルンハルトは英語・支那語に熟達し、小学校を了へたる後1年間、職業補
習学校に鞣革を学習し、更に3年間ハイムタウゼン会社にて鞣革製法の実習を為した
る後、ミュンヘン市、ヘスカルベルゲル革製造会社に就職し、夫(それ)より上海、
フールマイスター商社に於て2年間、皮革鑑査掛を勤め、フェルヂナンドは英語に熟
達し、小学校卒業後は3年間ロスバッハー、エルムスホルン会社に鞣革を修得し、鞣
革職工長として4年間、ザクンデー、ベルンベック会社に9ケ月間、ザツンノスセン、
ブッツゲル会社に9ケ月間、其の他2・3製革会社を経て青島ハー・ヂーデリヒゼン商
会に14年間、製革鑑査掛をなし居たりとぞ。(『香川新報』1917年1月11日)
しかしながら大きな期待にもかかわらず、この鞣革の試作は不成功に終わっている。この試みも、もっと十分な時間があれば、期待通りの成果を収めることができたであろう。
大正5年11月6日、製革作業ニ就テ香川県庁ト協議スル処アリシガ、12月ニ至リ
鞣革試作費トシテ同県庁ヨリ金50円ノ送付ヲ受ケタルヲ以テ、大正6年2月上旬ヨリ
之レガ技能ヲ有スル俘虜2名ヲシテ試作を開始セシメ、3月下旬ニ至リ略(ホボ)完成
セシモ、原料ノ革質及ビ着色剤不良ナリシ為、優良ナル鞣革ヲ製作シ得ザリキ。此ノ
製造間、屡々(シバシバ)県庁及ビ善通寺兵器支廠ヨリ作業実視ノ為、来所シ、特ニ
事』)
このように丸亀収容所では俘虜の製作品を日本人に公開することも積極的に奨励しており、1916年10月には
大正5年10月
工、絵画等ノ俘虜製作品数点ヲ出品セシガ、其ノ後一部有志ノ注文ニ応ジ指物、鉄葉
細工等ヲ製作セシメタリ。(『収容所記事』)
これは新聞報道からも確認できる
俘虜出品の数々
已報(=既報)の如く丸亀俘虜収容所内の俘虜製作品は18日、
し、希望者の買求めに応じ居れるが、其の出品物は西洋建具、文書箱、如露(じょろ)、
錻力(ブリキ)製の貯金箱、銅製の巻煙草入(42砲模擬)等にて、価格は左程廉(れ
ん)ならざるも、珍しきまま、已(すで)に2・3は売約済となり居れり。尚右西洋建
具類の製作人は上等兵オクフー(=オート?Armin OthoをOkhuと誤読か)と云へ
る者なりと。(『香川新報』1916年10月20日)
1917年3月の陸軍記念日には「一般教育及ビ殖産工業ノ参考トシテ俘虜製作品展覧会」(『収容所記事』)が塩屋収容所近くの教覚寺で開催され、以下のような55点が出品されている。
展覧会出品品目表
安楽椅子、書棚、縫物台、喫煙机、煙草盆、時計、人員検査図、肖像画、居室図案、
庭園設計図、編上靴、鉄砧(カネキヌタ)、独仏戦死者墓、独露戦死者墓、貴族的邸宅、
軍艦、牛ノ輓具(ヒキグ)、菓子、灰皿、陰影画、カイザー肖像、枕、各種腸詰、鰯ノ
酢漬、装飾コップ、酒杯、装飾用壁掛、時計掛、鏡台、額縁、インキ台、製本見本紙
挟、剥製、小亭、運動用器具、回転箱、風車、マンドリン、ラウデ(=ラウテ)、チッ
ター、晴雨堂、燈台、本堂図、ヨット、レース編器、チェッペリン飛行機、アーエー
ゲー複葉飛行機、青島堡塁模型、炭鉱模型、大砲、色写真、素焼、ハンモック、庭ノ
模型
これらの出品物の製作者は新聞に詳しく報道されている。
俘虜製作品展覧会、今明の両日
10・11日の両日、午前9時より午後4時迄、仲多度郡六郷村塩屋別院前の教覚寺内
に於て俘虜製作品の展覧会の開催あり。彼等が不充分なる上、道具も内地物にて製作
上困難を極めたらしくも、緻密なる脳裡より出でたる製作には参考となる品多し。
会場は廃寺同様なるにも拘らず、装飾の為、異彩を発し居れるが、我日本の占領し
たる青島第4歩兵砲塁はフワイス(=エフ・ヴァイツ?Franz Weitz)とクンク(=リ
ンク?Alfred Link)とクレチマール(Otto
Kretzchmar)の3名の手にて製作され、機
関銃の備へ、サイチライト(=サーチライト)の設置、鉄条網等至り尽せる横6尺、
奥行4尺の模型。
列合軍(=聨合軍)を悩したるテッベリン(=ツェッペリーン)飛行船模型はボア
ガー(=ヘッカー?Wilhelm Höcker)の制作にて、天井に吊るされ、高さ2尺の西洋
針箱は実に鮮明なる塗色にオステルハロー(=オステルロー Georg Osterloh)の製せ
られたる物。
炭坑模型はフラツ・ヱンゲルス(=フランツ・エンゲルスFranz Engels)外7名の苦心にて、電気仕掛にて境内の石炭を引き揚ぐる等巧妙なる製作。
肱掛椅子はフランツ(Oskar
Franz)、レーイシュー(=レッシュOskar RöschまたはリュッシュHermann Rüsch)の製作にて、掛け心地頗る宜(よ)く、フリドマン(=フリートマンAdam Friedmann)の筆にてココアーの広告は柱に掛けられ、マックス・ノイマン(Max Neumann)は収容俘虜中の第一技術家にて、客年同市にて開催されたる四国特産品評会に数多出品したる者なるが、這回(しゃくゎい=今回)は高さ6尺、巾4尺の本箱兼雑具箱を製作し、ププッケー(Friedrich Pupke)の緻密なる時計を製作し、3寸位の板の中に箔(は)め、ムッスマン(Heinrich Mussmann)の煙草台、アルハト(=アルバート)・ハイル(Albert Heil)が南独逸の古楽器を12絃の螺旋にて、ラウテーと云へる楽器を製作したるが、ハイルは上海に久しく居りし化学者なる由。
又ハンリア(=ハンガリー)の古楽器にてチッターと云へるは螺旋の29絃にて、コルプ(Joseph
Kolb)の製作なるが、妙なる音を発する物あり。
又ノルテマイヤー(Erich
Noltemeyer)は木製のヨット模型を、日本両刻煙草包み紙の錫を以て重量約200目以上の回転自由なる砲車をカール・ベーム(Karl Böhm)、又セメント製にて6種の体育機クラバツソウはフランツ・ハベレスト(=フリードリヒ・ハーベレヒトFriedrich Haberecht)の製作なるが、1個80磅(ポンド)あり。其の他、建築図等参考となる物多し。(『香川新報』1917年3月10日)
この製作品展覧会には二日間に3万人もの観覧客が訪れて、展示品の約9割が売れたと言われる。
俘虜製作品展覧会、好況に終る
曾記(そうき)塩屋俘虜収容所前の教覚寺にて開催せし俘虜製作品展覧会は10・11
両日共、観覧者多く、午前9時より開場の所、7時頃より学生・青年会員等多く、一般
公衆は正午頃よりヤット観覧せし程にて、中には入場するを得ず、帰るあり。此の入
場者は1日、1万5千名にて、二日にて3万名に下らずと云う。併して製作品は9割
方は売約済となれり。因みに高松商業会議陳所より該物品を同市物産陳列所に陳列す
べき交渉ありしも、買約者、物品の引取を急ぐより其の事運ばざりしと。(『香川新報』
1917年3月13日)
残念ながら、この時の出品物の現存はこれまでのところ確認できていないが、幸いにも1点のみは写真に撮られている。図版1は複葉飛行機の模型を制作中の俘虜の写真で、「俘虜生活状態ニ就キ諸種ノ撮影ヲ行フ」(『収容所日誌』)ために来所した俘虜情報局の写真技手が1917年2月21日―23日に撮った写真の1枚であり、1918年に俘虜情報局が発行して海外に発送した『大正三四戦役・俘虜写真帖』(Vues photographiques consernant les
prisonniers
de guerre au Japon (Campagne 1914−1916))に収載されている。当時としては模型飛行機は極めて珍しかったために採録されたのであろう。
出品品目表に挙げられている「本堂図」というのは、後に板東収容所内印刷所で石版刷りされる塩屋収容所・西本願寺塩屋別院平面図(注10)の原図かも知れない。
図版2は丸亀収容所にいたヴィルヘルム・メラー氏旧蔵のアルバムに収められていた展覧会場の準備風景である。
二日間で約30,000人という入場者数は、当時の
meines Vaters
(第1次大戦中の青島守備兵らの運命―私の父の遺品より). Studienwerk
Deutsches
Leben in Ostasien e. V.,
このような(日本人との)出会いの頂点は俘虜らが念入りに、総力を挙げて準備した1916年[正しくは1917年]3月の展覧会だった。彼らはそれを、幾分皮肉を込めて「万国博覧会」と呼んだ。このために工作を行ない、素人仕事を行なった。道具と材料も並べられた。その結果ついには周辺の招待された住民は俘虜外国人の手仕事の技能に感心し得た。
この時の経験が、1年後の1918年3月に板東収容所で開催される大規模な「板東俘虜製作品展覧会」を組織することに役立ったとのことである。そして丸亀と板東での大成功を受けてその後、久留米や青野原、似島、名古屋で開かれる俘虜製作品展覧会も各地の日本人に大好評を博することとなる(注12)。
かくしてこの時代に、各地におけるドイツ兵俘虜の技術指導や所外労働と製作品展覧会を通して、ドイツ人とドイツ製品に対する日本人の肯定的な観念が一挙に固まり、広まって行ったものと考えられる。
注 記
1) その見本が防衛研究所図書館蔵『大正3年乃至9年戦役俘虜ニ関スル書類(俘虜取扱顛
末)』所収の「通報要領」(大正3年10月1日)の中に示されている。
2) この一人が元東大外国人教師のジークフリート・ベルリーナーである。
3) エンゲル楽団の指揮者パウル・エンゲル。
4) 板東収容所で効果を挙げた健康保険組合のモデルは先に丸亀収容所で結成されていた健
康保険組合であったが、この結成には保険学の専門家であったベルリーナーの他にこの「保険業」従事者も関わっていたのであろう。
5) この17名の氏名は防衛研究所図書館蔵『俘虜ニ関スル書類』(自大正3年至9年)中の
「俘虜収容換ニ関スル件報告」(大正5年10月11日)に挙がっている。「副官ヨリ丸亀衛戍司令官ヘ通牒案」はこの後にある。
6) ポーランド人のタデウス・ヘルトレ。
7) 『香川新報』(1914年7月―1917年6月)のマイクロフィルム複製に対して香川県歴史
博物館と香川県立図書館に感謝いたしたい。
8) アジア歴史資料センターの防衛研究所図書館蔵『欧受大日記』大正6年2月欧受第1604
号「俘虜使役ニ関スル件」にも同文あり。
9) 人員数は瀬戸武彦『青島から来た兵士たち―第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』同学社
2006年による。
10) 高橋輝和「1914年12月丸亀俘虜収容所発のドイツ宛て書簡」岡山大学文学部紀要第
37号2002年158ページ図版1参照。
11) 1917年6月に六郷村
市の人口は24,480人であった(『新編
12)『ドイツ軍兵士と久留米―久留米俘虜収容所II』(
ージによれば丸亀収容所以外の、日本人に公開された俘虜製作品展覧会の日本人入場者
は次の通りである。
板東収容所(1918年3月8日―19日):44,431名
久留米収容所(1918年11月29日―12月5日):1,681名(一般大衆入場不可)
青野原収容所(1918年12月15日―20日):約15,000名
似島収容所(1919年3月4日―13日):163,447名
名古屋収容所(1919年6月22日―30日):約103,000名
図版1.模型飛行機を制作中の俘虜(写真提供:
図版2.製作品展覧会場の準備風景(写真提供:ディルク・ファン・デア・ラーン氏)
丸亀俘虜収容所のドイツ兵俘虜による技術指導と製作品展覧会
高橋 輝和
Technical Instructions and
Exhibitions for Arts and Crafts
by German POWs at Marugame
Terukazu TAKAHASHI
・図版は最後のページに
・図版1の写真は2の写真と同じ大きさで
・英数字はセンチュリー体で
・
抜き刷りは全部で50部