編集者注: 

以下の篠田さんの文章「祖父Viktor Walzerを訪ねる最後の旅『チンタオ』」は、篠田さんとWalzerの関係を知らない方には、理解し辛いかもしれません。そのような方はまず「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール・ヴァルツァーへ」(すぐ下のURL)を読んでから、本文を読まれると理解し易いのではないかと思います。

  http://shnable.hp.infoseek.co.jp/an_walzer.htm

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2007年 春

 

祖父Viktor Walzerを訪ねる最後の旅「チンタオ」

東京   篠田和絵

 
  

 

 

2004年に、私はドイツ・チンタオ戦(1914年〜1920年)の俘虜(大阪→似島)で、帰国後から平成までの約90年間、その消息がわからないままであった祖父Viktor Walzerを探し出すことに成功しました。これは2003年に立ち上がった「俘虜研究会ネットマガジン」との出会いがきっかけとなり、日本のドイツ兵俘虜研究者およびドイツのハンス・ヨアヒム・シュミット氏の甚大な調査努力のおかげです。

1900年代の初め(明治末)に、新天地をめざして天津に出た長崎出身の祖母ウメ(当時19才)は、折しも天津で働いていたドイツ人Viktor Walzerと出会い、彼らは共に暮らし、2人の娘をもうけました。一家はその後、東洋のベルリンといわれたドイツの租借地チンタオに移動し、平和な家庭の誕生かと思われました。が、1914年チンタオを舞台に、日本とドイツの間に戦争が勃発。Walzerとウメの運命は大きく変わってしまいました。やむなくチンタオから長崎に引き上げたウメは、その後、Walzerと永久に会う事もなく、長崎での新たな人生を経て1937年に49才で他界、2000年、2003年には娘達も亡くなってしまいます。Walzerの消息を一切知ることもなく。

私のWalzerの消息発見は彼女達の死後であり、残念ながらそれを伝えることは出来ませんでした。孫娘のせめてできることはウメと娘2人の写真を持って、ラインランド州メッテンドルフのお墓に眠るWalzerを詣で、チンタオで生き別れになってしまったWalzer(ワルチェルさん)に会わせてあげることでした。それは、2004年の春のことでした。

 

2007年。それから3年目の春が巡り、私はWalzerとウメさん家族が住んだチンタオの地にどうしても、行ってみたいと思いました。

ハンス・ヨアヒム・シュミットさんのHP「チンタオ1914年のドイツ人俘虜住所録」にその住所は、フリードリッヒ街とブレーメン街が交差する地点とあります。瀬戸先生から「良い旅をするよう」にと書き添えられた言葉と当時の地図や写真をいただきました。フリードリッヒ街(静岡町→中山路)の写真を眺めて、その場所をインプットしました。身がしまる思いでした。また出発直前にチンタオ行きの希望をシュミットさんに告げますと、シュミットさんから最新の情報が送られてきました。それには『この場所を覚えている友人(Professor Matzat (born 1930 in Tsingtau)が言うには、その家はフリードリッヒ街(中山路)の中心に位置しており、そこの一角はタウンハウスで、Alfred Siemssen によって建てられ、彼はこのハウスのオーナーでもある。タウンハウスは2005年9月まで存在していたが、その後、壊された。』とありました。また『たとえこの場所に行ってもあなたは家を見ることは出来ませんが、あなたはそのことで悲しんだりはしないものと思います。』と、その場所に緑のペンでポイントした地図が添付されていました。準備万端、間違いなくその場所に行けるに違いありません。ところで、住居が2005年まで存在していたとは!これにはびっくりです。まさか、つい最近まで残っていたなどとは夢にも思いませんでしたから。逆になんだかドキドキしてきました。私のチンタオ旅行のハイライトは、もちろんWalzerの住居跡地を訪ねることでした。

チンタオ旅行のために、せっかく沢山の知識をつめこんだのですから、旧・新市街をはじめ出来るだけ多くのものも見て回らなければなりません。旅は始まりました。さて・・・・・・・?

 

1.地図Walzerの旧居地点>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/1.foto_tsingtau.jpg

 

 

第1日目 4月12日(木) 晴れ後曇り雨  

 

成田→ チンタオ→ 青島ビール工場→ チンタオ戦砲台跡→ 青島駅→ 春和楼→ 貴都ホテル     

<チンタオは大都市>

 

チンタオ

 

朝、5時起床。さあチンタオに出発です。

9時45分飛行機は成田を離陸。チンタオ行きを計画してから2年が経過しています。決して遠い外国ではなく、ごく身近な国内旅行なみの時間で簡単に行くことができます。しかし今回は、Walzerのもうひとつのルーツであるチンタオに近づくことを思って私の心は平常心ではありませんでした。

 

2.青島空港>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/2.foto_tsingtau.jpg

 

12:00。いよいよ青島空港に到着です。初めて見るチンタオの景色は、現代アート風な空港から始まりました。空港で旅行社のガイド黄さんの迎えを受け、新市街地にある貴都ホテルまでバスで送ってもらいます。車中で黄さんからチンタオは、想像以上の都会であること、人口が750万人と非常に多いこと、昔のドイツの建物がたくさん残っていること、チンタオの海岸は来年のオリンピックのマリンスポーツの会場になるため、市内は化粧直しや、建替え、建築中が多いこと、交通信号は守られないのが普通であり観光客は横断にはよく注意すること、海鮮料理がおいしいことなどなど説明を受けました。特に記憶に残ったのは人口過多による職業の不足から、若者が殆どの職業を独占しているという話でした。たしかに空港でもホテル、レストラン、帰る前の日に体験した中国式マサージ士さんでさえ、みな20代の若者ばかりでした。仕事の取り合いになるせいか、その若者達はみな大変良く働きます。(4日間の滞在中、町を見渡しても日本のあちこちで見かけるようなタガの外れた若者の姿は一切見当たりませんでした。)

黄さんとはホテルまでで、以後、会うことはありません。日本語が通じたのはこれが最初で最後でした。(実はこれが旅行の精度にマイナス面を多く残し、反省材料になりました)。

 

さあ!これからは我々夫婦が考えたチンタオ・フリーステイのスタートです。今日の午後半日は、青島ビール工場・砲台跡・青島駅まで行って、旧市街に入り、夕食をする予定です。Walzerの元住居跡探索は明日の計画なので今日は落ち着いています。まずはホテルで昼食を済ませました。新市街にあるこのホテルの窓からは、目前に近代的なビル、空に届かんばかりの建築中の建物が見えます。ホテル前のバス停には、大勢の人々がバスを待っています。この風景は想像以上の大都市です。

 

――ついでにちょっと、滞在中に知った「路」と「建物」について話すと、ホテルの前の路は香港路と呼ばれ、これが青島湾を背に、チンタオの新市街と旧市街を東西に結ぶ幹線道路になっています。東西に走る香港路と交差して南北に走るいくつかの主要な路には、美食街やショッピング街などが広がって市民の生活エリアになっているようです。香港路の路幅は(片側5車線?)と大変広いのですが、それでも狭しとばかりに車は路いっぱいに溢れて走っています。両側は目を見張るばかりの超高層ビル、ビル、ビル・・が建ち並び、それでも足りないのか、大型クレーンがコンクリートボックスを空高く積み上げており、すさまじい建築ラッシュをあちこちで目にします。エネルギッシュな新市街の風景は東京の比ではないかもしれません。「すごい!」一瞬ときめくのですが、しかし、遠めには、「超高層ビル群」に行き交うチンタオの人々が拒絶されているように見えてしまいます。“何故に建物はここまで高く、大きくなくちゃいけないのか”と私は思ってしまいました。チンタオの一般平均収入は日本と比べればまだまだ低いそうです。ちなみにマンションのお値段は5千万円と非常に高く、市民にとって高嶺の花だそうで、一体誰が住むのでしょうね?この繁栄ぶりはかつての日本のバブル時代をどうしても思い起こさせます。

町の交通はバスとタクシーが中心で、かなりのスピードで乱暴に走ります。人は横断歩道のない場所でも、平気で信号を無視して車の流れの中へ入って行き、横断を始めます。ガイドの黄さんの説明通りです。これにはびっくりしました。1日目は足がすくんで私は動けませんでしたが、2日目には、チンタオ人にぴったりくっついて目をつぶって渡りました。「郷に入れば郷に従え」です。(ああ、コワカッタ!)――

 

3.ホテルから見た建築中のビルディング>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/3.foto_tsingtau.jpg

 

青島ビール博物館

 

さて、まずタクシーで「青島ビール工場」へ行くことにしました。観光客を乗せたタクシーは、ありがちなことですが、北にある青島ビール工場方面とは逆の海岸方面に向かいました。車はやがてヨーロッパ風の美しい家並みの中を走ります。これは本で見た「高級別荘地八大関」のようです。1930年から保養地として開発され、ドイツ、ロシア、イギリス、フランス、スペイン、そして日本などの国のスタイルの建物があり、チンタオ戦の後には日本も利用、ヨーロッパの王族や蒋介石などの名が残る場所です。

勝手なタクシーには少し不愉快ではありましたが、八大関を見せてくれたことで、それを許すことにし、青島ビールへ向かうようにと夫が運転手の顔に地図をくっつけました。はい、はい(と言ったかどうか?)と車は北に向かいました。旅行中何度か同じことがあり、タクシー代を考えて警戒しましたが、大きく寄り道した割には、払ったタクシー代金はいつもとても安いものでした。

ともかく登州路にある青島ビール工場に着きました。少し雨が降ってきました。今日は平日でもあり、稼動中なので作業服を来た人々がたくさんいます。当時の佇まいを残す工場の敷地内にドイツ様式で造られたレンガ造りの「青島ビール博物館」はありました。2003年設立の新しい建物です。館には創世期の記念写真がいろいろ飾られおり、外国の要人が多く見学に訪れたことがわかります。冷暗な部屋の中を工程順に進みますと、当時使用した大きな銅製の発酵タンク、貯蔵タンク、木製の樽などが並んでいます。ドイツ人は当時本国から原料も設備機械も運んできたそうで、ビール作りに大いなる情熱をかけたことがわかりました。2階に上ると博物館と工場を仕切ったガラスの壁越しに下の部屋を見ることが出来ます。そこでは白衣を着た作業員によって実際にビールの瓶詰めが行われており、もちろんベルトコンベアーに乗ってすばらしい速さで詰められて流れて行きます。ドイツ時代のビールづくりを観察していたはずの私は一瞬の内にタイムトンネルから現実に引き戻されました。チンタオビールはチンタオが誇るビールで、それはチンタオの名山である労山の名水を使用して作られているため余計に美味しいのだそうです。1903年ドイツによって興され、ほぼ15年間のドイツ時代、日本時代、国民党時代、共産党時代をくぐりぬけて、今もその名を世界に知らしめている息の長いビールなのです。全工程を見終わるとホールでは試飲できるとあり、夫はそれを楽しみに歩いていたと思います。が出されたビールはコップに半分(100cc)程度で、ショックでした。

 

4.青島ビール博物館>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/4.foto_tsingtau.jpg

 

砲台跡

 

さて、青島ビールを出て、これから「砲台跡」へ向かいます。砲台はビール博物館の近くの小高い青島山の上にあります。そこからは広大な海と山の裾野に広がる街が見えます。美しい青島の海と街が見渡せる絶好の場所です。

1914年ドイツの司令長官は海に7万余の日本軍の戦艦を見ながら、5000人のドイツ兵でどう戦うか作戦を練ったのです。しばし眺めている間も誰にも出会わない寂しい砲台跡でした。

脇の道に「地下壕」の案内看板があるのを見つけました。地下壕の存在を初めて知った我々は、興味津々で入ってみました。重厚な鉄の扉があります。ハリーポッターになった気分で薄暗い壕の中に入って行きました。規模は小さいけれど壕は司令官室やゲスト室、休憩室などが機能的かつ整然と作られていました。キッチンもあり、十分な広さがあって調理が十分できる工夫がされていました。壕の壁はコンクリートで出来ていましたがその時のものか、どうかわかりません。部屋にはスチームや電気もあり、もちろん水もある余裕のある地下壕です。昔、沖縄で、最近では「硫黄島の手紙」などで見た悲惨な地下壕とは環境がまるで違います。国民性の違いでしょうか?そうは言っても、地下壕を一巡する間に、我々はすっかり90年前にタイムスリップしました。地下壕の中はここで起った90年前の「戦争」を実感させるに十分でした。(まさか作り物じゃないでしょうね?・・・)外は、雨模様で薄暗くなってきました。タクシーで青島駅へ直行です。

 

5.砲台跡>

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6.鉄扉のある地下壕への入り口>

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7.地下壕>

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8.司令官室>

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9.休憩室>

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青島駅

 

時計台が聳える「青島駅」はいわば租借地時代の象徴です。しかし駅の姿は、雨の中、ドイツ建築の屋根と上半身を出して、他はネットをかぶり、工事中の塀で囲まれていました。工事中である(現在使用できません)とはガイドブックにも書かれていましたから、ドイツ様式の駅を壊してしまうのだと思い込んでいた私はその考えが間違いであることを知り、大喜びしました。

青島駅はドイツの建築様式の外観をそのまま残します。チンタオは来年オリンピックの会場(マリンスポーツ)になるために特色あるドイツ建築の駅を化粧し直し、多くの外国のお客様を迎える準備をしているのです。塀に近代的に改装された駅舎の完成図が描かれ、さっそうとした新幹線の姿が見えます。ちなみに中国製新幹線と公表されているが、ガイドの黄さんの話では日本製であるとのことでした。そして新幹線は北京とチンタオの間を1時間半で繋ぐそうです。記憶が間違っていなければ、他に上海、天津も北京と新幹線で1時間ちょっとで繋がるそうです。完成をオリンピックに間にあわせるため、工事が急ピッチで進んでいます。地下鉄も2007年完成予定だそう。雨が強くなり、土がむき出した駅の周辺をうろうろしたおかげで、夫も私も泥んこになってしまいました。

日が暮れました。この辺で切り上げて今晩のディナーの場所「春和楼」を早く探さなければなりません。

 

10.青島駅>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/10.foto_tsingtau.jpg

 

春和楼

 

『旧市街の中山路(南北に走るメイン通り)と天津路(山側を東西に走るメイン通り)の交差点にあり、1891年創業、100年以上続いている山東料理の老舗レストランで、建物もそのころのものと思われる』とガイドブックに出ていた春和楼に向かいました。ここのおすすめは「香酥鳥」と「なまこ料理」とか。ところが我々が地図に書き込んだ春和楼が出てきません。まず、桟橋からまっすぐ北に伸びる「中山路」が見つかりません。ここと思う通りは名前が違う、歩行者に聞くと(地図を黙って見せる・・)、あっちだ、こっちだという。皆違う。3度繰り返したあげくに、今度こそ中山路と思われる路に出ました。それにしても、違う路を指差す中国人は親切なのか、いいかげんなのか、全く!空腹のせいでチンタオ人に八つ当たりです。やがて、角にお目当ての春和楼が見えてきました。確かに古い建物でややうす汚い。1階はがらんとして何もなし。2階がレストランなのでしょう、女の子が2階を黙って指差しました。無愛想なのは覚悟の上なので、美味しいことを祈って2階に上がりました。(Walzerとウメさんもここで山東料理を食べたかもしれない思いながら・・)

香酥鳥を筆頭に写真を見ながら6品ほど適当に頼んでみました。山東料理は薄味ですが、6品とも実にいい味つけでした。空腹のせいでよく食べました。あわび、なまこ、貝、えび・・やはり海のものが中心。紹興酒を結構飲み、たらふく食べました。それで2000円と聞いてその安さにびっくりでした。初日のスケジュールをなんとかこなして、長〜い一日が終わります。

 

 

第2日目 4月13日(金) 晴れ 

 

迎賓館→ 基督教堂→ (旧総督府)→ 天主教堂→ Walzerの住居跡→ 桟橋→ 桟橋賓館昼食→ 小青島→ (小魚山)→ テレビ塔→ 貴都ホテル→ 怡情海鮮夕食→ チンタオ式マッサージ体験→・・・・・・・・・ ダウン    *( )は行けなかった場所

 

11.歩いた地図-手書きしました。>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/11.foto_tsingtau.jpg

 

<歩きました>

 

朝7時前に起床。快晴です。今日はチンタオのハイライト、旧市街のWalzerの住居跡を訪ねます。しかし直ぐにWalzerの地点に行かず、信号山の上にある「迎賓館」から山をくだって「旧総督府」や「基督教堂」などの旧市街を散策しながら「天主教堂」まで歩き、中山路に下りてくる敢えて反対コースを取りました。天主教堂の前の肥城路(ブレーメン街)をまっすぐ降りて行けば、中山路(フリードリッヒ街)にぶつかります。その交差点が、「Walzerの住居跡」のはず。半日のコースです。ジャン!!

当初はバスに乗って行こうかとも。しかし現地での難題はやはり言葉でした。聞いても読んでもさっぱりわかりません。夫は昨晩、春和楼で「我多飲多食謝謝」(たくさん飲んでたくさん食べた有難うと言ったつもり)と紙に書いて、お店の女の子に自信たっぷりに見せましたが、全く通じませんでした。そんなわけで、さすがにバスは怖く、予め用意した必須中国語カードを相手に黙って見せるという方法で歩くことにしました。カードも頻繁に使うとそれも良し悪しで、相手は「◎×○◇×◎□△○×・・・・・」。親切に教えてくれますが、いよいよますますこちらは全くもって何もわかりません。

 

迎賓館(1907年完成)=元ドイツ総督の官邸 

 

スタート地、元ドイツ総督の官邸、「迎賓館」へは、タクシーを利用して行きました。迎賓館は信号山の一番上にあり、青島特産の花崗岩を所々にはめこんだドイツ建築の重厚な建物です。日本占領時代は司令官邸として、その後は国民党政府や共産党の迎賓館として使われました。林彪が使った旧執務室や毛沢東、江青が好んで使った部屋は文化財として保存され、現在一般公開されています。厳かなホールにはスタンウェイのピアノが置かれており、シャンデリアや調度品は当時の華やかかりし頃の社交場をほうふつさせます。『ドイツ総督の官邸として建てられたがあまりにも豪華につくりすぎたため、当時のドイツ総督は本国から非難を受けて辞任したというエピソードもある』と「小学館・週刊中国悠遊紀行No.29」は紹介しています。

迎賓館を後にして、木立の向こうに赤い屋根の家が見え隠するドイツ情緒たっぷりの中を基督教堂に向かって歩いて下っていきました。

 

12.迎賓館>

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13.迎賓館の2階から>

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基督教堂(プロテスタント)(1910年完成)

 

大勢の人が行き来している通りに出てきました。このあたりは、ドイツ統治時代に総督府野戦病院のあったところです。「青医附院前」というバス停に人が大勢います。今もこの近くに病院があるのでしょう、利用する人々が集まってくるようです。交差点の片側は丘になっていて、大きな基督教堂がその上に建っています。

『チンタオでは1897年のドイツ統治と同時に、キリスト教各派の布教活動が始まり、基督教会は1910年に総督府と総督官邸の中間付近に建てられた』とガイドブックに出ておりました。荘厳なドイツ教会が中国の人たちが行き交う街角に100年近くも建ち続け、しかもすっかりそこに溶け込んでいる姿に不思議な思いがしました。

基督教堂の建物は迎賓館と同じように花崗岩をはめ込んだ独特のスタイルを持ち、どっしりした構えの立派な教会です。基督教堂はプロテスタントで、教会の中は質素ではありましたが、モダンなデザインはさすがです。屋根に聳える青い時計台は1900年から今日の日まで、100年の時を刻んでおり、そう思うとちょっと感動的です。

 

14.基督教堂>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/14.foto_tsingtau.jpg

 

基督教堂を出て次に旧総督府(現在は庁舎としてつかわれている)へ行くつもりで歩き始めました。しばらく歩くうちに、遠めには美しかった建物も、かなり傷んでいるものが多くなり、ドイツ式建物の石塀を壊してそこから地元人が出入りし、何人かで雑居している様子。階段をつくり、何やら物を並べて売っていたりしていて、かなり様変わりしてきました。道路に紐を横断させて渡し布団を干している風景、ペンキを塗りたくってお風呂屋さんに変身させた建物、これらはたくましい中国の暮らし方のように見えますが、・・はて、さて旧総督府はどこに?これは路を間違えたようです。そこで私たちは総督府跡を諦めて天主教堂に行くことにしました。残念だけれど、一刻も早くWalzerの住居跡に近づきたいのが私の正直な気持ちでした。(反省!)  

 

15.-1中国式に変えられた風景>

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15-2ペンキを塗ったお風呂屋さん>

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16.傷の目立つ家>

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更に下って天主教堂に向かいます。今度は間違いなく、天主教堂が見えてきました。

 

天主教堂(カトリック)(1934年完成)

 

『カトリックの天主教会は1898年に青島での布教活動を開始し、1925年には市内の各所に教堂ができるまで発展しました。そして、1930年ドイツ各地のカトリック教会からの寄付を元に、今尚残る天主教堂が旧市街の高台に建設されました。』とインターネットガイドに出ていました。瀬戸先生がお持ちの1905年発行されたドイツのガイドブックによると、1902年に、チンタオでは「天主堂」がまず市民および軍人の信者たちのために建てられ、それは寄宿舎兼備の幼稚園から高等学校までの女子ミッションスクールを併設していたとなっています。それは今の天主教堂とはほぼ同じ場所にありますが、写真で見る限り建物は違います。(今の天主教堂は、1934年完成とありますから、元あった天主堂は壊されてしまったんですね?!ナゼ?)

 

ウメさんが常々、娘達が成長した後に「あなたたちはドイツの小学校に入るはずだったのよ」と語っていたという後日談を思い出しました。それはドイツ本国の小学校ではなくて、このチンタオにあった旧天主堂の「女子ミッションスクール」のことを指しており、Walzerは、東洋のベルリン、チンタオに安住し、家庭を築き、子供達を教育しようとしていたんだと気付きました。子供達に将来の夢を託そうとした父親像が初めて感じられ、じーんと来るものがありました。結局長崎に戻った後、ウメさんは娘達を無理しても当時は優秀な良家の子女の通う学校であったという長崎活水女学院(オランダ坂にあり、日本のミッションスクールの先駆け的存在)に通わせたのは、それがWalzerの意志だったのだということに合点がいったのでした。

 

私の前に見えている現在の天主双塔は、高さは60m。鐘の音は数キロメートルまで聞えるそうで、チンタオの街をすべて見渡たせるほどに高く聳えています。その双塔はチンタオの象徴のようにどこにいても見えました。場所を確認するのに、私たちは自然と天主塔を探しながら歩きました。天主教堂は、基督教堂のがっしりした建築と比べて古典的でカトリック教会らしいダイナミックでしかもロマンティックな建物です。中にはキリストやマリア様の宗教画や光あふれるステンドグラスなどで飾られていました。私たちが中に入った時もお祈りをしているチンタオの人たちが大勢いました。教会はWalzerの住まいのそばにありました。彼が通ったであろう場所に今、私は来ています!Walzerのことを思って私もお祈りしました。

 

17天主教会>

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『尚、教会は文化革命の時にかなり激しく破壊され、今あるのは1998年に修復されたのだそうです。』どうやら歴史に翻弄されながら生きてきた受難の天主堂のようです!

 

教会の前の坂道は、道路標識が肥城路(ブレーメン街)とありました。これに間違いありません。ここを下ると中山路の交差点、Viktor Walzerの旧居跡にぶつかります。

 

18天主教会の坂道>

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Walzerの住居跡

 

教会通りは観光スポットのため、来年に備えての工事中でガタガタしていました。その脇を通って下って行き、そのまま中山路の交差点を向こう側に渡った角の地点!やって来ました。

 

大変です。ないはずのドイツ様式のタウンハウスらしきものがそこにあるではありませんか。「ある!」と思わず叫んでしまいました。壊されていなかったのです。驚きました。そしてうれしくなりました。あれば動揺するかもしれないと思ってむしろないほうがいいと思っていたはずの私でしたが、しかし現実は違いました。あちこち横やら縦やら後ろ前と近づいたり離れたり・・うれしくて飛び跳ねたのが本当です。中山路は黄さんに言わせると東京の銀座だとか。確かに周りは近代的なビルが堂々建っています。中国銀行、そしてチンタオで初めて見た巨大なマグドナルドがタウンハウスの前にあります。賑やかなこの四つ角、そこに、まさに置き忘れられたように、ドイツ式の古ぼけたタウンハウスが残されています。何と不思議な光景!(ジワア・・・・)でしょう。

 

19.ビルに挟まれて残っているタウンハウス>

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青島駅と同様タウンハウス全体は緑のネットに被われていました。これは解体か?はたまた修復か?もし壊すとしてもWalzerはその前に私がここにたどり着くまで待っていてくれたんだと思いました、ええ。思いましたとも!これはまさしく奇跡です。

 

20.ネットを被ったタウンハウス>

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タウンハウス全体の1階はすべて店舗になっており、ネットを掻いくぐりながら店は営業しています。Walzerの旧居は角の家で、そして1階は、子供洋品店になっていました。思うにメッテンドルフの彼の生家も洋品店です。何となく因縁を感じます。

Walzerの家の横に廻ると、2階の部屋が見えます。古いままです。「あそこはリビングだな。きっと、Walzerは1階を仕事場にし、あのリビングで家族と暮らしたんだろうな・・!」と夫がつぶやきました。その部屋を見上げていると安定した家族の新生活がそこに始まっていた様子が自然と見えてきます。あの戦争さえなければ、Walzerとウメそして時子と照子はチンタオで平和に暮らしていたんだという実感が2階の部屋から伝わってきました。人生って、何と不思議なめぐりあわせをするものなのでしょう・・・・!

 

21.タウンハウスの2階>

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タウンハウスを1周して見ました。予想以上にタウンハウスは大きく、それが1ブロックになっています。裏側に回るとドイツ時代と中国時代が混ざり、それらはあまりきれいではありませんでした。再び大通りの反対側から交差点を見ました。新しい近代中国に挟まれて古いドイツが残っている交差点。そこから元来た路を振り返ると凛とした天主教堂がまるで絵の様に見えています。Walzerの旧居と天主教堂。この景色!絶対忘れないぞ、と心に深く刻み付けました。

 

22.ブレーメン街から逆に見ると

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何時までもうろうろする私に夫がいい加減にするように言いました。

私たちは次なる目的地、桟橋に向かわなければいけません。すごすごそこを離れ、海のほうに歩き始めました。Walzerの家は見えなくなりました。が、何時までも天主教堂の双塔が見えています。なぜかとても安心しました。これが見えていれば間違うことなく家にたどり着けると、ウメさんもそう思って買い物に出たとこことでしょう。

 

桟橋

 

中山路を海に向かって歩きます。青島湾に突き出した有名な「桟橋」。1891年清朝政府が軍需物資を供給するために建設したものだそう。実は桟橋はチンタオ戦をつぶさに見ていた数少ない証人でもあるんですね。橋の先端に、展望台(回瀾閣)があり、私達も子供連れや、若者たち、観光客に混じって、先端をめざして繋がって歩きました。橋の両端には、地元のお土産さんが並び、バケツ山盛りの浅利、同じく栗、貝で作ったいろいろなアクセサリーなど声をあげて売っています。観光スポットで良く見られる風景です。

桟橋の先端から振り返って、チンタオの街を眺めると古いドイツと近代中国の対比がエキゾチックでとても美しく見えます。ここからも天主教会の双塔が見えています。昼食のために予定した、「桟橋賓館」を目指しました。2:30分です。

そこは、『ドイツ租界時代の洋館で、室内は木彫りの調度品が備えられ、ドイツの面影が色濃く残り、朝には水平線から昇ってくる太陽をみることができる』と書かれてあった期待のホテルです。ああ何と言うことでしょう!工事中で閉店しています。何はともあれ、隣のホテルに飛びみ、ランチバイキングを食べました。種類も豊富で、大変美味しく、しかも安価で大満足でした。昼食後は小青島に渡ります。

 

23.桟橋>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/23.foto_tsingtau.jpg

 

小青島

 

今は橋がかかって地続きですが、昔はこの小島は、青島湾の海の中に存在しました。橋のたもとに海軍博物館がありましたが、海に浮かんでいる海軍の船のボロいのを見てパスしました。

小青島は歩いて簡単に1周できるほどの海に突き出た小公園で、桟橋Bみたいな雰囲気で、海からみる陸側の景観は、まさしくヨーロッパを見ているようでした。海の風は気持ちよく、Walzerが収監されていた似島も海に囲まれていたことを思いだしました。(2005年、シュミットさんの日本旅行に同行して渡った似島は、明るくてきらきらした気持ちのいい海に囲まれていて、決して取り残された悲しい島などではありませんでした。現場に立ってみて初めて分かることがある、これは、チンタオでも同様でした。)

チンタオには海岸線の長い良い海水浴場が沢山あります。ドイツ人たちにとって夏の海は大きな楽しみであったことでしょう。昔の北京の高官たちも海水浴リゾートに盛んにここを訪れていたそうです。昔も今も変わらなく打ち寄せる波を見ていると、時は巡りめぐり、今や100年の歳月が経ったことを思うと、まるで夢のようだと感じました。

旧市外を一望するのに絶好と言われる「小魚山公園」があります。ここから見る風景は『海が目前にあり、周囲の景観はドイツ建築の家々が並ぶ、最もチンタオらしい美しい風景である』とメモしてきたのですが、タクシーの運転手は「テレビ塔」を進めるので、そちらの方がより景観がいいかもしれないと思った私達は、テレビ塔のある太平山に行き先を変更しました。結局、これが大失敗。テレビ塔の場所は、旧市街から離れてしまい、タワーは高すぎるのと、タワーの周りのガラスの汚れがひどくて(笑っちゃいます!)外が見えません。結局、デジカメのボタンは押さずじまい。「エキゾチック青島」の写真を1枚も撮ることが出来ず、もう大変がっかりしてホテルに戻ってきました。

 

24小青島から陸を見る>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/24.foto_tsingtau.jpg

 

25小魚山公園からの眺望>「小学館、週刊中国悠遊紀行No.29」9Pの写真より・小学館様のご好意で転載を許可して頂きました。

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/25.foto_tsingtau.jpg

 

今日もよく歩きました。そして夢にも思わなかったWalzerとめぐり会うことができた今日の日は、私にとって生涯、忘れられないビッグなビッグな一日でした。 ・・・・・・ 〜ダウンです。

 

 

第3日目 4月14日(土) 晴れ 

 

中山公園→ 八大関→ 海岸散歩→ 新市街散策→ ジャスコ(昼食)→ カルフーン→ 貴都市場→ ホテル

 

<新市街散策>

 

一昨日と昨日は旧市街の古いチンタオを探索、今日は新市街の新しいチンタオです。昨日のWalzer との遭遇の興奮が覚めやらない中、上のような計画で街に出ていきました。

その中で、とくに印象に残った事を2.3書いてみたいと思います。

日本でおなじみの「ジャスコ」と「カルフール」が我がホテルのそばにあります。スーパーマーケットでの買い物方式は、チンタオ人にとって新しい感覚のようで、その便利さが受けて、とても繁盛しています。私たちもジャスコの餃子店に入り、餃子あれこれと飲み物を注文しました。二人で食べて(美味しかった)飲み物付きで300円。激安です。チンタオ価格には時々驚きます。ちなみに、初めて見つけて飛び込んだスターバックスのエスプレッソは、380円と日本価格(ウヒャー、高!)でした。

 

26ジャスコ>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/26.foto_tsingtau.jpg

 

チンタオ人の生活市場「貴都市場」を探して、20〜30分歩きました。(旧市街にも、ドイツ時代は中山路を北上した山東街に大鮑島(タパトー)と呼ばれる中国の商店街がありました。今もそこには、即墨市場と呼ばれる大きな生活市場があります。)

貴都市場に行くまでの両側は中国とは思えないおしゃれな店とすばらしいマンション群が続きます。「ミン江路」です。世界のブランド品(もちろんスゴイ値段)も売っていますが、チンタオ人(私たちにも)には無縁だそう。果たして、誰が買うんでしょうね?

 

27.ミン江路のおしゃれな店と高層マンション> 

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28ミン江路>

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ビルの広い薄暗い地下ガレージの風景を想像してください。そこが貴都生活市場です。巨大な綿、布などを売る店、貝、魚などを売る店、果物、野菜を山積みした店が並んでいます。ブランド品を見るよりずっと楽しい所です。生活用品が何でもあります。私たちはそこでおみやげにジャスミン茶を1kg220元(約3000円)で買いました。たしか香港、台湾で250g(普通サイズ)1万円といわれてびっくり仰天したジャスミン茶です。ここまで歩いて来た甲斐がありました。

ここでは中国山東省の人々の今も昔も変わらぬ日常生活を垣間見た感じがしました。

 

それにしてもチンタオの街は不思議な表情を見せてくれる街だとつくづく思いました。古くて新しい2つの文化が今の所はうまく混ざり合っているように見えます。気にかかるのはあたらし物好きの若者はドイツの遺産にさほど興味がないように見えることです。壊すと2度とそれは元には戻りません。大事にしてほしいと願うのは私だけではないはず。

 

29貴都生活市場>

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30貴都生活市場のお茶売り場>

  http://furyokenkyu.hp.infoseek.co.jp/30.foto_tsingtau.jpg

 

今夜でチンタオ・ステイは終わりです。明日は何処にも寄らず空港に向かいます。もっと滞在したいと思いました。本当言うと、今日は一日中、中山路のWalzer にもう一度会いたくて戻りたい気持ちで一杯だったのです。朝からWalzerが私の後ろ髪を引っ張っている、そんな気がしてなりませんでした。

 

 

                                          ○

 

 

追記:

 

チンタオ旅行は、Walzerの旧居に遭遇するという大きなプレゼント付きのすばらしい結果になりました。私は、この足掛け四年の間Walzerのことをいろいろ想像してきました。何故こんなにWalzerにこだわるのか自分でも不思議でした。彼の追跡がいつしか彼の心の追跡であったと思います。

軍人でなかったViktor Walzerは、チンタオ戦で余儀なく俘虜となった名もない独りの人物でした。しかし、彼は、若い時からイギリス、アルジェを経て、上海、香港、天津、そして青島と渡り、主なる生活ベースが中国にあったことは、勤務した製薬会社メルクの赴任地であったのかそれとも彼の憧れの地が中国だったか定かではありませんが、結果として人生の多くを極東のアジアで暮らしました。当時としてはたいしたアドベンチャラーであったと思われます。5年に渡る日本の俘虜時代を含め、彼は40才代まで故郷ドイツに帰ることはありませんでした。

そんな彼が日本人のウメ(19才)と出会ったのは、天津時代(30代半ば)であり、初めて家庭を持つことを考えた時だったと思います。確かに、「正式の結婚ではなかったが」、とウメさんは後に述べていますが、又「しかし彼には私しかおらず・・」と真面目な家庭を持ったことをも述べています。今ほど戸籍法が確立されていなかったでしょうから、二人は極自然に結ばれたと私は判断しております。(ちなみに昔は、クーデンホーフ光子さんのように後に正式の妻になるケースが多かった時代と認識していますが)。ただチンタオ戦を境にして家庭は崩壊されたままに・・なってしまいました。

ドイツへ帰還後のWalzerは、生涯誰とも結婚をしませんでした。(そして生涯誰にもチンタオでの家族のことを話しませんでした。Walzerは何故沈黙を守ったのか?それが私の中でくすぶり続けていることであることを告白しなければなりません・・・。)

ドイツに帰ったWalzerは、大ドイツ主義を唱えるヒットラーの政策に従い、親戚の家族と共にオーストリアに移住、10年後には再び第二次世界大戦の惨禍に見舞われ、ドイツに戻ってきます。彼の最晩年は、親戚とも離れて、独りでワックスワイラーという小さな村に暮らし、そこで85才で没したとありました。

1年前に、その村をシュミットさんが訪ねてくださいました。送られてきたその内容は、『ワックスワイラーのWalzerの住居は、すでになく、村の銀行に変わっていた。しかし帰りがけにコーヒーを求めて立ち寄ったカフェで、おもいがけず、そこの主人はWalzerのことをよく覚えていた。さらにWalzerをもっとよく知る人物がいるからと、パン屋の主人を呼んだ。彼らがいうにはWalzerは毎日朝に夕に教会に通っていた。そして、パン屋でバゲットとビスケットを買い、カフェに立ち寄るのが彼の日課だった。Walzerはとても親切な人物で、良くチャイナの話を皆にして聞かせた。そこで皆はWalzerのことを何時とはなく“Chinese Uncle”と呼んだのだそうだ。』 

この話を読んだ時、私は、ひどく年老いたWalzerがパンをかかえて歩く姿が目に浮んで来て、目に涙が溢れました・・・。長い長い道のりを歩いてきたWalzer!

彼が口を閉ざしたその真意を知りたい・・・それが私の消えない思いでした。それは怖いことでもあり、知ってはいけないことではないかと悩みました。しかしチンタオに来てみて、彼の旧居に立った時、その旧居からは幸せな家庭を築こうとした誠実なWalzerの姿が見えてきました。彼の沈黙は、チンタオで崩壊した家族への思いが、いかに彼にとって重く、耐え難く、ゆえに幻であれと願う深い苦しみであったかということを語っているように思えてなりませんでした。家族の幸せのための沈黙であったかも知れません。「男の悲しみを感じる」と私が言うのは変でしょうか?

彼はチンタオでもワックスワイラーでも常に神様のそばにいました。年老いた彼はいつも神様にお祈りしていました。日本の家族の幸せを祈っていたんだと思います。Walzerはきっと神様だけとお話していたに違いありません。

私の長かったようで短かった「祖父Walzerを探す旅」はチンタオの旅で終わりです。

すばらしい奇跡の旅でした。いろいろな方々が私を導き、助けてくださいました。感謝で一杯です。

2007年5月

 

     この旅行記を書くに当たって、「小学館ウィークリーブック・週刊中国悠遊紀行」を参照、また小魚山公園からの俯瞰写真をご好意により複製転載のお許しを頂きコピーさせていただきました。誠に有難うございました。

     瀬戸先生から、旧市街、新都市地図、写真、参考資料、旧天主堂の資料など多くの資料をいただきました。ありがとうございました。

     シュミットさんに、Walzerの旧居に関する情報をいただき感謝しています。

     能力不足のため幼稚な作文を研究会マガジンに提出することをお許しください。

 

 

追記への追記

この記事を書いて、ほっとしたのもつかの間、Walzerの姪ゲルトルートさんの訃報が飛び込んできました。何と言うことでしょうか、彼女に青島のヴァルツァー・ハウスの写真を送ろうと(Walzerは帰還後、この姪ゲルトルードさんを非常にかわいがっており、ゲルトルードさんにとっても大好きなおじいさんだったのですからきっと喜んでくれるにちがいない!)準備していた矢先だったのに・・・・。とても残念でなりません。ご冥福をお祈りいたします。