6.徳島および板東俘虜収容所における日本文化の紹介 
ディルク・ギュンター
 
板東俘虜収容所ではドイツ人捕虜と日本の地域社会の間での幅広い交流があった。そのような交流の中で、ドイツ人捕虜達は地元の日本人に色々な面でドイツの技術と文化を紹介したが、彼らが同じように日本の文化と取り組んだかどうか、徳島収容所で発行された”Tokushima Anzeiger”(徳島新報)と板東収容所で発行された”Die Baracke”(ディ・バラッケ)を分析して検討したいと思う。
徳島収容所で19154月から19169月までに発行された”Tokushima Anzeiger”に掲載されている、日本の文化に関係する記事の数は26である。いくつかの記事はシリーズとして掲載されたので、日本の文化を紹介する記事の数は全部で62である。その記事を分析すると二つの種類に分けることができる。一つは(この種の記事が圧倒的に多数なのだが)日本の文化についての専門文献・記事のまとめである。”Tokushima Anzeiger”にはその記事の元であった専門文献のタイトルや、そのまとめを作った捕虜の名前が書かれていない。このような記事で紹介した内容は「日本の歴史について」(戦争や軍事的な出来事を中心とする視点からの歴史)、「ハラキリ(切腹)」、「日本刀」などであった。二つめは専門文献に書かれた事と捕虜が個人的に収容所外への遠足や収容所の中から外をのぞき見ながら目撃した事をおりまぜた16の記事である。特に19163月から発行された”Tokushima Anzeiger”には地域の習慣や祭りについての記事がある(例:「花見について」、「稲荷祭り」。非常に目立つの記事には、ある捕虜が怒りながら「阿波踊りはうるさい」と書いている)。このような記事は、ドイツ人捕虜の日本や日本の文化についての個人的な印象を記録しているので、大変興味深い資料である。
板東収容所で発行された”Die Baracke”で日本の文化を紹介している記事の数はわずか32であるが、その中には捕虜自身が取材して書いた記事もある(例:「板東の地域とその管理等について」のクルト・マイスナーによって書かれた興味深い記事や「大麻比古神社について」の記事)。その他の日本の文化や日本事情についての記事は大部分が収容所で行われた講演のまとめである。日本の文化を紹介する記事は、特に捕虜が板東に到着したばかりの時期と解放される直前の掲載が目立つ。なぜ”Die Baracke”には日本の文化についての記事の数がそれほど少ないのであろうか。この新聞はドイツ人捕虜の活動に大きく注目していたので、日本の文化を紹介する記事よりも、ドイツ人捕虜達が地元の日本人にドイツ文化や技術を教えていることについての記事を多く載せている。日本の文化に関心を持ちすぎたドイツ人捕虜は捕虜の仲間に怪しいと思われたり、裏切り者と見られたりしたケースもあったようだ。
板東では日本人とドイツ人の間で交流があったが、その交流はむしろ一方的な交流(ドイツ人が教え、日本人が学ぶという形で、逆方向はあまり無かった)と思わなければならないであろう。