2.東京および習志野俘虜収容所について
星 昌幸
東京俘虜収容所は浅草・東本願寺に1914年11月11日に開設され、11月22日に314名のドイツ兵捕虜を収容した。収容所長はドイツに長期留学の経験を持つ、侯爵・西郷寅太郎中佐(隆盛の嫡男)であった。また、ドイツ側の先任将校はクーロ中佐であった。新東京名所の観を呈し、連日物見高い見物人であふれたこと、厨房の設備が整うまで麹町・宝亭から洋食の仕出しを取り寄せて給食したことなどが知られている。
手狭で寺にとっても迷惑である上、ドイツ側も見物人の多さに閉口し、早々に適地への移転が求められたため、翌年には千葉県習志野に廠舎が新築され、9月7日をもって移転。名称も習志野俘虜収容所となった。
国際感覚に富んだ西郷中佐を所長に当てたこと、また東京での全国所長会合の折には必ず習志野を見学させたりするなど、俘虜情報局では、在京の各国外交団の目もある習志野をもって各地収容所の筆頭・模範と考えていた節がある。収容人数については、確定的な数値を挙げ得ない。当初福岡に収容されていたマイアー=ヴァルデック総督以下(オーストリア軍艦「カイゼリン・エリーザベト」の幹部も含む)の移転を迎え入れ、静岡・大分両収容所を統合し、また久留米からも移送を受ける一方、全国の収容所からエルザス・ロートリンゲン出身者を集めては東京のフランス公使館に引き渡す役割を果たすなど増減が著しかったためであるが、多い時にはざっと1,000名の捕虜がいたと言えよう。
オーケストラや合唱、演劇、工芸、講義、スポーツ等に多彩な活動が行われ、近隣住民の目を驚かせ耳をそば立たせたことは各地の収容所と同様であるが、特記すべき文化交流としてはソーセージ製法の伝来が挙げられる。職人の秘伝の域に留まっていたソーセージの製法が、ここで初めて農商務省畜産試験場に記録され、日本での国産化が可能になった点で画期的な出来事であった。食文化に関してはベルリーナーやシュトレンなどの菓子が伝わり、ワイン技師ハインリッヒ・ハムは習志野で、ワイン「フェーダーヴァイサー」の醸造を行っている。さらに習志野を特徴づけているのは、日本文化をドイツへ輸出する窓口にもなった点であり、フリッツ・ルンプの名を落とす訳にはいかない。習志野の通訳として活躍したヨハンネス・ユーバーシャールは、芭蕉の俳句を独訳して紹介した。ユーバーシャールやカール・フォン・ヴェークマンは解放後も日本に留まり、大学教授としてドイツ語教育に尽力している。
1918年の冬から翌年春にかけてスペイン風邪が猛威をふるい、西郷所長と25名のドイツ兵が落命した。急遽所長職を引き継いだ山崎友造大佐も前任者の方針に倣って温情を忘れず、困難な解放事務を成し遂げて、この年12月のクリスマスには大半の者が帰国の途に着いた。10数名が残務整理に残り、最後の一人としてマイアー=ヴァルデック総督が習志野を去ったのは1920年1月。その後、4月には官制上も閉鎖された。跡地は現在まったくの住宅街となっており、昔を偲ばせるものはないが、近く習志野市によってささやかな記念の標識が設置される予定である。