5.大阪俘虜収容所について
                 堀田暁生
              
 大阪俘虜収容所は19141114日に開設され、1121日に468名のドイツ兵捕虜を収容した。大阪俘虜収容所は、大阪府が1908年に流行病対策として建設した隔離所であった。隔離所という性質から都心を離れた川沿いの新田地帯に設けられていた。実際に隔離所として使用されてはいなかったが、1909年に起きた「北の大火」といわれる大火災の時に、罹災市民が2か月近く収容されたことがあった。
 バラック杉材を用いた平屋建て薄柿葺で、長屋形式の建物が50棟、独立棟が15棟あった。敷地総面積は27,472.5 u、建坪は10,368.6uであった。捕虜を迎えるにあたって、畳み替えや便所の改造等若干の改修が行われた。周囲は人家がほとんどなく、塵芥焼却工場が近くに立つ程度であった。
 最初に収容された捕虜の内、収容後1か月未満内に、206名が徳島に収容換えとなった。その後、幾度かにわたって収容される者があり、『大阪俘虜収容所記事』によれば、19172月に広島県の似島に収容換えになった時の人数は547名であった(550名あるいは548名とする説もある)。
 都心から離れた場所であったために、近隣との交流はほとんどなかった。日本人で接触したのは、収容所に勤務する軍関係者・警察官等を除けば、施設の管理人、酒保・散髪屋等の出入りの業者だけである。
 捕虜の技術者等を利用するという計画は、複数の企画が立てられたものの、条件面が煩わしいことが忌避されたのか、1例が実施されたにすぎない。当時大阪のパン業界で急成長していた、水谷政治郎(マルキ号パン)の工場に1917年の126日から215日まで2名のパン職人が労役している。民間にも技術が伝わる好機会でもあった。しかし、218日に捕虜は大阪を離れたので、技術伝習も終了した。
 大阪収容所では、他の収容所と同じように、演劇・音楽会、サッカー・体操等が行われたことが写真等で確認できる。また収容所内で新聞も発行されていたようであるが、現物は発見されていない。その編集局の写真が残っているだけである。
 大阪収容所での事件は、脱走者が出たことと火災の発生である。脱走は3回行われ、いずれも捕らえられている。その内の一人、アルテルトは門司まで行き着いており、もう少しで朝鮮半島に渡るところであった。このアルテルトは似島でも脱走を企図する。
 火事は隣接する小工場の煙突から出た火の粉が無人のバラックに燃え広がり、15棟を焼いた。この火事の跡地が広いグランドに整地され、捕虜達の運動の場となった。
 収容所の設置期間中2名が亡くなり、真田山陸軍墓地に葬られた。ただし1名は収容所が閉鎖された後、衛戍病院で死亡しており、書類上は似島所属になる。この2名の墓碑には「俘虜」という文字が刻されていたが、1931年に削られたと思われる。