7.ドイツ兵捕虜と「武士道」
井戸慶治
当報告ではドイツ人捕虜による武士道に関する新聞記事や手記を取り上げ、この点で彼らが日本人をネガティヴに評価していることなどを指摘し、「武士道」の情報源は何か、この評価の原因は何か、また日本軍における「武士道」と捕虜待遇の関連について述べる。
捕虜達の「武士道」観を略述すれば、次のようになる。1) 不文律の「道徳」であることが強調されている。2) 特色として、自己の生命の軽視、恥を厭う名誉心、忠誠心、また場合によっては質素、慈悲心などが挙げられている。3) 「奇妙な自殺」としてのハラキリがある意味で名誉の死であること。それに関連して、乃木大将の殉死や国会での切腹廃止論の反対決議への言及。4) Ritterlichkeitという訳語が当てられており、騎士道と共通点もあるが、異なる点もあること。特にキリスト教との関連で、騎士道は弱者・敗者へのいたわりを要求するが、武士道では力が野蛮に行使される場合もあったこと。5) 現在における「武士道」は、本来武士階級のものだったのが一般化され、標榜のみで実行が伴っていないこと。
このような知識の起源としてまず思い浮かぶのは、新渡戸稲造による英語の著作“Bushido“(1899年、独訳版は1901年)である。この書は外国への日本の精神文化宣伝の面を強く持っていて武士道を美化しており、冒頭で武士道をChivalry(独訳版ではRitterlichkeit)と騎士道を意味する言葉で紹介している。また、お雇い外国人医師エルヴィーン・フォン・ベルツは ”Über den kriegerischen Geist und die Todesverachtung der Japaner“(日本人の好戦的精神と死の軽視1904年)の中で、武士道の生を軽んじる精神がかえって戦闘に有利であることを指摘し、日本軍兵士は狂信的なほどに死を求め、捕虜になるよりもむしろ死を選ぶと述べている。
新渡戸武士道と同じ頃、行き過ぎた欧化への反動や日本軍の軍規維持のため、「武士道」再評価が始まるが、いずれも江戸時代までの武士道とは本質的に異なっていた。この時代には、日清戦争・義和団事件・日露戦争が相次いで起こり、国際社会での承認をめざして、日本軍の規律や捕虜待遇は比較的よかった。さらに欧米人は、これらの戦役での勝利に象徴される日本の急速な近代化成功への答を求め、「武士道」にその一つを見出した。戦争やそれに伴う日本のプロパガンダによって既に観念的には新渡戸武士道によって知られていた日本のChivalry (Ritterlichkeit) が、この訳語に含まれているニュアンスと共に欧米諸国に強く印象づけられたと思われる。しかし、第1次大戦によって経済的にも発展した日本は一等国意識を強め、これ以降日本軍の「武士道」は変質し、捕虜待遇は急速に悪化していく。自国兵には捕虜=恥辱と教え、他国の捕虜には国際法を遵守するかつてのダブル・スタンダードは、前者の側へと一本化されていく。第1次大戦はその転機になったと考えられる。