5.徳島および板東俘虜収容所について
            川上三郎
                             
徳島県には当初、191412月に徳島市内に収容所が設置され、2年半後の19174月に四国島内の3収容所の統合に伴い、板東町(現鳴門市大麻町)に1,000人ほどの捕虜を収容する施設が新設された。この板東俘虜収容所については、既に幾多の研究論文、著書、映画などを通じて比較的よく知られているところである。そこで今回は話題を徳島収容所に限定することとし、板東収容所については関連する事柄に言及する程度にしたい。
当時の捕虜の活動を知る手がかりとしては、公文書(陸軍、外務省など)、新聞、写真の他に捕虜の手記や日記に捕虜制作の印刷物などがある。徳島については、板東に比べ、こういったものが豊富にある訳ではない。しかし幸いなことに"Tokushima Anzeiger"(徳島新報)という収容所新聞が発行されていて、ドイツ国内数か所でこの史料の存在が確認されている。鳴門市ドイツ館ではそれをコピーして入手しており、現在鳴門市ドイツ館史料研究会ではその全訳を目指して作業中である。この新聞の内容全てについてその詳細を把握している訳ではないが、政治・軍事情勢、日本紹介、捕虜自身の種々の活動報告、ユーモア記事など多岐にわたっている。特に音楽活動については楽団の成り立ちから演奏曲目や構成メンバー、指揮者の活躍などが詳しく書かれている。更に、後の板東時代に徳島市民からの要望によって板東収容所の捕虜音楽家から指導を受けることになるが、その萌芽とでもいうべき挿話などもあって注目される。
地域住民との交流の面では、外出先やスポーツ活動の場での触れ合いがあったし、市内のカトリック教会の献堂式に招かれて楽団と合唱団が演奏を披露したことが"Tokushima Anzeiger"に書かれている。さらに講習・見学の対象が限定されていたが、ソーセージなどの製法講習会や小規模ながら制作品展覧会も催されている。更に当時「労役」と称していた捕虜の労働ないし就労については、全国に先駆ける形で積極的な収容所外部への働きかけを行っていたようである。その一つに工業学校(現徳島工業高校)での技術指導があったが、その内容を記した当時の学校側の記録が現存していることが最近分かった。その調査をこれから始めようとするところである。
収容所長の松江中佐は捕虜の処遇について何かと配慮をしたことで知られ、捕虜が苦痛を感じることのないように心がけたと自身述べている。しかし、監視の目の届かない形での地元民と捕虜との交流は有り得なかったことを覗かせる事件もあり、やはり制約のあるものであったことは認めなければならない。