10.フリッツ・ルンプ
                    小谷厚三
 
1次世界大戦の捕虜であったドイツ人フリッツ・ルンプ(ルンプフ 18891949年)は、日本を愛し続けた芸術の薫り高いボヘミアンと言われた異色の人物である。1909年に来日。そこで多くの作家や画家に出会い、日本文化に対して、多大な影響を受けた。1914年、日本定住のための再来日直後、日独戦争のため中国チンタオに招集される。そこで捕虜になり、日本に送られて5年間に及ぶ収容所生活。その中で日本の美術や文化研究に取り組んでいる。帰国後はベルリンの日本研究所に入り、多くの著書や論文を残して日本文化紹介の第一人者となった。
しかし、日本近代文学研究の中におけるフリッツ・ルンプへの理解は、明治末期におこった文学運動の一つである「パンの会」の異色の人物として取り上げられることが多く、その後の生涯について語られることは少ない。ましてやチンタオ陥落後のドイツ兵捕虜として日本の大分と習志野の収容所に5年余りもいたことも多くの研究者達も知らない。また、深い友情にあった木下杢太郎を始め森鴎外などの近代文学研究者達でさえ、ルンプとの関係を語る人も少ない。捕虜収容所での演劇活動や日本民話の研究、画家としての絵葉書などの作成、美術的にも評価の高い大分俘虜収容所内の生活を描いた”Das Oita-Gelb-Buch “(大分黄表紙1919年)、帰国後の日本文化に関した多くの著書や研究も僅かの人達の目に触れるだけであった。
近年ドイツではフリッツ・ルンプの業績が再評価され、1989年にベルリン日独センターで ”Du verstehst unsere Herzen gut Fritz Rumpf (18881949) im Spannungsfeld der deutsch-japanischen Kulturbeziehungen”と題された、大規模な「フリッツ・ルンプ展」が開催された。邦訳は「お前はよく俺達の心が分かる―日独文化関係の緊迫域に見るフリッツ・ルンプ(18881949年)」という。そこではルンプの全容が明らかにされ、5年に及ぶ収容所での生活も紹介された。当時この事などは近代文学や美術の研究者の間でもほとんど話題にならなかったようである。
また、ベルリン国立図書館のハルトムート・ヴァルラーベンス氏よって編まれた膨大な書簡集成『フリッツ・ルンプ書簡集』(フンボルト大学森鴎外記念室年報、35巻、19992001年)が刊行された。そこには婚約者アリス・へラーに送った205通もの書簡が収められている(数通は父ルンプ宛)。その内の半数におよぶ105通が捕虜収容所内からの発信である。この『ルンプ書簡集』の全容が明らかになれば、捕虜および捕虜収容所の研究においても貴重なものとなるに違いない。
1 次世界大戦の約4,700人の捕虜の一人であったフリッツ・ルンプ。その生涯を追うと、5年余りの捕虜収容所生活はルンプにとって日本文化研究をより深めていく時代でもあった。そして歴史の中に翻弄されながら日本を愛し続け、帰国後に日本とドイツの文化の架け橋となった姿が大きく浮かび上がってくる。