1.在日ドイツ兵捕虜と日独文化交流(基調講演)
 
               ディルク・ファン・デア・ラーン
 
 第2次世界大戦とは異なって、第1次世界大戦の場合はアジア・太平洋地域で戦闘はほとんど行われなかった。日本はイギリスの同盟国としていわゆる日独戦役で当時ドイツ領であった中国天津と上海の中間にある膠州租借地(青島とその周辺)やカロリン諸島など南洋諸島を占領し、約4,700人の捕虜を本土に移送した。その結果、在日ドイツ人の数が1914年には一挙に1,000人程度から5,000人以上の規模に増えて、その状態が1914年末から1919年末までの5年間続いた。
 中国四国内には当初松山、丸亀、徳島各収容所が設置されたが、1917年春に閉鎖されて、新設の板東収容所に1,000人近くが移された。またその直前に設置された似島収容所には閉鎖された大阪収容所の捕虜が500人以上移送されたので、前期2年強に1,000人、後期3年弱に1,500人のドイツ人捕虜が中国四国内に滞在したことになる。
その10年前に収容されていた日露戦争の捕虜と同様、日独戦役の捕虜の待遇も、日本が敗戦国から感謝を受けたほど極めて紳士的であった。日本の捕虜取扱制度は1899年のハーグ陸戦条約に基づき1904年、1905年に確立し、1914年以後改正された。一つの特徴として条約で規定されていない将校対象の「俘虜自由散歩及び民家居住規則」があって、日露戦争の際に自由散歩はもちろん、松山などで39件の民家居住が許可されたが、ドイツ人将校の場合は自由散歩のみ許された。しかし将校夫人の収容所近辺居住は許可された。
下士官、兵卒は運動または労役のために監視下の外出が許されていた。捕虜はだいぶん不自由な状態にはあったが、それでも日本人との交流の機会は少なくなかった。先ず、特に当初、現地新聞に捕虜の活動が毎日のように報道され、周辺の住民に知らされた。散歩の際に偶然の直接交流もあった。音楽会や運動会も盛んであって、収容所に日本人が視察・見学に来た。「第九」の初演のことは周知の事実である。日本人とのサッカーの親善試合の記録も残っている。
更に中国四国では、丸亀の塩屋収容所近くの寺で1917年に、板東公会堂では1918年に、広島県物産陳列館(現原爆ドーム)では1919年に開催された捕虜製作品展覧会でドイツ人が日本人の視野に入るように技術や工芸品を展示した。広島の「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会(独逸俘虜製作品展覧会)」では捕虜製作の絵画、写真、木工工芸品、金属工芸品、工作機械、原動機、船や飛行機(製図や模型を含む)、教科書や教材、日刊収容所新聞、飲食品、演劇ポスターなど広範囲にわたる展示品が大都市で多くの人の目に触れた。
各収容所には印刷機もあり、日刊紙や隔月刊紙の他、単行本などあらゆる種類の印刷物がドイツ語で制作され、日本文化の紹介も多くなされた。
 このように技術を含む多岐にわたる文化移転が双方向でなされ、解放後も日本に残った、または一時ドイツに帰国して日本に戻って来た元捕虜の活躍を通じてドイツの技術と文化は更に普及していった。