4.名古屋俘虜収容所について
                校條善夫
   
名古屋俘虜収容所は19141114日に開設され、捕虜308名は1121日、市内中区の東本願寺別院に到着した。将校12名、下士官49名、兵卒246名、公務員1名である。翌年の92日、市内東区新出来町の現愛知県立旭が丘高校の土地に移転した。ここは元の陸軍軍用地で、約4ヘクタールの広大な敷地内に松林や丘陵のある環境のよい場所である。次第に収容者は増えて約500名前後を閉所まで維持した。4棟の兵舎風の建物を中心に事務棟や炊事場、洗濯場など衣食住を支える場所の他、テニスコート6面、サッカー場や器械体操場などスポーツ施設、あるいは野外演劇の舞台や図書室があった。敷地内には個人使用の別荘風の東屋が点在していた。
市内の散歩は鶴舞公園、映画館のある大須の商店街そして松坂屋百貨店をめぐるのが定番コースだった。時に所外でサッカーの練習や試合、あるいは運動会を楽しんでいた。近郊の景勝地を訪れたり、海や川で水泳もしていた。
 収容所長は2代にわたり、初代は林田一郎陸軍中佐で、2代目は中島銑一郎陸軍大佐だった。所長自身の記録(手記や講演)を見る限り二人とも人格・識見ともに優れた立派なエリ−トだったと見られる。収容所の管理・運営は概して合格点だった。規則違反には厳重な懲罰が加えられた。ドイツ側からは個々のケースについてマイナスの印象や評価のあったことが指摘されているが、それは立場や価値観の異なる、一つの人間社会として当然であろう。
 名古屋は当時、産業近代化の登り口に差しかかっていた大都会であった。その状況を背景にして労役は行われた。収容期間中の労役の場所は県外も含めて31か所で、延労役人員は78,000人だったという。労役は捕虜にとって日常を無為に過ごさず、開放感と充実感を味わえる時間と場所だった。優秀な捕虜の技術は産業界の発展に一定の役割を果たし、国庫と俘虜自身の双方に経済上の利益をもたらした。その一方「資産家ノ隠遁姑息心」と「手続ノ繁雑サ」、「取締ノ責任」などが理由で折角のチャンスを逃がした企業家があったと、業務報告は述べている。労役を受け入れた雇用者は特有の情報ルートを持ち、ベンチャー精神に富み、合理的な考え方とドイツに対する尊敬や敬意さえ抱いていたと考えられる。雇用を敬遠した側には、それらとは無縁であった他に捕虜に対する偏見が禍していたことも考えられる。但しこれら特種技能者ではなく、土木工事や製品運搬など一般の単純労働に駆り出された捕虜の間ではマイナスの印象を持ったという話もある。
 大戦後も彼らの技術を評価して、高額で元捕虜を雇用した企業も少なくなかった。市民は慰問や寄付をし、双方はスポーツや音楽などの交流を通して親善交流を深めた。ドイツは捕虜達の処遇に感謝して、当時の佐藤孝三郎名古屋市長に市民の代表者としてプロシャ赤十字勲章を贈った。