7.福岡俘虜収容所について
         ヴォルフガング・ミヒェル
      
19141111日に開設された福岡俘虜収容所は、同月15日、17日、19日の計850名の捕虜の到着から、1918412日までの約35か月という比較的長い間存在したものだった。利用された施設は市内の3か所に分散していた。マイアー=ヴァルデック膠州総督以下の幕僚は、洲崎海岸旧台場にあった福岡日本赤十字支部の豪華な洋館でゆとりのある生活を送る一方、下士官と兵卒は、柳町の旧遊郭跡に建てられた家屋(7棟)に収容された。また県物産陳列場には本部事務所や衛兵詰所が設置された。既に1914年の夏に始まっていた久留米、大分、青野原、大阪、名古屋、習志野などへの段階的な移送は、収容所の運営に大きな影響を及ぼした。
八幡製鉄所、博多駅関連などのドイツ人による技術協力の他、ドイツ医学、法学などを重要視する九州帝国大学があったので、福岡地方での捕虜が置かれていた環境は好意的なものだったが、板東や久留米のような住民との密接な交流やコンサート、演劇、物産展といった文化的活動は確認できない。技術協力は、19154月に「俘虜使役」の許可が下りてから今津海岸で進められていた元寇記念碑(「元寇殲滅之処」)の建設への参加(兵卒80名)という程度だった。海への遠足、博多山笠見物のための外出など市民の目に触れる機会は決して少なくなかったが、『福岡日日新聞』を見る限りでは、とりわけ総督および将校達の行動に地元の注目が集まっていた。しかし191511月中旬の大正天皇即位祝賀を利用した将校5名の大胆な脱走により、監視体制はより厳重なものになった。同年12月アルザス出身の俘虜8名が帰国を許可され、翌年の10月には別の収容所への再移送が行われた。191775日に、民家で生活していたフォン・ザルデルン大尉の妻が侵入した強盗に刺殺されて、大尉が後追い自殺した事件は全国の新聞で報道され、収容所の解体を早めた。マイアー=ヴァルデック総督および残留の捕虜が1918322日に習志野へ移送された翌月、福岡俘虜収容所は閉鎖された。福岡の捕虜の中では、大戦終結後に日独貿易で活躍し、1936年の日独防共協定締結に貢献したフリードリヒ・ハック博士が注目に値する。