3.松山俘虜収容所について
森 孝明
松山俘虜収容所は1914年11月13日,歩兵第22連隊本部内への収容所本部の開設に始まり、1917年4月23日に閉鎖されるまでの、およそ2年5か月間存在した。実際には、松山市内の市公会堂、大林寺及び山越(5つの寺)の3か所を陸軍が借り上げて収容所とし、11月18日と20日に船で到着した計415名のドイツ兵捕虜が分散収容された。公会堂に准士官以下180名、大林寺に80名、山越5寺の内4寺に131名(浄福寺30名、不退寺30名、弘願寺30名、長建寺41名)そして来迎寺に将校15名と従卒とコックの計24名であった。2年5か月後、病死した1名を除く414名は、長引く第1次大戦を踏まえて新たに建設された板東俘虜収容所に移送され、松山収容所は閉鎖された。
日本全国に散らばる初期の収容所の全てが、開設決定から1週間ほどで捕虜の受け入れを行っており、既存の施設(ほとんどが寺)を使用せざるを得なかったことを考えれば、松山収容所は他所と比べて特殊という訳ではないであろう。しかし3キロ程離れた3か所の狭所への、いわば隔離は監視に関しても、捕虜の生活に関しても、問題の多い収容所であったと思われる。収容所長の前川譲吉陸軍歩兵中佐は、捕虜のある自由を奪うのは当然だが、仁愛、人道的に扱うのが日本の主義であり、この主義の下に設けられた規則によって捕虜を取り扱うと自ら語っている。板東収容所へ移った捕虜達の松山に対する印象が好ましくなかったのは、仕方がないであろう。松山収容所の業務報告書さえ、古い寺院内の収容は、採光不良で陰鬱であるばかりか、墓地多く、散歩場狭くして、自然に精神を沈鬱にし、神経衰弱の因となると記している。
捕虜達の姿が松山市民の目に触れる機会は、極限られていたと思われる。それでも一番多かったのは、収容所構内が狭溢のため健康保全を目的に、希望者を引率外出して2、3時間、野外の運動・散歩した時であろう。延べ60回近く、平均すると月2回程度の外出で、適当な広場に行ったときはサッカーをすることもあった。道後公園らしい広場でサッカーをしている写真に、見物している市民の姿も写っているが、一緒にサッカーをしたという新聞記事はない。松山市民との交流と言えるものには、市内のメソジスト教会日曜学校の生徒36名と校長が行った収容所訪問がある。彼らは収容所を順に回り、子供たちが捕虜達に直接草花を手渡し、賛美歌を歌った。これに対して捕虜達は返礼として代表8名が教会を訪問し、学校用品とお菓子を贈っている。他には捕虜達が開いた図画・手工品の展覧会がある。これには市内の学校の図画教師ら13人が観覧を許可され、また地元の『海南新聞』の記者が詳しい記事を書いている。
収容所外の捕虜の労役については、松山収容所も俘虜情報局と内務省の指示に従い、官民に向かって勧誘し、新聞にも報道された。外部から5件ほどの問い合わせがあったが、条件が合わなかったり、収容所の移転などのため、いずれも成立しなかった。ただ1件だけ、松山市役所からのドイツ小学校模型製作の依頼に対して、捕虜1名が応じ、陸軍大臣の認可を受けて、労役に従事したことが報告されている。