6.姫路および青野原俘虜収容所について
          大津留
 
 青島で捕虜になった兵士達の一部は19141120日に姫路に到着した。捕虜達は停車場で検疫を受けた後、三つの寺に分けて収容された。妙行寺には将校8名と従卒5名が収容され、船場本徳寺には准士官以下のドイツ兵卒160名が収容され、景福寺には「カイゼリン・エリーザベト」の乗組員を主とするオーストリア=ハンガリー兵150人が収容された。姫路、そして後の青野原(あおのがはら)の収容所で特徴的なことは、オーストリア=ハンガリー兵が多く収容されていたことである。従ってここではオーストリア=ハンガリー捕虜兵を中心に報告を行う。
 姫路の地元の『鷺城新聞』には捕虜が収容される以前から、市民に対して捕虜を迎えるにあたっての心構えを説く記事が掲載され、実際に捕虜が収容されてからも、特に物珍しい初めの頃にはその動静が詳しく報道された。12月に入って生活が落ち着いてくると捕虜達は引率官監視の下に遠足が許されるようになった。121日には姫路城天守閣への登閣が許された。姫山公園内では自由行動を楽しんでいる。その辺りが『鷺城新聞』に詳しく載っている。また1915625日付けの『神戸又新日報』の記事も注目される。その年5月にイタリアは協商諸国側で参戦した。この記事は、「独墺俘虜の大暴行、姫路景福寺収容所の活劇、伊国水兵8名半殺しにさる」と題して、イタリア系捕虜兵に対する暴力行為を伝えている。
戦争の長期化とともに1915年には久留米、習志野などに恒久的な施設が作られて、そこで捕虜兵達は第1 次世界大戦が終わって帰還が完了するまでの5年間を過ごすことになった。青野原の収容所もその一つだった。収容所当局の方針は大戦が終わるまで捕虜達を平穏無事に預かることだった。彼らが恐れたことは、捕虜達が収容所の生活に不満を持って、脱走や反抗行為を行うことだった。そのため捕虜達が単調な生活に飽きないようにし、身体面でも精神面でも健康状態を維持させるために、娯楽が重視された。室内で行う娯楽としては将棋(チェスか)、カルタ(トランプ)、ビリヤードなどが好まれ、図書や新聞の閲覧も許された。また音楽や演劇が奨励された。特に音楽に関しては楽隊を編成し、演奏のために小さな音楽堂を建設し、ピアノ、オルガン、バイオリンなどを備え付けた。オーストリア=ハンガリーは第1次世界大戦の緒戦でロシア軍に大敗し、1914年末までに15060万人の兵士が捕虜として主にシベリアに収容されていた。従ってシベリアはさながら捕虜収容所群島の様相を呈しており、日本の捕虜収容所はその東端を形成していた。そしてシベリアでも捕虜達が憂さを晴らすために演劇をし、音楽を演奏していた。その点でも日本の収容所は収容所群島の一環であった。
また収容所ではお菓子や腸詰を作ることも認められており、その成果は工芸展覧会で示された。そこで展示即売された物の中でタバコ道具が3点現存しているが、その内の一つは世紀末ウィーン様式の唐草模様の意匠が施されている。ジャポニズムの影響を受けた世紀末ウィーン文化が日本の捕虜収容所で再現されたことになる。