2.似島俘虜収容所について
瀬戸武彦
似島(にのしま)俘虜収容所は1917年2月19日、似島の陸軍検疫所に大阪収容所の捕虜547名を移して開設された。収容所長には大阪収容所長の菅沼來中佐が引き続き就任した。似島とは広島港の沖2キロ、周囲約16キロの小さな島である。16か所に設置された収容所の中で、唯一島に設けられた異色の収容所である。似島の1キロ南には海軍兵学校を擁する江田島があり、呉の海軍鎮守府も比較的近かった。そこで海軍側の要請により、視野を遮るために収容所の海側に高い板塀が張り巡らされた。1920年1月20日に捕虜全員が解放され、同年4月1日に似島収容所は閉鎖された。収容中に9名の捕虜が死亡したが、半数はいわゆるスペイン風邪による犠牲者であった。
敷地の総面積は約16,000uで、2面のテニスコートと運動場が設けられた。建物としては兵卒用4棟、准士官・下士官用1棟、将校用1棟、その他に管理棟、診療所、厨房、酒保、パン工場、浴場等があった。収容所内では英語、数学、機械工学等の47種類の講習会が開かれ、演劇やスポーツ、新聞の発行などの活動が行われた。また、やがては収容所裏手の斜面に畑や菜園が造られ、更には東屋も建てられて、捕虜達は海を眺めることができるようになった。軍事的要衝に囲まれ、しかも島の中という制約から、捕虜と一般市民との交流は解放間際に限られていたと思われる。
1919年1月18日と19日に開催された「独逸俘虜団運動競技大会」の模様は、地元の『中国新聞』で詳しく報じられた。広島県知事、広島高等師範学校長を始めとする教育関係者、小中学校生徒や市民多数がドイツ兵捕虜のサッカー、ホッケー等の球技や体操競技を見学した。この競技大会直前の16日や直後の26日には、捕虜のサッカーチームと市内諸学校の生徒達とのサッカー交流試合が行われた。
1919年3月4日から13日にかけて広島県物産陳列館で「独逸俘虜製作品展覧会」が開催され、9日間の延べ参観者数は16万3447人を数えた。130名ほどの捕虜が出品し、一部即売された展示品は約400点、食堂ではカール・ユーハイム製造と推測される「バウムクーヘン」や、ヘルマン・ヴォルシュケのハム、ソーセージが売られた。
1919年5月20日には高等師範学校主催による「俘虜音楽会」が開かれた。この音楽会の様子も『中国新聞』で、指揮や演奏等にまでわたって詳細に論評された。
1919年12月25日付けの『中国新聞』には、広島市内の食品会社で技術指導をしていた3人の捕虜の解放を喜ぶ姿が、写真入りで大きく報じられた。その内の一人ヴォルシュケはユーハイム同様に解放後も日本に留まり、ソーセージ製造の会社を興した。今日、その子息が後を継いでハム、ソーセージの製造に従事している。
似島収容所については従来余り知られてはいなかったが、生徒達と捕虜のサッカー国際試合やバウムクーヘンにまつわるエピソードは、2006年1月22日にテレビ新広島制作『ドイツからの贈りもの〜国境を越えた奇跡の物語』として全国ネットで放映された。