4.丸亀俘虜収容所について
                 高橋輝和
                             
 丸亀俘虜収容所は19141114日に業務を開始し、1116日に324名のドイツ兵捕虜を収容した。この収容所は2か所に分かれていて、下士官70名と兵卒243名は、丸亀市に隣接していた当時の六郷村内の西本願寺・塩屋別院に収容され、将校7名は従卒4名と共に丸亀市内の赤十字看護婦養成所跡の施設に収容された。191610月に将校全員は大分に移され、その代わりに「特殊俘虜」と呼ばれていたポーランド人やロシア人、イタリア人捕虜ら17名が大阪や青野原、久留米から移送されて来た。収容期間中に1名の病没者が出ているが、19174月に333名の捕虜が新設された板東俘虜収容所に移送された後に、丸亀俘虜収容所は閉鎖された。
 初代収容所長の石井弥四郎中佐は捕虜に理解のある人物だったらしく、捕虜との関係も友好的で、病気による退任の際には捕虜の将校や下士官達と一緒に撮った記念写真が残されている。収容所の管理部のみならず、周辺の住民も捕虜に対して非常に好意的・同情的であった。捕虜が到着した当日は収容所に通じる道路のあちこちに「心より大いに同情して歓迎します」とドイツ語で書かれた標識が掲げられていて、捕虜を感激させたと言われる。
 丸亀収容所の管理部も捕虜の所外労役の推進に非常に積極的であり、香川県庁や高松市役所・丸亀市役所等に働きかけをしたり、新聞紙上で呼びかけをしたりしている。その結果として、1917年の1月初めから3月末まで製図と指物を専門とする二人の捕虜が高松市内の香川県立工芸学校(現在の香川県立高松工芸高等学校)に監視兵つきで通勤して、家具見本の製作と指導を行った。その様子を詳細に報じた新聞記事は「邦人の学ぶべき点多し」と見出しに掲げて、「我が邦人に比し規律の正しきは感心すべきものなり」という校長の談話を伝え、「素人観を以ってするも彼が製作振りと我国当業者の製作振りとの巧拙は識別するに難からざるなり」と賛嘆している。
 191611月には香川県庁から助成金を得て、鞣革の試作に3名の捕虜が取り組み、「成功したら日本製革界の革命」と期待されたが、この試作は材料と薬品が不良であったため不成功に終わった。期間中には多くの日本人が視察・見学に訪れている。
19173月に塩屋収容所近くの寺で開催された「俘虜製作品展覧会」では安楽椅子、書棚、縫物台、喫煙机、煙草盆、時計等の55点の作品が出品された。「緻密なる脳裏より出たる製作には参考となる品多し」と報道された、この展覧会には二日間で当時の丸亀市の人口をはるかに上回る3万人もの観覧客が訪れて、9割方は売約済みとなった。
この時の経験が、1年後の19183月に板東収容所で開催された大規模な「俘虜製作品展覧会」を組織するのに役立ったとのことである。そして丸亀と板東での大成功を受けてその後、久留米や青野原、広島(似島)、名古屋で開かれる「俘虜製作品展覧会」も各地の日本人に大好評を博することとなる。