2部「中国・四国以外の収容所を中心に」基調講演                       田村一郎(鳴門市ドイツ館前館長)

 

 

1.日独交流史上のドイツ兵俘虜収容所の意味

 

1)明治以降の交流深化:1881(明治14)井上毅「ドイツ学奨励」を進言(英仏思想主導の民権運動に対抗するため)→高等教育:米中心から独中心に、陸軍:仏から独指導に、独人指導下での憲法・法制作り。独側青島戦時も政経に配慮→三国同盟

 

2)ドイツ兵の影響:所内活動中心のため技術指導・展覧会を除けばほとんど間接的

  技術面:所外労働、タイヤ、畜産、ソーセージ・ワイン作り、製パン・製菓など 

  文化面:音楽・演劇、スポーツ、謄写版印刷、ドイツ語教育(ボーナー兄弟)、日

本研究(日本史・能、都市・歌舞伎、民話・伝承、文学)、青島鹵獲書籍など

 

 

2.旧ロシア兵俘虜収容所の活用と本願寺系寺院の協力

 当初のドイツ兵収容所は、日露戦争時の元ロシア兵収容所(29ヶ所、約7.2万名)を活用したものがほとんど。「一向一揆」への危惧から、薩摩などで明治初めまで「禁教」とされてきた本願寺系寺院の協力も目につく。個々の特徴を含めまとめてみよう。

 

1)当初の収容所(12ヵ所)

収容所名 開設時収容者数   特 徴     元ロシア兵収容所  本願寺系寺院

東 京    314   日独合同慰霊祭             浅草本願寺()

静 岡    107   12月追加、国外脱走1    

名古屋    309                   ○      大谷派別院()

大 阪    468   厳しい管理・元隔離病棟    ○

姫 路    323                  ○      本徳寺()

徳 島    206   12月追加、所外労働重視                 

松 山      415   3ヶ所に分散、厳しい管理         

丸 亀    324   全国初の「俘虜作品展」      ○   本願寺派塩屋別院(西)  

大 分    141   12月追加、小学校の校舎使用

福 岡    850   国外脱走5、ザルデルン事件 

久留米    537   青島攻撃の主力師団所在地    △    大谷派教務所() 

熊 本    651   住民と友好的               西行寺・光善寺(西)

 

2)統合後の収容所(6ヵ所)

習志野    314   新設:多国籍、音楽活発

名古屋    308   〃 :所外での技術指導活発

青野ヶ原   323   〃 :オーストリア系半数

似 島    548   改築:厳しい管理、学習活発  ○(旧検疫所)        

板 東    953   新設:模範収容所、「第九」・ドイツ橋・慰霊碑

久留米    1,187    新設:日本のKZ、音楽活発、仮想「ドイツ徒歩旅行」

 

 1)の「開設時収容者数」は、瀬戸武彦氏「独軍俘虜概要」(2)30ページの「表3:俘虜番号順による当初の収容所先及びその人数等」をもとに作成した(『高知大学学術研究報告 第52巻 人文科学編』(2003。ただし「大阪俘虜収容所」だけは出入りが激しいので、19141121日に最初に収容された、徳島への移動者などを含む468名とした。

  2)の「開設時収容者数」は、陸軍省『大正三年乃至九年戦役俘虜ニ関スル書類』中の「独逸及墺洪国俘虜捕獲並内地後送対照表」をもとに、それまでの死者などを勘案して作成した。例えば「久留米」は、「旧久留米」〔538名−死者1=537名〕に、熊本〔786名−(大分135名+死者1名)=650名〕を加えた。また「似島俘虜収容所」に関しては、大阪俘虜収容所研究会・大正ドイツ友好の会編『大阪俘虜収容所の研究』(2008178ページの「大阪俘虜収容所記事」「付表 第二」などの「似島へ収容換」547名に、その「備考 1」にある「俘虜嫌疑者」1名を加え548名とした。この「俘虜嫌疑者」とは、19165月に長崎の船中で発見され大阪に収容されたイヴァノフというロシア系の人物だが、この人は一緒に似島に送られ、後に追加6名とともに5713という番号を与えられ、俘虜として収容されたからである。