8.熊本および久留米俘虜収容所について
           堤 諭吉
 
久留米俘虜収容所は1914106日、国内で最初に開設され、当初は市内の寺院、料亭跡および久留米市に隣接する三井郡上津荒木村の陸軍演習廠舎の3か所に530名余りを分散収容した。樫村弘道少佐が所長を務めたこの時期は、収容所当局と捕虜とのトラブルも少なく、地域住民も捕虜に対して友好的であった。
同年1111日に開設された熊本俘虜収容所は、市内の県物産館等および寺院、飽託郡松尾村の寺院の3 か所に分かれていた。捕虜の数は一時、786名を数えたが、135名が大分収容所へ移り、熊本収容所の収容者数は福岡収容所に次ぐ651名となった。191569日、捕虜全員が久留米収容所へ移送され、熊本収容所は閉鎖された。開設から僅か7か月足らずであり、全国の収容所の中では開設期間が最も短い収容所であった。
 久留米収容所は191569日、久留米市に隣接する三井郡国分村の久留米衛戍病院臨時病棟跡に移転。熊本収容所の650名(1名は熊本で病死)と福岡収容所の捕虜の一部も合流して、捕虜数1,319名を数える国内最大規模の収容所となった。陸軍第48連隊などの軍施設に隣接し、高い板塀で囲まれた新しい収容所の狭隘な構内には、急造の臨時病棟を転用した建物が立ち並び、他の収容所に比べると劣悪な環境であった。
2代目の収容所長に就任した眞崎甚三郎中佐による厳しい管理体制もあって、収容所当局と捕虜との軋轢が激化し、様々なトラブルが頻発した。そのために「久留米は日本の強制収容所であった」と言う人もいるが、次の林銑三郎所長の時期になると音楽・演劇活動やスポーツなども活発に行われるようになり、収容所に隣接した畑では捕虜達による野菜作りが始まるなど、収容所内も次第に落ち着きを取り戻した。
 注目されるのは音楽活動で、収容所内には二つの楽団があり、通算で150回前後のコンサートが開催された。帰国直前の1919123日には、久留米高等女学校を訪問した捕虜のオーケストラが女学生達を前に「第九」などの演奏を披露した。音楽と共に演劇活動も盛んで、残されたプログラムから収容所内で計56回、60作品が上演されたことを知ることができる。その他、俘虜製作品展覧会とスポーツ大会がそれぞれ3回、いずれも収容所内で開催された。19191219日−21日には市内恵比寿座で市役所・市教育会等の主催による「獨逸人演芸会」が開催されて、連日、観覧に訪れた多くの市民で賑わった。
久留米には捕虜達の所外労役が可能な企業は少なかったが、日本足袋、つちや足袋、日本製粉久留米支店などが捕虜の技術者を雇用し、彼らは収容所から職場まで電車で通勤した。解放後、会社の要請に応じて社員となった、つちや足袋のハインリッヒ・ヴェーデキントは生涯を通じて同社の機械技術を支え、日本足袋のパウル・ヒルシュベルガーはゴム配合の技術者として同社初期のゴム技術を築き上げ、その後ブリヂストンタイヤの創業に参画した。久留米収容所の捕虜だったこの二人のドイツ人は久留米の基幹産業の一つであるゴム産業の発展に大きく貢献した。