3.静岡俘虜収容所について
内野健一
静岡俘虜収容所は1914年12月3日に開設。12月10日に83名の捕虜を受け入れ、同月13日に更に24名を受け入れた。1915年2月15日には自炊係として2名が大阪収容所から転入している。1918年8月25日に閉鎖され、習志野収容所に統合した。
収容所は千代田村蓮永寺と同村小黒温泉に内定していたが条件が合わず、俘虜到着の4日前、12月6日、赤十字社静岡支部と恤兵団授産所に変更され、急遽改修されたものである。
静岡県内では他に浜松にも収容所を設置する構想があったが、これは実現しなかった。
多くの捕虜にとってはほとんどすることもなく、しばしば「無聊に苦しんで居る」と当時の新聞記事も伝えているが、音楽や日本語の学習を行う者もいた。
また、逃亡を試みる者がしばしばあり、その中には収容中少なくとも4回の逃亡を図ったヴィルヘルム・シューベルトや1916年3月13日に静岡収容所を脱走しドイツ本国に逃亡することに成功したハインリヒ・ウンケルがいる。
当時の新聞記事によれば、浅間神社や安倍川、広野海岸、久能山東照宮など静岡近郊への遠足がしばしば行われた。
隣接する師範学校の校庭では体操も行われ、サッカーやテニスなどが行われた。なお当時の静岡師範学校長は捕虜ゼッケンドルフ男爵と青島戦以前からの知人であった。
サッカーについては、捕虜から指導された師範学校の学生もいた。静岡師範学校では数年後に県内初の蹴球部が作られ、以前に捕虜から指導を受けた学生が部員や指導者となり、後にサッカー王国として知られる静岡県にサッカーが普及した原因の一つとなったのである。
捕虜の職業としては69名が軍人であり、それ以外は元来その他の職業に就いていた者であったため、1917年頃には様々な仕事を行う捕虜も見られるようになっていった。
アルトゥール・ブリュークナーは収容所内で牛の骨を利用したマンドリンや、他の俘虜の依頼を受けて本箱などを作っていたが、静岡県工業試験場に雇用され、指物・玩具等の製作に当たった。彼の技能は試験場長を驚嘆させた。
ドイツの製菓学校の卒業生であるブローベッカーは、通訳を伴い、午前8時から午後4時まで市内札の辻町八木パン店にてパンや菓子の製造に当たった。
またハインリヒ・マダウスは静岡物産陳列館や市内の商店で店頭装飾に携わった。
1918年6月には地ならし工事に使役するため11名が、また鉄工場の職工として5名が雇用されている。
静岡収容所は決して環境のよい収容所ではなかったが、上記のような活動が見られた。