11. アレクサンダー・シュパン
                  上村直己
 
 久留米収容所にいたアレクサンダー・シュパンは解放後も日本に留まり、教師の傍ら漱石の「坊ちゃん」を独訳するなど近代日本文学の翻訳を熱心に行った人として特異な存在である。
履歴書によるとシュパンは1890年12月22日に生まれた。原籍はプロイセン・アルトナ市(現ハンブルク)。ハレの高等学校卒業後、同市で農業実習に従事、更に高等農学校に入学、1910年3月同校卒業。その後ベルリン大学とハレ大学に計3学期在学し、聴講生として農芸化学を学んだ。1912年10月義勇兵として青島に赴いた。1年後青島の独支大学の農学部助手となったが、第1次大戦が勃発。海軍歩兵として戦い、日本軍の捕虜となった。そして1914年11月から1920年1月まで久留米収容所で過ごした。この間に収容所新聞を編集し、同紙に主として日本農業に関する業績を発表した。だが模範的捕虜とは言い難く、点呼に出場しなかったなどの理由で数回重営倉の罰を受けた。この収容所時代に日本語を学んだと思われる。1919年11月には”Der Heimatswimpel”(故郷の三角旗)という雑誌を発行して主筆を務めた。
解放後は九大医学部教授の久保猪之吉の紹介で福岡県幸袋町(現飯塚市)の伊藤農園の顧問となり、傍ら九大医学部の有志や第12師団所属将校にドイツ語を教授した。1920年10月九大講師としてドイツ語を教授し、次いで1921年4月から九大農学部で独逸農業発達史の講義を嘱託された。この間、1922年4月から1925年3月まで山口高等学校の独語教師となり、福岡と山口を往復する生活を送った。1925年3月、独訳「坊ちゃん」を大阪の共同出版社より上梓した。シュパンによればこの作品ほど江戸っ子気質が生き生きと描かれているものはないという。シュパンは、日本人の国民性を知るためには近代文学を翻訳するのが最もいい方法だと考えていた。同じ頃、彼は内山貞三郎(山口高等学校教授)と共に独文雑誌 ”Das junge Japan”(若き日本)を発行したが、これには主として近代日本文学の翻訳を連載した。彼が独訳した作品には共訳も含めて武者小路実篤「その妹」、菊池寛「藤十郎の恋」「小野小町」「恩讐の彼方に」、芥川龍之介「鼻」、里見ク「嫉妬」、山本有三「海彦山彦」、国木田独歩「帰去来」「親子」などがある。
 昭和に入ってからは九大医学部で講師として主に独語論文の校閲などの仕事をしていたが、1934年3月10日付で講師嘱託を解かれた。その後、彼はある事件のために大牟田市の三池港からドイツの貨物船で秘かに帰国したと伝えられている。