9.大分俘虜収容所について
安松みゆき
本発表では、発表者の勤務地に当たる大分県に設置された大分収容所を取り上げる。第1次世界大戦時のドイツ兵捕虜収容所については、板東収容所や習志野収容所のように、従来の研究によってその実態がかなり詳細に明らかになってきている例がある一方で、設置された事実は知られているものの、それ以上の事情が判明していない例が見られる。大分収容所に関してはその後者に当たり、わずかな史実の指摘に留まっている。そうした中で概略的ではあるものの、本田孝洋氏が大分収容所について一次資料を用いて紹介したのは注目される。
発表者は以前、20世紀美術と戦争の研究テーマで、大分収容所に関する調査に取りかかり、「戦争と表象/美術 20世紀以後」のシンポジウムにて報告した(『戦争と表象/美術 20世紀以後』美学出版2007年に収録)。ただし、その考察では、大分収容所の捕虜であった、版画家にして日本美術史家のフリッツ・ルムプフ(当時、予備役少尉, 野戦砲兵隊, 海軍歩兵第3大隊)の活動を把握することを主たる目的としていた。
今回はフリッツ・ルムプフに関しては小谷氏からの発表が予定されているため、発表者は、大分収容所の実態をできる限り明らかにすることを目的に据えて考察を進め、上記の本田氏の研究成果や、発表者のこれまでの研究結果を踏まえて、従来紹介された収容所の実状を補完する。
具体的な研究方法として、発表者は美術史の分野を専門としているため、前回同様に、美術に関する視野や接点をもって大分収容所にアプローチしたいと考え、ルムプフが制作した冊子”Das Oita Gelbbuch”(大分黄表紙)を当時の視覚的な記録資料として用いる。
ルムプフは江戸文化には事のほか高い評価を与えており、特に浮世絵に対しては、自らが目指す民衆芸術の模範として称賛していた。そうした価値観は捕虜となっていた間にも変わることなく、時代の流行等を、滑稽味を含んで描いた浮世絵の『黄表紙』を手本にして、収容所を題材とした『大分黄表紙』を制作することに結びついた。『大分黄表紙』に関しては、従来その存在は紹介されていても、全容はほとんど知られていなかった。同書を発表者はアメリカの議会図書館において確認することができたため、上記シンポジウムの際にその全容を紹介している。同書は35ページ足らずの薄い冊子だが、文字と挿し絵による体裁をとる。その内容は、冊子の副題に「鉄条格子の中の患者のために」とあるように、収容所での捕虜達の日常生活がテーマとして取り上げられている。
今回の発表では、まず防衛省の防衛研究所に残されている収容所関連の資料と、当時の新聞を基本資料として参照しつつ、更にそこに記された内容をこの『大分黄表紙』において確認しながら、当時の大分収容所での収容生活の一端を具体的に再現できればと考えている。それによって、小学校に置かれた収容所であったことの意味、また大分に収容所があったものの、近代において全盛を誇った歓楽街の別府と隣接していることが、大分収容所において問題となっていたことなどを具体的に紹介していくつもりである。