牧師館の子Hermann Bohner

―日本への道―

                        

                          井上 純一(立命館大学)

                           

 

1.青島まで

 

俘虜番号2794 第三海兵大隊第六中隊二等海兵 Hermann Bohner。これが後に大阪外国大学(旧大阪外国語学校)[] ドイツ語科外国人教授として、没するまで41年(1963年没)の長きにわたって日本で教員生涯をおくるBohnerの坂東俘虜収容所での名簿である。Bohnerは、普通にはボーナーと呼ばれるし、俘虜としての彼に関わる日本語文献ではそう表記されている。またBohnerは、大阪外国語学校の時代に高松宮に聖徳太子についての講義をしたことを名誉としていたが、高松宮はその日記に「ボーナー氏講話ニユク」[] と記している。この講義は、東京のドイツ大使館内でおこなわれたが、その際“ボーナー”と紹介されたものと思われる。竹山道雄も「堀辰雄君と私」の中で、軽井沢で見かけるBohner夫妻についての印象を書いているが、そこでも“ボーナー”と呼ばれている[]

ところがBohner自身は、そう呼ばれることを好まなかった。「私の名前はボーネルです。ボーナーではありません」としばしば言っていたことを、ドイツ語の手ほどきを受けた学生たちが覚えているように[]、大阪外国語大学(大阪外国語学校)の卒業生や同僚であった教官たち、さらに彼と親しかった人たちは、彼をボーネルと呼んでいた。かくいう筆者もBohnerの最後の2年半の間のまじめとは言い難い学生であったけれども、ボーネルと呼んでいる。そのためここでも、ヘルマン・ボーネルを使って述べていこうと思う[]

ヘルマン・ボーネルは、ドイツ・プファルツ出身の父が福音派バーゼル伝道団の宣教師として活動していた赴任地、現在のガーナの黄金海岸のアボコビで、1884128日に生まれた。アフリカに派遣される伝道団の家族の子供たちは、幼年期にすでに家族から離れて本国で過ごすことになるが、ボーネルも、彼の兄弟姉妹と同じようにバーゼルの伝道団子弟寮で育った[]。ボーネルの兄で作家のテオドール・ボーネル(Theodor Bohner)は、父と家族を描いた小説『神の靴職人-アフリカのあるドイツ人の生活‐(Der Schumacher Gottes  Ein deutsches Leben in Afrika)』の中で、子どもたちは早くから父や母から離れることを言い聞かされてきてはいるが、実際、国へ行く船が寄港すると、海岸を転げまわって「ヨーロッパに行きたくない、絶対に行きたくない!」と泣き叫んだ、と書き記している。牧師館の子供たちにとっては、辛く悲しいことであった。ボーネルもまたその体験を胸の奥底に秘め、人生の歩みを始めた。

1898年父母がアボコビに引き続いて活動していたカメルーンから帰国し、シュパイア(Speyer)に居を定めると、ボーネルもその地のギムナジウムに進学した。卒業後、彼はテュービンゲン、ハレ、エアランゲンの大学(1903年から1907年)で、最後にはシュトラースブルク大学(1911年)で主に神学、新カント学派の哲学を学び、並行してドイツ文学、ドイツ学やヘブライ学を学んでいる。哲学では新カント主義法哲学のルドルフ・シュタムラー(Rudolf Stammler 1856-1938)や批判的実在論を唱えたアリオス・リール(Alios Riehl 1844-1924)の講義に通い、フィヒテ著作集の編者となったフリッツ・メディクス(Fritz Medicus 1876-1956)を聴講している。彼は、当時フィヒテに深く立ち入ることはなかったが、それは後に、東洋との出会いの中でその(日本と中国)思想を理解させてくれるものになったと語っている。またドイツの歴史や民族にも強い関心を示し、エアランゲン大学に滞在中、ニュルンベルクのゲルマン国立博物館に毎週の如く通ったと回想している。彼のこうした倦むことのなかった関心の広がりが、後に板東での講演活動の基礎をなしたといえるだろう。

ボーネル自身が遺した経歴メモによると、ハレ時代に彼はワンダーフォーゲル運動の創始者カール・フィッシャー(Karl Fischer)と親交を結び、フィッシャーが1904年に創設した「アルト・ワンダーフォーゲル」に参加し、2年後フィッシャーがハレを去った後、その指導を引き継いでいる。ハレ時代を除いて、ボーネルがその後具体的にワンダーフォーゲルに関わりつづけることはなかったが、青少年運動にかかわることも深い教育学者ヘルマン・リーツ(Hermann Lietz 18681919)に傾倒し、自然主義に基づくチューリンゲン・ハウビンダのリーツの田園学園に教員として一時期(1908[])席を占めたのも、単なる偶然ではない。また後年ボーネルの教えを受けたものたちは、ドイツ語授業の思い出深い一コマとして、数々のドイツ・リートを習ったことを思い出すが、それらの歌は、ワンダーフォーゲルの愛唱歌であり、ボーネルの青春の歌でもあった。

ハレを去った後曲折を経て上海に渡っていたフィッシャーもまた、青島戦に応召し、ボーネルは奇しくも彼と再会。松山、板東の俘虜収容所を共に過ごしている。しかし収容所時代にフィッシャーと親交を再び強く深めることもなかったと思われる。ボーネルの関心は、主に講演や学習・研究活動に向かっていたからである。

1913年、ボーネルは統合福音派海外伝道教会(AEPM)に応募し、青島へ派遣されることが決定した。その際、AEPMが派遣の条件としたのは、博士号の取得であったという。彼によると「そもそも博士号を取ろうとおもっていなかった」が、伝道団の要請に応じて、エアランゲン大学に論文「ロッセの宗教哲学の基礎 Die Grundlage der Losseschen Religionsphilosophie」を提出し、哲学博士の学位を取得した。こうして1907年来、牧師館出身の教育に携わる者になりたいという彼の年来の希望が実現することになった。「国家を越えた広いパースペクティブ」と「隣人に対する自由で私欲のない奉仕」という二つの力を伝道団の寮で生活する子どもたちは育むと、ヴィルヘルム・グンデルト(Wilhelm Gundertは述べているが[]、ボーネルもまた、そのような者として青島に向かうのであった。

 

2.青島へ

 

ボーネルは、1914319日ジェノヴァ(イタリア)を発った。時にボーネル、29歳。そして以後2回の短期の帰国を除いて、ドイツへ戻ることはなかった。当時ジェノヴァは、南ドイツから東洋へ向かう船旅の乗船地であった。ボーネルが青島で身を寄せる伝道団牧師であり著名な中国学者となるリヒアルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm[] もこの地から中国に向かい、後に高知高校(旧制、現高知大学)や松山高校(旧制、現愛媛大学)でドイツ語教師を数年間勤めたボーネルの弟ゴットロープやアルフレートも、同じ港から東洋へ向かっている[10]。そしてボーネルは上海を経て424日に青島に到着した。到着後、彼はただちにヴィルヘルム牧師のもとを訪ねている。

AEPM1899年に宣教師として青島に派遣したヴィルヘルムは、教会の仕事と合わせて、中国人向けの学院、女学校および病院の運営をしていた。ボーネルが派遣されたのは、そのヴィルヘルムの「禮賢書院( das deutsch-chinesische Seminar)」の教師としてであった。禮賢書院は、現在の上海路と城阳路との角地にあり、その敷地とヴィルヘルムの自宅は、青島第9中学校として残っている。現在この学校は、「外語教学実験校」として位置づけられており、ヴィルヘルムやボーネルのまいた芽は、今もなお息づいている。

当時の禮賢書院の校門は、現在とは異なり上海路と城阳路の角にあり、入るとすぐ門衛の後ろに、孔子図書館があった。この図書館は1914年にワイマール伝道団の寄付金で建設された。階段と緩やかな坂道をたどったテラスの後ろにヴィルヘルムの住まいがあり、住まいの横にある庭をはさんで校舎が建っていた。現在の校舎は当時のものではない。校門からヴィルヘルムの居宅へ向かう道は、現在は運動場になっており、図書館や門衛などは残っていない。ヴィルヘルムが描いた「東アジア伝道団の地所」のスケッチメモには、講堂、中庭のある校舎二棟、ホール、牛小屋、地下倉庫などの配置が描かれている。ボーネルは、校舎棟の一角にある部屋を宿舎として利用していた。そこにはボーネルに先立って、1912年にヴィルヘルムの補佐として派遣されていたゾイフェルト(Wilhelm Seufert)牧師も住んでいた。ボーネルは四月の末に到着し、八月には宣戦布告がなされるので、そこにいたのはほんの数か月のことであった[11]。ゾイフェルトもまた、ボーネルとともに応召し、俘虜となっている。

青島に着任して応召するまでの数ヶ月間、ボーネルが精魂を傾けて教育と中国語の学習に力をいれたのは、容易に推測できる。それは、ボーネルがヴィルヘルムの青島に志願するのは理由なきことではなかったからである。

学業を終えた後、ボーネルが人生の道を見定めるために取り組んだのは、まずヘレンフート派の「兄弟団Brudergemeinde」での教育活動であった。この「兄弟団」で彼は、教育実践の最初の入門をした、と回想している。「兄弟団」の教育活動では極めて緻密な学校運営・教育方法がたてられており、それを身につけた同僚から実践で学んだこと、生徒への質問や言葉にまで気を配るノートを作って授業準備をすること、これらのことは大学生活ではえられなかったものであった。この教育への姿勢は、その後日本でも実践されたし、俘虜収容所での講義などにも活かされている。同時に彼は、そこでペスタロッチなどの教育学者の理論やその人間的魅力を学び、当時の人間的教育の実践者として著名であったヘルマン・リーツに手紙を書き、その主催する田園学園に招かれたのであった。リーツとのハウビンダでの経験は、ボーネルが後になって気づいたように、彼の教育に対する姿勢に決定的に影響している。「リーツとの出会い、彼の自由で、おおらかで、また英国的人格教育への意欲的な信頼、彼の心身ともに自由なありかた、これらは私が生きるに大切なものであった。」そしてリーツもまた「他の人に対して表明していたように、私を自分に近いと彼は感じていたと言ってもよい」[12] とボーネルは感じている。

このヘレンフート派の「兄弟団」の事務所が、シュトットガルトから南東30キロほど離れたボルにあった。この村こそ、ボーネルとヴィルヘルムを結びつけるものとなった。ボーネルが「兄弟団」の活動をしていたころ、ヴィルヘルムはすでに青島に着任していた(1899年)が、その2年前にボルにヴィルヘルムは副牧師として就任し、ボル温泉保養施設(バード・ボル)に住んでいた。この温泉保養施設は、ヘレンフート派と関係の深いクリストフ・ブルームハルト(Christoph Blumhardt)牧師が活動する場であった[13]。そしてヴィルヘルムは、ブルームハルトの五女ザロメと結婚している。

ボーネルは、クリストフの父が自分の育ったバーゼル伝道館の教師であったことを父親から教わり、バードボルでのブルームハルトの有名な社会宗教活動を、すでにギムナジウム時代には知ってはいたが、ヘレンフート「兄弟団」の活動の中で、ブルームハルトを個人的にも知るようになる。その関係から、ヴィルヘルムの青島での活動や彼の研究についての情報を得ており、ヴィルヘルムを密かに尊敬していたという。ボーネルはヴィルヘルムのなした翻訳の素晴らしさだけでなく、ヴィルヘルムが知人やブルームハルトに出した通信の内容を聞かされて感銘を受けたと、後に語っている。「このひとは、古いタイプの伝道師のように中国人を遅れた貧しい異教徒として見下ろすのではなく、中国の偉大な伝統の中に息づいている「精神」を研究し、そのことで中国との精神的架橋を試みていたのである」[14]

だからボーネルは、ヴィルヘルムの行う「東には西を、西には東をもたらす」活動に深い感動を受け、そうした伝道と教育を自分の生涯の道だと見定め、父と同じように海外での伝道と教育の道を進む決意を固めたのであった。若いボーネルの精神の彷徨の旅は、リーツとの出会いに続いて、ヴィルヘルムの活動を知ることで、その行き先が定まったのである。ヴィルヘルムがボーネルに及ぼした影響は、その直接的な接触期間は短いものの、使命感だけでなく、研究者としての姿勢、原文にあくまで忠実足らんとする翻訳に見られるし、ボーネル自身、ヴィルヘルムを生涯の師として尊敬し、その姿勢が「自分の一部になった」と追想している。

ボーネルは、193031日に亡くなったヴィルヘルムを追悼する講演を、同年49日にドイツ東洋文化研究協会(OAG)で行っている。そこでは大要次のように語られている。

 

ヴィルヘルムが中国で活動しはじめる時代、中国はヨーロッパにとっては「獲物」であり、外国からの不法や略奪欲に絶望的な抵抗をしてはいたが、ヨーロッパはそれに対してフン族に対する聖なる十字軍の役回りだと考え、一つの世界権力として中国から得られる「恩恵」に各国が群がっていた。・・・・・・

この時代の中で、ヴィルヘルムは一般的にもたれていた幻想にほとんど影響を受けなかった人たちの一人である。ヴィルヘルムを際立たせているのは、その精神的自立である。彼が正しいと認めたものが、彼には正しいこと、優れたことであった。世界が別の風に考えたとしても、彼は振り向きもしない。・・・・・

彼は評判と現実とをへだてる真なるものが何処にあるかを気づく能力をもっていた。この能力こそ、ヨーロッパに席巻されるこの時代の中国に必要とされるものであった。植民するヨーロッパの文化的価値には人間性の価値があると考えていることと、実際にそれを証明する人との間に矛盾があるように、その矛盾は文化的な中国に対すると、一層鮮明になる。文化的な中国の支配は、軍事的ヨーロッパとは異なり、文化そのものから発している。ヴィルヘルムが親しんだ孔子、孟子、荘子の著作はそのことを語っている。・・・・・

  ヴィルヘルムは倦むことなく、この時代に、ヨーロッパ政治による中国の精神的な権威的諸力の破壊に反対した。野蛮なフン族という見解に反対し、文化的中国をより良く理解した。そのために彼は活動した。この時期の友人あての手紙は、彼を理解するためには最も価値をもつものである。それが、ペスタロッチが生気を吹き込み、ヘルバート(Johann Friedrich Herbart1776-1841)が家庭教師時代に実行し、ヴィルヘルムの中に生きている核心である。この核心がなければ、科学、芸術、ビジネス、政治的利得は、無に等しい。最も重要なのは、人間、あらゆる階層の人間である。彼は中国の人の見解がヨーロッパのそれと矛盾するときには、彼らの言い分を聞く耳を持とうとした。それが、彼を孔子や孟子や荘子へと導いたのである。そしてこの中国の宝物にドイツ人が近づくことができるようにするのが、彼の最大の課題になる。

 

このヴィルヘルムへの追憶は、同時にそのままボーネル自身の日本学の方法の核心をなすものでもあった。日本人の精神性を理解すること、それをドイツ人に正確に伝えることが、ボーネルの生涯の仕事、課題になり、ヴィルヘルムの遺産を、ボーネルは日本という異なる国で引き継いだのである。

 

3.俘虜として

 

俘虜となったボーネルは、松山、板東で5年間を暮らすことになる。俘虜である境遇を彼はどう受け入れていたのであろうか。ボーネルの初期の教え子である牧祥三は、「ドイツ俘虜収容所の管理将校だった人が・・・わたしらの学校にある教授をたまたま訪ねて来て、ここでボーネル先生が教壇に立っているのを知り、全く唖然となった。その将校の知っているかつての俘虜ドイツ兵ヘルマン・ボーネルは、収容所のなかでもっとも反抗的な、扱いにくい人物だった」というボーネル伝説が、大阪外国語学校の学生たちの間では話されていたと語っている[15]。また別の卒業生は「授業中先生がカメラーデンを歌われたことがありました[16]。歌がすすむにつれて声がかすれ、ふるえて途切れがちとなり、感情の高まりをかくせなかったことがあります。青島での軍隊生活の想い出でしょうか。遠い異国で往時を思い出された先生の気持を察し、生徒一同シーンとなったものでした」[17] と追憶している。

この追想の真偽を確かめるすべはない。しかしボーネル自身が俘虜という身分をどのように受け止めているかを直接記したものはないが、遺されたメモには幾点か、俘虜であることにかかわることが記されている。

ボーネルにとっても、板東では「あらゆることが比較的自由に扱われていた」とはいえ、「遠く、世界の果て」の板東であった[18]。彼には、青島と松山‐板東は感覚の上でも違っていた。青島は遠いアジアであっても、なおドイツ的雰囲気を味わうものを持っているのに、ここ日本の松山や板東はそのような雰囲気の微風さえ感じさせるものではなかったであろう。おそらくこうした心理は、ドイツ兵に共通するものであったろうと想像できる。そして次のように書き残している。

理由はないとは言えないが、戦争俘虜は楽なものであったと噂をされている。これを再検証ししようと思えば、200人とか180人とかを、一人墓穴二つ分しかない空間に、一度数週間閉じ込めさえすればよい。その結果は直ぐにわかる[19]

 

また別のメモでは

180人が一人当たり畳一枚つまり墓幅一つに押し込まれ・・・・[20] と書いている。

 

居住空間を墓の広さで表現するあたり、遠い異郷での捕虜としてのボーネルの心理があらわれているように思えるが、それよりも居住空間の狭さは、多分彼にとって、そしてドイツ人にとっては、苦痛であったことは想像できる。だから楽だという噂は、彼には承服できるものではなかった。ボーネルにとっては、収容所は「常軌を逸した紙の壁の家」[21]であった。

しかしこうした不満にもかかわらず、ボーネルは、その狭さがかえって俘虜生活を互いに支えあうものになったことを、そしてそれが自分には力になったこと語っている。

 

このような押し込めには、大きな利点もあった。そこではお互いのマイナス面を徹底的に知るようになる。そして何もかもマイナスに落ち込むことで、次にはどんなプラス面でも、実際プラスとして評価し、それを喜んで受け入れるようになる。その結果共同関係がかつてどこにも見られなかったほど花開くものである。・・・いずれにせよ、このような常軌を逸した紙の壁の家に閉じ込められながらも・・・ドイツ文化を上演し始めた人をある種の力が支えたに違いないということをそこにいなかった人であってもわかるだろう[22]

 

4.俘虜収容所での活動

 

共同関係に力をもらいながら、ボーネルは俘虜収容所での活動を始めた。ボーネルはそのことについて、次のように回想している[23]

このような場所での教授・講演活動は、めったに得られない神の恩恵であった。実務経験を積んできた人、大学とか中学校で教育を受けた人など、東洋じゅうから集まってきた様々な人が聴衆であった。そうした人たちにベートーヴェンとかルターを話し、詩やドラマを演じて1時間とか1時間半同僚に囚われの身であることを忘れさせること、そこには、独特の特別な刺激があった[24]。講義は、教育程度がさまざまに異なる聴衆に理解をしてもらうには、一語一語にまで気を配った準備を必要としたが、それはヘレンフート派の「兄弟団」での教育活動やリーツの田園学園の成人向けの実践であった。

ボーネル自身がかかわり、「特に推進する責任をもっていた」のは、「歴史や文芸」分野の催し(ボーネルのメモでは、ゾルガー(Prof.Dr.Solger)が自然科学分野の責任を担っていたという)であった。彼自身が扱ったものとして、文学や演劇ではレッシング、ゲーテ、シラー、ハウプトマン、イプセンの名をあげている。特にゲーテの自伝『詩と真実』は年間の連続公演シリーズ(ボーネルは約50夜とメモを遺している)としてとりあげ、その自伝の全構成を語り、それに関連してファウストやシラーとの往復書簡にも触れたという。そしてこれに続いて19世紀シリーズでは、時代の「指標」としてのイプセンを中心に取り上げている。イプセンでは『愛の喜劇』『皇帝とガリラヤ人』『青年同盟』『人魚の家』『私たち死んだものが目覚めたら』を、ヘッベルの『マグダラのマリア』、ゲハルト・ハウプトマンの『織匠』の話をしている。またカーライル(Thomas Carlyle)のフリードリッヒ2世をとりあげ、フリードリッヒという人物の全体を、その戦いの一つ一つを、その行為の一つ一つを語ったという。

こうした講話で彼が眼目としていたのは、文学にとどまらず作品を通じて生活全体を、ゲーテやフリードリッヒ2世やイプセンを包み込んでいる時代を、語らせることであった。それは「ドイツ文化ついて語るのではなく、ドイツ文化自身を語らせる」という試みであった。そのためボーネルの努力は、資料そのものを聴衆に提示することにあり、その一つとして語りすぎるほど語ることであり、ときとしてモノローグでドラマ全体やその部分を演じたとしている。

「演じる」ということでは、「私はドイツ版『真夏の夜の夢』である『ペーター・スクヴェンツ(Peter Squenz)』を上演した[25]。それによって演劇がはじまった、それについては多くの仲間が今日でもいっているように、彼らがそれほど感動したり楽しんだことは、もう二度と見られないほどであった」と自賛している。『ディ・バラッケ』の第23号の劇評「ペーター・スクヴェンツ」にも「ペーター・スクヴェンツ氏(ボーナー)」[26] と記されており、またPeter Squenz P.Sq.もしくはP.Squ.の署名がある。彼が最初に演じたのは何時であるか書き遺していないが、『バラッケ』第4号(19171021日)にはP.Sq.名の劇評があり、第2号には、板東収容所の演劇事情について書いてある記事から推測して、松山時代ではないかと、筆者は考えている。

『ディ・バラッケ』の収容所日誌の記載をたどると、ボーネルは1917121日から1918518日まで「ドイツの歴史と芸術」の連続講演を計36回おこなっている。また収容所の「士官グループからの絵画の講義」をという要望に応えて、「美術史の特別コース」を開いている。これは後に収容所印刷所から『絵画についての対話Gespraeche ueber Mahlerei』として出版している。この講義は、19183月から始められ、10()にわたって行われた。初期の装飾文様、動物文様、植物文様なども含めた絵画の歴史、ゴシック、ファン・ダイク兄弟、ギュルネヴァルト、デューラー、ホルバイン、イタリア・ルネッサンス、ダ・ヴィンチ、コレッジオなどが内容とされている。この本の序文には、「この小作品は、絵画の講義の夕べの参加者が、何年かのちにこの対話の偶然の経過と内容を記憶に呼び戻せるものになるだろう」と記されている。

「我々が後にはるかに広い坂東収容所―そこにはおよそ1000人がいた―に移された時、コンサートや演劇と講義活動とは手を携えることになった。そこで私はベートーヴェンのシンフォニーやハイドン、モーツアルトの作品を詳細に説明した。古典文学の上演では、事前に私がそれらについて話をした」。例えば野外上演したシラーの『群盗』などもそうである。そして1918528日に61日の第九交響曲の演奏に先立ち、ベートーヴェン第九交響曲についての講演を行ったのは知られている。

もっとも彼はこうした活動を、「もし他の人がそのためにそこにいたなら、私はそれをしなかった」のであって、それは「戦争俘虜や私自身のために、最善を尽くしてドイツ人を元気づけるためであり、外国で不自由だという観念から少なくとも数時間解放させるためでもあった。教育を受けた程度は色々であり、地位も様々であったこれらの仲間を想いだすのはいまでも嬉しい」ものであり、「自己の民族的存在に、これほど多面的に深く関わったことが、後になってより狭い専門の東アジアの課題に必然的に、逆に影響を及ぼしている」[27] と述べている。それは、彼の日本研究、民族的存在の精神性をとらえる研究へと繋がるのである。

こうした講演活動と並行して、ボーネルは一種の研究会を組織した。中国にいた二人と日本経験が長い二人の四名が集まって、お互いに日本や中国の知識を交換し、さらに日本語と中国語に一層長じるよう翻訳をしたものを書きとめ始めた。四人で始めたこのサークルは、ボーネルの言葉では「小さな東アジア協会」であった。そのようにして始まった「協会」は、しだいに参加者が増え、作品をサークル仲間の間に回し読みをし、相互の励みにしようという話がまとまり、191871日から毎週、3,4編の寄稿文をファイルに綴じて会員の間で回覧することになった[28]。ボーネルがその編集を担当した。編集にあたって彼が留意したのは、大学教育を受けていないが技術者とか営林従事者とか、職業上、専門活動で大学をでた者よりも豊富な経験を有している会員たちが積極的に発言することであった。

ファイルで会員に回覧された作品と執筆者について、ボーネルは次のようなものをあげている[29]

昔話や落語が数多く翻訳紹介されている。グロスマン(Heinich Grossmann)が『猿蟹合戦』『松山鏡』、ラーン(Heinrich van der Laan)が『舌切雀』を訳し、落語ではマイスナー(Kurt Meissner)  が『巌流島』『火焔太鼓』『茶の湯』『お文様』『無筆の女房』『穴泥』『二番煎じ』『福禄寿』『太鼓腹、『くしゃみ講釈』『狐ツキ』を、シュタインフェルト(Heinrich Steinfeld)が『子ほめ』『虎の見世物』を載せた。グロスマンは、日本の新聞記事から「青島の商業と文化について」「山東調査考」「中国の書物と文化について」なども訳し、「西田氏が収容所の出来事を記事にしたドイツ式『富田家畜飼育場』はグロスマンが翻訳した」。

マイスナーの『福禄寿』は、『バラッケ』第419194月号に掲載されており、その前書きをボーネルが書いている。解放後ドイツ東洋文化研究協会(OAG)で活躍するマイスナーは、その日本語能力を生かして、七夕祭りに関する研究を発表し「万葉集」「古今集」「新古今集」などから七夕に関する詩歌を訳出した。また、たぬき信仰の伝説、落語、童話を収集、訳出し、『バラッケ』にも「たぬき物語」を書いており(19196月号)、後に『四国の怪談―世話物・古だぬきの闘争―口述神田伯龍・速記丸山平次郎』を翻訳出版している。

ティッテル(Hans Tittel)は阿波の地形、地下資源、町と農村、史跡を発表し、日本の格闘技である相撲について執筆した(後に収容所出版所から『相撲図説 日本の格闘技』を発行)。また彼は日本の大衆読み物を分析した『世界大戦からの物語―8号要塞の悲劇』やアイヌ語や朝鮮語の解説を書いている。

バルクホールン(Adolf Barghoorn)、カイスナー(Ernst Keysner)、ファン・デァ・ラーン(Heinrich van der Laan)、ルドルフ(Gustav Rudolf)、ジーモニス(Erich Simonis)の五人は日本人の生活について、風土と天候、花と鳥、農夫と野良仕事、神社行事や慣習、祭り、風俗などについて翻訳した(後に『国民年中行事』として収容所出版所で発行)。

ティーフェンゼー(Dr.Franz Tiefensee)は、中国の伝説や神話を扱い(『中国の説話にみられる星と天候についての伝説』『伝説中の金属の鏡』『中国の神話と説話の中での亀の位置』『月と女神とそのとりまきたち』など)、ティム(Johannes Timm)は中国人の笑い話(『中国の笑話』)を訳出した。収容所での「中国の夕べ」での講演をもとにした執筆ではクラウトケ(Paul Krautke)の中国の植物と動物、ヴァナクス(Martin Wannags)の広東省、シェーファー(Kurt Schaefer)のロシアのシベリア進出、などがある。シェーファーはそのロシア語の能力を生かして1887年にアムール川流域調査公団が出版した『ウラジオストック近郊シェジミン川流域のアムール湾の岸辺にある先史時代の貝塚の発掘』についての考察している。

その他、エッゲブレヒト(Hans Eggebrecht)が『遊牧民族について』、リントナー(Paul Lindnerが『山東の鉱業』、フォッケロート(Eduard Vockerodt)が『中国と外国』『中国の紡糸原料』、シュヴェンゲンベッヒャー(Carl Schwengenbecher)が『中国国民経済からの統計』、『山東の経済』『中国の鉄道』、バールト(Johannes Barth)が『中国の鉱物資源について』、ベーアヴァルト(Ernst Baerwald)が『日本の占領工業』、シュヴァルム(Wilhelm Schwarm)が『ドイツと中国の歴史上の関係について』、コステノーブレ(Hermann von Costenoble)がタイ語文法を翻訳した。

ボーネル自身は、編集作業のかたわら、日本の詩歌を理解するための手引書の作成の試みをしたり、日本と中国の演劇の資料を編集したりしていたものの、本格的な日本研究には踏み出していない。それは、むしろ日本語よりも中国語への関心が強かったからである。「1914から22年まで、東洋に関しては、もっぱら中国語に取り組んだ」[30] とボーネルは語っている。

 

5 青島、そして終の住処の日本へ

 

1920年収容所からの解放後、ボーネルは、その足で東京のフンツィカー(Hunziker)のもとを訪ねた。フンツィカーは、ボーネルと同じ伝道団に属しており、収容所にもミサをあげにたびたび訪れており、ボーネルは旧知の間柄であった。しかし彼は、日本に長く滞在するつもりは毛頭持ち合わせていなかった。フンツィカーからは、日本で仕事につくよう勧められたが、ボーネルはそれを断り中国で活動することを希望した。

青島ではヴィルヘルムが1914年から一人でAEPMの仕事を続けていた。しかし彼と家族は1920年の春には決断を迫られていた。妻のザロメの健康上の問題と子供たちの教育のことを考えて青島に留まることが難しくなっていた。ヴィルヘルムは、それまで続けてきた仕事の継承者を見つける必要があった。1920年の初春、中国での活動を再開すべくボーネルは青島のヴィルヘルムのもとに戻った。同じころ、青野原に収容されていたゾイフェルトも、また青島に戻ってきた。ゾイフェルトは、一旦ドイツへ帰国して休養したいと願っており、ボーネルは青島到着後すぐ大戦がはじまったので、禮賢学院や教会の仕事をすぐ引き継がせるには、経験が不足していた。そこでヴィルヘルムは、家族とゾイフェルトを4月に帰還船「南海丸」に乗船させて帰国させ、自身は夏の最終の帰還船で帰国することを決めた。こうしてボーネルはヴィルヘルムから仕事の引き継ぎを教わりながら、青島(中国)での活動を再開したのであった。

7月以降、ボーネルは、ヴィルヘルムの後を継いで基督教会(現在の基督教堂)の牧師と伝道団学校の責任を負うことになった。ボーネルは禮賢学院敷地内にあったヴィルヘルムの居宅に住むことになり、そこから30分ほど坂をくだって基督教会まで往復をした。ボーネルの記憶では、「かなり広い所有地が日本政府から我々に戻された時期であった」[31] こととあわせて、ドイツ人学校が再建されていなかったので、少数ながら居住するドイツ人の子供の教育もボーネルの任になった。

そのためボーネルは多忙な日常を過ごすことになるが、その多忙さを助けたのが、後に結婚をするハンナ(Hanna Blumhardt)であった。ハンナはクリストフ・ブルームハルトの六女、ヴィルヘルムの妻ザロメの妹である。彼女は1904年に青島に来て以来、ヴィルヘルムが創建した女学校の教師と看護師をしていた。彼女もまた敬虔な牧師館の子女として、社会奉仕への熱い情熱をもって青島に身を埋める気持でやってきていた。青島への出立の日のことを、彼女は次のように回想している。「両親の毎日は信徒の皆さんへの献身と奉仕でした。青島に旅発つ日、ジェノヴァの地まで父に送られ、車中父娘二人になってはじめて、ああ自分にも父があったとうれしさに胸を熱くした。」[32] 戦争中も彼女は、ヴィルヘルム家と共に中国に残り、戦後再び学院の手伝いをし、ヴィルヘルム達が帰国しても、そのまま青島での活動を続けることを希望した。彼女は中国語が達者で、ボーネルにとっては得難い手助けであった。

当時AEPM本部は、財政的に困窮しており、ボーネルの給料は支給されず、小遣い程度の金額しか手にすることができなかった、とボーネルは記している。彼は青島で活動するにあたって、「伝道は給料に関しては普通の世界とはちがっている」ので、「そのことは特に考慮に入っていなかった」[33] としている。しかし彼は後任者が決まるまで臨時の後継者であるということを承知していたものの、正規の後任者に自分が選任される可能性もあると考えていたのは、間違いない。

しかしボーネルは、伝道団が以前のように二人の牧師を派遣・雇用する資力をもちあわせていないことも承知していた。彼の秘かな期待に反して「ドイツ東アジア伝道団」と名称変更していたAEPMは、19223月でボーネルを解職し、ゾイフェルトを正規の後任者に決定した。伝道団は「派遣者を二人雇うことができず、その特権を二人の方の年長者である、ドイツ・中国セミナーの有能な現指導者であるゾイフェルト 牧師に与えた」のであるとボーネルは記している[34]

当然「中国を去るのは私には困難であった。」中国に残るための努力を彼は試みたが、中国では相応しい地位につけそうにもなかった。そのような悩みに苦しんでいたとき、1922年の4月に開学する大阪外国語学校の校長に就任する予定の地理学者中目覚[35] からドイツ語の教師として働かないかとの誘いを受けた。日本に行くという考えは、それまでボーネルには浮かんでこなかった。彼は、収容所時代も中国語に熱心であっても日本語の習得には、それほど熱意をもっていなかった。しかし日本からの誘いを彼は「天命」だと感じた。「私はこれまで日本に関心をもっていなかったが、今や日本は私には(中国とは切り離しがたい)東洋に属していると思えた」[36] のである。そして日本での教育と研究に自分の人生を捧げようと決心した。彼には「日本人は孔子の民」であり、「中国では孔子は理論であるが、日本は孔子の現実化である」[37] と思えるのであった。「私は既に日本を知っていた。俘虜として5年を無駄にすごしたわけでなない」[38] と考えた時、ボーネルには中国と中国の文献が如何に日本を強く規定してきたか、そして今なお規定しているかに思いいたった。日本は中国的なものを基礎にしながら、絶えずそれ独自のものをそこに含めこんできたのであるから、彼の<中国>はまた、日本でも活かせるものと思えたのである。

 

1922年大阪外国語学校の開学と同時に、ボーネルは日本での教育と研究生活を始めたのであった。それは、彼が「天命」と感じたように、その後の彼は人生を決するものとなった。翌23年の夏、ボーネルは青島の自分が牧師を務めていた基督教会で、ハンナと結婚式を挙げた。ボーネル37歳、ハンナ38歳。媒酌は後任のゾイフェルト牧師であった。その後日本に住まいながら夫妻は、度々中国内陸を旅行し、数年毎に北京に長期の滞在をしながらも、二人揃って祖国ドイツへは短期の帰国以外に帰ることはなかった[39]。それは、牧師館の伝統をなぞらえるような生活であった。

 



[] 大阪外国語大学は、国立大学法人化に伴う統合(2007年)で現在大阪大学外国語学部となっている。

[] 『高松宮日記』 第4巻 中央公論社 1996年 189頁 1942323

[] 竹山道雄『著作集4 樅の木と薔薇』 福武書店 1983年 

[]八木浩「ヘルマン・ボーネル先生20周年を迎えて」Sprache und Kultur 18, 1984の中で、卒業生の通信が紹介されている。

[] 筆者がヘルマン・ボーネルを扱うのは、筆者の恩師であり、一時期同僚でもあった八木浩が遺した、ボーネルに関する資料を、これも故人となった八木文代夫人の生前の了承のもとに譲り受けることができたことによる。八木浩はボーネルの足跡をまとめる準備をしていたが、その意志をはたす時間を失った。筆者は資料の継承者として、その任を引き受けることに責があると考えている。この小論は、そのため、このドイツの初期の日本学の開拓者の全体の足跡をたどる構想の一部をなしている。

したがってここでの「物語」は、公刊されたものばかりでなく、八木浩が保存していたボーネルの個人的なメモ類に拠っている。これらのメモ類は、筆者が1970年代に大阪外国語大学の教員として勤めていた時期には、ドイツ語科の研究室の段ボール2箱に詰め込まれていた。その後これらの資料は、ボーネル生誕100年の催しに使用されたことがあるが、現在、どこにしまわれているか、残念ながら不明のままである。なおメモには「公刊不可」と書かれているものもあるが、内容的にも、また時間の経過の点からも、それを塞いでおく必要は今ではないと考えている。

[] ボーネルの長年の友人ロバート・シンチンゲルは、ボーネルが子供時代ヴォルムス(Worms am Rhein)のおばの家で育ち、その地のギムナジウムを卒業した、と書いているが、思い違いであると思われる。Robert Schinzinger, Aus meiner OAG Mappe, OAG, 1981, s.21

[] ボーネルがハウビンダのリーツのもとで教師をしていた時期については、文献では若干異同がある。シュパイアの州立文書館の資料では、1907年にプファルツ教区の牧師職資格試験に合格した後、休暇と副牧師職を経て、1909年以後にリーツの田園学園で働いたとしており、ボーネルの親しい友であった著名な日本学者グンデルト(Wilhelm Gundert)も「ヘルマン・ボーネル追悼」(Oriens Extremus 11Jahrgang Heft 1,1964)の中で、1907年に牧師資格試験合格後、すぐに教師になったとし、「1913年ハウビンダで人生の道の決断をした」と述べ、ボーネルが1913年にリーツの下に居たとしている。しかしボーネル自身が大学に求められて提出した経歴書には、この間の教員ないしは牧師職については、一切記載されていない。けれどもボーネルのメモには1908年にハウビンダで教師として活動したこと、その期間はそれほど長くはなかったことが書かれている。筆者はボーネルの記載にしたがって、それは1908年からのほぼ1年間のことだと理解している。

[] Wilhelm Gundert, Hermann Bohner zum Gedaechtnis, in: Oriens Extremus, 11.Jahrgang H.1 ,1964, s.1

[] リヒアルト。ヴィルヘルム(18731930)は孔子の研究や『易経』など中国古典をドイツ語へ翻訳した高名な中国学者である。彼については新田義之の優れた評伝『リヒアルト・ヴィルヘルム伝』がある。ボーネルは彼から研究姿勢の強い影響を受け、ボーネルの終生のテーマともなる日本精神に関わる様々な翻訳は、ヴィルヘルムの翻訳姿勢―原文の一字一句をおろそかにせず、原文を生かす翻訳―を継承している。

[10] ゴットロープ(Gottlob,1888-1963)は、1925年から1928年にかけて高知高校でドイツ語を教えている。彼は、ドイツから日本への船旅と日本(高知)での経験を、『東アジアへNach Ostasien』『日本での一年Ein Jahr in Japan』として著わしている。航海時の写真や高知高校での授業風景などの写真があり、当時のドイツ人が観た日本が描かれていて興味深い。ヨーロッパ人最初のお遍路をしたとされるアルフレート(Alfred,1894-1958)は、博士論文『同行二人 四国八十八か所巡礼Wallfaht zu Zweien die 88Heiligen Statten von Shikoku』や『日本と世界Japan und die Welt』を著わしている。また『古今智恵枕』の翻訳もしている。ボーネル兄弟について、193889日のPfaelzische Presse紙は「外国でのファルツ出身家族のパイオニア活動」の記事で紹介している。

[11] 当時の学院の場所や様相については、Dr. Wilhelm Matzat教授の教えを受けた。教授からはヴィルヘルムのスケッチのコピーをいただいた。ここでの記述は、Dr.Matzat教授の説明とスケッチによっている。禮賢書院跡にある青島第九中学校の中に、ヴィルヘルムの旧居があり、その前にヴィルヘルムの業績を語る銘板が置かれている。また中学校の正門にも学院についての銘板がはめられている。筆者が訪れた時には、旧居は整理中であって、内部を見学することはできなかった(20071130日)。なお学校内や旧居の見学には、事前に市の許可がいる。

[12] Hermann Bohner, Ergaenzende Bemerkungen zu “Lebenslauf”これは、タイプライターによるメモである。ドイツ大使館からの要請による(恐らく叙勲と関係していると思われる)経歴書の補充あるいは説明文書として書かれたものと、ボーネル自身の覚書としてメモされたものがある。

[13] ブルームハルトのこれらの施設は、現在でも保養施設として健在であり、ブルームハルトの居宅は、福音派アカデミー(Evangelische Akademie)として使用されている。またその近くに「ブルームハルト墓地」がありブルームハルト家の関係者が埋葬されている。その一角にヴィルヘルム夫妻の墓石がある。

[14] Hermann Bohner, Ergaenzende Bemerkungen zu “Lebenslauf”

[15] 牧祥三「ヘルマン・ボーネル先生20周忌を迎えて Altmeisterボーネル先生」, Sprache und Kultur 18, 大阪外国語大学ドイツ語科研究室 1984 p.2 牧祥三は大阪外国語学校の3期生であり、後に大阪外国語大学学長になった。

[16] カメラーデンはウーラント(Ludwig Uhland)の詩Der gute Kameradにもとづく歌であるが、ドイツ・リートとしてはIch hatt’ einen Kameradenという曲名で知られている。この曲は、戦友が銃弾で倒れるのを歌ったものであり、軍隊での葬送では兵士の栄誉を讃えて現在でも使用されている。

[17] 八木浩「ヘルマン・ボーネル先生20周忌を迎えて ボーネル先生追想記」同上p.11

[18] Hermann Bohner, Ergaenzende Bemerkungen zu “Lebenslauf”

[19] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange これはタイプライターで作成された長文である。人の目に触れることを禁じているが、恐らく後日の執筆のために準備したものであろう。

[20] Hermann Bohner, Ergaenzende Bemerkungen zu “Lebenslauf”

[21] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[22] 同上

[23] 以下の論述は、Ergaenzende Bemerkungen zu “Lebenslauf” 及びAufzeichnungen zu meinem Lebensgange等、メモ類から構成している。

[24] Hermann Bohner, Ergaenzende Bemerkungen zu “Lebenslauf”

[25] ペーター・スクヴェンツは、Andreas Gryphius(1616-1664)の作品”Absurda Comica oder Herr Peter Squentz”である。ボーネルはSquentz Squenzと書いている。これは『バラッケ』でも、後に書いたメモでもそうである。

[26] 鳴門市ドイツ館史料研究会訳『ディ・バラッケ』第1巻 302ページ

[27] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[28] Beitraege zur Ostasienkunde (Sammlung literarisch-wissenschaftlicher Arbeiten deutscher Kriegsgefangener in Japan 1914-1920), OAG ,Band27.には、ボーネルが板東での活動について寄稿している。ボーネルは、この特集に載せられている論文について、メモでは次のように記している。「(ここに載せられているのは)比較的大きな著作にはならなかったが刊行するに極めて価値あると考えたものである。正確に言えば著作としては残らなかったものの半分であり、他の半分は私の手元になおあるが、勿論もう文字が読めないので再生するには難しいので望ましい形では残っていない。」ボーネルの手元にあったファイルは、八木浩の記憶では研究室に保管されていたが、現在ではその所在は知られていない。

[29] 以下の記述に際して、特に人名などについては、高知大学の瀬戸武彦の丹念な俘虜名簿調査によるところが大きい。

[30] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[31] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[32] 大阪外国語学校卒業生木村寿夫は、バードボルに夫人を訪ねた折に、この回想を聞いている。

[33] Hermann Bohner,ドイツ大使館へ提出した経歴書の補充文書から(1952227日)

[34] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[35] 中目覚は、留学中ドイツの地理学者ペンク(Albrecht Penck,1858-1945)と親交をもっていた。ボーネルもまたペンクを知っていた。

[36] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[37] 同上

[38] 同上

[39] 1963年に没したボーネルは、神戸の再度山の外国人墓地に葬られている。夫人ハンナはボーネルの死後、故郷バードボルに帰郷して、8年後の1971年に亡くなっている。夫人をかつての教え子たちがたずねている。その一人、ボーネルの弟子でありかつ同僚でもあった乙政潤は、亡くなる1年前に訪れた思い出を次のように書いている。「夫人の居間には、姫松のお宅で私たちが見なれていたあの骨董や生の蔵書が何ヶ所にもかためて置いてある。夕食を片づけたテーブルに、それらの中からいろいろな書物や写真を持って来て、私たちに示された。夫人の記憶は少しもあやふやでなく、指摘される事柄はかえって私の方がまま記憶おぼろなことがあった。追憶がさそわれるままに先生との思い出を語る夫人の態度は、淡々としていて、毫も感傷的ではなかった。夫人にとって過去のみが人生のすべてなのではなく、現在もまた生きるべき人生なのであった。」(1970417日)注15のブルームハルト墓地に夫人の墓石がある。ボーネル夫人の墓標には、夫ヘルマン・ボーネルの名前とヨハネ福音書の「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。Ich lebe und ihr sollt auch leben」が刻まれている。

 

 

(本論文の冊子版『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』の参照・引用文献中、Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinen Lebengaengeは、小阪清行氏の指摘を受けBohnerのタイプ原稿を精査したところ、筆者の解読間違いであることが判明した。正しくはAufzeichnungen zu meinem Lebensgangeである。本Web版では、修正したものを載せている。)