一般公開国際シンポジウム

「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」のこと

                                 瀬戸武彦

 

 今回、岡山大学における秋季研究発表会において、標記のシンポジウムが開催されることになった。一般公開にしてしかも国際シンポジウムと銘打ったものは、日本独文学会の長い歴史でも初めてのことである。この度のシンポジウムは中国四国支部の企画によるが、ここに至るまでの経緯に多少通じている者として、これまでの道のり等について記してみたい。

 そもそもの発端は二〇〇三年の秋、中国四国支部学会が高知大学で開催された時の懇親会の席である。愛媛大学の森孝明教授と、ドイツ兵俘虜に関するシンポジウムを開いてはどうだろうかと話し合った。「俘虜」の言葉が馴染み薄いこともあって、「不良グループ」がまたまた妙な話をしている、とからかわれたりもした。翌二〇〇四年の広島大学での中国四国支部学会のやはり懇親会で、岡山大学の高橋輝和教授が我々二人を前に、「シンポジウム開催を是非とも、それもゆくゆくは全国学会で」と熱っぽく話した。驚くとともに、果たして実行可能かと正直不安が過ぎった。しかし二〇〇五年秋の愛媛大学に於ける中国四国支部学会で、「第一次大戦時の中四国のドイツ兵俘虜収容所」の公開シンポジウムを開催することがほぼ固まっていた。「中国四国地区に独文学会の秋季研究発表会が回ってくる二〇〇八年までまだ四年ある」、との高橋輝和氏の熱弁に我々二人は動かされたと言ってよいかもしれない。

 下地としては既に鳴門市ドイツ館、取り分けその史料研究会(会長川上三郎徳島大学教授)や久留米市、習志野市の両教育委員会によって俘虜収容所と俘虜の研究が行われ、丸亀市の「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」も発足していた。またその頃にはドイツでも、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏等が活発な研究を始めていた。これらの研究グループを束ねる「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の発足については、ドイツ文学・語学振興会の小冊子『ひろの』(四四号、二〇〇四年)で筆者が紹介したところである。

 二〇〇五年四月には「日本におけるドイツ年」が始まり、東映系映画『バルトの楽園(がくえん)』の話題がメディアを賑わし始めた。いわゆる「ドイツ年」を期して、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)やドイツ-日本研究所も動き始めた。フジテレビ系列のテレビ新広島による、似島俘虜収容所の俘虜に関する「ドイツからの贈りもの〜国境を越えた奇跡の物語」の番組制作も水面下で動いていた。まさに日独文化交流史上でのドイツ兵俘虜収容所に光を当て、その意義を説く機は熟していたのである。そのような状況からもシンポジウム開催は、この研究に携わる独文学会員の責務でもあると思うようになった。まだまだ先と思っていたが、「光陰矢の如し」の例えよろしく二〇〇八年十月十三日の訪れ間近となった。

シンポジウムは二部構成で、当時日本国内に開設された十六ヶ所の全収容所を扱う。第一部(十時〜十三時―日本独文学会主催)は独文学会員が中心になって中国四国内の五つの収容所、つまり似島、丸亀、松山、徳島、板東の各収容所について報告することが柱となる。基調講演はご自身が元捕虜の子息であるディルク・ファン・デア・ラーン氏(元ドイツ東洋文化研究協会理事)が行う。

 第二部(十四時〜十八時―岡山大学社会文化科学研究科主催)は東の習志野から西の久留米までの十一ヶ所の収容所を扱う。ドイツ哲学の田村一郎氏(前鳴門市ドイツ館館長)が基調講演を行い、ドイツ史、西洋近現代史、日本近現代史、美術史、日本近代文学等の研究者、更には習志野市及び久留米市の両教育委員会から、俘虜収容所の研究に永年携わってこられた星昌幸氏と堤諭吉氏が登壇する。学会員諸氏の参加を切に願うとともに、関心を寄せる方々をお誘い頂ければと思う次第である。

 六年後の二〇一四年は日独戦争百周年に当る。シンポジウムの成果を活かして日独両言語による論文集を世に送りたい、とは今回のシンポジウムの発案者で、その後も事務的な事柄の一切を引き受けて、シンポジウム開催まで発表者等一同を引っ張ってこられた中国四国支部長高橋輝和氏の更なる目標のようだ。

                           (高知大学教授)