丸亀ドイツ兵俘虜と塩屋別院について
 
                2008年12月14日 塩屋別院にて 小阪清行
 
 
 初めまして。ドイツ兵俘虜研究会の小阪と申します。与えられた時間がわずかしかありませんので、早速話に入らせていただきます。
 1914年7月第一次世界大戦が勃発しまして、一ヶ月後に日本がドイツに宣戦布告し、青島に出撃いたします。日本は10倍以上の戦力をもって、約3ヶ月で青島を陥落させました。5千人近いドイツ人・オーストリア人などが捕虜になりますが、そのうちの324名が11月に丸亀に収容されます。丸亀と言いましても、この塩屋別院辺りは当時は仲多度郡六郷村と呼ばれておりまして、まだ丸亀市に編入されていませんでした。将校7名は丸亀市内の別の収容施設に収容されました。この二つの施設を合わせて、「丸亀収容所」と呼んでおります。
 青島から船で運ばれてきた324名の捕虜たちは、多度津港に入港しまして、そこから塩屋別院まで歩いてやってきました。彼らはその途中、六郷村の入り口で、思いがけないものを目にします。
 捕虜の一人、ヨハネス・バールトという貿易商人が当時の思い出を本にしているのですが、その中で彼はそのときの出来事を次のように報告しています。読んでみます。
 
 私たちを乗せた船は、四国丸亀の近郊にある多度津という町の小さな港に接岸しました。…点呼の後、私たちは、村の小道を行進して寺に向かいました。村の入り口には花輪で飾られた看板が掲げられていましたが、その言葉に私たちは大変驚かされました。ドイツ語で次のように書かれていたからです。
 "Freundlichst, mitleidvoll empfangen!" 「篤き友情と、慈悲の心をこめて歓迎いたします!」
 私は、戦争捕虜がかつてこのような暖かい言葉で迎え入れられたという話を聞いたことがありませんでした。私たちの心はこの言葉によってどれほど暖められたことでしょう。
 
 バールトはこの言葉を見て、しみじみと日本に来てよかったと感じ、解放後、日本に永住することを決意をしたと述べています。実際彼は日本人女性と結婚し、91歳の生を鎌倉で閉じております。
 さて、将校7名を除く、下士官と兵卒たち317名が塩屋別院に収容された訳ですが、下士官たちは向こうの事務所のある建物に、そして兵卒たちは、この本堂に収容されていました。
 先ほど紹介したバールトのように、歓迎の言葉に感激した者もおりましたが、もちろん収容所に不満を持つ捕虜もおりました。トラブルを起こして営倉にぶち込まれる捕虜もいれば、脱走事件も2回ほど起きております。
 東京帝国大学教授であったジークフリート・ベルリーナーという捕虜がこの別院に収容されていましたが、彼が、面会に来た妻を介して、収容所側の不当な処遇をドイツ陸軍省に告発するという事件が起こっています。その告発書には、要約しますと、ほぼ以下のようなことが書かれていました。
 
 当局は捕虜達をけったり、なぐったりしている。
 寝たり、食べたり、物品を保管するための空間(要するに、捕虜の居場所)は一人当たり畳一枚分もない。
 居住空間から10メートルも離れていないところにある排泄物タンク(要するに、ぼっとん便所)から猛烈な臭いがしてくる。
 収容所内は鼠や毒虫、蚊がうようよしているが、蚊帳すらない。
 売店は余りにも値段が高いので、ボイコットしたほどである。
 講演は禁止。日本語の授業も、歌の練習も禁止されている。
 手紙は捕虜に渡されるまで、しばしば事務所に何週間も放置されている。しかも届くのは4通の内で1通くらいである。
 
 少しコメントを加えておきますと、「歌の練習が禁止されている」とありましたが、実際は丸亀収容所には合唱団が2つもありましたから、この告発内容にはかなり誇張もあろうかと思われます。
 この告発書を書いたベルリーナーは東大教授時代、東京で妻と女中の三人で暮らしていましたが、召集され、捕虜となり丸亀に収容されました。そこへ妻が女中を連れて丸亀に引越してきた訳です。僕は新浜町に住んでおりますが、我が家からあまり遠くないところで彼らは、借家住まいをしておりました(パワーシティの裏)。ですから、僕の父は幼い頃、このベルリーナー夫人が家の前を通るのを見たことがあると語っておりました。また、その借家の家主というのが、実は僕の知人のお祖父さんなのですが、ドイツ人の借家人が牛乳でご飯を炊いているを見て魂消た、というエピソードがその家に伝わっております。
 以上は余談でしたが、ともかく、このベルリーナーが告発したお陰で、中立国アメリカが間に立って動き、日本政府も捕虜の待遇改善を計らざるを得なくなります。そして新しく板東収容所を造る運びとなった訳です。ひょっとすると、このベルリーナーの告発がなければ、板東収容所は存在しなかったかもしれませんし、板東での第九初演もなかったかもしれません。
 ベルリーナーは、告発書の文面から推察すると、随分小うるさい難しい人間だったようなイメージを持たれるかもしれませんが、実際はなかなか優しくて人間味のある人物だったようです。板東にいた彼が、かつて女中をしていた東京在住の岩崎よし子さんに宛てて、日本語で書いたハガキが残されています。
 
 ・・・いただきまして申されない程お喜び申しました。心からお禮を申し上げます。お菓子は實に旨しくて、此の前の五ヶ年の間に其のお菓子程旨しい物をお食べした事が一ッペンも有りません。よし子様は甚だ上手ですねー。私もずっと前からよし子様に何かものを差し上げるのでしたが實には解放が明日ですか何時ですかと思って居る間、此の前の四、五年を費した者ですから、送るよりも持って来る方が好いと思って、つい今迄御無沙汰を致しました。妻は今獨乙に居て、手紙毎に「よし子様によろしく」と書いてありますよ。先はお禮かたがたに御通知まで。お身をお大切に・・・
 
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 後年のベルリーナーの顔はその葉書の横に見ることができますが、丸亀時代の写真も残っております。
 
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 左端の坊主頭の兵士がベルリーナーです。
 さて、この写真はかなり有名でして、丸亀収容所の写真の代表的なものだと言えます。中央の立派な顎髭をたくわえている指揮者が、パウル・エンゲルです。覚えておいでの方もあるかと思いますが、平成13年から15年まで、毎年丸亀で「エンゲル祭」というイヴェントが行われておりました。エンゲルがどういう人物であったかに関しては、あまりご存じでない方も多いのではないかと思いますので、少し彼について話してみます。
 エンゲルは上海の交響楽団でヴァイオリニストとして働いておりましたが、丸亀で楽団を結成し、これが後に板東でエンゲル・オーケストラに発展します。第九を初演したハンゼンとともに、板東でも、音楽活動では最も大きな功績を残した人物です。下の写真をご覧ください。これは徳島市の立木写真舘に集まった、徳島エンゲル楽団の面々です。立木写真舘二代目・真一のイニシアチブでオーケストラの編成が計画され、エンゲルに指導を仰ぎました。板東収容所では松江所長の理解がありましたので、こういうことも許可されたのです。ちなみに、この写真館は後に、「なっちゃんの写真館」という朝ドラで有名になりました。立木真一は「なっちゃん(本名:香都子)」のお父さんです。
 
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 エンゲルと言えば、丸亀の音楽教育と接点がありまして、それについて触れない訳にはいきません。『俘虜日誌』というものが残されておりまして、そこに「俘虜エンゲルとシュタインメッツが丸亀高等女学校にて、試験的に演奏する」と書かれています。残念ながら、収容所所長の無理解のため、1回だけに終わったようです。
 さて、丸亀と第九の関係について少し触れてみたいと思います。ヘルマン・ヤーコプという元丸亀の捕虜が『エンゲル・オーケストラ その生成と発展』という本を書いていますが、残念ながら、そこには丸亀で第九が部分的にしろ演奏されたという記録は見あたりません。
 しかし、丸亀の捕虜の一部が、特に合唱団のメンバーが、板東に移って、第九初演に関わったことは間違いありませんから、丸亀と第九がつながっているのは間違いありません。
 しかも、第九の初演を聴いた唯一の日本人が丸亀出身者だったのではないか?――これは想像の域を出ないのですが、僕自身はほぼ間違いないのではないか、と考えています。
 板東収容所のあった鳴門は、第九の初演の地ということで、観光地にまでなっていますが、実はその初演を聴いた日本人はほとんどおりません。映画『バルトの楽園』では、かなりの日本人たちが一緒に聴いたような設定になっておりましたが、日本人が収容所に自由に入ることが許されたのは、第九初演の半年後ですから、あれは全くのフィクションです。
 実際の初演は、映画とは違って夜の7時過ぎから、ギュウギュウ詰めの講堂を会場に行われましたから、当直の衛兵など日本人数人が遠くから聴いた可能性があるとしても、彼らは恐らく興味もないし、まともには聴いてはいないでしょう。一人だけ、会場の中でまともに聴いた日本人がいたとすれば、それは高木繁副官です。なぜなら、彼は自らヴァイオリンを嗜むほどの音楽愛好家でした。彼は、太っ腹として捕虜達に大層受けがよく、『バラッケ』という捕虜の機関誌に名前が登場する回数は、松平健が演じた松江所長よりも多いそうですから、ドイツ語の話せる彼は、当然のことながら、捕虜たちから第九初演について、話を聞いていたでしょう。
 板東での第九初演は、全国紙(報知新聞、今の読売新聞ですが)で報道されるほどの事件でした。これを音楽好きの高木が聴かなかったと考えるのはどうしたって不自然です。第九初演の記事を書いた記者に、それに関する情報を提供したのは一体、誰だったでしょうか?僕には、高木副官だったと考えるのが一番自然だと思われます。
 高木繁の写真は以下でご覧いただけます。
 
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 彼は丸亀出身です。高木の三男・利男さんに確認したところ、本籍地は丸亀の城乾小学校のすぐ側だったそうです。ドイツ語をはじめ、英語、ロシア語、中国語等7ヶ国語に通じていたと言われます。『バルトの楽園』では國村隼が演じる高木副官が、完璧なドイツ語を話しておりましたが、映画の中だけでなく、高木は実際にドイツ語がよくできたようです。ところが悲しいことにその語学の才能が仇になってしまいます。日中戦争中、彼は語学力を買われて、ハルビンで特務機関に所属し、諜報活動に従事していたようです。そのため戦後はシベリアに抑留され、そこで病死しました。
 確証はないものの、第九初演を聴いた唯一の日本人が丸亀出身者だったのではないかと想像してみると、楽しくなってこないでしょうか。
 時間があれば、お話したいことは一杯あるのですが、今日はこれくらいにしておきたいと思います。ご静聴、ありがとうございました。