板東「ドイツ牧舎」食肉加工技術指導者ブロッホベルガー略歴
2008年3月5日  岡山・松尾展成
 
 私は小論,「地元資料『雑書編冊』から見た板東・ドイツ牧舎」を本研究会に投稿し,同論文は本『メール会報』,283号(2007年5月11日)に掲載された.そこで検討されている資料,『雜書編冊』を鳴門市ドイツ館で閲覧したのは,07年3月末であったが,そのとき私は富田実氏と初めて会うことができた.氏は,板東「ドイツ牧舎」を創設した製薬業者富田久三郎の曾孫であり,本『メール会報』,203号(2006年4月6日)所収の論文,「板東俘虜収容所時代のドイツ牧舎について」の著者である.同氏は上記論文とその前後の私信で,拙著(『日本=ザクセン文化交流史研究』,大学教育出版,2005年)のいくつもの誤りと不十分さを鋭く指摘・批判されていた.
 徳島で私はドイツ牧舎に関して富田氏とさまざまに議論した.面談中に同氏は一枚の古い写真を示された.この写真は富田本家の蔵(鳴門)から最近発見された,という.
 写真は,椅子の背もたれに左手を置き,右手に花束を提げた,若い西洋女性の全身像である.裏側に"Meine liebe Frau"および"Pfingsten 1922"とドイツ語で手書きしてある.「私の愛妻」と「1922年聖霊降臨祭」の意味である.キリスト教のこの祭日は5月下旬にある.これらの文字から見て,写真の女性の夫はドイツ人であろう.しかし,写真が発見されたとき,手紙が付いておらず,封筒もなかった,というから,写真の人物を直ぐに特定することはできない.
 この写真の女性の夫は誰か.富田久三郎に妻の写真を送るほど深く交流した西洋人は,@富田久三郎がドイツを視察した際の関係者,A板東収容のドイツ兵捕虜,のどちらかであろう.
 @富田久三郎は1927年に1回だけ外遊した.日本薬学会会頭・長井長義を団長とする薬学視察団に,彼が参加したのである(上掲拙著,p. 241;富田実氏上掲論文).しかし,ドイツ視察の5年前撮影という時間的隔たりから見て,問題の写真の女性は,富田久三郎がそのとき交流したドイツ薬学・製薬業関係者の妻ではない,と私は考える.
 したがって,写真の女性はA板東収容捕虜,とくにドイツ牧舎関係者,の妻である可能性が高い.ドイツ牧舎関係者で,名前が現在判明しているドイツ兵捕虜は,拙著と『メール会報』,283号所収の上掲拙稿(富田実氏の批判を受け入れて,拙著の見解を一部修正している)によれば,フランツ・クラウスニッツァー(畜産・酪農),オットー・シュトレ(通訳),ハインリヒ・シュラーダー(ドイツ牧舎設計),マックス・ブロッホベルガー(食肉加工),オットー・ハナスキー(家畜屠殺)の5人である.また,ドイツ牧舎の牛乳を板東収容所で一手に販売した人物として,フランツ・ブーツマンがいる.彼は,ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の「捕虜名簿」によれば,1892年にアンハルトのアーメスドルフ(俘虜情報局編集,『俘虜名簿』に記載された「本籍地」)で生まれ,1967年にグロースミューリンゲン(Grossmuehlingen)で没した.ブーツマンは家具職人として活動し,1923年に結婚し,33年に再婚した.
 以上のドイツ人6人のうち,結婚の時期を私が把握しているのは,4人だけである.ブーツマンは1923年(33年再婚)に結婚した(シュミット氏「捕虜名簿」).クラウスニッツァーの結婚は25年,シュトレのそれは26年である(拙著,pp. 241, 243, 258[クラウスニッツァーは27年にも訪独中の富田久三郎とドイツの牧場で会った.場所は恐らくザクセンの騎士農場タンネベルクである.拙著,p. 251]). ハナスキーは第一次大戦中に既に離婚していて,23年に再婚した.本メール会報176号(2005年11月25日)所収,拙稿,「板東収容・畜産関係者ハナスキー略歴」(なお,『メール会報』,206号(2006年4月17日)所収,拙稿,「会報における拙稿の文章の訂正」の参照も願う).したがって,以上の4人は22年にはまだ独身であった.
 残る2人のうち,ドイツ牧舎設計技師シュラーダーについて私はまったく調査できないでいる.彼の「本籍地」とされるノイミュンスター市の戸籍係に生・没年を問い合わせたが,回答がないからである.シュミット氏も,情報を持っていない,と回答してくれた.
 もう一人のブロッホベルガーは,ドイツ牧舎で食肉加工技術を指導した.ブロッホベルガーは『俘虜名簿』の初版にブロッ「クス」ベルガー,改訂版にはブロッ「クス」ベル「ク」と記載されている.しかし,この綴りは誤りで,正しくはブロッホベルガーであり,ゴルンドルフ村(『俘虜名簿』の「本籍地」)で1893年に生まれ,同地で1953年に没した.この事実を私は,同村を併合したザールフェルト市の市立文書館からの回答に基づいて,既に拙著,p. 232に紹介しておいた.
 西洋婦人像を見た私は,ザールフェルト市立文書館に再び手紙を書き,ブロッホベルガーの結婚の時期を問い合わせた.同文書館は,1921年である,と回答してくれた.しかも,ブロッホベルガーの娘が存命で,結婚後もザールフェルト市に住んでおり,私の質問に対して返答する用意がある,とも通知してくれた.そして,彼女,ベアーテ・ケマー(Beate Kaemmer)夫人,旧姓ブロッホベルガーの名前と住所が付記されていた.
 
 私はケマー夫人に手紙を書いた.手紙には西洋女性像と,拙著で検討したドイツ牧舎関係集合写真,および,拙著刊行後に富田実氏が提供された,富田鷹吉を囲む写真(これを以下では写真(h)と略記する)を同封した.しばらくして返事が来た.手紙には,父は21年に母と結婚したけれども,写真の女性は母ではない,と書かれてあった.彼女はまた,父と見なす人物に記号を付けて,写真を返送してくれた.
 このように手紙を数回やりとりした結果として,ケマー夫人の父,マックス・ブロッホベルガーの略歴が明らかになった.彼女によれば,彼女の父は兵役前に,生地近くのザールフェルト市で肉屋の修業をしていた.当時の修業先は名前を変えて,現存している.両親は21年2月に結婚した.新婚旅行先は中国であった.父は,富裕なドイツ人と共同で精肉業を北京で始めようとした.この人は,かつて日本の収容所に父とともに収容されていた人物であるが,彼の名前を娘の自分は知らない.しかし,この事業発起計画は成功しなかった.そこで,父は21年のうちに北京のアメリカ系病院で出納・計量係(Wiegemeister)となった.北京で22年に姉ヨハンナが生まれ,31年に自分が生まれた.34年に一家は北京から父の郷里,ゴルンドルフに帰郷した.当時のドイツでは失業率が高く,とくに精肉業ではそうであったので,父はドイツ国鉄に就職し,没するまで勤務した.後になっても父は,若い頃に精肉業で修業したことを誇りにしており,祭日には自宅で豚の屠殺などに腕を振るっていた.なお,北京の仕事場を背景にした,父の写真を自分は今も持っている.その病院は現存しており,そこを自分は1992年に夫とともに訪ねた.
 以上が,ケマー夫人の手紙の要旨である.彼女は北京時代のブロッホベルガーの写真の複製も私に送ってくれた.それの現物の裏には,「仕事場の前のマックス.この小屋で彼は働いている.彼の立っている木製品が計量器(Waage)である」,と書かれている由(動詞は現在形).ケマー夫人によれば,この文字は,彼女の母が北京で,父の就職後間もない時期に書いたものである.この写真を私は,ドイツ牧舎関係の写真に詳しい富田実氏にも送った.
 また,シュトゥットガルトの対外交流研究所図書館は逐次刊行物,『東アジア在住ドイツ人住所録』,"Adressbuch fuer das Deutschtum in Ostasien"からマックス・ブロッホベルガー関係記事を通知してくれた.それによれば,彼の最初の記載は第1集,1925−26年であり(S. 110),最後の記載は第7集,1932−33年である(S. 133).彼は第1集でThe Union Medical College (Rockfeller Institute)[所属−−−松尾], Peking, Chuan Pau Hutung[住所−−−松尾]と記されており(なお,第1集,S. 72によれば,彼の勤務先の所在地はPeking, San Tiao Hutungである),第7集では所属がThe Peiping Union Medical College, San Tiao Hutung, Peipingである.第1集に記された勤務先は,第7集のそれと同じであろう.また,この刊行物におけるブロッホベルガーの最後の記載が第7集(1932−33年)であることは,34年の彼の帰郷(ケマー夫人書簡)と符合する.なお,ケマー夫人が父の勤務先とする,北京のアメリカ系病院とは,1917年から米国ロックフェラー財団が支援していた北京協和医学院・清華大学医学部(Peking Union Medical College)である.
 ところで,川上三郎,「収容所新聞『トクシマ・アンツァイガー』中でのハナスキーの広告」,『メール会報』,197号(2006年3月29日)によれば,板東で家畜屠殺に従事したオットー・ハナスキーは,徳島収容所で肉屋を開店していた.彼の肉屋は,「単なる小売りではなく,屠殺からソーセージの製造販売までを行う」ものであった.青島に召集される前のブロッホベルガーも,ハナスキーと同じように,多様な肉処理作業について修業していたであろう.そして,その腕前を晩年にも家庭で発揮したのであろう.
 既に述べたように,ケマー夫人は,私が送ったドイツ牧舎関係集合写真で彼女の父を特定してくれた.拙著での番号・記号で言うと,ブロッホベルガーは(b)の3人写真の左端(白の上着),(c)の後列左から3人目(白の上着),(d)の前列右端(子供を抱いている),(e)の中列中央(子供を抱いている),(1)の後列,右から2人目(白の上着)である.
 拙著で検討していない写真(h)には,富田久三郎の一人息子,鷹吉(富田実氏の教示による)が中列,右から2人目にいる.背景に襖の枠木らしきものが写っており,賄い女中と思われる,若い日本人女性が前列中央に座り,クラウスニッツァーが富田鷹吉の左隣にいるから,写真(h)はドイツ牧舎付属住宅(後の船本宇太郎住宅)の日本間で撮影された,と私は考える.時期不明のこの写真は,富田鷹吉がドイツ牧舎関係捕虜とともに写っている,唯一のものである.ケマー夫人によればブロッホベルガーは写真(h)の後列,右から2人目(濃い色の上着)である.
 ケマー夫人が彼女の父と記した人物のうち,写真(d)と(e)で女児(富田久三郎の孫娘)を抱いているドイツ兵は,既に従来からクラウスニッツァーと確認されており,ブロッホベルガーではない.
 少なくとも写真(d)と(e)の人物についてのケマー夫人の誤認は,私がケマー夫人に送った写真に起因するであろう.それは,精密とはとても言えないコピーであったからである(それらに比べると,22年の西洋婦人像はかなり精密であるから,これについてのケマー夫人の証言は正確と考えられる).
 板東時代のブロッホベルガーの容姿・体格を知るには,彼の妻の裏書きを伴う,北京時代の写真が参考になる.そこでは彼は長身で,顔の輪郭はやや逆三角形である.この容貌は,写真(b)と(c)でケマー夫人が父として記号を付けた人物のそれに合致する.写真(h)の後列は鮮明でなけれども,ケマー夫人が父と記した人物の顔は,私が見る限りでは,ほぼ同じ特徴を持っている.ただし,この人物は富田実氏によればブロッホベルガーではない.
 それに対して,写真(1)の人物の顔は野球のホームベースにかなり近い.これは私見ではブロッホベルガーでない(富田実氏の見解も同じである).顔の輪郭の違いとともに,写真撮影時期の問題がある.写真(1)はドイツ牧舎完成記念写真(17年秋)とされている.牧舎完成時にブロッホベルガーはドイツ牧舎に勤務していなかった,と考えられる.
 写真(b)と(h)は撮影時期不明であるが,(c)は19年3月である(写真(b)の時期は,富田実氏によれば(c)と同じ).したがって,19年3月にブロッホベルガーがドイツ牧舎に雇用されていたことは,確実である.
 問題は写真(d)と(e)の撮影時期である.この2枚の写真は,富田実氏によれば,拙著,p. 240に記したように撮影時期不明ではなく,19年12月に富田久三郎が,帰国する捕虜の送別のために,孫娘とともにドイツ牧舎を訪問した時の記念写真である.富田氏のこの見解に私も従いたい.
 ブロッホベルガーは,板東から他の収容所に移動させられておらず,19年夏の早期解放者(エルザス出身者など)でもない.したがって,彼は最後まで板東に収容されており,19年末あるいは20年初に板東で解放されたはずである.
 ところが,送別記念写真(d)と(e)にブロッホベルガーは写っていない.この写真に何故に彼が写っていないか,を検討する前に,関連資料を提示しておく.
 
 第1に,地元資料,『雜書編冊 [徳島県]板西警察分署警備警察官出張所日誌』に次の記事がある(冒頭に記した拙稿を参照).
 「農商務省千葉蓄[ママ]産試驗場飯田技師ハ本日當収容所ニ來所シ[,]松江収容所長[,]高木大尉ノ先導ニテ[,]所内腸詰製造所及[ビ,]俘虜經營中ノ養鷄場[,]富田牛乳搾取場[=ドイツ牧舎]ヲ視察致シ・・・」.(以上,大正7年10月26日の項)
 「一.・・・瀬戸村富田鷹吉ノ經營ニカカル収容処前牛乳搾取所及養豚場ノ壱部(九坪)ヲ区劃シ[,]燻煙室ヲ設ケ[,]燻肉製造ヲ爲サント[,]準備中也.然・・・[=雖]モ同今[,]製造機械器具ノ暴騰ト品切ノ爲メ設備ハ進行セズ[.]同人親族ニ相當セル静岡縣人獸醫砲兵少尉ヲ主任トシテ(松本清市[=清一])[,]諸面ノ企圖ヲ計リツツアリ」.「二.要スルニ[,]其目下ノ事業ハ營利的ニアラズ[,]最初燻肉製造ノ技術習得ニアリ[.]曩キニ農商務省技師飯田吉英ノ視察ニ依レル奬勵ニ基キ,今ヤ地方養豚ノ業[,]益々盛ナラントスル時ニ際シ,最早講和ノ日モ近キニアリ[.]俘虜ノ本國ニ歸還セバ[,]需用ノ途絶ニ及テ[,]養豚ノ衰微ヲ來スルノ虞アレバ[,]月今中ニ相當技術アル俘虜ノ指導ヲ受ケ[,]燻肉燻腿ヲ製造ノ技術ヲ習得シ[,]幸ヒ完全ナルモノヲ精製センカ[,]是ヲ遠クニ販賣シ[,]豚肉ノ需用日ニ増シ[,]養豚ノ發達ヲ來シ[,]農家副業トシテ興産ノ目的ヲ達セントスル所以ノモノニ有之候由・・・」.(以上,大正7年12月7日の項)
 第2に,ドイツ牧舎の船本宇太郎は回想録(「酪農の草分時代」,1968年)で,ドイツ捕虜による豚肉加工技術の指導に関して次のように書いている.「肉加工は[板東収容]所内でも既に営業している者があつて,それを圧迫しないため,当方は加工技術を習得する程度にしていました.その技術者はブロツフ・ベーアゲーアという[,]ややこしい名前でありました」(p. 3).
 「ドイツ人が食肉の検査をやかましくいうのも一面無理からぬ事で,例えばソーセージにしても[,]朝食に欠く事のできない程の常食品ですが,それも[,]日本に市販されているような保存のできる固い品でなく,ミンチ肉同様の新しい柔らかいものをパンにぬつて食べますが,肝臓や血液等を混じた品もあるので[,ドイツ人は]寄生虫や細きん[=菌]を特に怖れるのです.だから[,]粗雑な肉眼的検査だけでは承服しないはずです」(p. 4).
 ドイツ人帰国後に[,ドイツ牧舎で製造した]「ソーセージの見本を持つて[,]徳島聯隊の将校集会所に行きました処,ねずみ色の細長いレバーソーセージを見て,清浄ならざる物を想像したのでしよう[.]「こんな物を持ち込んで来く[ママ]るな」と一喝されました」(p. 11).
 「加工の面では[豚肉の加工を]横浜・神戸等では既に明治時代から始めていたようですが,大正時代には鎌倉ハムの富岡商会等が有名で,[私は]大船へ見学にも参りましたが,当時は秘伝厳守で[,]うつかりハムの塩づけ液でもな[=舐]めようものなら[,]たちまち大目玉をくう有様でした」.「それと[,]ドイツ式のソーセージ等は直接日本人のし[=嗜]好に適しない点もあるので[,]夫々独自の研究をしていたようです.この加工業も養豚の発達と共に各地に小規模の経営者が続出しましたが,これも永続するのは少ないようでした.まして[,]我々経営の才なき田舎者には[,]どうして良いか判らず,豚専用屠場も一時[,]神戸の加工業者が割豚にして自分の店に送つたりしていましたが,原料豚も続かず,夏期に冷凍輸送もできず,又[,]気の弱い手伝いの者が豚の血を見て卒倒するなどの事件もあつて,一先ず中止することにしました.しかし[,]私の手ほどきによつて加工に志した青年二名が[,]更に横浜と神戸で修業して[,]どうやら一人前の技術者になつたことが[,]せめてもの名残りとでもい[=言]えましようか.それに[,あの二人が]時たま贈つてくれる製品の味も[,]身びいきの故かも知れませんが,他の有名店の品に比し一種の風味を感ずるのは,そこに幾分ドイツのにお[=匂]いが残つているように思えて[,]自己満足している次第です」(p. 13).
 
 ドイツ牧舎で食肉加工が試みられるきっかけは,『雜書編冊』の記事から見て,農商務省畜産試験場(千葉)飯田技師の板東収容所(ソーセージ製造所を含む)・ドイツ牧舎視察と豚肉加工の奨励(1918年10月26日)にあった.飯田技師は,大正7年2月18日から10日間,習志野収容所に赴いて,カルル・ヤーンなどソーセージ職人5人からソーセージ製造の秘法を伝授され,それを全国の精肉業者に教えていた技術者である.星昌幸,「ソーセージに関する備忘」,『メール会報』,280号(2006年4月6日).
 ドイツ牧舎の豚専用屠殺場は1919年5月に県知事から設置を許可された.豚肉燻煙室は18年末に設置準備中であり,その完成は1919年初−5月であろう(拙著,p. 229が屠殺場と燻煙室の設置を18−19年としたのは誤りで,19年とすべきである).そして,この豚肉燻煙室の設計・建設のために技術者が18年末に雇用されたであろう.また,遅くとも19年5月までには食肉加工技術指導者が雇用されたはずである.両者は同一人であろう.この技術者が,船本宇太郎の言うブロツフ・ベーアゲーアであり,私見によればブロッホベルガーである.拙著,p. 232および前掲拙稿,「『雑書編冊』から見た・・・」,『メール会報』,283号所収.そして,写真(c)の19年3月に既にブロッホベルガーはドイツ牧舎に雇用されていた.
 この「事業ハ營利的ニアラズ[,]最初燻肉製造ノ技術習得ニアリ[.]・・・,今ヤ地方養豚ノ業[,]益々盛ナラントスル時ニ際シ,最早講和ノ日モ近キニアリ[.]俘虜ノ本國ニ歸還セバ[,]需用ノ途絶ニ及テ[,]養豚ノ衰微ヲ來スルノ虞アレバ[,]・・・幸ヒ完全ナルモノ[燻肉燻腿]ヲ精製センカ[,]是ヲ遠クニ販賣シ[,]豚肉ノ需用日ニ増シ[,]養豚ノ發達ヲ來シ[,]農家副業トシテ興産ノ目的ヲ達セントスル」ものであった(『雑書編冊』).船本宇太郎も,ドイツ牧舎では食肉「加工技術を習得する程度に」とどめていた,と記している.
 このように,ドイツ牧舎の食肉加工事業は,ドイツ捕虜解放後を視野に入れつつ,板東周辺地域の養豚業の発達を目指していたのである.それでは,ブロッホベルガーは,写真(c)が撮影された19年3月の前後の,どれほどの期間に,ドイツ牧舎で食肉加工技術を教えたのであろうか.
 これについて2つの考え方がありうる.
 第1.当時はきわめて稀な機会にのみ写真は撮影された.板東で写真が撮影される場合には,徳島市から立木写真館主人が招かれたであろう(立木写真館は,板東収容所エンゲル楽団の指揮者パウル・エンゲルが徳島エンゲル楽団の日本人を指導した場所である).そのように稀な機会であるのに,19年12月の送別写真にブロッホベルガーが写っていないのは,彼が当時ドイツ牧舎で雇用されていなかったからである.つまり,彼がドイツ牧舎で食肉加工技術を指導したのは,19年3月前後の期間,恐らくごく短い期間,にすぎなかった.さらに言えば,ドイツ牧舎の食肉加工事業も短期的なものにすぎなかったであろう.この考え方は,彼が写真(d)と(e)に写っていないことから,確かに有力である.
 第2.それに対して私は,ドイツ牧舎の食肉加工事業が,技術導入を目的とした,計画的なものであった,と考える.18年11月にヨーロッパで休戦条約が調印されて,板東ドイツ兵捕虜の解放・帰国は,いわば時間の問題となった.その時になってから,ドイツ牧舎で食肉加工場の設置が計画されたのである.この企画は,技術導入・革新に意欲的な富田久三郎に相応しい.そして,ブロッホベルガーは,19年末の解放までドイツ牧舎で技術指導をしたけれども,何らかの事情のために送別記念写真撮影に参加しなかったのであろう.したがって,船本宇太郎を中心とするドイツ牧舎関係者は,捕虜解放まで1年近くブロッホベルガーから食肉加工技術を教えられたであろう.そればかりでなく,ドイツ牧舎は捕虜解放・帰国後にも一定期間はソーセージを製造していたのではなかろうか.