板東収容士官ヴィルヘルム・コップ略伝への補足
 
2008年6月9日  岡山・松尾展成
 
 
 板東俘虜収容所が設置されると,鳴門の製薬業者富田久三郎は板東収容所の傍に「ドイツ牧舎」を創設した.そして,酪農技術者クラウスニッツァーをここに雇用して,収容所用に牛乳・酪農製品を生産させ,松本清一・船本宇太郎には酪農技術を習得させた.また,クラウスニッツァーの解放・帰国に際しては,「トミダ酪農場」(「ドイツ牧舎」の意)は証明書(一種の就労証明書)を交付し,久三郎・松本・船本は三人連名の感謝状(クラウスニッツァー関係資料)と銀杯(現在は所在不明)を贈った(拙著,『日本=ザクセン文化交流史研究』,大学教育出版,2005年,第5章.関連文献はそこを参照されたい).また,捕虜帰国後に富田久三郎は,板東収容所内にあった捕虜別荘2戸を,瀬戸村の富田製薬工場近くに移築した.その中の1戸は「コップ大尉」の別荘であった,という.久三郎の曾孫,富田実氏が,本『メール会報』,203号(2006年4月6日)に寄稿した論文,「板東俘虜収容所時代のドイツ牧舎について」,による.
 このドイツ大尉は,俘虜情報局編纂『俘虜名簿』の初版にも改訂版にも,誤ってコッ「ペ」と記載されているけれども,正しくはヴィルヘルム・コッ「プ」である.本『メール会報』,226号(2006年6月23日)所収,拙稿,「板東収容の海軍大尉はコッペかコップか」を参照.捕虜研究家シュミット氏の「捕虜リスト」が2006年初めにはコップの略伝を含まなかったので,私は上記小論を執筆したのであった.
 ところで,富田実氏は鳴門で,富田本家の蔵から近年発見された,一枚の古い写真を私に示された(本『メール会報』,318号(2008年3月5日)所収の拙稿,「ブロッホベルガー略歴」を参照).若い西洋女性の全身像であり,裏側にドイツ語で「私の愛妻」,「1922年聖霊降臨祭」と手書きしてある.
 写真の女性がコップ夫人である可能性もある,と考えて,私はコップの履歴をさらに調査してみた.以下において[ ]は原文に対する私の加筆である.なお,『俘虜名簿』におけるコップの「本籍地」はザクセンの首都ドレースデンとなっている.
 私はまずシュミット氏の「捕虜リスト」を再び検索してみた.そこにはコップの略伝が記載されていた.それを摘記してみる.
 コップは1882年3月にザクセン[王国]オーシャッツ郡ヴェラースヴァルデ村(Wellerswalde)で生まれ,1963年9月にハンブルクで没した.1899年に海軍兵学校入学,1900年に海軍少尉候補生となり,1909年には海軍大尉に昇進した.1913年2月に膠州派遣海軍砲兵大隊第1中隊隊長となり,妻ヘレーネと青島に住んだ.14年8月に会前岬砲台指揮官を兼ねた.青島陥落後はまず熊本に,次いで,久留米に,最後に板東に収容された.彼は19年12月に解放され,20年2月に帰国船,梅丸に乗船した.その直前の1月に海軍少佐に昇進した(17年4月付け).帰国後は北海海軍区参謀部付きとなり,24年に海軍兵学校勤務,26年に海軍大佐に昇任し,間もなく退役.さらに,36年に現役に復帰して,シュターデあるいはハンブルク軍管区司令官,41年に北ロシア戦線海軍守備軍(Seeverteidigung)司令官,後にウクライナ海軍守備軍司令官,42年海軍少将,43年にロワール海軍守備軍司令官となり,同年6月に退役した.第二次大戦後はハンブルクに住み,青島戦友会に出席した.略記すると,このようになる.
 シュミット氏の「捕虜リスト」によれば,コップは,『メール会報』,226号の拙稿で推定した年に生まれていた.ただし,彼の出生地は『俘虜名簿』の「本籍地」ではない.また,彼は17歳で海軍士官学校に入学し,10年の退役期間の後,現役に復帰して,少将に累進し(43年に退役),63年にハンブルクで没した(81歳).
 ところで,前稿執筆の際に私は以下の重要な日本語文献を見落としていた.
 (i)瀬戸武彦,「俘虜名簿」(1)(2001)によれば,熊本でのコップの夫婦同居願は許可されなかった.コップ夫人ヘレーネは,夫が久留米から板東に配置替えされると,久留米から箱根に移った(p. 96).
 (ii)久留米市教育委員会(編),『久留米俘虜収容所(II)』(2003年).コップ大尉夫人ヘレネは夫の収容先の熊本に移住してきた.15年6月に夫の収容先が久留米に変更されると,彼女も久留米に転居した.彼女には6歳の男児と2歳の女児がいた.18年8月に彼女は[夫に従って]板東に移った(pp. 26-27).上海や青島から[熊本に]移り住んだ捕虜将校夫人は,ヘレネ・コップなど5人である(p. 164).
 (iii)久留米市教育委員会(編),『久留米俘虜収容所(III)』(2005年). 第一次大戦初期に第五高等学校(熊本)でドイツ語を教えていたドイツ人女性教師ゾフィー・ビュットナーは,その回想記で次のように記している.「ある日[,]海軍将校の一人が,自分のそばにいられるよう[,]北京からま[間]もなく若妻が熊本に来るが,見ず知し[ママ]らずの土地でどこに泊まったらよいか分からない[,]と言うので,私は[,]・・・奥さんは当分私のうちに泊まればよいでしょう[,]と言った.こうして最初の捕虜将校夫人が到着したときは,大変な騒ぎになった」.この「X夫人(7)は,青島の攻防戦の前に青島を出て[,]息子と一緒に北京に逃れていた.夫の将校とはそれ以来会っていず,坊やはこの間に亡くなっていた.それで彼女は悲しみのどん底にあり,日本人一般の同情を引いた.こうして[,]私が彼女にふさわしい家と使用人と家具を見つけるまで,彼女はとりあえず私の家に滞在し,それから自分の家に引っ越していった」.「ドイツ婦人たちは,東京の陸軍省から週に一回[,]夫に面会する許可をもらっていた」.1915年「6月9日,熊本収容所全体が久留米に移されることになった.・・・早朝,将校と兵卒が出発し,数日後には将校の夫人たちも後を追って[行ったので],私はまた熊本でたったひとりのドイツ人にもどった」(pp. 126-128).上の本文「X夫人(7)」への注は次のとおりである.「ウィルヘルム・コップ海軍大尉夫人ヘレネ.1915年,夫が久留米へ収容換となり,二人の子供と共に彼女も久留米へ移り住んだ」(p. 128).−−−なお,最初の旧制高等学校外国人女性教師となって鹿児島・熊本で教えたゾフィー・ビュットナーについて,上村直己,『九州の日独文化交流人物誌』,熊本大学文学部地域科学科,第2版,2005年,pp. 93-98を参照.
 私は新発見の上記西洋婦人像をドイツのシュミット氏に送り,いくつか質問した.同氏は以下を回答してくれた.(A)[ハンス・]コルスター少尉の1914年12月7日付け日記によれば,コップ大尉は,2歳の息子が死んだ,との悲しい報知を新聞で知った.(B)コップ大尉が収容所から夫人宛に書いた,1917年10月16日付と18年8月17日付のハガキ(いずれも横浜のフォン・コッホ(v. Koch)夫人気付)を自分は持っている.これらのハガキ2通の筆跡は,1922年撮影・西洋婦人像の裏に書かれている文字に酷似している.したがって,写真の女性はコップ夫人である.−−−なお,これらのハガキのうち前者が書かれたのは,日付から見て,久留米収容所からであり,後者は移動直後の板東収容所からである.
 久留米市教育委員会報告書の記述についても私は質問した.それに対して,同市文化財保護課・古賀瑞枝氏は次のように回答された.(C)大正3年12月15日の『九州日日新聞』によれば,「海軍大尉コップの妻ヘルナー」(=ヘレーネ)は,1913年正月にコップが東洋艦隊付を命ぜられると同時に,「ウエデル(=ヴェーゼル)河口なるウエルヘルムス,ハーベン(=ヴィルヘルムスハーフェン)軍港」から青島に移って来た.開戦に先立ち,彼女は2歳の子とともに北京に難を避けた.しかし,この2歳の子は11月下旬に死亡した.(D)大正7年2月12日の『福岡日日新聞』はコップ夫人の「6歳の男児と2歳の女児」について記している.
 さらに,(i)に記された同居願について質問したところ,瀬戸武彦氏は次のように教示された.1914年12月9日の「熊本俘虜収容所日誌」(E)には,「大尉ウルヘルム・コツプ,其妻女ヲ召致シテ同棲セントシ[,]陸軍大臣・・・等ニ・・・願出タルモ[,]衛戍司令官ハ之ヲ排斥」した,と書かれている.
 以上からコップ大尉の男児について検討してみる.『九州日日新聞』(C)が1914年11月に記している「2歳の子」は,11年12月−12年11月に生まれたであろう.また,『福岡日日新聞』(D)が1918年2月に書いている「6歳の男児」は,11年3月−12年2月生まれ,ということになろう.さらに,コルスター日記(A)が1914年12月に記した「2歳の息子」は,12年1月−同年12月生まれであろう.
 コルスター日記(A)と『九州日日新聞』(C)は,1914年12月7日の直前に,あるいは,11月に,コップの子供が死亡したことを記載しているだけで,彼の他の子供には言及していない.(iii)所収の「ビュットナー回想記」も北京での幼い男児の死亡を記している.死亡の時期は,そこに明記されていないけれども,14年8月からコップ夫人の熊本到着までの期間である.夫人の熊本到着は,収容所が久留米に変更された15年6月より,かなり前であったはずである.「熊本俘虜収容所日誌」(E)によれば,コップの同居願提出と不許可は14年12月であり,(ii)によれば,熊本に住んだ捕虜将校夫人は,5人であり,(iii)によれば,コップ夫人は,熊本に到着した最初の捕虜将校夫人であったからである.
 (A)の「2歳の息子」は(C)の「2歳の子」と同じであろう.それでは,この子供と(D)の「6歳の男児」は,どのような関係にあるのか.11年12月−12年2月に生まれた双子であるのか.それとも,彼らは,相次いで生まれた兄弟であるのか.
 既に記したように,シュミット氏の見解では,1922年の西洋婦人写真裏の筆跡は1917年10月と18年8月のハガキ2通(B)の筆跡と酷似しており,写真の女性はコップ夫人である.写真裏と2通のハガキには少なくともFrauの文字が共通しているが,それらは,私から見ても,よく似ている.そうだとすると,あの写真は,コップが富田家に贈ったものであろう.その時期はいつか.富田久三郎のドイツ視察(1927年)の際にコップが久三郎と面談して,写真を手渡した,と考えるには,撮影年と面会年が離れすぎている.したがって,北海海軍区参謀部付きとなっていたコップが,撮影後間もなく富田家に郵送したのであろう.コップと富田家(とりわけ,当時の当主,久三郎)との関係は,コップの板東収容中に築かれたとしか考えられないが,二人は板東でどのような間柄であったのか.また,富田久三郎が板東収容所内のコップ大尉別荘を富田製薬工場近くに移築した理由は,何であったのか.それらを実証する資料は,1927年に二人が面会したかどうか,の記録を含めて,まだ発見されていない.
 回答を寄せてくださった瀬戸氏,古賀氏,シュミット氏に深謝しつつ,取り敢えず報告します.そして,いくつも残っている疑問が,今後解明されることを期待しています.