丸亀・板東俘虜収容所の特殊俘虜

(岡山大学社会文化科学研究科『文化共生学研究』第62008年)

                           高橋 輝和

1916年(大正5年)727日付けで陸軍省は、191411月に日独青島戦で俘虜にしたドイツ兵とオーストリア・ハンガリー兵を収容している国内全11収容所の所長に宛てて一般俘虜との隔離を要する俘虜の存在を報告せよとの通牒を例示と共に発した(注1

 

  貴収容所俘虜中、帝国並ビニ連合国側ニ好意ヲ存シ居ル他、人種ノ異ナル等ニ依リ

 他ノ俘虜ト折合悪シキ者ハ、成シ得ル限リ之レガ待遇上特別ノ取扱ヲ為スト共ニ他ノ

 俘虜取締上ノ便宜ニ利用セラレ居リ候ノ事ト存ジ候得共、之レガ保護上ヨリシテ他ノ

 俘虜ト全ク隔離スルヲ要シ、従テ取締上ノ便宜ニモ利用シ能ハザル者、之レ有リ候ハ

 バ其ノ事由ヲ具シ官・氏名・俘虜番号ヲ至急報告相成リ度ク命ニ依リ通牒ニ及ビ候也。

     参照

   1.大正47月、姫路俘虜収容所ニ在ル墺国俘虜中イストリア及ビダルマチア

地方出身俘虜10名ニ対シ不穏ノ挙動アリタル為、墺国俘虜8名ヲ重営倉ニ処

分シ、尚種々訓戒ヲ与ヘテ爾後、一般ノ情況平穏トナリタルコトアリ。

    2.大正412月、俘虜中アルサスローレン人ニシテ仏国国籍ヲ取得シタル者

      11名ヲ解放シタルモ、尚アルサスローレン人ハ100余名アリテ、仏国国籍

      ヲ得ント希望スルモノナキニアラズ。此等ハ独墺人俘虜ノ威嚇ヲ受ケツツア

リト云フ。

    3.久留米俘虜収容所俘虜中波蘭人2名ハ独人俘虜ノ虐遇ヲ受クル為、衛戍病院

      ニ隔離収容シアリ。

    4.大阪俘虜収容所独人俘虜1名ハ日本人ヲ妻トシ、俘虜トナリタル後、我ガ国

      ニ帰化ヲ願出デタルモ許可セラレズ、一方他ノ独人ヨリ威嚇ヲ受クル為、収

容所内ニ隔離シアリ。

   以上ノ如キ反独墺又ハ親日傾向ヲ有スル俘虜ハ他ノ俘虜ト折合悪シキモ、其ノ程度

  甚シカラザルモノハ之レヲ利用シテ他ノ俘虜取締ノ便宜ヲ得ベシト雖モ(例ヘバ福岡

  俘虜逃走発見ノ端緒ヲ得タルハアルサス人タル俘虜ノ密告ニ依リタルガ如シ)全ク他

  ノ俘虜ト接触セシメ得ザル程度ノモノハ成シ得レバ其ノ収容所ニ之レヲ纏メ隔離シ置

  クヲ便ナリト認ム。

 

 この通牒からは、「他ノ一般俘虜ト人種ヲ異ニシ、或ハ我ガ邦人ヲ妻トスル等ノ関係上、[他ノ俘虜ト折合悪シク]寧(ムシ)ロ我ガ帝国又ハ他ノ連合国側ニ好意ヲ有スル」(注2故に「特殊(特種)俘虜」と呼ばれた俘虜を優遇して一般俘虜の監視に役立たせよとの指令が当初より出されていたことが読み取れる。しかしながらこのような特殊俘虜を一般俘虜と同居させて置くことによってトラブルが頻発しているので、もしもそれが殺傷事件にでも発展した場合には国際法上の管理責任を問われかねないことを大いに危惧した陸軍省は特殊俘虜を一般俘虜から隔離することを決意した訳であった。 

隔離を要する特殊俘虜がいると返答して来たのは大阪と久留米と青野原の3収容所のみであり、大阪収容所からは次の3名の報告がなされた(注3

 

    国民軍兵卒 リチャードトロイケ

 同俘虜ハ日本人ヲ妻トシ、其ノ間ニ3児ヲ有シ、日本ニ帰化ヲ出願セル廉ニ依リ他

俘虜ヨリ仇敵視セラレ、同居セシムルヲ危険トシ、客年1225日以来、一般俘虜収

容構外ニ隔離中ノ者ナリ。

  兵卒 マックスチムメルマン

   同俘虜ハ一般俘虜ヨリ猶太種波蘭人(=ユダヤ系ポーランド人)トシテ蔑視セラレ

ツツアリシガ、本年1月下旬ヨリ一般ノ状勢不穏ニシテ危険ノ刻々身ニ逼(セマ)ル

ヲ覚ユル旨、報告シタルニ依リ一応取調ベタルニ、同俘虜ハ露領波蘭人ヤンパホル

チックト称シ、独逸人チムメルマンハ偽名ナル旨、申立テタルヲ以テ爾后ノ取調ノ必

要上、及ビ他俘虜ヨリ逼害(ヒョクガイ)予防上、本年228日ヨリ前記俘虜トロイ

ト同様隔離シタル者ナリ。

  俘虜嫌疑墺国人、陸軍少尉 ウラヂスラフカフレル

 右ハ本年58日俘虜嫌疑者トシテ当所ニ収容シタル者ニシテ、同人ハ元来、露国

オムスク住陸軍少尉補ウオレンチンドミトリイワノフナルモ、露国官憲ヲ欺騙(キ

ヘン)シ、米国ニ渡航セントシテ国籍・氏名ヲ詐リタリト称シ、又同人ハ露国語ノ外、

他国語ヲ知ラザルニ依リ一般俘虜ト同居セシムル能ハズ、収容当初ヨリ隔離収容シア

リ。

 

久留米収容所からは2名が報告された(注4)

 

   海軍歩兵1年志願兵卒 タデウスヘルトレー

  ポーランド人ニテ他ノ独逸俘虜ト同所内ニ起居スルヲ許サズ。

   海軍火夫 テオフィールワルセウスキー

  取締上ノ便宜ニハ些少利用シ得ルモ其ノ利スル少ナク、保護上他ノ俘虜ト全ク離隔

 スルヲ可トス。

 

 青野原収容所からは次の13名の報告があった(注5)

 

    海軍3等下士 ビンシェンツデスコビーク

    水兵2等卒  ヨセフフランジン

    水兵1等卒  エドモンドマダレンシック

    水兵3等卒  イシドールポーツァル

    水兵3等卒  ブルノーピンスキー

    水兵1等卒  カールロッシュート

    軍楽4等下士 レオーネドュビアンチ

    水兵2等卒  マルコパレンツァン

  水兵1等卒  ギオバニーリッチ

  水兵3等卒  アンゼロブルンニー

  水兵1等卒  ピエトロツリアニー

  水兵2等卒  ミランマルシック

  水兵2等卒  ルードルフマルテノヴィック

13名ノ者ハイストリアトリエスト、及ビダルマチア地方ノ出身ニシテ、元来伊

太利系ニ属シ、深ク自己ノ伊太利人ナルコトヲ自覚シ、心窃(ヒソカ)ニ伊太利ヲ謳

歌スルノ傾向アリ。収容当初ヨリ常ニ他ノ墺国俘虜ヨリ疎外セラレ、勢ヒ孤立ノ境遇

ニ立チツツ経過シ来リシガ、客年初夏、伊太利ノ宣戦シテ連合国側ニ参加セル以来、

一層独墺国俘虜ノ反感ヲ喚起セシモノノ如ク一般ノ者ハ彼等ヲ目スルニ、伊太利ニ心

ヲ寄スル非国民ナリトシ、事毎ニ侮辱ヲ加フルノ状勢ナリシガ、客年6月遂ニ一些事

ノ動機ヨリ彼等少数者ヲ窘迫(キンパク)シ、暴力ヲ加ヘタルコトアリ。爾来陰ニ陽

ニ其ノ程度ノ迫害ヲ加ヘラルルガ如ク屡次(ルジ)保護ヲ願出ヅルコトアリ。或ハ解

放ノ際ハ搭乗船舶ヲ異ニセラレタキ旨、願出ヅルガ如キ状況ニシテ著シク不安ノ念ヲ

懐キツツアリ。

曩(サキ)ニハ伊国軍又ハ仏国軍ニ参加ノ情願ヲ以テ伊・仏大使宛ノ信書ヲ提出シ

  来リタルコトアリ。又ハ連合軍ニ利スルノ目的ヲ以テ自己考案ニ成レル飛行機用爆弾

(注6)ノ審査ヲ願出デタルコトアル等ヨリ推セバ、連合軍側ニ好意ヲ有スルモノト認

メラルベク、而シテ一般ノ者ハ日常、彼等ニ対シ多大ノ注意ヲ払ヘルヲ以テ、之レヲ

一般俘虜取締上ニ利用スルコトハ困難ナル事情ノ存スルモノアリ。

概要如上ノ状況ナルヲ以テ彼等ノ境遇上ヨリ之レヲ保護シ、以テ収容所ノ安寧ヲ保

  持スル為ニハ一般ノ者ヨリ之レヲ離隔収容スルヲ以テ適当ト思惟ス。

  

 そこで陸軍省は191610月に、当初より丸亀の浜町収容所(図版12にいたドイツ人俘虜将校7名を大分に移し、その後に大阪からドイツ人とロシア領ポーランド人の2、青野原から13名のイタリア系オーストリア人、久留米から2名のポーランド人を収容した。その氏名は以下の通りである(注7)

 

   大阪収容所から

   Richard Treuke, Max Zimmermann

      青野原収容所から

   Vincenz Descovick, Josef Fransin, Edmond Madalencic, Bruno Pinski, Marko

      Parenzan, Karlo Rossut, Leone de Bianchi, Giovani Rizzi, Rudolf Martinovic,

      Pietro Maracic, Angello Brunni, Pietro Zulliani, Isidor Pozar

      久留米収容所から

   Thaddaeus Haertle, Theophil Waluschewski

 

  図版31918年に俘虜情報局が、日本国内における俘虜の厚遇を宣伝するために発行して海外に発送した『大正三四戦役・俘虜写真帖』(Vues photographiques consernant les prisonniers de guerre au Japon (Campagne 19141916))に収載されている丸亀浜町収容所における特殊俘虜の写真であって、白い上着を着ている13名がイタリア系オーストリア人俘虜である。撮影自体は19172月に行なわれている。

 19174月に丸亀収容所の俘虜らが新設された板東収容所に移送されるに際してイタリア系オーストリア人俘虜らは激しく抵抗して移送を拒んだと言われる(注8)

 

   港では小さな突発事件があった。警備員の一部がイタリア系オーストリア人俘虜らの監視強化に振り向けられた。彼らは大阪収容所「正しくは青野原収容所」で常に[ドイツ人俘虜と]殴り合いをしていたために丸亀[の浜町収容所]に移されて、他の俘虜とは離されていた。今や彼らは板東へ移されるのを拒んだ。彼らは力ずくで荷車に縛りつけられて、船に積み込まれた。

 

これは新聞報道(『香川新報』191748日)からも確認できる。

 

   俘虜徳島行を拒む―連隊長に喰て掛る

   丸亀市浜町収容所の俘虜は7日午前9時、 同所を出発し徳島に向ふべき予定なるに、

  午前7時頃、俘虜17名は出発を拒み、門前まで出づるや「徳島に行くは絶対に嫌だ、

  死んでも行かぬ」と手古摺らし、始末に終へざるより、一時室内に入れたるに、暴行

  を始め、所員及び土井歩兵第12連隊長に飛付く等にて近寄る事もならず、兵卒は将校

  数名と共に防御しつつ捕縛したるに、伊太利国歌とマルセイユーの歌を悲哀なる調子

  にて唄ひて後、日本万歳、伊太利万歳、独逸馬鹿と大声を発して10名は温順、徒歩に

  て多度津町に進みたるも、残り7名は暴行を為したるより、1名宛大八車に括り附け、

  武装したる兵士、1台の車両に3名宛護衛として附添ひたるに、途中獅子の唸る如き

  声を出し、車上にて狂ひ回るより9時の出発が940分となり、仲多度郡六郷村塩屋

  別院収容の俘虜は930分の出発が1020分となりたるが、塩屋別院の俘虜は純然

たる独逸人にして、始めて青島より送られたる時より暢気らしく口笛を吹きつつ多度

津町に進みたるが、浜町に収容され居りし俘虜は伊太利人と仏蘭西人なる為、徳島に

て他の俘虜と同所に収容さるるを厭ひての事ならんと。

 

 この新聞記事が、丸亀市内の浜町収容所にはフランス人俘虜もいたと報じているのは大きな誤解である。イタリア系オーストリア人俘虜とポーランド人俘虜がドイツ人俘虜に対して反抗的に敵国フランスの国歌を歌ったことがこのような誤解を招いたのであろう。

 47日の収容所換え拒否事件は『丸亀俘虜収容所記事』においては次のように記されている。

 

   47日浜町収容ノ特殊俘虜17名ハ出発ニ当リ出発ヲ拒ミ、横臥シテ如何ニ訓諭ス

ルモ命令ニ服従セザルヲ以テ、其ノ内7名ヲ制縛シ車送シ、他ハ規程ノ通、徒歩軍行

ヲ為シ、多度津ニ至リ乗船ス。乗船後、総テ帰順セシヲ以テ制縛ヲ解ケリ。

 

収容所管理部は先に、特殊俘虜が板東への移送を拒否することを十分承知していて、事前に陸軍省や俘虜情報局等に対して然るべき対策を取ることを通知していた。『丸亀俘虜収容所日誌』191742日に以下の記述が見られる。

 

  特殊俘虜輸送ニ関シ左記ノ件、軍務局長、情報局長官、師団参謀長宛通牒セリ(現

文ノ儘)。

 今般当収容所、板東収容所ヘ俘虜収容換輸送ノ件ニ付、隔離収容シアル特殊俘虜過

半数ハ一般独逸俘虜ト同船シ、輸送セラルルヲ拒絶スル為、彼等ニ向テ同船ニ就テハ

一般独逸俘虜ト隔離シタル船室ヲ与ヘ、相当ナル衛兵ヲ附シ、乗船・上陸ニ於テモ時

ヲ異ニシ、十分ナル保護ヲ与フル故、安心シテ同船スベキコトヲ説諭シタルモ、彼等

曰ク、身体上ノ危険ナキモ彼等ト同船スルコトハ我等ノ名誉ヲ汚スモノナリトテ、説

諭ニ従ハズ。依テ乗船ノ際ニ続テ我意ヲ主張シ、命令ニ従ハザルニ於テハ兵力ヲ以テ

強制シ、輸送ヲ実行スル考ヘニ之レ有リ候條、念ノ為、通牒ニ及ビ候也。

  参考書

 331日、移転準備ノ為、独逸俘虜1名ヲ使役シ居リシニ、偶々隔離シアル特殊俘

デスコピックチムマーマンノ両名来所シ、独逸俘虜1名来所シアルヲ察知シ、

スコピックハ大声ニテ独逸人ノ馬鹿ト連呼セリ。又本日、乗船ノ件ニ付、彼等一同ヲ

事務所ニ招致セシ際、遥カニ独逸俘虜ノ収容シアル方ニ向テ(距離約100米ニシテ彼

等ノ認ムルヲ得)殴打ノ形容ヲ以テ亦々大声ニテ独逸人ノ馬鹿ト連呼セリ。

 以上ノ言動ハ態々(ワザワザ)一般独逸俘虜ノ敵意ヲ挑発スルモノト認ム。 

  

青野原から来たイタリア系オーストリア人俘虜らは当初から早期の釈放を訴えており、1917314日付けでその代表者、デ・ビアンキ(注9)は陸軍省にイタリア語の陳情書を出していた(図版45。以下は俘虜情報局が作った和訳である(注10)

  

   拝啓 

   我等伊太利亜種族ハ常ニ伊国トノ関係ヲ疎濶ナラシメザランコトニ念慮セラルル尊

敬スベキ日本政府ニ向ヒテ自己ノ勝手上ヨリ御依頼致サント欲スルモニ御座候。

 我等ハ墺国ノ暴政ヨリ我等ノ同胞ヲ自由ナラシメントテ奮戦セル伊太利亜ノ子弟ニ

テ御座候得バ、我等モ亦世界ノ文明、名誉及ビ廓清ノ為ニ戦ヒツツアル我等同胞ノ戦

線ニ加ハリテ母国ノ為ニ全力ヲ挙ゲテ貢献致シ度キ希望ニ御座候。

 我等ハ尊敬スベキ日本政府ガ、同盟軍タル露国ガ伊太利亜種ノ俘虜1,700名ヲ伊国

ニ送還セシ例ニ倣ハレ、我等ヲシテ本分ヲ尽クサシメラレンコトヲ期待スルモノニテ

御座候。                   在丸亀収容所伊太利亜種俘虜総代  

                           レオネ・デ・ビアンキ 

 

これらのイタリア系オーストリア人俘虜は、ドイツ帝国と同盟関係にあったオーストリア・ハンガリー帝国の巡洋艦カイゼリン・エリーザベト(図版6の乗組員305 名の一部であったが、陳情の結果として彼らは板東収容後間もなく1917612日に解放され、イタリア大使の仲介でイタリアに移送された。俘虜情報局が19176月に改訂版を出した『独逸及墺洪国(=ドイツ及びオーストリア・ハンガリー)俘虜名簿』ではこの13名の「墺洪国軍人」は宣誓解放者(Die gegen Ehrenwort Entlassenen)のリストに挙げられている。

丸亀収容所の閉鎖後に作成された『丸亀俘虜収容所記事』は附録「俘虜ノ国民性ニ就テ」の中で特殊俘虜については次のように評価している。

 

   当収容所ニ収容中ノ特種俘虜ハ墺国人(伊太利種)13名、ポーランド2名、露西

  亜人1名、及ビ独逸人1名、計17名ナリ。而シテ彼等ハ一般ニ感情ニ走リ易ク、墺国

  人ハ女性的ニシテ、其ノ品性モ亦概シテ下劣ナリ。又ポーランド人、及ビ露西亜人ハ

  一般ニ其国人ノ有スル性情ヲ享有ス。

 

丸亀から来た残りの特殊俘虜と松山から来たルクセンブルク人のLambert Koch5名は191710月に、板東収容所の南東約1キロメートル、板東小学校の南約400メートルの所にあった成就院(中寺[なかでら]。現在は廃寺)(図版7)を増改築して作られた隔離収容所(図版8)に収容された(注11)。この隔離収容所の必要性を松江収容所長は次のように陸軍大臣に上申している(注12)

 

  独逸俘虜中ヨリ特種俘虜トシテ特ニ保護ヲ加ヘツツアル5名ハ、反目・睨合ヲ重ネ、

 夜間屡(シバシバ)独逸俘虜ヨリ凌辱ヲ受ケ、危険ノ状態ニ在リテ、彼等ハ戦々兢々

 トシテ安眠ヲ得ズ。為ニ神経亢奮シテ窮鼠、猫ヲ噛ムノ有様ナルヲ以テ、取締・取扱上、隔離ヲ要スル実況ニ候條、至急隔離ノ儀、御詮議相成リ度ク此段上申ニ及ビ候也。 

 

この5名が隔離収容所に収容されるに際して19171013日付で、警備に当たっていた警察官出張所の巡査部長巡査、田岡貢の名前で板西(ばんざい)警察分署長の寺岡彦太郎警部に出された「特殊俘虜ニ関スル報告」(注13)の中では「伊太利俘虜解放前後ノ景況」が詳しく伝えられている。

 

    5月下旬、伊太利大使館員ヨリノ手簡ニ接シタル伊太利俘虜ハ解放ニ尽力中ナルヲ知リ、一面、所長ヨリ独逸俘虜トノ軋轢ヲ惹起スベカラザル注意ヲ受クルヤ、密ニ13名ハ相伝ヘテ能ク我ガ官憲ノ命令・注意ヲ遵守スルニ務メタリ。然ルニ他ノ4名ハ全ク之レヲ知ラズ、独逸俘虜ニ対スル内談アルモ伊俘虜ハ案外冷淡ナルヲ感ジ、近ク境途上ニ何等乎(カ)ノ変化アルニアラザルヤ、若シ然ランカ残ル4名ハ危険益々大ニシテ、時トシテ凌辱ヲ受ケザルヲ得ザルモノト思惟シ、幾度乎職員ニ向ヒ状況ヲ探知セントセリ。且ツ伊俘虜ニシテ収容換トナラバ我等モ同様ノ取扱セラルベキハ当然ニシテ、其ノ否(ア)ラザルニ於テハ、圧迫・侮辱ヲ加ヘタル独逸人ヲ刺殺シ、罪人タルヲ以テ優レリトナシ、窮鼠却テ猫ヲ食ムノ気慨ヲ示セリ。其ノ時ニ方(アタ)リトロイケハ将来ヲ慮(オモンバカ)リ彼我ニ往復シ、何事カヲ語リツツアルヲ目撃スルコト屡々(シバシバ)ナリキ。

67日、我ガ官憲ニ対スル宣誓書、及ビ伊国大使ヘノ願書到着スルヤ、之レガ署名モ夜間最モ巧妙ニ行ハレ、感知セラレザリシガ、此ノ頃ヨリ伊太利俘虜ハ凡テ彼等ト言動ヲ共ニセザルニ至リシヲ以テ他ノ4名ハ真ノ原因ヲ知ラズシテ憶測ヲ逞(タクマシ)フシ神経過敏トナリ、独逸人トノ睨合・反目漸(ヤウヤ)ク繁リ、時々嘲弄ノ語ヲ発スルニ至ル。遂ニ9日夜ヘルトレハ数名ニ待伏セ・殴打セラレ辛フジテ居室ヲ晩ジ入リ、独逸ノ襲撃ト叫ビ、他ノ16名ト共ニ藁蒲団ヲ集メ、防御ノ姿勢ヲ採リシガ、独逸人数百名、之レヲ包囲シタルノ報ニ接シ、所員馳セテ彼等ヲ開散セシメタリ。其ノ後、謡言蜚語盛ンニ行ハレ、何時殺傷ヲ見ルヤモ計リ難カリシヲ以テ警戒ヲ倍徙(原字は草冠つき)(バイシ)シタリ。

ヘルトレノ殴打セラルルヤ名誉快復ヲ望ンデ已マズ。所トシテハ一面、一般ヲ戒飾(=戒飭カイチョク)シ厳罰ニ処スベキヲ以テシタリシガ、遂ニ下手人ヲ検挙シ得ザリキ。此ノ時ニ方(アタ)リパホルチックヘルトレニ同情ヲ寄セ、独逸高級将校ヲ刺殺センガ為、其ノ居室ヲ訪(ト)ヘリト独逸人側ノ密告アリシヲ以テクレイマン少佐ニ其ノ事実ヲ質セシニ、其ノ事アリシモ殺意アリシモノト思ハザリキ、彼ハ独逸人ガ少数ナル吾人ヲ圧迫スルヲ以テ独逸ノ代表者タルモノハ之レヲ取締ラルルコトヲ希望スル旨ヲ述ベ帰還シタリト云フ。其ノ后、特種俘虜ノ危険ヲ感ズル如ク居室前ニテ高声、襲撃ノ好機来タレリ、或ハ復報セズンバ止マズト呼ブモノアリモ、其ノ何者ナルヲ知ル能ハズ。其ノ他、土工具ヲ以テ地上ヲ連打スルモノアルヲ以テ、通訳ハ之レヲ見、其レ何故奇異ノコトヲナスヤヲ詰(ツメ)リシニ、特種俘虜ヲ打ツ予習ナリトテ苦笑セシモノアリキ。

斯クテ日々反目・睨合ヲ重ネ、彼等中、受診ノ途次、裏切者・叛逆者ト罵倒セラルルモ之レニ抗スルノ力ナク、一々所員ニ訴フル為、其ノ煩ニ堪ヘズ、却テ所員ノ叱責ヲ受ケ居ル有様ナリキ。

622日、伊太利俘虜ノ出発ニ決スルヤ、残留4名ノ狼狽・落胆実ニ大ナルモノアリテ、取扱者トシテ同情ヲ寄セザルヲ得ザリキ。一面、不測ノ変ヲ惹起シ、陸軍・外務両省当局者ニ累ヲ及ボスガ如キコトナカランガ為、職員・衛兵ハ昼夜、之レガ庇護ニ任ゼザルベカラザルニ至レリ。之レ伊太利俘虜出発ニ際シ彼等ハ食事用庖丁先端ヲ三角形トシ、最モ鋭利ニ研ギ澄シ懐中セル旨、密告セルヲ以テナリ。

残留4名ハ事務所ノ1室ニ収容シ、食事ハ和食(125銭内外)受負賄トシ、浴室中ニ風呂ヲ置キ、之レニ入浴セシメ、運動ハ11回トシ、必要品ハ職員用商品中ヨリ買取ラセシメ、一切独逸俘虜トノ関係ヲ断チシモ、尚且ツ相互ニ罵言・睨合ヲ為シ危険ナルヲ以テ、其ノ言ヲ以テ護身用庖丁ヲ奪ヒ、露人パホチックノ殺意十分ナルモノノ如キヲ以テ危険予防ノ為、営倉ヲ彼ノ居室トセリ。炎暑ノ候、苦痛少カラザルモ詮方ナシ。

我ガ職員ノ彼等ニ対スル周到ナル注意・警戒モ尚且ツ危険ナリトシ、自費ヲ以テ所外ニ収容ヲ願出デ、所員ノ卻(シリゾ)クル処トナリ、遂ニ所長宛願書ヲ差出シ、一面、一身ノ安全ヲ計ル為、独逸人中、困窮者4名ヲ間諜トシ、之レニ麦酒杯ヲ給シテ使用セリ。之レ我ガ日本将校ガ時々人目ヲ忍ンデ彼等ノ居室ヲ窺フアルヲ発見シ、不慮ノ異変ナキヤヲ憂ヒ、之レヲ捕ヘントシテ護ス。則チヘルトレニ就キ異状ノ有無ヲ訊問シ、種々問答ノ末、右ノ事実ヲ知ルヲ得タリ。則チ前記ノモノハ彼等ノ諜者ニシテ、密告ニ来タリシモノナリキ。

 

5名の特殊俘虜の略歴と板東収容前後の状況も個々に調査・報告されている(注14)。この調査報告書によって、丸亀から板東への移送を拒否したために縛られて多度津港まで車送された7名の特殊俘虜はポーランド人が3名、ドイツ人が1名で、残りの3名がイタリア系オーストリア人であったことが分かる。

 

   波蘭人ヘルトレ 29(注15)

 1.略歴

   独逸ボン大学ニテ博物学ヲ、伯林(ベルリン)大学ニテ農業ヲ研究スル事3年ニ

シテ後、独領ポーランドニ入リテ牧畜(馬)ヲ自営スル事半歳ナリシモ、其ノ成績

思ハシカラズシテ之レヲ閉止シ、独逸ニ入リ農業監督ニ雇用セラレ、約2年半之レ

ニ従事シ、26歳ニシテ1年志願兵トナリ、 独逸クロクサーヘン海兵大隊ニ入営スル

コトトナリシモ、当時欧洲ハ戦乱将ニ起コラントスル噂アリシヲ聞キ、東洋ニ避ク

ルニ若カズトナシ、其ノ志望ヲ語リ、上司ノ容ルル所トナリ、青島海兵大隊ニ入営

スルヲ得、軍事教育ヲ受クル事7ケ月ニシテ遂ニ日独開戦ニ遭遇セリ。

 本人ノ父ハ有名ナル富豪ニシテ、独逸人中、之レヲ知ルモノモ多ク、且ツ独逸人

ノ嫌忌スル念、高キハ一般ノ認ムル所ナリシヲ以テヘルトレノ入営スルヤ所属中隊

長以下常ニ彼ニ対スル注意深キヲ以テ、彼ハ表面、恭謙・柔順ヲ粧ヒ、且ツ教育掛

下士ニ密(カク)シ賄賂シテ賞詞ヲ上官ニ致サシメツツアリタリ。

  2.板東収容前ノ状況

    俘虜トシテ久留米収容所ニ在ルノトキ、アンダース少佐ニ招カレ、待遇上ニ付キ

告諭ヲ受ケタル際、之レニ対シ失言ヲナシ、同少佐ノ憤怒ヲ買ヒタル以来、事毎ニ

独逸人ト争ヒ、遂ニ衆人ニ殴打セラレ、入院3ケ月ニ及ビ、憤怨深刻ニシテ退院後、

仇敵ニ対シ報復手段トシテ彼等ノ悪事ヲ密告セシガ一般ノ感知スル処トナリ、危険

甚ダ敷ク遂ニ丸亀ニ収容換トナル。

 丸亀収容中、日本官憲ニ対シ不満並ビニ不遜ノ言動ヲナシタルニ依リ重営倉10

ニ処セラルルヤ彼ハ深ク之レヲ恨ミ、入倉当日ヨリ絶食6日ニ及ビ、其ノ体力ノ恢

復ヲ待チ再ビ入倉セシメントシ仮出倉セシメ、残ル4日入倉セシメントスルヤ、剃

刀ヲ以テ左手脈部ヲ切リ自殺ヲ計リシモ、固(モトヨ)リ大事ニ至ラズ、入倉セシ

メシガ、又4日間絶食シ取扱者ヲシテ心労セシメタリ。次デ板東ニ向ヒ出発スルニ

際シ独逸俘虜ト合同セラルルヲ忌ミ、率先衛兵司令官以下ニ反抗暴言ヲ吐キ仰臥シ

テ動カズ、遂ニ縛シテ荷車ニテ運搬スルニ至ラシメタリ。先ニ出倉後、彼ハ職員ニ

向ヒ最早自己ハ日本ノ部ナル意ヲ漏シ、転入当時餓死スルトモ独逸人ノ醵出シタル

救恤(キュウジュツ)金ナド受ケズト傲語シ拒絶シシアリシニ、其ノ後右金員ヲ独

逸人同様受領スベク申出デタリト云フ。

  3.板東収容後ノ状況

    本人ハ性質怜悧、柔順ナルガ如クニシテ否(ア)ラズ、偏狭ニシテ嫌猜、独逸人

ニ侮辱・殴打セラレタル以来深ク之レヲ恨ミ、常ニ独逸人ヲ悪口シ、彼等ノ欠点ヲ

挙グルヲ以テ一見我ニ好意ヲ有スルモノノ如クナルモ、決シテ否ラザルハ前丸亀収

容所長ノ報告セルガ如ク、我ガ官憲ノ命モ自己ノ意ニ適セザレバ率先反抗セルハ既

記ノ如シ。然ルトモ当所収容後、能ク規定ヲ遵守シ注意ヲ履行セシガ、時々独逸人

ト別居スル為、台湾・樺太モ辞セザルヲ以テ、□□願意採用セラレ度シトテ17名ノ

代表トシテ願出デシモ、其ノ都度慰諭シテ言ヲ卻(シリゾ)ケタリ。当時言語ノ関

係上、特種俘虜ニ対シ何事モ本人ヲ仲介者トナスノ必要アリ。実ニ本人ハ日英独仏

露伊、其ノ他23ケ国語ヲ能クシ、所内ニ必要ノ人性ナリトス。且ツ学歴モ他ニ比

シ高キヲ以テ一般ノ推ス所トナレリ。本人ハ理性・感情共ニ発達シ、17名ハ独逸人

ニ対シ相一致シテ当ルベク常ニ指導シツツアルモノノ如シ。

 

 波蘭人ワルセフスキー 27(注16)

  1.略歴

    18才ニシテ南米アルゼンチンニ往キ、亜弗利加及ビ濠洲ヲ放浪スルコト6年ニシ

テ親シク父ニ面語センモノト窃(ヒソカ)ニ国内ニ帰還セシガ、同人ニハ恋女アリ

シヲ以テ其ノ偽名ニテ誘致。入営ヲ余義ナクセラレ、軍艦エムデン号ニ乗組シ、3

月ニシテ青島ニ航海シ、疾病入院中、日独開戦ヲ見、全癒スルニ至ラズシテ戦線ニ

送ラレタリ。

  2.板東収容前ノ状況

    ヘルトレト共ニ久留米ニ収容セラレ、敢テ独逸人ヲ仇敵視セズト雖(イヘド)モ

人種ノ関係上ヘルトレ等トノミ親交セルヲ以テ漸次排斥ヲ受ケ、終(ツヒ)ニ独逸

人ヲ嫌忌スルニ至レリ。一々ヘルトレノ言ニ唯々従フニ至ル故ニ丸亀出発ニ際シ彼

ノナシタル言行ハ全クヘルトレニ同ジク、縛シテ荷車ニテ運搬セリ。

  3.板東収容後ノ状況

    他ノ特種俘虜16名ト融和シ、総テ他ニ追従スルノミニシテ、率先事ヲ惹起スルモ

ノニアラズ。

 

 独逸人トロイケ 43(注17)

  1.略歴

    独逸国伯林ニ生ル。18歳ニシテ祖国ヲ辞シ、瑞西ヲ経テ南米ニ志シ、アルゼンチ

及ビブラジルニテ商店ノ雇人タルコト56年、其ノ意ヲ満タサズシテ、支那ニ渡

リ上海・天津其ノ他ヲ彷浪スル事約1ケ年ナルモ適当ノ職ヲ得ズ。遂ニ青島ニ入リ

テ独逸ノ商店ニ雇ハレシガ、同店ハ約4年ニシテ破産セルヲ以テ本人モ亦其ノ職ヲ

失ヒ、何等ナスコトナク数年ヲ経過シ、漸ク同所ノ貿易商会ウィンクラーニ入リ、

簿記係トシテ月俸150弗ヲ得ルニ至レリ。

 同人ハ青島ニアル事14年ニシテ、之レニ先(サキダ)ツ3年、1度我ガ日本ニ来

タリ。職ヲ求ムル45ケ月ナリシモ遂ニ之レヲ得ズシテ去レリ。彼ハ未ダ営ニテ軍

隊教育ヲ受ケシ事ナク、其ノ父母ハ他界シ、弟ニハ10年以上音信ヲ欠キ、目下生死

ノ程モ不明ノ由ナリ。

 明治43年頃、青島ニテ独逸人ノ保母タリシ日本婦人ト結婚シ、子女3名ヲ挙グ。

  2.板東収容前ノ状況

    青島陥落後、俘虜トシテ大阪ニ収容セラレ、同所ニ於テ帰化願ヲ呈出セシガ同僚

ノ知ル所トナリ、其ノ心情陋劣(ロウレツ)ナリトテ一般ノ嫌忌スル所トナリ、圧

迫日ニ加ハリ、遂ニ丸亀ニ収容換セラルルニ至レリ。同所ニテ日本官憲ニ対シ不満

ノ言動ヲナシ、且ツ反抗的行為ヲ為シタルニ依リ重営倉10日ニ処セラレシガ、深ク

之レヲ恨ミ衛兵司令ノ所持品検査ヲナスヤ、之レヲ煩トシ、寒中下着ヲ脱ギ、之レ

ヲ寸断シテ、同司令ニ向ヒ投擲セリ。而シテ丸亀出発ニ際シ我ニ対シ反抗暴言ヲ吐

キシコト、及ビ身ヲ縛セラレタルハヘルトレニ同ジ。

  3.板東収容後ノ状況

    当所収容前ハ四囲ニ独逸人ナキヲ以テ能ク之レヲ罵倒セシ由ナルモ、板東収容後

ハ独逸人約940名ニ対シ特種俘虜17名ナルヲ以テ何時危険ノ身ニ逼(セマ)ルヤモ

計リ難キトナシ、寧ロ進ンデ親交ヲ索(モト)メ一身ノ安泰ヲ図ルニ若カズトナシ

タルモノノ如ク能ク言語ヲ交ヘ居ルヲ見タリ。尚一面、所長ニ帰化取消願ヲ出セリ。

 彼ハ丸亀収容中ヨリ精神病者ノ候補ヲ以テ注意セラレアリシモノニシテ、本年5

11日突然、負債関係上、妻ソノハ青島我ガ憲兵隊ニ拘引セラレ、3児ハ上海ノ知

人ニ養育ヲ托セシ報ニ接シ痛ク神経ヲ刺激シ、此ノ悲惨ノ状況ハ益々神経過敏トナ

リ、栄養漸次不良ニ陥リ、眼底一種ノ光ヲ放チ、一見常人ナラザルヲ知ルヲ得ベシ。

斯カル狂的者ガ独逸俘虜ト特種俘虜間ヲ往復シテ双方ニ考察事項ヲ口外シタルコト

多カルベク推断セラル。斯カル背徳者アルガ為、相互ニ偏僻(ヘンペキ)ヲ生ジ、

益々誤解ヲ来タシ、職員ヲシテ取扱・取締ニ実ニ大ナル煩累ヲ来タサシメタルニア

ラザルナキ乎(カ)。

 

 露西亜人パホルチック 29(注18)

  1.略歴

    露領波蘭カリシア県ニ生レ、22才ニシテスタリーコンスウンチノフアゾフ歩兵

45連隊ニ入リシモ軍隊生活ノ無味ニ倦(ウン)ジ、約1ケ月ニシテ脱シテ、仏国

巴里ニ走リ、約1ケ年間指物職ノ徒弟タリシモ、再ビ露国ニ戻リ、西比利亜ヨリ

ルキスタン・支那・満洲ニ放浪シ、大正3年夏青島ニ達シ、病ニ冒サレシモ所持金

ナク、前途ヲ憂慮シツツアルノ時、独逸軍動員スト聲(キ)キ、奇貨措ク能ハズト

シ、独逸ザクセン王国ドレスデンマックスチムメルマント詐称シ、従軍ヲ請ヒ、

以テ衛戍病院ニ入ルヲ得、退院後、後方勤務ニ従事セリ。

  2.板東収容前ノ状況

    大阪ニ収容セラレシガ、品性下劣ニシテ人種ノ異ナルヲ以テ一般俘虜ニ蔑視・侮辱セラレ、危険ナリシヲ以テ丸亀収容所ニ移サル。同所ヨリ板東ニ向ヒ出発スルニ際シヘルトレ同様、我ニ反抗暴言ヲ吐キ、仰臥シテ往クヲ肯(ガヘ)ンゼザリシ一人ナリキ。

  3.板東収容後ノ状況

    特種俘虜17名中ニ於テモ独リ本人ハ少シク疎外セラレシ景況アリ。之レ彼ノ性情ハ既記ノ如ク最モ陋劣ニシテ土臭紛々、見ルダニ不快ヲ感ズルモノナレバナリ。然レドモ多数ノ独逸人ニ対シ防衛上、彼ハ死ヲ辞セザル痴呆漢ナルヲ以テ敢テ排斥ヲ受クルニ至ラザリキ。

 

 ルックセンブルグ王国ヂッエルダンジュベイ18

 海兵ランベルトコッホ 1888514

   経歴概要

    コッホハ生国ニ於テ鉱夫トシテ従業中、1909825日巴里ニ於テ兵役ヲ志願

シ、アルジュリ外人隊ニ入営セシガ、翌年721モロッコ連隊ニ転入セシメラレ、

僅々2ケ月ニシテ再ビアルヂュリノ原隊ニ復帰セリ。191210月安南老開第14

隊ニ転ジ、1914722日中隊特務曹長ニ抵抗シ15日ノ営倉ニ処セラレタルヲ

以テ同隊ヲ脱シテ支那漢口ニ走リシガ、時偶々欧州戦乱起リシヲ知リ、直ニ漢口仏

国領事ニ届告(カイコク)シ原隊ニ復帰ヲ試シシガ、同領事ハ上海迄ノ旅費ヲ支給

セシノミナルヲ以テ上海着後、同地仏国領事ニ届告セシモ、同領事ハ彼ガ逃走者ナ

ルノ故ヲ以テ顧ミズ。是(ココ)ニ於テ窮余、上海独逸領事ニ届告シ、青島ニ至リ、

同地海兵第3大隊ニ入営シ、大正311月俘虜トシテ松山ニ収容セラル。大正4

8月東京仏国大使館ニ仏軍ニ従軍スル願書ヲ出シタル時、他ノ者ニ感知セラレ、嫌悪

ノ中心トナリ、時々他ノ俘虜ヨリ殴打セラレタリ。則チ松山ニ於テ本人保護ノ為、

幾度乎(カ)組ヲ変更セシモ、孰(イヅ)レモ圧迫・侮辱セラル。遂ニワエーア

士官ノ向室ニ容レ、保護ヲ加ヘタリシガ、一般俘虜ハ平和克復后、彼ニ対シテ十分

ナル憤怨ヲ晴スベシト常々口外セリト云フ。越ヘテ当処ニ収容以来5 日、未ダ日夜、

他ノ俘虜ニ甚ダシク殴打セラレ、事務室ニ逃ゲ来タレリ。又本月上旬、他ノ俘虜ノ

飼養セル犬ヲ姦セリトテ、虚言ヲ流布セラレシ以来、著シク他ノ俘虜ヨリ圧迫・凌

辱ヲ受ケ、本月16日夜10時半ヨリ11時ニ至ル間、就床中23名ノ者ヨリ殴打セ

ラレ、我ガ日本宿直将校ノ許ニ逃ゲ来タリ、危険至極ニ付キ営倉内ニ収容セラレン

コトヲ哀訴シタルヲ以テ而シテ之レヲ許シ同処ヲ居室トシ、自己ノ班ニ帰還スルヲ

欲セズ。是非共、特種俘虜中ニ加入セラレ度キ旨、願出シタルヲ以テ本日18日、特

種俘虜中ニ加ヘタリ。一面、加害者ヲ十分詮議シタリシニ、他廠舎ノモノラシキモ

之レヲ検挙スルヲ得ザリキ。又本人ノ組長ハ誠心、彼ヲ保護シツツアリシガ、目下

ノ状況ニテハ安全ヲ保シ難キヲ以テ特種俘虜中ニ加ヘラレ度キ旨、願出デタリ。

 

19193月にはさらにフランス軍への入隊を志願した3名のポーランド人Waldislaus

Tomazewski, Aloisius Rikowsky, Max Jendrzejewskiもドイツ人俘虜から「日夜、侮辱・圧迫ヲ受ケ、危険身ニ迫ルヲ以テ」ここに隔離収容されている(注19

19196月にヴェルサイユ講和条約が調印された後は板東の隔離収容所でも管理・監視が緩められたので、日本語が喋れたヘルトレは近所に位置する矢野家の人達と自由に親しく交際していたと言われる(注20。ヘルトレは終戦・解放後にポーランドに帰国するも直ぐに再び来日して、その後日本人女性と結婚し、1968年に80歳で亡くなるまで日本に留まっていたが、彼を日本に引き戻したのは、板東の隔離収容所における比較的柔軟な処遇とその実現に尽力した板東収容所長の松江豊寿や近隣の日本人に対する好感が一つの大きな要因であったことは間違いない。

以上の事から、Walter Jäckisch氏が丸亀収容所に関する記述 Das Kriegsgefangenen-

lager Marugame 19141917 (JAPANberichte Nr. 136, 1989, S.28) の中で行なっているFünf Leute, die aus Rußland, Polen und Serbien stammten und als Soldaten in deut-

schen Diensten standen, wurden auf eigenen Wunsch in einem Raum einer Sakebraue-

rei einquartiert. ... Anläßlich der Verlegung nach Bando im April 1917 wurden sie in ei-

ner eigens erbauten Baracke ca. 1 1/2 km südlich des Hauptlagers nahe des Bauernho-

fes eines Herrn Yano untergebracht. 「ロシア、ポーランド、セルビアの出身で、ドイツの軍役に就いていた5名の者は、自らの希望により、とある酒造所の部屋に収容された。…(ドイツ人俘虜が)19174月に板東へ移送されるに際して、彼らは主要収容所の南約1.5キロメートルの所にあった農家、矢野某氏の屋敷の近くにそのために建てられたバラックに収容された」という説明は、丸亀と板東を取り違えていることからして、極めて不正確であることが分かる。またこの説明文に添えられている5名の俘虜の写真は特殊俘虜の写真ではなくて、『大正三四年戦役・俘虜写真帖』の中の「丸亀俘虜収容所・下士収容舎室内(其二)」の写真と同一である。

 

  注記

1『俘虜ニ関スル書類』(自大正3年至9年)中の副官より各俘虜収容所長(衛戍司令官経

由)への通牒案「俘虜中隔離ヲ要スル者ノ件」(1916727日付け)。

2)『丸亀俘虜収容所記事』、[ ]内は『俘虜ニ関スル書類』中の「副官ヨリ丸亀衛戍司令

官ヘ通牒案」。

3)『俘虜ニ関スル書類』中の大阪俘虜収容所長より陸軍大臣宛て「俘虜中隔離ヲ要スル者

   ノ件回答」(1916731日付け)。

4)『俘虜ニ関スル書類』中の久留米俘虜収容所長より陸軍大臣宛て「俘虜中隔離ヲ要スル

   者ノ件報告」(1916731日付け)。

5)『俘虜ニ関スル書類』中の青野原俘虜収容所長より陸軍大臣宛て「俘虜中隔離ヲ要スル

   者ノ件報告」(191683日付け)。

6『欧受大日記』(アジア歴史資料センター・データベース)中の青野原俘虜収容所長より

  陸軍省副官宛て「俘虜考案ニ係ルヂナミット弾計画図送付ノ件通牒」(1916331

日付け)にブルノー・ピンスキーが考案したダイナマイト弾と飛行機用爆弾の図面やイ

タリア語の説明文が添えられている。大津留厚『青野原俘虜収容所の世界−第一次世界

大戦とオーストリア捕虜兵』山川出版社200777ページにはダイナマイト弾の図面。

7)『俘虜ニ関スル書類』中の丸亀衛戍司令官より陸軍大臣宛て「俘虜収容換ニ関スル件報

告」(19161011日付け)。 

8)高橋輝和「アードルフ・メラー著『第1次大戦中の青島守備兵らの運命―私の父の遺品

より』−在日俘虜として、19141115日―19191225日」『「青島戦ドイツ兵

俘虜収容所研究』第5200795ページ。

9)図版3の写真の最前列中央の人物がデ・ビアンキと思われる。

10)『欧受大日記』中の「レオネ・デ・ビアンキ丸亀収容所伊太利亜種俘虜伊国送還の件」。

送達状は欠落。この史料の教示に対してはディルク・ファン・デア・ラーン氏に感謝申し上げたい。

11)『欧受大日記』中の板東俘虜収容所長より陸軍大臣宛て「特種俘虜隔離収容ノ件報告」

19171022日付け)。林 啓介『「第九」の里、ドイツ村』井上書房199339

ページの「分置所(成就院)」の写真は丸亀の塩屋収容所の写真である。

12)『欧受大日記』中の板東俘虜収容所長より陸軍大臣宛て「特種俘虜隔離ノ件上申」(1917

  年810日付け)。この上申書には軍務局長宛ての副伸として所要経費見積書(借家

料は月額7円、改造費は887銭)と収容所附近要図、隔離俘虜収容所要図、隔離俘

虜心得、隔離俘虜警戒ニ関スル規定が付いている。『板東小学校百年誌』(1975年)に

よれば成就院は1874年から1880年まで大麻小学校として、1887年から1895年まで

は板東高等小学校として借り上げられていたので、隔離収容所として借り上げて改造

するのが容易であったと思われる。『板東小学校百年誌』の閲覧に対して板東小学校元

教諭の矢野満子氏にお礼を申し上げたい。

13)板西警察分署警備警察官出張所の報告集『雑書編冊』に所収。原本の閲覧と当該個所

の公表許可に対して原本所有者の寺岡健二郎氏にお礼を申し上げたい。

14)概略は林 啓介『板東俘虜収容所−第九交響曲のルーツ』南海ブックス1978138

140ページ、『「第九」の里、ドイツ村』井上書房1993133134ページに紹介され

ている。

15)安宅 温『父の過去を旅して―板東ドイツ俘虜収容所物語』ポプラ社199775ペー

ジにあるヘルトレ(筆者の夫の母の再婚相手)の写真から判断すると、図版3の写真

の第2列左から3人目がヘルトレである。

16)図版3の写真の最前列左から2人目がワルセフスキーと思われる。

17)図版3の写真の最前列右から2人目がトロイケと思われる。

18)図版3の写真の最前列左から3人目がパホルチックと思われる。

19)『欧受大日記』中の板東俘虜収容所長より陸軍大臣宛て「俘虜隔離ノ件報告」(1919

311日付け)。

20)安宅149ページ。

 

 

 

 

 

 

 

 

図版1.丸亀浜町俘虜収容所(写真提供:ノーマン・クローズ氏)

 

図版2.丸亀浜町俘虜収容所要図(『丸亀俘虜収容所記事』より)

図版3.丸亀浜町俘虜収容所の特殊俘虜(『大正三四年戦役・俘虜写真帖』より)

図版4.デ・ビアンキの陳情書、第1ページ(『欧受大日記』より)

図版5デ・ビアンキの陳情書、第2ページ(『欧受大日記』より)

 

図版6.巡洋艦カイゼリン・エリーザベト(Ludwig Seitz: Die Post der Tsingtauer in

japanischer Gefangenschaft 19141920より)

図版7.成就院の薬師堂(『板東小学校百年誌』より)

 

図版8.板東隔離俘虜収容所要図(『欧受大日記』より)