青島捕虜クラウスニッツァーの曾孫夫妻の訪日旅行に同行して
 
2009年11月25日   岡山・松尾展成
 
 
(1)第一次大戦中の日独交流史における板東「ドイツ牧舎」
 第一次大戦に際して中国・青島で日本軍の捕虜となったドイツ・オーストリア軍将兵(以下では,乱暴ながら,ドイツ捕虜と略記する)は4,700人を超える.その中には,日独文化交流史に一定の役割を果たした人々が含まれていた.第1は,戦前に既に日本で活動した経験を持つ人々である.@高等教育機関で教えていたベルリーナーとユーバーシャール,A満鉄勤務のハック,B葡萄酒醸造を指導していたハム,Cドイツ企業の日本駐在員であったカルクブレンナーとマイスナー,D日本陸軍部隊に派遣されたシュテヒャー,E弁護士を開業していたフォークト,などである.F東大医学部外科教師の子として幼時を過ごし,東京弁を話せたスクリバも,それに加えて良いかもしれない.第2は,収容所から解放された後に日本の文化・経済にさまざまな影響を与えた,以下の人々である.(1)高等教育機関で教えたベルリーナー,ボーナー[ボーネル],シュパン,ユーバーシャールとヴェークマン,(2)独立して事業(食品店・レストランを含む)を興したバールト[バート],ビュッティングハウス,フロイントリープ,ハック,ユーハイム,ケーテル[ケテル],ラーン(父),ローマイヤー,マイスナーとヴォルシュケ,(3)日本の会社に入社したヴェーデキント(つちや足袋,現在の月星化成)とスクリバ(日本窒素肥料,現在のチッソ),などである.以上について,差し当たり,瀬戸武彦,『青島から来た兵士たち』,同学社,2006年,第6章を参照.
 
 なお,鳴門市ドイツ館・川上三郎氏は大正9年2月6日付けの『徳島毎日新聞』の以下の記事を教えてくださった.「独逸式牧場経営 麻植郡西尾村石原六郎氏が[,]独逸俘虜中の牧畜林業其他に経験ある人を聘して[,]事業経営の挙あり」・・・[.]「今度いよいよ」・・・「クゲル氏を雇聘する事となり[,]同氏は既に石原氏方にあり[.]事業は・・・多分[,]独逸式牧場の経営を託し[,]牛乳搾取の傍[,]蔬菜園芸場を開く・・・[.]クゲル氏は牧畜業の専門家なりといふ」.−−−この「クゲル氏」とは何者か.また,彼は何年間在日し,どのような成果を上げたのであろうか.新たな問題が出てきたわけである.
 
 以上の(1)と(2)に対して,日本収容中のドイツ捕虜が最も重要な役割を果たした,日本の施設は,私見では,徳島県・板東収容所近くの「ドイツ牧舎」である.このドイツ式畜舎は,現存しており,2004年9月に船本家牧舎として国の登録文化財に指定された.日独交流史の中で特筆すべき,このドイツ牧舎の建設・運営資金を負担したのは,近くの鳴門で製薬工場を経営していた富田久三郎である.彼は当初は家族のために乳牛を飼育していたが,将来の畜産経営拡大に備えて,甥の松本清一を麻布獣医畜産学校に進学させ(1915年卒業),獣医にしていた.そして,富田はこの松本を間もなく活用することになったのである.
 
 千人近いドイツ捕虜を収容する板東収容所(1917年開設)では,牛乳の需要が大きかった.収容所近隣の酪農業者は1−2頭の乳牛を飼育していただけで,そこで搾乳された牛乳は,ドイツ捕虜側の衛生基準を充たさなかった.そのために,捕虜たちは牛乳を北海道から取り寄せていた.しかし,17年10月後半からは,ドイツ牧舎の牛乳が北海道産に取って代わった.ドイツ牧舎の牛乳生産が本格化したためである.
 この牧舎の運営に指導的に関与したのは,海兵隊一等兵フランツ・クラウスニッツァーであった.しかも,板東捕虜の中で彼は特別に優遇されていた.すなわち,捕虜たちは朝晩に一斉点呼を受けていたけれども,クラウスニッツァーだけはそれを免除されて,朝早くから夜遅くまで,ドイツ牧舎で働いていたのである.家畜の分娩などの特別の事情が生じると,彼が牧舎に泊まり込むことも,しばしばであった.
 クラウスニッツァーはこのようにドイツ牧舎の経営を支えたばかりではない.彼に富田久三郎は日本人畜産技術者を養成させた.すなわち,富田は,獣医となり,兵役も終えた松本清一に,ドイツ牧舎の経営を委ねたのである.暫くすると,麻布の学校でも兵役でも松本と同期だった船本宇太郎が,ドイツ牧舎に招かれた.クラウスニッツァーは牧舎の日本人(とりわけ松本と船本)にドイツ式畜産技術を教え込んだ.こうして習得された酪農技術は,酪農後進地域であった徳島県の技術向上に寄与した.これはほぼ周知の事実と言ってよいであろう.
 また,富田久三郎が後年,薬学代表団の一員として訪独した際に,某牧場でクラウスニッツァーと面会したことも,ある程度は知られていた.(この某牧場はタンネベルクのはずである.松尾展成,『日本=ザクセン文化交流史研究』,大学教育出版,2005年,251,257ページ)
 
(2)捕虜クラウスニッツァーの曾孫の訪日計画
 この捕虜クラウスニッツァーの生涯(生地・生年と没地・没年を含む)はどのようなものであったか.これは従来全く不明であった(ドイツ牧舎の経営自体についてさえ,日本側資料の不足・破却のために曖昧な部分が,今なおきわめて多い).
 そこで私は,いくつかの方面から探索していった.そして,ザクセンのドレスデンに存命の,クラウスニッツァーの第5子(末子で次女)の氏名・住所に辿り着くことができた.私は彼女に何度も手紙を書き,それに対して彼女も,父親の堅信礼証書(生地・生年月日が明記されている)から,最晩年の就業証明書に至る,かなり多くの個人資料を送ってくれた.それらの資料には,板東収容所から解放される直前の1919年に作成された3通が含まれ,その中の2通には日本側将校が署名している.これらの資料を主たる基礎として,ザクセンで1892年に生まれ,同じくザクセンで搾乳親方として1955年に没したクラウスニッツアー伝を,私は2002年に論文として書き上げ,それを修正して,2005年の前掲書の第5章とした(詳細は上記著書を参照).
 私は2001年に岡山大学を退職したが,その岡山大学を通じて昨2008年夏に一通の電子メールが私に飛び込んできた.クラウスニッツァーの第2子(=次男)の長男の長男からであった.彼は,自分は板東捕虜の曾孫であり,直系曾孫は現在自分だけである,と自己紹介した(以下では彼をク氏と呼ぶ).また,次の事情も,一部は先取りして言えば,記されていた.捕虜クラウスニッツァーの子孫は今では住所をそれぞれ異にし,相互の交際も必ずしも円滑ではないし,自分は日本語を全然解さないけれども,貴著の一部が自分の曾祖父を取り扱っている,と聞いた.自分は,酪農業に従事していた祖父のもとで幼少年期を過ごしたのだが,その祖父は曾祖父から酪農業のイロハを叩き込まれていた.ところが,その曾祖父について自分の知るところは少ない.そこで,捕虜だった曾祖父について,いろいろ質問したい,というのである.それ以来,私はク氏と何度もメールを交換した.また,鳴門の川上三郎氏(ドイツ館)や富田実氏(久三郎の直系曾孫の一人)から,クラウスニッツァー関係の所蔵写真を電送していただき,それらを,私の手持ちの資料とともにク氏に送った.それらの写真・資料と私の手紙を通じて,ドイツ牧舎が現存することを,ク氏は知ったわけである.そこでク氏は,まだ若くて,「親方」にもなっていなかった曾祖父が,ドイツとは全く異なる諸条件の中で,悪戦苦闘していたであろうドイツ牧舎を,妻と一緒に実際に訪問する決意を固めた,と書いてきた.滞日予定期間は11日間であった.
 
 そこで私は,若いク氏夫妻の,それほど長くない滞日期間を,最大限有効に利用し,かつ,経費節約的に使うために,地元の専門家,上記の川上氏,富田氏や俘虜研究会メール会報編集者の小阪清行氏(丸亀)の助言を得つつ,ドイツ牧舎,鳴門市ドイツ館,板東収容所関連施設で現存するもの,さらに,捕虜として最初に収容されていた丸亀収容所(本願寺塩屋別院)の見学を提案した.また,彼ら夫妻が再来日することはないかもしれない,とも考えて,板東・丸亀近郊での観光も勧めた.ク氏は,旅行計画の大筋を私に任せること,また,IT技術に詳しいク氏が,徳島県と香川県の地図をインターネット画面上で見て(これは私には全く不可能である),剣山,祖谷温泉,塩飽諸島にも関心を持ったこと,さらに,自分たちの飛行機は関西空港発着なので,大都市大阪の庶民の生活ぶりを,商店街を通じて見てみたいこと,を伝えてきた.しかし,川上氏と小阪氏によると,剣山など上記3カ所はいずれも交通不便で,短日時ではとても行けない,とのことであった.また,日本の温泉は素っ裸ではいるものであり,男女混浴である場合もある,と私は付け加えた.それに対しては,柵を巡らせたヌーディスト海水浴場に自分たちは慣れている,とク氏は返事してきた.交通不便の3カ所を諦めるとしても,問題は大阪の商店街であった.旅行を好まず,大阪を全然知らない私にとって,これは難問であった.そこで私は,今年3月の「メール会報」,360号に「捕虜曾孫の1日大阪案内人を求む」の記事を載せてもらった.そうしたら,京都の井上純一氏(ボーナー[ボーネル]の最後の教え子の一人)が応募してくださった.また,小阪氏は自身の補助者として香川日独協会の長澤あいさんを推薦された.こうして私は,体力の乏しい自分を基準として,なるべくゆったりした日程を大体決め,細部は臨機応変にやることにした.余り高価でないホテルの予約も,問題は生じたけれども,どうにか済んだ.香川県3泊分の予約は小阪氏に依頼した.さらに私は,階段昇降,速歩と重量物運搬は私の体力では無理である,と前もってク氏に伝えておいた.
 
(3)ク氏夫妻の訪日旅行に同行して
 以下は,ク氏夫妻の旅行に同行した私の行動(時にはク氏夫妻の行動を含む),あるいは,感想を記したものである.旅行中にはごく簡単な備忘録を書いただけであったから,内容に誤りが含まれているかもしれない.
 10月20日.大体晴れ,日中気温上がる.前夜9時に床に就き,2時前に起き出して,原稿を書いていた私は,未明に新幹線で岡山を発ち,9時半に関空に着いた.彼らの飛行機が予定より早く到着した,と電光掲示板に出ていて,少し慌てたが,暫く立っていると,10時過ぎに,入国ゲートからク氏夫妻が出てきた.私の乏しい聞き取り能力からすると,ハンブルクからアムステルダム経由の14時間の飛行中,眠れずに,疲れた,と聞こえた.不眠・疲労に加えて,気温5度のドイツと,20度超の日本との大きな気温差に,ク氏は鼻をぐずつかせていた.車中の昼食は欲しくない,と言う彼らを私は,関空から新幹線経由で岡山に導いた.岡山駅近くのホテルのロビーで,講義を済ませた小阪氏と落ち合ったのが,1時半である.その間に体力を回復させた夫妻は,小阪氏の案内で岡山城と後楽園を見学した.私は喫茶室で彼らの大きな荷物の番人となって,休息していた.合流した私たちは瀬戸大橋線を渡った.遠近大小の島々の間に落ちる夕日は美しかった.6時前に丸亀のホテルに着き,夫妻の希望に沿って中華料理を一品ずつ食べた.小阪氏がそこを紹介され,同席されたのである.私は10時すぎに床に就いた.
 10月21日.晴れ,日中気温上がる.私は,近年の生活習慣を1日で変えることはとてもできず,1時半に目覚めた.そして,質問すべき事項などを床の中で整理したり,独訳したりした.前夜に約束した7時半から,3人で朝食を取り(この時間は以後も同じ),9時にホテルに迎えに来てくれた長澤さんの車で,塩屋別院を見学してから,ベルリン留学を経験した東山魁夷美術館(坂出)に行った.しかし,他の芸術家の特別展覧会が開催されていたので,入館せず,近辺を散策した.ここは白砂青松の景勝地であり,万葉歌人,柿本人麻呂ゆかりの沙弥島である.水は澄み,波は穏やかであった.そのとき,海水に手を浸けたク氏が,今ここで泳ぎたい,と言ったのには,驚かされた.ドイツでは,この程度の水温で海水浴をしているらしかった.
 丸亀は日本全国の団扇の大部分を生産しているそうで,その展示館も見た.さらに,空海大師の誕生地に建立された善通寺を訪れ,ミステリーゾーンを体験した.御影堂の地下の真っ暗な長い回廊を,左手で恐る恐る壁を伝いながら,巡るのである.戒壇巡りから出て,3時に,講義を終えた小阪氏と落ち合った.夫妻は同氏の案内で,長い階段で有名な金刀比羅宮に行った.それに対して,疲れた私は長澤さんの車でホテルに帰り,床に就いた.集合約束の7時に私は,ク氏がドアを叩く音で,やっと目を覚ますことができた.大慌てでフロントに出て行くと,ク氏夫人が私のズボンを指さした.ズボンのジッパーが閉じられてなかったのであった.私のために,丸亀俘虜研究会有志の歓迎会は開始がいくらか遅れたわけである.歓迎会では丸亀収容所関係のさまざまな写真が示され,私たちは極めて友好的に過ごすことができた(10時まで).ク氏夫人は,次々に供される料理の盛り付けの美しさに,驚いていた.長澤さんも同席された.善通寺からの帰途でも私は助手席で眠っていたらしく,長澤さんは,私は運転が上手です,と慰めてくれた.
 10月22日.晴れたり曇ったり.前夜は12時に床に就いたのに,私はやはり3時までしか眠ることができなかった.私たちは9時に小阪氏の車でホテルを出て,屋島「四国村」に行った.まず,祖谷の「かずら橋」のミニアチュアを渡る.本物よりも水面までの高さは低いし,かずらは鉄線で補強されているけれども,渡るのは私には怖い.祖谷の本物は鉄線の補強がなく,敵が来れば,かずらを刃物で切断していた,とク氏に,たどたどしく説明する.四国各地から集められた古民家・作業小屋も彼には興味深いようであった.昼食に鉄板焼きを食べた.中華料理あるいは中華風料理はドイツでも普及しているらしい.大都市には回転寿司もあるが,夫妻は,生魚は全然駄目,と言う.次いで,レオマワールド温泉に行く.ここは,剣山ほど,四方の展望がきくわけではないけれども,深山の中に立地している.また,日本風の露天風呂もあれば,西洋風の水着着用温泉もある.もっとも,お湯の温度がク氏たちには高すぎたようである.のんびりした時間を過ごした後,7時過ぎに高松の宿に着き,小阪氏を含めて夕食.夫妻には畳と布団の部屋を小阪氏が注文してくれていた.一度試しますか,と以前に私が尋ねると,そうしたい,とク氏が言っていたからである.
 10月23日.晴れ,日中気温上がる.ク氏夫人が,夫から風邪を移され,体調不良だ,と訴えるので,3人だけの直島渡航は中止する.直島は,塩飽諸島の代わりに小阪氏が提案された島であり,交通便利で,見所も多く,安藤忠雄氏設計の半地下式美術館が特に著名であるという.−−−そこで,栗林公園見学約1時間に切り換え,12時過ぎに高松駅を特急で発った.池谷駅では比較的短時間で連絡する,との車内放送に従って乗り換え,鳴門駅に3時前に到着した.富田氏には,夕方あるいは夜に着く,と出迎えを前に頼んでいたが,到着が余りに早くなり,大きな荷物もあるので,駅の近くではあるのだが,ホテルへはタクシーで行く.そして,7時のフロント前集合を約して,自室に入る.ホテル到着を連絡したところ,富田氏が来館された.同氏によれば,近所のスーパーマーケットに食堂街がある,とのこと.3人で7時過ぎにそのスーパーに行くと,1階の食料品売り場だけが開いているので,夫妻はパンなどの売り場へ,私は和食売り場へと別れる.7時を過ぎると,生鮮食料品は2割引,3割引となっていたので,貧乏旅行者の私は大いに助かった.一緒に帰館して,自室へ.それ以後も,鳴門滞在中の夕食のためには,このスーパーを利用した.ただし,買い物に慣れない私が,何を買うかべきか,を決めかねて,売り場をウロウロするものだから,夫妻は,自分たちの支払を済ませた後,私を待っている場合がしばしばあった.なお,このホテルには大浴場があるのが,私には好ましい.
 10月24日.曇り.常備の睡眠薬が少し効いて,3時半に目覚める.今日から川上氏の車に乗せてもらうことになっている.まず9時にホテルを出て,ドイツ館に向かい,所蔵のアルバムを見せてもらう.ドイツ館側でクラウスニッツァーと見なしている人物を,これは私の曾祖父ではない,とク氏が断定する場合もあった.同国人の顔や体型に対する判定はやはり鋭い,と私は痛感した.次に,ドイツ牧舎に移動して,その内部を見学する.ドイツの畜産に詳しいク氏によれば,同時代のドイツの乳牛畜舎と同じ装置がここには多々ある由.退院直後の船本純郎氏(宇太郎息)からも,少し話を聞く.隣家の久留島ヨシエさんからは,添え書き付きの写真を見せてもらう.彼女は,草創期のドイツ牧舎に関連のあった秀一の息,一氏の未亡人であり,老齢ながら頭脳明晰で,私の質問に対する回答は,いずれも大変興味深いものであった.写真の添え書きとヨシエ夫人の回答,そして,ドイツ牧舎内部の現実の姿から,ドイツ牧舎成立史は書き換えられねばならない,と私は考えた.
 さらに,ドイツ牧舎近くにある八坂神社の鳥居に注目する.ここに刻まれた,「大正九年」,「富田畜産部」の文字は,富田久三郎とドイツ牧舎との関係を雄弁に物語っている.その後,ドイツ橋2基,古いドイツ兵慰霊碑と新しいドイツ兵合同慰霊碑を見学してから,4時半にホテルに戻る.
 しかし,恐れていた事態が遂にやってきた.ク氏から夫人に伝染した風邪が,午後から私をも襲ってきたのである.風邪に極端に弱い私は,喉が痛くなり,咳も出始めた.しかも,病院も薬局も閉まっている土曜午後である.「うがい薬」はもちろん持参してきていたが,ほとんど効果がなかった.
 10月25日.曇り.9時半,川上氏の車で宿を出て,これも川上氏が手配してくださった,裏千家徳島支部鳴交会のお茶事を見学する.その日本家屋は立派であり,日本庭園も見事である,と私には見えたけれども,大塚スポーツパーク集会所という,無粋な名前だという.それはともかく,大勢のお弟子さんたちよりも近くで,お手並みを見るよう勧められる.我々には椅子さえ用意されていた.無言のお濃茶の後,お薄茶の時には,お師匠さんが我々のために解説もしてくださったが,それを夫妻に的確に伝えられない自分が恨めしかった.最後には,作法を全く無視してよい,との注釈付きで,お菓子とお薄を頂戴した.流れるような主客の動作と,出席者たちの着物の美しさにク氏夫妻は感嘆していた.
 その後,ドイツ館に向かう.今日はドイツ館で年に一度のドイッチェス・フェストの日である.私の喉の痛みがますます激しくなるので,途中でスーパーに立ち寄ってもらい,風邪薬を求める.私がかつて論文執筆前に教示を得た吉田貞雄氏(松本清一親族,徳島)には,本日のク氏の来館・スピーチを連絡していたが,吉田氏はアルバムを手にドイツ館に来てくれていた.その一部は貴重だ,として,川上氏はそれをドイツ館で暫く預かることになった.昼過ぎにク氏は特別ゲストとして,ホールで来場者に挨拶した.通訳は鳴門市国際交流員のアンヤ・ハンケルさんが担当した.ク氏のスピーチは堂々たるもののようであったが,私は連日の睡眠不足に加えて,先ほど服用した風邪薬の催眠作用が強烈で,残念にも一部を聞き漏らした.来館した鳴門市長とも,ク氏はその後,暫く会話した.ク氏夫人が体調悪化を訴えるので,タクシーで4時に帰宿する.眠れば治る,と彼女が主張するので,スーパーでは風邪薬を買わなかった.
 10月26日.小雨.朝食後,私はドイツ牧舎についてク氏にいくつかの質問をぶつけ,多くの点で回答を得た.10時半,川上氏の車で宿を出て,阿波十郎兵衛会館(人形浄瑠璃上演),眉山のドイツ兵の墓,阿波踊り会館(阿波踊り実演)を見学して,3時半帰宿.ベッドで横になると,7時過ぎにク氏に起こされるまで,よく眠る.私の風邪は一層ひどくなった.−−−なお,この日だけは,近くの別のホテルに宿泊した.長期滞在したホテルが,予約時に既に満室であったからである.
 10月27日.快晴,のち時に曇り.日中気温上がる.9時に川上氏の車でホテルを出て,ドイツ館へ.夫妻はドイツ館の展示品や捕虜遺品を見学し,私は同時代資料,「雑書編冊」の必要箇所を読む.昼食ののち,川上氏の案内で鳴門公園に行く.鳴門大橋の一部を歩きながら,雄大な渦潮を見る.もっとも,観光写真にあるような,複数の渦潮が大きく渦を巻く情景は,実際には稀であるという.かつてドイツ捕虜たちがはるばる通った,櫛木の海水浴場を望見しながら,旧道をドイツ館に戻る.夫妻は,旧収容所建物の一部が復元された,ドイツ館前の「道の駅」を訪れ,私は「雑書編冊」の必要箇所を読み終わる.ク夫人の体調が良くないそうで,早めに帰宿.
 10月28日.晴れ,日中気温上がる.朝食後しばらくク氏に質問.それから別行動を取る.彼らは少し散歩したようである.私は小型軽量の土産物を捜すが,なかなか見当たらない.1時半に富田実氏の車でホテルを出て,富田製薬工場を訪問する.かつては高い煉瓦製煙突が4本立っていたが,米軍機の目標になる,との理由で,第二次大戦中に軍の命令で倒されたそうである.その基部の一部は今も残っている.工場の隣に富田本家の蔵がある.蔵の壁は煉瓦製で,厚さ50aにもなる,という.煙突と蔵の煉瓦はいずれもドイツ製である由.煉瓦の規格は,そして,煉瓦の色も,ドイツ牧舎のそれと同じである(ク氏によれば,現在も規格は同一である,とのこと).また,工場のあちこちには,黒灰色の煉瓦が打ち棄てられているが,それらは,石炭灰などを原料にして,同工場内で焼成したものであるという.ドイツ牧舎の煉瓦の出所はいかにして確定されうるであろうか.−−−さらに,工場の近くに松本修平氏(清一息)を訪ねる.退院直後の同氏から,訪独した富田久三郎についての興味ある話を聞く.また,転宅前の同氏宅の背後山腹には,収容所でコップ大尉が建てた小屋が,収容所閉鎖後,移築されていたというが,もはやない.4時半帰宿.
 10月29日.晴れ,日中暑くなる.4時に起床し,資料を少し整理する.9時半に富田氏が迎えに来てくれる.直ぐ近くの高速バス乗り場へ.JRバスに2時間余り揺られて,大阪駅に到着し,井上純一氏と落ち合う.駅近くのホテルで事実上のチェックインを済ませ,中華料理を食べた後,中之島の東洋陶磁美術館へ行く.ク氏がマイセンの近くで生まれた,というので,私がここを選んだのだが,柿右衛門磁器は1点もない.西洋で磁器が創始されたのはマイセンにおいてであるが,初期マイセン磁器の器形と文様の多くは柿右衛門磁器の模造品である.大阪には柿右衛門磁器を所蔵する美術館が,他にあったろうに,と事前準備の不足を私はク氏に申し訳なく思った.
 柿右衛門磁器には私個人の思い出もあった.1973年春に日本と東ドイツとの国交が樹立され,公務員の東ドイツ訪問が可能となった(それ以前にも,私立大学教員には東ドイツに留学するルートがあったけれども,私には無縁であった).私は同年夏休みを利用して,ドレスデンに3ヶ月行き,図書館と文書館に通った.同市に日本人は1人もおらず,たまたま入ったツヴィンガー宮殿磁器美術館で大量の柿右衛門磁器を見て,感激していたからである.東洋陶磁美術館を一巡してガックリきた私は,タクシーで帰宿し,昼寝した.−−−夫妻は井上氏の案内で大阪城を見学し,長い商店街をぶらついた由.
 10月30日.晴れたり曇ったり.日中気温上がる.ほとんど眠れず.荷物を整理したり,ホテルのアンケート用紙に長い意見書を書いたりする.朝食後に,日本滞在中の感想を夫妻に聞くと,ク氏は,非常に良かった,と答えた.夫人によれば,ホテルのベッドのマットが,畳と布団を含めて,自分には固すぎたことだけが,残念であった,と言う.日本旅行を彼らに大体満足してもらえて,私は嬉しく思った.−−−10時にホテルを出て,関空へ.夫妻は,飛行機搭乗手続を12時過ぎに済ませると,もう帰ってほしい,と言うので,出国ゲートで別れを言う前に,私は関空を後にした.そして,3時半に帰宅した.それから4週間近く経つが,クタクタに疲れた私の体調は,風邪の症状がほぼ取れた他は,まだ回復していない(以前から超低空飛行状態ではあったが).しかし,なるべく忘れないうちに書いておかねば,と自分に言い聞かせて,この文章を草した次第である.
 この旅行でお世話になった方々,とりわけ,丸亀の小阪氏,長澤さん,鳴門の川上氏,富田氏と京都の井上氏には,この場を借りて,心からお礼を申し上げたい.
 さらに,11月15日付のメールがク氏から届いた.そこには,寒くなっている故国に無事到着した,各地を案内してくれた人々は実に親切であった,日本語を勉強してから日本を再訪したい,と記されていた.