第一次世界大戦中の日本におけるドイツ人俘虜

―「ドイツビールを除けば、彼らに不自由はなかった。[1]」―

 

マホン・マーフィー  翻訳:榎本美和

 

第一次世界大戦に関する文献では主に、ソンムやイープルのような大規模な戦いに焦点が当てられる。ラカミモフが述べる通り、東部戦線での戦いやベルギーでの残虐行為、交戦国が戦争俘虜や民間人抑留者を引き止めた状況のような、塹壕戦の領域からはずれたすべてのことは、メインイベントであった西部戦線からすれば余興のようなものである[2]。本論文の目的は、戦時中の日本におけるドイツ人俘虜の待遇について分析し(オーストリア・ハンガリー俘虜は少数であることから、彼らが含まれている場合でも「ドイツ人」と呼ばれることが多い。本論文でも、以後は簡略化のために、俘虜をドイツ人と呼ぶことにする)、国際法規の役割、中立国政府や赤十字などの国際組織による介入、そしてドイツ人俘虜の待遇に影響を与えた日本人自身の役割について考察することである。1899年および1907年のハーグ平和会議で規定された指針に対して日本人が示した顧慮は、第一世界大戦中における総力戦の重要な局面、つまり俘虜の扱いに関して国際法規が果たしたプラスの面を浮き彫りにするものである。第一次世界大戦中の日本における俘虜の扱いが、第二次世界大戦中に比してより人道的であった理由については、本論文では考察の対象としないが、第一次世界大戦中の日本でドイツ人俘虜が経験した苦難は、第二次世界大戦中の俘虜が経験したそれとは比べ物にならないことについては、指摘しなければならないであろう。しかしながら本論文は、俘虜の扱いを当時の背景に照らして考察するものである。第一次世界大戦が、ホブズボームの言う残虐な「短い20世紀」[3]の始まりであったとすれば、なぜ、日本だけでなく一般的に俘虜は快適な待遇と配慮を受けることができたのだろうか?戦時中の俘虜が合計で850万人であったことを考えると、日本人により捕えられた俘虜は5,000人以下と比較的少ない[4]。第一次世界大戦中には戦闘員の約8人に1人が俘虜とされたが、記されている回顧録は非常に少なく、戦時中の俘虜の経験は、塹壕戦の生活に関する小説や回顧録、映画に比べれば影が薄いものである。俘虜としての抑留生活は、エルンスト・ユンガー「鉄の嵐の中で」(“In Stahlgewittern”)のような戦争やヒロイズムを扱う人気の戦時物語とは対照的なものであった。

ラカミモフによるロシアのオーストリア・ハンガリー俘虜研究では、回顧録の大半が将校階級から得られたものであるが、彼らの軍人としての誇りのゆえに、俘虜にとられたという事実は恥ずべきもので、謝罪すべきだと感じられていたことがわかる[5]。しかしながら、膠州湾にあったドイツの租借地・青島では、武器の数や人数で圧倒されていたドイツ軍は、自身が勇敢な戦士であることを示すことができた。青島のマイアー=ヴァルデック総督は、野蛮なアジアの大軍に取り巻かれた文明の要塞である攻囲された町の守備兵たちから、現代のレオニダスと呼ばれたほどである[6]。日本ではドイツ人俘虜に対する扱いは認知度が高く、この問題に関して書かれた多くの文献やこの領域を専門とした歴史研究会がある他、四国の板東収容所に焦点を当てた映画「バルトの楽園」も制作されている。世界史のこの局面の詳細に焦点を当てることにより、歴史家は、国際法規や国際団体の強力で実践的な機能を正当に評価する機会を得ることができる。また、国際協力の肯定的な側面についての理解を深めることも可能になる。本論文では戦時中のドイツ人俘虜に関し、俘虜となった191411月から解放・帰還することとなった1920年のはじめ頃まで、彼らが受けた待遇について考察する。

 

第一次世界大戦に関する歴史論では、戦争中の俘虜の分析もしくは説明が適切に行われていない場合が多い。ラカミモフが述べるとおり、第一次世界大戦の大惨事に関する記録では、近代戦争の機械化や大量動員に焦点が当てられている。第一次世界大戦の歴史論の中で俘虜が果たす役割が小さい理由について、ラカミモフ5つの要素によるものだとしている。第一に、塹壕の兵士が経験した困難に比べれば、俘虜は比較的快適な環境を享受していたことから、俘虜に関する報告がいくぶん奇異に映ることである。ヨーロッパの俘虜収容所にいた者は、ある意味で幸運だった。それは、絶え間ない砲撃や喪失、塹壕戦での惨めさから離れていられる幸運である。このような苦難からさらに離れていたのが日本のドイツ人俘虜である。青島での包囲攻撃は、戦争開始当初の19149月から11月までのわずか2か月ほどであり、ドイツ兵は日本に送られてから戦争の残りの期間を俘虜として過ごすこととなる。俘虜が経験した苦難は、最前線での苦しみに比べれば取るに足らないもののように見えるのである。ラカミモフが提起する第2の問題は、俘虜の惨めさとしては良く知られている特徴である。ヨーロッパにおける俘虜の大半が苦しんだのは「通常」の欠乏状態だけであり、戦争が長引くにつれて主な問題は「鉄条網病」(Stacheldrahtkrankheit)、すなわち捕虜特有の精神疾患を招くこととなった退屈さとなった[7]。日本ではもっと快適であった。すべての交戦国の収容所体制に全然問題がなかったというわけではない。しかしながら、第二次世界大戦中の日本とドイツの収容所体制についての周知の記録によって想起されるような拷問は、いかなる収容所においても行われていなかった[8]。前述したように、俘虜の苦しみは塹壕での経験に比べれば軽いものであり、日本の収容所では、彼らは死や西部戦線での苦しみから遥かに離れたところにいたのである。第三に、俘虜の回顧録を綴った筆者の経歴に目を向ける必要がある。1931年に発表された、俘虜477名の回顧録や報告書を収載する記録的コレクション「敵の手中に陥って」(“In Feindeshand”)は、寄稿者の大半が将校階級であるが、労務からの免除と住居の供与を規定した1899年および1907年のハーグ平和会議の規定のおかげで、彼らの経験は概して非常に快適であり、かつ兵卒とは全く異なるものであった。本論文では、日本における将校階級と兵卒による双方の回顧録を用いることにより、そのバランスをある程度是正することにする。第四に、第一次世界大戦の俘虜は、戦闘の体験談としては劇的な質に欠ける点が挙げられる。ラカミモフが述べるとおり、俘虜の談話は概して俘虜とされたことに焦点を当てて、負傷していたことや数の上で劣勢であった点を言い分けにして弁明する傾向がある。この点に関して、日本における俘虜の大半は、自軍の敗北や人数で圧倒的に勝る日本軍に捕らわれることが当初からわかっていたため、彼らの談話は他の俘虜のものとは異なるのである。俘虜の多くがイギリスに敵意を抱き、日本に戦争を強要したとして非難したのに比べ、日本人に対して彼らは大きな敵意を抱いていなかった。ドイツから軍事訓練を受けた日本は彼らの友であり、また、日本の近代化や大国への台頭はドイツのそれと一致する鏡像のようなものであった。よって、概して日本で俘虜となったドイツ人の回顧録はロシア等その他の地域で捕らえられた俘虜の回顧録ほど悲観的ではない。「ジャパン・タイムズ」は、ドイツが青島のために戦ったのは、青島がイギリスではなく日本の手中に入るためだったとほのめかしたほどである[9]ラカミモフが挙げている俘虜に関する分析の欠如の第五の、そして最後の理由は、それがハプスブルク帝国の崩壊や戦後ドイツの貧困、そして戦後ヨーロッパの混沌とした政治情勢による政治的な断絶に起因している可能性があるということだ[10]

 

在日ドイツ人俘虜に関する文献は、英語で書かれたものが非常に少なく、ドイツ語でさえも数が少ない。日本の俘虜収容所に焦点を当てた主要な書籍に、バーディックとメースナーによる「日本におけるドイツ人俘虜」(Charles Burdick, Ursula Moessner: “German Prisoners of War in Japan”)がある。1984年に出版されたこの書籍は、大半の情報が報告書や日記、俘虜とのインタビューから得られたものであり、これにより深刻な史実というよりもある種の小説のように読むことができる。日々の活動や脱走、そして俘虜が経験した苦難をバーディックとメースナーは見事に説明しており、収容所内の生活がどのようなものであったか読者は正確に理解することができる。この書籍は、たしかにミクロレベルの歴史を上手く扱っているが、国際情勢というマクロレベルでのドイツ人俘虜の関連性に対する感覚に欠けている。逃走に関して、日本から遠く上海まで逃走することができた俘虜を本書は巧みに描写している。そのうちの一名、パウル・ケンペ海軍中尉は、ノルウェー人ビジネスマンを装った風変わりな鉄道旅行でロシアを越えて逃走に成功しており、最後にドイツに戻って戦争に再度参加した記述はまるでスパイ物語のようである。本書では、第一次世界大戦史の非常に興味深い逸話が明らかにされているが、この出来事を国際関係全体の中で適切に位置づけることができていない。ドイツ人俘虜への関心は日本に広まっている。「青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会」という歴史研究会は年次セミナーを開催し、大規模な収容所のひとつがあった四国の徳島県にある小さな町、板東に焦点を当てている。この収容所は、収容所に関する米国大使館からの複数の批判、および戦争がすぐには終わる見通しがないことから、より永続的な収容所の建設が必要とされた事実を日本政府が考慮した後の1917年に開設された。ハーグ条約の適用、ならびに収容所の松江豊寿所長の人道主義への尽力により、いかに交戦国による俘虜の規範的扱いが確保されたのかを示す良い例である。板東収容所は多くの文献や書籍、前述の映画等で取り上げられている。東京にあるドイツ‐日本研究所(DIJ)は今般、オンラインのアーカイブである「DIJ板東コレクション 所蔵検索・バーチャル展覧会」(Bando-Sammlung des DIJ. Katalog und virtuelle Ausstellung)を開設しており、収容所の建物、規則や規制、日常生活に関する豊富な一次資料を提供し、この地域のバーチャルツアーも閲覧できる。このサイトの特色は、俘虜が作成した多くの出版物や写真、スケッチとともに、すべての収容者の名簿や可能な場合は伝記も収録していることである。板東の町自体では、収容所を記念したドイツ館、アーカイブの所蔵があり、ドイツ兵の墓やドイツ橋など関連施設の見物ができるようになっている。ベートーヴェンの第九交響曲が初めて演奏された場所がここの収容所であるということから、ドイツ館の前にはベートーヴェンの大きな像が建てられている。また、映画「バルトの楽園」のセットとして町には収容所が大規模に復元され、訪問者に対して開放されていたこともある。ドイツ人俘虜に日本人学者の間で高い関心が寄せられているのは恐らく、俘虜待遇の人道的局面と、ドイツ人俘虜が板東に建設した現存の「ドイツ橋」によって具体的に示されている、異文化間の協力や学習の理念に関連しているのであろう。

このトピックを国際関係の分野と関連づけるため、本論文では開戦時に存在していた国際法規の状況について考察する。ここでの主な焦点は、1899年および1907年のハーグ平和会議である。ロシアの外務大臣ミハイル・ムラヨフ(Mikhail Murayov)が初のハーグ会議招集を呼びかけ、セルビアとモンテネグロを除く全ての交戦国が条約に批准、後の190094日に発効され、1907年の第二回会議では1900年に批准された内容が拡大された。第三回会議は1915年の開催が計画されたものの、戦争のために開催されることはなかった。第一款第二章では、戦争中の俘虜の扱いについて定めている。第9条では俘虜はフルネームと階級のみ提示が要求されているのに対し、第14条では俘虜の氏名・年齢・出身地、部隊、負傷の有無、俘虜とされた日付および場所、抑留中の負傷および死亡に関する情報を提供する俘虜情報局の設立を定めているなど、いくつかの曖昧性が含まれるものの、この条約は俘虜の扱いを考慮する全ての側面の貴重な枠組みを提供している。第6条では俘虜を労務者として使用することができるが、その労務は過度でなく、一切の作戦行動に関係しないものでなければならないと定めている。1907年にこの条項は改訂され、希望する将校は労務を免除されることとなったが、これは本条約のエリート主義を際立たせるものである。フランス人俘虜を塹壕の建設に使用したことで俘虜を軍事関連の労務に使用したことになり、ドイツ人はこの条項に違反したとして非難された[11]。同条項では、俘虜が引き受ける労務には、自国軍の兵士が同様の作業を行った場合に支払う賃金と同額が支払われなければならないとしている。これらの賃金は俘虜の地位改善に使用され、残りの金額は俘虜の解放時に返金されるものであった。青島が陥落し、町の中心のビスマルク要塞に集合させられた後、ドイツ兵俘虜が日本の本土に出発する直前に日本は十の規則を記載した一覧を発行した。この「俘虜のための訓示」(Instruktion für die Kriegsgefangenen)は、収容所に到着後、そこでの日常の作業に関する規則も対象とするよう各収容所によって拡大されたが、ハーグ条約の影響を強く受けるものであった[12]。最初の指示には、今後俘虜は人道的に扱われることが記され、日本当局との協力が要請されている。第二に、それぞれの俘虜に氏名と階級の申告を求めている。第三の指示は、脱走が企てられた場合には罰されるとしたハーグ条約の第8条に準じるものであるが、ハーグ条約よりもさらに厳格な処罰があることを警告し、逃走しようとする各人は生命の危険を覚悟しなければならないとした。あるオーストリア・ハンガリー将校が記しているように、逃亡を試みた俘虜は、ハーグ条約で定めるところの俘虜収容所内での罰則方法による処罰を受けず、日本の法律に基づいて私的財産の損害に対する罰則が適用された。例えば、逃走を試みたことではなく船の窃盗罪で罰せられた俘虜が二名いたが、これは当時の日本の法体系が厳格であったことを意味している[13]。ハーグのエリート主義は第5条にも反映されている。ここでは全ての武器や馬のような戦争手段は放棄しなければならず、個人の私物のみ保持しても良いとされたが、ドイツ人将校は、例外として尚武の強力な象徴となる剣を保持することが許可されていた。マイアー=ヴァルデックはこれに対して感謝の意を公に示している[14]。ハーグ条約の第15条では救済団体の派遣団は収容所を訪れてもよしとした。これが日本によって許可されたのは、日本赤十字が世界でも最大規模の赤十字のひとつであり、かつ日露戦争中に両軍の負傷者の手当てに優れた実績を示していたからである。のちには日本に支社を置くジーメンス・シュッケルト社や天津および上海に拠点を置くドイツの組織は、救済団体を設立した後、特に日本と中国で事業ができなくなった俘虜に対して非常に貴重な資金を提供した[15]。最後に、ハーグ条約に準じ、日本人は竹森大佐の下、家族からの問い合わせに対して北京にあるドイツとオーストリア・ハンガリーの代理公使に俘虜の情報を提供するための俘虜情報局を東京に設立した[16]

 

開戦時、青島はアジアにおける特別な場所であった。1897年にドイツが取得した租借地は、17年しか経っていなかったが、その間に町はまったく新たに作り直されていた。ドイツのスタイルや計画に沿って基本的な地ならしが行われると、町にはアジアでも最高の下水道システムが備えられ、「東洋の真珠」と言われ、ある人々には「東洋のブライトン」と呼ばれた[17]。ドイツがこの地域に関心を寄せた理由は純粋に経済的なものであったが、青島がドイツ帝国にアジアにおける植民地強国としての地位を提供したにもかかわらず、駐屯軍の規模からもわかるように、ドイツが町の軍事に本格的に力を注いでいなかったことは奇妙であるといえる。駐屯軍は東アジアに住むドイツ人の予備兵や志願兵により補強しなければならず、日本からは118名の志願兵が駐屯地に来た[18]。日本は、アジアでの地位を強化するために戦争という機会を利用した。そして日本の動機に不信を抱いたイギリスは、日本が太平洋の航路を保護し、参戦しないことをただ望んだ。実際、イギリスの租借地にはドイツからの直接的な脅威は及んでいなかったため、日英同盟には日本がドイツを攻撃するための規定はなかった。1914815日、日本政府は山東半島を明け渡して植民地を譲るようドイツに対して「勧告」した[19]。この「勧告」は実に、日清戦争で日本が旅順の所有を求めた1895年に三国干渉のさいにドイツが日本に送った勧告を連想させるものである。青島はドイツの威信にとって重要であり、皇帝はマイアー=ヴァルデックに対して、青島を日本人に取られるのはベルリンをロシア人に取られるよりもドイツにとって恥ずべきことだと述べたと伝えられている[20]。青島を失うことでドイツの威信は二通りに傷つくことになる。まず第一に一流の植民地を失うこと、第二に黄禍論の時代に劣った人種にドイツが敗北するということである。しかしながらドイツにとって、駐屯軍を優勢な日本軍に対抗できるほどの効果的な戦力にすることは不可能であった。日本がドイツに宣戦布告をすると青島の未来は抜き差しならないものとなり、唯一の問題は、ドイツが植民地を平和的に譲って日本の外務省に大きな勝利を譲るのか、それとも日本に青島を完全に占拠されることがわかっていても戦う道を選択するのか、ということであった[21]。ドイツ人は、欧州での戦争がすぐに終焉し、青島が失われたとしても自国の勝利によって奪還できるだろうという希望を持ち、戦うことを決断した。しかしながら日本が中国での足がかりを得ると、彼らを追い出すことは困難になった。欧州が混乱状態になり、日本にとって戦争は中国での影響力を拡大するのに絶好の機会となった。これにより、1915年、悪名高い「21カ条の要求」が袁世凱に対して出されることとなる。青島とカロリン諸島のような種々の南の島を獲得すると、日本は約5,000人の俘虜を日本へ送った。前例となる日露戦争中の規定からはドイツ人が日本で公平な扱いを受けることが示唆されたが、日本人はドイツ人に対して宣誓解放を再導入しなかった。日本がロシアには提供したこの制度は、400名のロシア人将校が、今後日本に対して戦争を行わないと宣誓をするという条件で本国に戻ることができたものである[22]。日露戦争中の西洋メディアは、一部にはロシアと比較して日本への好意的な見解を日本に示すため、日本帝国軍に対する、そして負傷した敵や抑留者の人道的待遇への配慮に対する讃辞で溢れていた。ドイツ人俘虜を人道的に扱う約束は守られたが、日本と同盟していた諸国にとっては厚遇すぎるように映ったかもしれない。戦争後期に中国が参戦すると、イギリスは3,290名のドイツおよびオーストリア・ハンガリー人に関し、俘虜に「特別待遇」を与えている日本ではなくオーストラリアに追放するよう提案した[23]。日本への移送のために行われたドイツ人の最初の捕囚と抑留は厳しいものであった。俘虜の中には野外の墓地で眠らなければならず、最終的に現地の中国人と避難所を共にした者もいた[24]。青島の包囲攻撃の間は厳しく流血的な部分があったにもかかわらず、ドイツ人は自分たちを捕えた敵に対して敵意は抱かなかった。マイアー=ヴァルデックは降伏演説の中で、イギリス部隊を貶めて英雄的な日本人兵士に惜しみない讃辞を与えたが、これはドイツ人兵卒の気持ちを反映するものであった[25]。イギリス人に対する敵意はまた、彼らが戦闘にほとんど関わらず、死亡者がわずか13人であった事実にも起因している。イギリス人が主要な戦闘に関わらなかったのは、彼らが勇敢でなかったというよりも日本の指揮官の指示によるものであったが、ドイツ人にはイギリスが自分たちの手を汚さずに日本人兵士に戦わせて苛めているように映ったのである[26]1914117日、ドイツ人は青島を引き渡したが、日本の神尾光臣司令官は鋭い歴史的皮肉を込めて俘虜の移送を1114日まで延期した。この日でドイツは青島初上陸から17年を迎えたのである。そして、この日が町の有名なドイツのディーデリヒス記念碑に刻まれたことはさらなる侮辱であった[27]。抑留の地まで余分の蓄えを持って行けるほど幸運であった者は別にして、悪天候の中、わずかな食糧で3日間も壊れかけた商船に乗っていなければならなかった俘虜にとって、日本への移動は苛酷なものだった[28]

 

ドイツ人俘虜は自分たちが捕われの身になったことについて、相手が著しく優勢な力を持っていたこと、そして実際彼らを訓練したのはドイツ人であるという事実により、正当化することができた。ドイツ人のヤーコプ・メッケル少佐は1880年代中期に上級日本人将校を訓練し、多くの日本人将校がドイツに滞在するなど、ドイツとの軍事的つながりは強固なものであり続けた。例えば、習志野の収容所所長である西郷侯爵はドイツで訓練を受けている[29]20世紀のはじめに日本がイギリスとの同盟を結び、1905年のロシアへの勝利後に近代の強国として台頭すると、多くの欧州人と同様にドイツ軍将校たちは、武士道の概念、日本の尚武の精神の研究に興味を示した。ブタペスト出身の海軍大尉であるアーダルベルト・フォン・クーン男爵は、自身の収容所所長に送った苦情の中で、俘虜がまるで家畜のように扱われていると述べたが、ハーグ条約の制約がなければ日本人はこのような扱いどころか俘虜を射殺したであろうと確信していた。収容所の所長は、日本の軍人、とりわけ将校は俘虜になることを自分自身に許さないであろうと彼に説明した。フォン・クーンは、回顧録の中で乃木大将が明治天皇の死後に自殺したこと、そして青島の包囲戦の時に電話交換接続の担当を務めていたある日本人将校が、ドイツ人の哨戒隊に後方の電話線を切断されたことで自分自身を恥じて腹切りをし、「国民的英雄」になったことを例に出した。フォン・クーンは、ドイツ人将校には剣の所有が許可されていたとしても、日本人から尊敬されることは非常に困難であったと述べ、日本人将校は彼らを単なる家畜としか見なしておらず、それ相応の扱いであると感じていた[30]。ドイツ人将校に対する敬意の明らかな欠如、特に将校が蹴られたことなどは、ドイツ政府が正式に苦情を訴えて、捕虜の待遇改善のために圧力をかけようと、米国政府に日本の俘虜収容所の状況調査を依頼した主な理由のひとつとなった。オーストリア・ハンガリー人にとっては残念なことに、彼らの代理を務めたスペイン大使館は、オーストリア・ハンガリー将校のさらなる自由を求めた請願の交渉において全く役に立たなかった[31]。収容所の状況に関する米国の調査を扱うにあたって、本論文ではまず、サムナー・ウェルズがドイツや幸運にもオーストリア・ハンガリー政府の代理として収容所を訪れることとなる前の捕虜の生活について、また米国政府がこのような調査を最終的に許可するに至った理由について考察する必要がある。

 

19161月、貴族院の一員である柳沢伯爵が主導する収容所の視察が日本政府により行われた。この視察の目的は、九州の収容所から脱走が企てられた問題に焦点を当て、収容所の当局が実際に寛大すぎるのかどうかを判断することにあった。九州の福岡県にある福岡市および久留米市の収容所が、ドイツ人の側からも、不満の主な出所であり、恐らく続発する逃走を助長しているのではないかとみられた[32]。ドイツ人俘虜が日本に到着した際には花冠を持った多くの人々が各港で待ち構え、大半の俘虜が温かく受け入れられた。しかしながら福岡では、俘虜に向けて野次や石を投げる者までおり、温かく受け入れられたとはいえない。これは、青島での日本軍の死傷者の大半が福岡出身者であったことによるのかもしれない[33]。久留米収容所は収容所の中でも最も規則が厳しく、ドイツ人兵卒、そして将校までもが軽微な違反で日本人衛兵から殴られるというケースが多くみられた。191512月、久留米の俘虜は待遇の悪さに対して、点呼に応じないという方法で公然と抗議した[34]。このような状況にあって、逃走への欲求は最も強いものだっただろう。全ての収容所の中でも、福岡と久留米は逃走が最も頻繁に発生したからである。福岡収容所の歴史において最も有名なエピソードとして、パウル・ケンペ海軍大尉の成功した逃走が挙げられる。大正天皇の即位式の最中に逃走した彼は上海までうまく逃げ、そこで逃走中の俘虜3名に出会う。彼は日本を脱出し、シベリア特急ではノルウェー人ビジネスマンを装った後にドイツへ帰還し、少佐として戦争に再度参加した。他の逃走者はアメリカ経由でドイツに行く途中イギリス人に捕まり、残りの戦争期間中イギリスに拘留されることとなった。日本人にとってケンペやその他の逃走者は恥ずべきものである。懲罰として日本は、逃亡者に加担した可能性のある共謀者を追求して厳しい懲罰を与え、最終的には11名を裁判にかけた。そのうち一名はソウルで捕らえられて逃走に失敗したモッデであり、もう一名は日本語を話せる捕虜として注目を集めたフリッツ・ハック博士であった。共謀罪にかけられるということは、俘虜の逃走に関して軽度の懲罰制度を規定していたハーグ宣言よりも、日本の法律が優先することを意味した。2名を除く全ての被告が有罪となった。19163月、福岡収容所のドイツ人将校は天津にいるドイツ人弁護士との連絡に成功し、有罪のケースに対する国際介入を要請した。次にこの弁護士が北京のドイツ大使館に連絡を取り、さらにワシントンのドイツ大使であるヨハン・フォン・ベルンシュトッフ伯爵に伝えられた。ワシントンのドイツ大使館を通じて、有罪となったドイツ人の釈放の請願がなされたが、それは俘虜を一般の犯罪者として裁くことはハーグ条約に反するものであるとし、東京の米国大使館による仲介を求めた[35]。柳沢伯爵による収容所および逃走に関する調査を受け、収容所の当局は今後の逃走を行わないという強制的な宣誓を求め、宣誓を拒否した者には書簡の作成および受け取りや日常の散歩、収容所外での遠足を行う特権を許可しないという方法をもって罰した。そのため苦情の数は増えたが、断固として宣誓を拒んだひとりの将校エステラーを除いた全員の将校が宣誓を行った。「共謀者」の扱いの他にも、収容所自体についての一般的な苦情やカトリックの俘虜と神父との個別対話の禁止、俘虜が宣誓をさせられた数々の侮辱などがあり、ベルリンのドイツ外務省は、アメリカ大使館に収容所の巡見を行うよう要請した。こうして、東京の米国大使であるG. W. ガスリーは、1916年時点で存在していた全収容所の詳細な視察をサムナー・ウェルズに委託した。視察旅行は、その年の229日に始まった[36]

 

ウェルズの報告書は非常に長く、収容所の状況に関して中立的な観点からなされた優れた洞察を示している。ドイツ語に堪能なウェルズには日本語を流暢に話すJ. W. バランタインが同行し、また、収容所を視察する権限を日本政府から受けた彼らは主に将校階級の俘虜と直接話すことができた[37]。ウェルズはドイツ人俘虜からの様々な陳述書を含む報告書をまとめた。特に久留米のドイツ人俘虜は厳しい規律体制に憤慨しており、窮屈なスペースの拡張を嘆願していた。ウェルズの所見は、久留米という顕著な例外と大阪収容所を除けば、だいたいの収容所は満足できる状態だというものであった。俘虜の収容に古い寺院を使用することを彼は非難した。そのような建物は脆弱な構造を持ち、全然隔離されておらず、ある兵卒の俘虜が言っているような「おもちゃのような家」[38]に住むのはヨーロッパ人にはまったく不適切だというのである。また、彼は松山の将校たちの苦情も記録した。この苦情をタイプライターで記したクレーマン少佐は、彼らがハーグ条約に規定されている指針にしたがって扱われていないことを確信していた。将校が受けた侮辱として、彼らと話す時に日本人将校がポケットに手を入れたままであったことや、シュテッヒャー大尉が怒鳴られたことが挙げられる。書簡に記された苦情の一覧は広範囲に及び、歯科医の治療の不適切さといった些細な問題から兵卒を罰する際に監禁するといった問題まで取り上げられた。将校は全体的には非常に良い待遇を受けているとして、ウェルズは彼らの苦情の大半を退けた。また、松山収容所は窮屈だったが、収容所のシステム全体は概してハーグ条約に従ったものであり、余地がある場合には、将校に兵卒と区別された部屋や風呂、運動場が提供されていた。ウェルズの主な懸念は兵卒の扱いに関するものであった。将校への懲罰は稀であり、大抵が兵舎への拘禁であったのに対し、一般の兵士が懲罰を受ける場合には営倉に拘禁された。営倉自体は「約15平方フィート、それ以下の場合もあり、むき出しの壁と固い木の床。拘禁期間は数日から3か月の範囲で、この間に俘虜に許されたのは食事としてのお茶とパンだけであった。」この種の懲罰はハーグ条約に反し、この方法により罰せられた者の健康状態に深刻な影響を与えた。俘虜は、自身の扱いが俘虜ではなく一般の囚人に対するものであると感じた。苦情は収容所新聞の出版禁止などといった規則への不満から、下士官ハーゲマンが道で喫煙したとして数回蹴られ、20日間拘禁された例に見られるような、俘虜への身体的虐待の一覧にまで及んだ。クレーマン少佐の書簡には、スペースの不足や不衛生な環境、そして寺院での生活に耐えることができないなど、より実用的な問題の一覧も記されていた。書簡の結びには将校の要求事項が一覧として記された。俘虜を人道的に扱うこと、苦情申立制度の必要性、部屋の増設、兵卒のための寝台とその上に敷く畳、運動、病人を病院へ運ぶ前にとどめ置くための個別の部屋、そして最後にどの収容所でも多かった苦情として、より正確で定期的な郵便業務が挙げられた。概して、ウェルズは収容所の運営に満足しており、彼が行った面接から、大部分のドイツ人将校は、クレーマン少佐とその他数名を除けば、満足しているように思われた。営倉の件を除くと、彼が訴えた主な苦情は、各収容所に割り当てられたスペースが総じて足りないことであった。これに該当するのは特に、トイレとバラックが非常に近接していた久留米と、主要送水ポンプがトイレと近すぎて水が「不潔でそのにおいと味が非常に非衛生的」であった静岡である。ウェルズの報告書の所見は概して好意的であったが、スペースの不足と寺院に収容されている俘虜を適切な場所へ移動する問題への対応には差し迫った必要性があった。郵便のシステムに問題があったのは、単に俘虜が受け取ったり送ったりする多くの書簡を検閲するための日本人通訳が不足しているからであった。あるオーストリア人将校は、その近親者がイタリア人であったが、イタリア語の通訳が陸軍省にいなかったために連絡を許可されなかった。ウェルズの報告書の写しはファイルされ、1916年の秋に日本政府に、それから少し遅れてベルリンとウィーンに送られた[39]

 

ウェルズの視察のあと、日本当局は収容所の環境改善に努めた。ウェルズが批判した収容所の指揮官がすぐに交代したことは大きな変化である。マイアー=ヴァルデックが収容されていた福岡収容所は最終的に閉鎖となり、俘虜は東京に近い習志野に移送された。そこでの収容所の指揮官西郷侯爵(西郷隆盛の息子)は、一部の俘虜からはやや堅苦しい人物であると思われていたものの、彼の配慮は素晴らしいものであった。彼は1919年の元旦、俘虜に新年を祝うために収容所を視察している最中にスペイン風邪による心臓発作で亡くなった[40]。収容所の体制で最も大きな変化があったのは、3つの収容所が統合されて板東の大きな一つの総合施設となった四国である。板東は俘虜収容所運営の優れた例とされている。19174月、四国の丸亀、松山そして徳島にある3つの収容所が1つの新たな収容所に統合され、57,000 平方メートルの荒地に約930名を収容することとなった。わずか28,208平方メートルの土地に1,318名の俘虜がいた久留米と比べると非常に広い[41]。専門技術を有していた俘虜が大工や塗装、時計作り、製本、床屋等の仕事を始めるとすぐに、収容所は小さな町のようになった。俘虜が運営し、俘虜自身も利用することができたカフェやパン屋、そして銭湯まであった。また、数多くのスポーツチーム、3つのオーケストラ、そして6,000冊の本を所蔵する図書館があることもこの収容所の誇りであった。俘虜が設立した医療基金のため、収容所はスポーツイベントや試合、演劇を開催した。そしてこの基金は天津に設立された援助組織からの寄付による支援を受けた。収容所の規則と組織は俘虜の扱いを定めるハーグ条約を基にするものであったが、その実施は収容所の松江豊寿所長の恩恵によるものである。松江は信頼によって収容を運営することに全力を尽くし、俘虜の精神的福祉に主として配慮した。松山で苦情を申し立てた将校であるクレーマン少佐は、幸運にもドイツ人先任将校として板東に移され、彼の境遇は劇的に変化した[42]。その他の収容所は改修の途中であり、寒い寺院はより適切なバラックに取り換えられた。俘虜の多くが町の工場や事業に雇用されていた板東は、日独文化交流の中心であった。そこで俘虜は印刷機を設置して「ディ・バラッケ」(“Die Baracke”)というタイトルの週刊新聞を発刊したが、この新聞は彼らの帰国の途中でも「帰国航」(“Die Heimfahrt”)という名で発行され続けた。そこでは収容所での生活や、英字新聞や通信社、日本語新聞の翻訳から得た戦争中の事件が詳細に示された。この新聞や収容所で印刷された様々なパンフレットは、「世界中のいかなる収容所においても、日本の収容所におけるほど豊かで趣味のよい装丁はなされていない」として高い評価を得た[43]工学や農耕に関するドイツ人の知識は地域の日本人よりも遥かに先進的であり、300人以上の俘虜が関わった農業では、新しい農耕技術やトマトなどの農作物が導入された。板東での収容所生活の頂点は19183月に訪れた。日本のドイツ人居住者と日本人向けで開催日を別にし、工学や食べ物、スポーツ、工芸品、そして音楽の展覧会「絵画工芸展」(“Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit”)が俘虜によって開催されたのである[44]12日間に渡るこのイベントでは、ドイツの技術や料理、スポーツ、美術や音楽の様々な展示が行われ、約五万人が観覧したといわれている。その年の5月に徳島を訪れた東久邇宮殿下は、この展覧会の話に興味を持ち、その一部を鳴門市まで運ばせ2枚の肖像画を購入している[45]。俘虜は、自分たちの技術を用いて2つの石橋を建設した。完成までに2年を要したこの橋は、今日でも町の公園で使用されている[46]。俘虜を収容していた町とその近隣の地域経済にとって、俘虜たちは非常に価値ある存在となっていた。これは、俘虜を他の地域へ移す計画が発表された際、俘虜の移送は地域経済に月2万円の損失を与えるとして、市民が抗議した熊本での出来事により裏付けられる[47]。俘虜は非常に大きな関心を集めるようになり、東京の国民学校2校の校長が俘虜の日常生活に関する報告書を作成し、経済性を保ちながらも革新的になれる方法のモデルとして、写しを東京の全ての学校に配布した[48]

 

1916年末、サムナー・ウェルズは再度収容所を訪れ、全体としては著しい改善が認められ、再び満足できるものであるとした。ただし、収容所の司令官が交代しても俘虜の十分な運動スペースがなく窮屈な環境のままであった久留米は、再び例外とした。アメリカが参戦すると、ドイツは俘虜の状況を監視するための貴重な仲介者を失うこととなった。米国の代わりに、スイス政府に支援された国際赤十字が積極的に収容所の視察を行った。19181月、国際赤十字を代表するスウェーデン人のネアンダー牧師が視察を行った。俘虜にとって話しやすく、また、俘虜としての彼らの苦境だけでなく戦時下におけるドイツの苦境全般にも同情的であった彼は、俘虜から非常に好意的に受け入れられた[49]1918630日、ドイツ人は赤十字に別の視察を依頼し、横浜を拠点としていた非常に著名なスイス人医師パラヴィチーニ博士が視察に訪れたが、その視察はウェルズの視察を反映するものであった。パラヴィチーニ博士の日本滞在は長く、第二次世界大戦中にも俘虜収容所視察官としての役割を果たした。残念なことに、彼はこのときの報告書を届ける前に亡くなり、報告書の写しも残されていない。ドイツ人俘虜に関するパラヴィチーニの報告書は、スペイン風邪が収容所に到来して俘虜の健康が大きな問題となるなどといった、俘虜の健康状態をさらに掘り下げて扱っており、各収容所における俘虜の日常の食事の詳細を徹底的に調査し、俘虜の多くがドイツ人の食事には適していないソバやサツマイモなどの食べ物に満足していないことを記している。彼が注目したさらに興味深い点のひとつが、俘虜がドイツ政府から見捨てられ忘れられていると感じていたことである。戦争における彼らの役割は小さく影の薄いものであり、特に19186月の西部前線での大規模な攻撃の間には、俘虜たちは「ここで肥え太るよりも祖国で飢える方がましだと思っている」と彼は記録している[50]。ウェルズの最後の訪問の後に新しいバラックが設立され、俘虜に音楽の演奏を許可するなど、収容所の体制に若干の前向きな変化が起こっていることをパラヴィチーニは認めた。ウェルズの視察の前には許可されていなかった、収容所での生活において重要な音楽や演劇は、退屈を緩和するのに非常に大きな要素となる事がわかった。それは鉄条網病の寛解に役立ち、俘虜による演劇やクラブ、オーケストラなどの俘虜のための娯楽を提供するのであるが、こうして日本における俘虜生活の不朽の象徴であるベートーヴェンの交響曲第九番の演奏は生まれた[51]。パラヴィチーニ博士の所見は概して肯定的で、俘虜に施された治療にも満足し、新たに設立された収容所や改修された収容所に感銘を受けた。久留米の収容所は未だに運動できるスペースが小さすぎたり、収容所の外側にも運動できるスペースがなくトイレと接近しすぎたりしていることから、環境が十分でないとした。郵便については問題のあるままで、前述の、やりとりされる書簡の検閲に関わる人的資源の不足を克服することは日本当局にとって困難なものであった。さらに、英語、仏語、独語以外の言語で書かれているものになると解決はより難しいものであった[52]ネアンダー牧師に好印象を持った俘虜たちからすれば、ドイツ語話者であったパラヴィチーニ博士への期待はさらに高まったが、彼の訪問は大きな失望をもたらすものであった。最大の失望は、ある種の俘虜交換が可能となり、すぐ欧州に戻れると俘虜たちが期待していたことによる。他の交戦国の俘虜は2年後に解放されたり、交換されたりしたという報告を聞いた彼らは、自分たちが日本に捨てられたのではないかと感じていたのだ。パラヴィチーニの視察は主に俘虜の健康状態に重点が置かれ、彼らの期待には到底及ばないものであった[53]

 

戦時中、俘虜交換の可能性についてドイツとオーストリア・ハンガリー政府からの問い合わせはあった。問題だったのは、いずれの国も交換するための日本人俘虜が十分にいなかったことであり、実際、オーストリア・ハンガリーには日本人兵士の俘虜も民間人抑留者もいなかった。交換の可能性が大きいのは民間人俘虜であった。開戦時、日本の報道はドイツにおける民間人の日本人の扱いを非難した。人数は少ないものの、50人以上の日本人民間人がドイツ当局に抑留されていた。ドイツ政府によると、日本人の抑留は彼ら自身の安全と保護を目的として実施されたものである。この件に加え、俘虜の氏名公表をドイツ政府が拒否したことから抗議が行われ、日本の代理としてアメリカに介入を求める嘆願が船越男爵からなされることとなった。船越男爵は、日本政府がドイツ民間人を完全に保護し、事業を行うことを許可している点を指摘した[54]クルト・マイスナーは戦時中の日本におけるドイツの事業が抑圧されていると不満を訴えたものの、民間ドイツ人に対する日本の扱いはドイツの事業に寛大であるとして、東京の英字新聞社からの抗議と不満を招いた。とりわけ、「ドイツ・アジア銀行」Deutsche Asiatische BankDAB)が1916年末の最終的な業務停止まで営業を許可された際には、「この国におけるドイツ人への寛大すぎる扱いによって、貿易の損失が引き起こされ、イギリスの植民地と本国における日本への敬意は失われるだろう」との報道がなされた[55]。ドイツ人のさまざまなクラブは結局閉鎖され、戦後になって再び開かれた。しかし、東京のジーメンス・シュッケルト社によって作られたような救済団体や上海・天津に設立されたその他の援助組織が、予備役でない兵卒に生活を保障する貴重な資金を提供した。彼らは、ジーメンス・シュッケルト社からひと月5円の特別支給を受け、これは非常に歓迎された。インフレに伴って俘虜の賃金が増額されるということがなかったので、この特別金は、当局から供給されるわずかな食糧を補うのに役立った[56]

戦争の終焉とオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊に向かう中で深刻になった別の問題が、俘虜と抑留者の国籍である。イタリア参戦時、大阪の収容所ではイタリア系俘虜がイタリアの愛国歌を歌い始めたときに殴り合いが始まった。アルザス・ロレーヌ出身の俘虜やフランス系であることを証明できた者、合計29名は解放されたが、他の俘虜たちが彼らに敵意を抱いたり、イタリア系俘虜の事件をまた起こしたりしないように、解放は穏やかにかつ慎重に実行された。停戦とベルサイユ条約締結後の19197月、さらに123名のアルザス・ロレーヌ出身者が解放され、日本におけるフランス当局の保護下に入った。そして11月の解放によって、23人のチェコ人がシベリアのチェコ軍団に入り、9人のユーゴスラビア人はフランス当局に、1名のイタリア人はイタリア大使館に赴いた[57]

 

俘虜をドイツへ帰還させるため、中国政府が彼らをいったん青島に戻すという案を日本が拒絶するという、日本と中国の外交上の論争や大きな遅延ののちに、ドイツは俘虜を東京のスイス大使館を介して輸送するための船の交渉を行った[58]。そして1114日という日がやってくる。19191114日、日本政府は俘虜の帰還を認めたのである。ドイツ政府は6隻の船を獲得することができ、マイアー=ヴァルデックを含む俘虜の最後の一団は、1920325日、南海丸でドイツへと出発した。敗戦は俘虜にとって衝撃的であり、ドイツへの帰国前にキールでの暴動を耳にしていた。このようなドイツにおける明白な分裂は、団結を保っていたように思われたイギリスと比較することで、ドイツの敗戦の理由として利用され、やがて「正しかろうが間違っていようがわが祖国」(My country right or wrong)という論理がまかり通ることになる。俘虜の新聞は欧州の出来事にできる限り注視し、ロシア革命やブレスト・リトフスク条約に関する広範囲な分析を行っていた。そのためドイツの敗戦は俘虜にとって衝撃であり、彼らは新聞を通じてドイツ敗戦の理由について説明しようとした[59]。在日俘虜は前線の苦しみや停戦後の経済的・社会的混乱から離れたところにいなければならなかった。帰国した俘虜にとって、腹をすかせた多くの子供が食糧を求めて手を伸ばす姿は衝撃的なものであった[60]。実際、多くの俘虜がドイツへ戻らない道を選んでいる。日本や中国に事業や家族があった者は東アジアに残った。その他はオランダ領東インド軍の兵士としての職を求めた。ここでは1919年末から1920年の初頭にかけて駐屯地維持のためにオランダやベルギー、ドイツ出身の白人を特に対象として職を提供していた[61]。日本での長期間に及ぶ抑留中、ドイツ人俘虜は19世紀的価値観から20世紀的価値観へと移行することがなかった。そのため、大量破壊をともなう戦争や、ソビエト・ロシアの革命思想、民族自決主義というウィルソンの思想により、戦後のドイツは帰国した俘虜にとって見知らぬ土地のように映った。ラカミモフが述べるとおり、国際法規が19世紀の紳士的エリート主義の方法で遵守された数少ない局面のひとつは、戦争俘虜の扱いという領域であり、戦後の時代にこのような貴族的理念が適用される余地はなかった[62]

 

ドイツおよびハプスブルク帝国からの5,000人近い俘虜は、日本の収容所で5年余りの抑留期間を過ごした。振り返れば、彼らは前線から離れ、欧州からも離れた比較的牧歌的な環境で過ごすことができ、幸運であったように思われる。俘虜に対するこの寛大な扱いは、第一次世界大戦中に国際法規が果たした肯定的役割を浮き彫りにしている。ラカミモフが述べるように、捕虜の扱いは、恐らく19世紀の国際外交におけるエリート主義や紳士的な考えが実際に適用されたひとつの戦争局面である[63]。俘虜は確かに苦しみ、鉄条網病は問題であった。しかしながら、彼らの苦境は塹壕の兵士が直面したものに比べれば軽いものであり、第一次世界大戦中には戦闘員の8人に1人が捕虜にされたにもかかわらず、一般の歴史では、彼らはほとんど忘れ去られてしまった。ハーグ条約に規定された条項のおかげで在日俘虜は好待遇を受けた。ドイツにおける日本人収容者の数は非常に少なく、俘虜は皆無であったため、日本にとってドイツ人俘虜を交渉の切り札として保持する理由はなかった。しかしながら日本当局は、日露戦争時にそうしたようにハーグ条約を尊重することを選び、在日ドイツ民間人に関しては寛大すぎて同盟国であるイギリスの反感を招いたほどである。アメリカ大使館や国際赤十字などの外部機関による収容所の視察を、日本人は非常に寛大に許可した。福岡の収容所で逃走が多発した際には規則を厳しくし、より厳格な罰と拘留が実施され、9名の俘虜には共謀者として一般の監獄に入れられるという判決が下された。これにより、ベルリンは東京の米国大使館に介入を求めて訴えた。ウェルズによる収容所の視察は概して肯定的であったものの、収容所の体制に関するいくつかの問題点を明らかにした。収容所の中には運動のためのスペースが十分になく、ハーグ条約に反して将校に個別の住居を提供することができないところもあった。久留米の収容所は例外のままであったが、他の収容所は閉鎖されて他の収容所と統合されるか、大幅に改善・再開発がおこなわれた。日本における収容所の体制のなかで大きな成功例であったのが、板東の収容所である。この収容所は抑留の場所というよりも、むしろ小さな村のようになり、バーディックが述べているように、板東収容所での衛兵と俘虜の関係は、ミクロレベルでの日独協力の完璧な手本となったのである[64]。この収容所は、国際法が当局上層部により実施・遵守されたときにもたらすことのできる実際上のよい効果を明らかにしている。ハーグ条約は、決して包括的なものではではなかったにせよ、依拠することのできる有用な青写真を当局に提供したのである。第一次世界大戦が東アジアで継続したのは実際にはわずか2ヵ月であり、小規模なドイツ軍に対して日本軍が比較的容易に勝利をおさめた青島では、独英の間に横たわるような敵意が生まれる時間はなかった。ドイツは、日本が植民地を後に返還してくれるような短期の戦争を望み、一方の日本はアジアに力を注ぐあまり、ドイツ人のことを配慮するどころではなかった。戦争中に国際的な規範はなくなってしまったが、少なくとも俘虜に関しては、とりわけ日本に抑留された少数のドイツ人およびオーストリア・ハンガリー人の場合には、俘虜に対する人道的待遇を保障する枠組みを、国際法規が提供することができた。中立組織による収容所の視察により、収容所の環境が十分に明らかにされることは保障されたのであり、戦時中そして停戦後までも監視はおこなわれた。1920年のはじめ、俘虜は出発した時とは大きく変わってしまった本国に戻った。ドイツは混乱の中にあり、ハプスブルク帝国は崩壊していた。帰還しない道を選んだ俘虜もいたが、帰国した者は前向きな姿勢を保った。10年後、フォン・クーン男爵は回顧録の中で、5年に及ぶ日本での抑留の後にオーストリアに到着した時の気持ちを、フリードリヒ大王の言葉を引いて描写している。「私が生きているということは重要ではない。だが、祖国を救うことが再び必要になれば、私は義務を果たしてこの国を救うために戦う」[65]。第一次世界大戦中の俘虜たちの物語は、ささやかではあるが重要な物語なのである。

 

 

参考資料:

1.一次資料

1)未出版のもの

Welles, Sumner. Report on Prisoner of War Camps in Japan US department of state records 9763.72114/1491 (1916)

 

2)インターネット・ホームページ

Hague II – Laws and Customs of War on Land: 29 July 1899

http://www.yale.edu/lawweb/avalon/lawofwar/hague02.htm 

 

Hague IV – Laws and Customs of War on Land: 18 October 1907

http://www.yale.edu/lawweb/avalon/lawofwar/hague04.htm

(以上ハーグ条約18991907に関するもの)

 

Befehlsbuch des Barackenlagers Kurume aus der Zeit vom 12. VI. 1915 bis 20. III   http://bando.dijtokyo.org/?page=object_detail.php&p_id=257

 

Rundgang durch das Lager Bando http://bando.dijtokyo.org/?page=theme_detail.php&p_id=3&menu=1

 

Führer durch die Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit Kriegsgefangenenlager

http://bando.dijtokyo.org/?page=object_detail.php&p_id=277

 

3)出版されている一次資料

Weiland, Hans and Kern, Leopold. In Feindeshand: Die Gefangenscahft im Weltkriege in Einzeldarstellungen Vol II (Vienna) 1931

 

Pörzgen, Hermann. Theater ohne Frau, Das Bühnenleben der Kriegsgefangen Deutschen 1914-1920 (Ost-Europa Verlag, Königsberg) 1933

 

Krüger, Karl. Von Potsdam nach Tsingtau: Erinnerung an meine Jugendjahre in Uniform 1904-1920 (Books on Demand GmbH, Nonderstedt)

 

Meissner, Kurt. Deutsche in Japan 1639-1939: Dreihundert Jahre Arbeit für Wirtland und Vaterland (Deutsche Verlag-Anstalt, Stuttgart/Berlin) 1940

 

The Japan Times

 

Die Baracke Vols. I-IV

 

Die Heimfahrt

 

2.二次資料

Rachamimov, Alon. POWs and the Great War: Captivity on the Eastern Front (Berg 2002, New York)

 

Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984

 

Schmidt, Hans-Jochim and Janson, Karl-Heinz. Von Kutzhof nach China und Japan: Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912 bis 1920  (Vereins Kollertal, Kutzhof 2001)

 

Audoin-Rouzeau, Stephane and Becker, Annette. Understanding the Great War (Hill and Wang, New York) 2002

 

Burdick, Charles. The Japanese Siege of Tsingtao (Avalon Books, Connecticut) 1976

 

Kreiner, Josef. (Ed.) Japan und die Mittelmächte im Ersten Weltkrieg und in die zwanziger Jahren (Bovier Verlag Herbert Grundmann, Bonn) 1986

 

Nish, Ian. Alliance in Decline: A Study of the Anglo-Japanese Relations 1908-1923 (The Athlone Press, UK) 1974

 

Dickinson, Frederick R. War and National Reinvention Japan and the Great War, 1914-1919 (Harvard University Press, USA) 1999

 

Checkland, Olive. Humanitarianism and the Emperor’s Japan 1877-1977 (St. Martin’s Press, London) 1994

 

Chi, Madeline. China Diplomacy, 1914-1918 (Harvard University Press, USA) 1970

 

Welles, Benjamin. Sumner Welles: FDR’s Global Strategies (St. Martin’s Press, New York) 1997

 

Röder, Maike. (Ed.) Alle Menschen werden Brüder, Deutsche Kriegsgefangene in Japan 1914-20 (PrintX Kabushikigaisha, Tokyo) 2005

 

冨田弘板東俘虜収容所法政大学出版局1991

 

高橋輝和「米国大使館員による丸亀俘虜収容所調査報告」(岡山大学文学部紀要、第39号)2003

 

Klein, Ulrike. Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920, Ein Sonderfall (Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Dokterwürde der Philosophischen Fakultäten der Albert-Ludwigs-Universität zu Freiburg i. Br.) 1993

 



[1] The Japan Times February 3rd 1915

[2] Rachamimov, Alon. POWs and the Great War: Captivity on the Eastern Front (Berg 2002, New York) p.3

[3] Hobsbawmは、第一次世界大戦を、われわれが20世紀の観念と呼ぶもののはじまりであるとして、それまでの19世紀的な貴族主義の時代と区別して、1914年から1999年までを「短い20世紀」として捉えている。Eric Hobsbawm. The Age of Extremes: The Short Twentieth Century, 1914-1991 (London, Michael Joseph) 1994

[4] バーディックとメースナーによれば、正確な俘虜の人数は4,592人である。Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984, p.128一方、ハンス・ヴァイラントによれば、4,646人である。 Weiland, Hans and Kern, Leopold. In Feindeshand: Die Gefangenschaft im Weltkriege in Einzeldarstellungen Vol II (Vienna) 1931 p.76

[5] Rachamimov, Alon. POWs and the Great War: Captivity on the Eastern Front (Berg 2002, New York) 9

[6] Schmidt, Hans-Jochim and Janson, Karl-Heinz. Von Kutzhof nach China und Japan: Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912 bis 1920  (Vereins Kollertal, Kutzhof 2001) p.27

[7] Weiland, Hans and Kern, Leopold. In Feindeshand: Die Gefangenschaft im Weltkriege in Einzeldarstellungen Vol II (Vienna) 1931 p.77

[8] Rachamimov, Alon. POWs and the Great War: Captivity on the Eastern Front (Berg 2002, New York) p.225

[9] The Japan Times September 9th 1914

[10] Rachamimov, Alon. POWs and the Great War: Captivity on the Eastern Front (Berg 2002, New York) pp.16-19

[11] Audoin-Rouzeau, Stephane and Becker, Annette. Understanding the Great War (Hill and Wang New York) 2002 p.77

[12] 捕虜のための訓示(“Instruktion für die Kriegsgefangenen”)と収容所で適用されたその他の規則については以下の資料を参照。 Befehlsbuch des Barackenlagers Kurume aus der Zeit vom 12. VI. 1915 bis 20. III. 1918.  http://bando.dijtokyo.org/?page=object_detail.php&p_id=257

[13] Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984, p.26

[14] The Japan Times November 20th 1914

[15] ハーグ条約については、以下のホームページを参照。http://www.yale.edu/lawweb/avalon/lawofwar/hague02.htm (Hague II – Laws and Customs of War on Land: 29 July 1899); http://www.yale.edu/lawweb/avalon/lawofwar/hague04.htm (Hague IV- Laws and Customs of War on Land: 18 October 1907)

[16] The Japan Times December 8th 1914

[17] Burdick, Charles. The Japanese Siege of Tsingtao (Avalon Books, Connecticut) 1976 p. 14-15 ブライトンは、海水浴場で知られるイギリス南部の都市。

[18] Meissner, Kurt. Deutsche in Japan 1639-1939: Dreihundert Jahre Arbeit für Wirtland und Vaterland (Deutsche Verlag-Anstalt, Stuttgart/Berlin) 1940 p.101

[19] Kreiner, Josef. (Ed.) Japan und die Mittelmächte im Ersten Weltkrieg und in die zwanziger Jahren (Bovier Verlag Herbert Grundmann, Bonn) 1986 p.15

[20] Nish, Ian. Alliance in Decline: A Study of the Anglo-Japanese Relations 1908-1923 (The Athlone Press UK) 1974 p.135

[21] Dickinson, Frederick R. War and National Reinvention Japan and the Great War, 1914-1919 (Harvard University Press USA, 1999) p.63

[22] Checkland, Olive. Humanitarianism and the Emperor’s Japan 1877-1977 (St. Martin’s Press London) 1994 p.47

[23] Chi, Madeline. China Diplomacy, 1914-1918 (Harvard University Press, USA 1970) p. 134

[24] Krüger, Karl. Von Potsdam nach Tsingtau: Erinnerung an meine Jügendjahre in Uniform 1904-1920 (Books on Demand GmbH Nonderstedt) p. 173

[25] The Japan Times (November 20th 1914)

[26] Klein, Ulrike. Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920, Ein Sonderfall (Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Dokterwürde der Philosophischen Fakultäten der Albert-Ludwigs-Unuversisität zu Freiburg i. Br.) 1993 p.17

[27] Kreiner, Josef. (Ed.) Japan und die Mittelmächte im Ersten Weltkrieg und in die zwanziger Jahren (Bovier Verlag Herbert Grundmann, Bonn) 1986 p.6. ディーデリヒス提督が1897年に膠州湾を占領したことを記念する石碑の銘文の上から、日本側によりこの日付が漢字で刻印されたのである。

[28] Krüger, Karl. Von Potsdam nach Tsingtau: Erinnerung an meine Jügendjahre in Uniform 1904-1920 (Books on Demand GmbH Nonderstedt) p. 176

[29] Weiland, Hans and Kern, Leopold. In Feindeshand: Die Gefangenschaft im Weltkriege in Einzeldarstellungen Vol II (Vienna) 1931 p.88

[30] Ibid, p.80

[31] Ibid, p. 79

[32] The Japan Times January 6th 1916

[33] Schmidt, Hans-Jochim and Janson, Karl-Heinz. Von Kutzhof nach China und Japan: Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912 bis 1920  (Vereins Kollertal, Kutzhof 2001) p. 32

[34] The Japan Times October 7th 1915

[35] Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984, pp.25-48

[36] Welles, Sumner. Report on Prisoner of War Camps in Japan US department of state records 9763.72114/1491 (1916) ウェルズは当時あった10の収容所を訪れている。名古屋、松山、徳島、大分、久留米、静岡、大阪、丸亀、習志野、福岡である。

[37] Welles, Benjamin. Sumner Welles: FDR’s Global Strategies (St. Martin’s Press New York) 1997 p. 46

[38] Krüger, Karl. Von Potsdam nach Tsingtau: Erinnerung an meine Jügendjahre in Uniform 1904-1920 (Books on Demand GmbH Nonderstedt) p. 182

[39] このあたりの情報は、以下の資料による。 Welles Sumner. Report on Prisoner of War Camps in Japan US department of state records 9763.72114/1491 (1916)

[40] Krüger, Karl. Von Potsdam nach Tsingtau: Erinnerung an meine Jügendjahre in Uniform 1904-1920 (Books on Demand GmbH Nonderstedt) p. 199

[41] Rundgang durch das Lager Bando http://bando.dijtokyo.org/?page=theme_detail.php&p_id=3&menu=1

[42] Röder, Maike. (Ed.) Alle Menschen werden Brüder, Deutsche Kriegsgefangene in Japan 1914-20 (PrintX Kabushikigaisha Tokyo) 2005 p.18

[43] Pörzgen, Hermann. Theater ohne Frau Das Bühnenleben der Kriegsgefangenen Deutschen 1914-1920 (Ost-Europa Verlag Königsberg) 1933 p. 55

[44] Führer durch die Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit Kriegsgefangenenlager Bando 1918 http://bando.dijtokyo.org/?page=object_detail.php&p_id=277

[45] Die Baracke Band II p.124-125

[46] 冨田弘板東俘虜収容所」(法政大学出版局)1991 pp. 112-124

[47] The Japan Times June 16th 1915

[48] Ibid. July 28th 1917

[49] Die Baracke Band I p.273

[50] Weiland, Hans and Kern, Leopold. In Feindeshand: Die Gefangenscahft im Weltkriege in Einzeldarstellungen Vol II (Vienna) 1931 p.84

[51] Pörzgen, Hermann. Theater Ohne Frau. Das Bühnenleben der Kriegsgefangen Deutschen 1914-1920 (Ost-Europa Verlag Königsberg) 1933 p. 51

[52] 高橋輝和米国大使館員による丸亀俘虜収容所調査報告」(岡山大学文学部紀要、第39号、2003年)p.122

[53] Die Baracke Band II p.359

[54] The Japan Times September 3rd 1914

[55] Ibid, May 9th 1916

[56] Krüger, Karl. Von Potsdam nach Tsingtau: Erinnerung an meine Jügendjahre in Uniform 1904-1920 (Books on Demand GmbH Nonderstedt) p. 200

[57] Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984, p.98

[58] The Japan Times April 3rd 1919

[59] Die Baracke Band IV (September) p.16

[60] Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984 p. 108

[61] Die Heimfahrt pp. 43-47

[62] Rachamimov, Alon. POWs and the Great War: Captivity on the Eastern Front (Berg 2002, New York) p. 228

[63] Ibid. p.6

[64] Burdick, Charles and Moessner, Ursula. The German Prisoners of War in Japan, 1914-1920 (University Press of America, New York) 1984, p. 78

[65] Weiland, Hans and Kern, Leopold. In Feindeshand: Die Gefangenschaft im Weltkriege in Einzeldarstellungen Vol II (Vienna) 1931 p.82