ドイツ兵の誇り
―俘虜を支えた „das Deutsche“(ドイツ的なもの)とは
田村一郎
はじめに
北海道に帰って3年目になり、ようやく専門の哲学に集中できるようになった。さしあたりの課題は、10年以上前に「上巻」を出したままになっている本の「下巻」を完成することである。『十八世紀ドイツ思想と「秘儀結社」』というやや大仰なタイトルなのだが、ことに「上巻」ではカント、フィヒテと、その頃のドイツで大きな影響力を持っていたフリーメースンリーとのかかわりなどを中心にまとめてみた。引き続いてシェリング、ヘーゲルなどについてもそうした関連から考えていたが、もう少し広い視点が必要のようにも思えてきた。こうしたとき、たまたま「ドイツ神秘主義」の開祖であるエックハルトにつながる研究にふれ目を開かれた。
エックハルトとは、13世紀から14世紀のドイツで民衆善導のためにドイツ語での「説教」を広めた人である。やや専門的になって恐縮だが、次章で述べるとおり意図に反してその活動は教権的な体制にこだわる法王庁から「異端」と判定され歴史から抹殺される。しかし地に付いたその教えは深くドイツに根をおろし、ルターを宗教改革に導く一つの重要な契機ともなっていく。1)
こうしたエックハルトの意味などを追っているうちに、ヘーゲルが強調した「ドイツ的自由」などとの関連が気になってきた。2) ローマのゲルマン地域司令官だったタキトスが、『ゲルマーニア』(岩波文庫)と呼ばれている報告を残している。ゲルマン人の特性などを説きいかにこの地域の統治がむずかしいかを述べたものだが、ことに印象的なのは彼らがみずからの自由を重んじ、上からの支配に服したがらなかったという指摘である。ヘーゲルはこうした伝統を「ドイツ的自由」と呼び、それが一部の権力者の特権の支えに成り下がってしまったことを嘆き、本来の姿の復権を求めている。
改めて考えさせられたのは、こうした気風と板東などに見られたドイツ兵の誇りに満ちた俘虜生活とのかかわりである。今回はこうした視点から、目に付いた範囲で『ディ・バラッケ』(以下『バラッケ』と略記)の記述を吟味してみたい。
一.ドイツ語の統一とドイツ人意識の高揚
先ほどエックハルトがドイツ語で民衆に「説教」をしたと述べたが、もちろん中世のキリスト教世界での公用語はラテン語である。「カトリック」という言葉が普遍的という意味を持っていることからも明らかなとおり、少なくともヨーロッパの神学者の間では民族・国境を越えた交流が必要だった。そのためには共通語が不可欠であり、ドイツに生まれながらパリ大学の教壇にも立ったエックハルトは、もちろんラテン語で講じ論じた。しかし問題はいかにして民衆に語りかけるかである。中世のヨーロッパでは、それぞれの修道会が修道院を中心に修業に励むことが多かった。しかし後期になるとエックハルトの属するドミニコ会と、アッシジのフランシスに始まるフランシスコ会が主導するようになる。修道院中心のやや自閉的な信仰の追及に替わって、民衆への布教が重視されるようになるからである。
ことにドイツ圏では、ドミニコ会が軸になって神学的研究と民衆への布教の両立が図られた。布教が重視された最大の理由は、ケルンを中心に神秘主義的な独自の信仰が広まっていたからである。もともと北方ドイツ人は原始以来の自然信仰を受け継ぎ、それだけに神秘的なものへの畏敬の念が強いといわれる。ゲ−テの『ファウスト』の「ヴァルプルギスの夜」などがその典型だが、魔女が箒に乗って飛び回る世界が信じられていたのだ。このような民間信仰と混在したキリスト教の拡大は、法王庁からみれば「異端」の巣窟だった。その浄化に務めたのがドミニコ会であり、その責任者の一人エックハルトだったのである。そのために彼はみずから民衆の生活の中に入っていき、ドイツ語で人々に語りかけた。それが「ドイツ語説教」である。しかしその真摯な布教活動は民衆との距離を狭めれば狭めるほど、教権との距離を広げることになった。人々の求めている神は、法王庁で寝くたれている大御所たちのキリスト様とあまりに隔たっていたのである。一つだけ例をあげておくと、エックハルトは神と信者は一体であり、真の信仰に目覚めた者はイエスと同じ「神の子」であると説いた。いわゆる「神人同一説」である。教権から見れば明らかにこの説は、神と人、聖職者と信者を厳しく区別しランク付けするカトリックの基本教義を損なう主張だった。こうして民衆の生活と心に接して真のキリスト教を植え付けようとするエックハルトの努力は、成果を挙げれば挙げるほど批判の渦を巻き起こすことになった。エックハルトの没後、弟子のタウラーやゾイゼは「異端」との批判に耐えながら、師の教えの本質を伝えようと努める。その一つの成果が、若きルターのエックハルトへの傾倒であり、聖書の独訳である。
現在のドイツ語は「新高ドイツ語(Neuhochdeutsch 略して ndh)」と呼ばれている。古くからの高地ドイツ語に代わって15世紀頃に生まれたという。ハイネはフランス人向けに『ドイツにおける宗教と哲学の歴史』(邦訳『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫))という面白い本を書いているが、そこでルターがなぜ聖書のドイツ語訳を作り、それがいかにドイツ人にとって貴重なものだったかを説いている。ルターの宗教改革の基本精神は、「信仰のみ」と「聖書のみ」である。真の信仰は、上から与えられるものではなくみずから克ち取らなくてはならない。こうした信念からルターは、信者がみずからの意志によって信仰を身につけることを求める。そのために不可欠なのは、信者がみずからの目と心で聖書を読み解くことである。それまでは聖書はラテン語訳が使われていた。したがってラテン語の判らない一般の人々は、神の教えを聖職者の説教を介して学ぶしかなかった。少なくともルターは、ドイツ人にみずからの言葉で聖書を読む道を開いたのである。こうした信念に燃えたルターは、エックハルトなどのドイツ語説教を集めた『ドイツ神学』に傾倒し、みずから序文を付けて2度にわたってそれを刊行している。その後「新教」が市民権を得るにつれてルターは権力との癒着を強め、エックハルトらの教えとも遠ざかっていくがその詳細は省く。ルターが、いかに「ドイツ的なもの」を深め広めることに貢献したかは後にふれたい。
しかしこうしたエックハルトやルターの努力を経ても、学問の分野でドイツ語が定着するには時間がかかった。近世ヨーロッパにおいてデカルトとともに高い評価を受けたライブニッツ(最近は「ライプニッツ」はこう呼ばれることが多い)は、ラテン語とフランス語しか用いなかったが、その後を継いだヴォルフは後半のすべての著作を『 〜 の合理的考察』と題し、ドイツ語で刊行した。それに続くカントも、ごく初期のものを除くとドイツ語を用い、その後の哲学者もそれにならいドイツ哲学は高揚期を迎えた。レッシング、ゲーテらとそれに続くロマン派の活躍によって、ドイツ文学もヨーロッパでの評価を高めることになった。
日本でも明治15年頃から太平洋戦争の終結までドイツとドイツ語の影響が強かったが、それはドイツ・ドイツ語自体の力というよりも、自由民権運動への対抗などの日本側の政治事情が背景をなしている。このことは何度かほかの箇所でもふれたので省く。
二.「ドイツ的」とは
もちろんドイツ語の普及につれて、「ドイツ的なもの」の見直しが行われていく。エックハルトの説教が民衆に浸透するためには、たんに日常語への接近が図られるだけでなく、ドイツ人の心情に訴えるものにならなければならなかった。ヘーゲルはエックハルトを「思索(Spekulation)の英雄」と讃え、3) ハイデガーも「思索(Denken)のこの巨匠」と呼んでいる。4) ともにエックハルトの主張のスコラ学者の枠を超えた近代的な論理の厳しさを評価したものだろうが、それも民衆に吸収されるためには彼らの受け入れやすい「ドイツ的なもの」を加味しなければならなかった。それは何だったのだろう。民衆は何よりも「神秘的」な彩りを求めたのではなかろうか。エックハルトの「ラテン語説教」の厳密さは、学者の間での論議に耐えるためのものである。しかし「ドイツ語説教」は、民衆の理解を促すものでなければならない。この2種の「説教」の隔たりはその目的の相違によるのだろうが、エックハルトが「神秘的なもの」を重んじたことの中に、たんなる民衆への配慮ばかりでない、エックハルト自身のドイツ人としての資質を読み取ることもできよう。それなしにエックハルトは、「ドイツ神秘主義」の開祖となることができなかったのであろう。
エックハルトについてもう一つだけふれておきたいのは、その思想がナチスによって悪用されたことである。ヒトラーを補佐しゲルマン至上主義を鼓吹したローゼンベルクは、爆発的な広がりをみせたその主著『二十世紀の神話』(1930)で、ドイツ人に神秘的魂の大事さを呼び起こした先立としてエックハルトを思い起こさせた。詳しく述べる余裕はないがこれはまったくの我田引水で、エックハルトが主張したかったのはそうした国粋的・民族主義的なドイツ人の優秀さではない。これまでも述べたとおり、エックハルトがドイツ語で語ったのはみずからの主張を民衆の理解できる言葉で伝えたかったからであり、その神秘的志向に訴えたのもそれがみずからの信仰を伝えるのにより効果的と考えたからである。彼がめざしていたのはまったく逆の、まさに普遍としてのカトリックだったのである。
先にあげた本の中でハイネは、ルターを「もっともドイツ的な人物」としている。そこでは硬と軟、表と裏、長所と短所が一体化になっているからという。ルターは一切を取り仕切る行動的な実際家であると同時に、夢見る神秘主義者だった。文字にこだわる厳密な学者であると同時に、感激し神に酔う予言者でもあった。ルターは現実を楽しむ感覚主義者であると同時に、魂を敬う心霊主義者でもあったという。ハイネはこうしたルターに、ドイツの民間信仰の汎神論的世界観の反映を見ている。「ルターは神意によって生まれたすべての男に見られる根本的なもの、理解できないもの、奇跡的なものを、つまりすさまじく素朴なもの、ぶこつなかしこさ、けだかいおろかしさ、おさえきれない悪魔的なものをそなえていた」とみるのである。ハイネはまたルターを、「わがドイツのもっともけだかい宝」を守った人と讃える。その「宝」とは魂を敬う心霊主義であり、民間信仰を育んできた土着的要素であり、さらに神学・信仰の世界でも生き続けなければならない理性の力の復権である。ヴォルムスの国会で、自説の撤回を迫られたルターは叫んだという。「聖書の中の言葉か、道理に適った理由によって私の説に反対せよ」と。みずからの正しさを理性によって証明する、それは思索の力を証明することである。ハイネはこうした合理性の徹底に、ドイツ人の特性のもっとも重要なものの一つを求める。学者としてのエックハルトが追い求めたのも、まさにそれだった。エックハルトは一人の誠実なドミニコ会士としてカトリックの壁に立ち向かった。ルターも真のカトリックに徹することで、アンチ・カトリックの立場としてのプロテスタントを生み出すことになった。それはユダヤ教徒イエスが、その教えに徹することで新たな信仰に踏み切ったのと同じ道である。
こうしてルター以後、信仰についても自由にドイツ語で語ることが可能となった。このように「精神の自由」が「思想の自由」として認められるようになったことで、「世界的に重要な花」であるドイツ哲学が咲き出ることができたとハイネはまとめている。
もう一人紹介しておきたいのはトーマス・マンである。マンに「ドイツとドイツ人」(1945―岩波文庫)という講演がある。重要なのはそれがドイツ敗戦のわずか3週間後に、しかもナチスに追われ国籍を取得していたアメリカで行われていることである。マンは第一次大戦の頃は戦争支持だった。しかしロマン・ロランや兄ハインリッヒからの批判を契機に『非政治的人間の考察』(1918)を書き続け、自分が求めていたドイツ性・ドイツ的なものと、みずからの作家としてのあり方への反省を繰り返す。それらをふまえてのものとして読むと、この講演はいっそう興味をそそられる。まずマンは、アメリカ人である自分を世界市民(コスモポリタン)と位置づける。そして実はこれこそがドイツ人の天性でありながら、世界に対する臆病さと内気さもドイツ人の天性の一部をなしていると告白する。「この非世俗的で田舎者的なドイツの世界市民性には、いつも何か奇矯で薄気味の悪いもの、秘密めいた不気味なもの、ひそかな悪霊のような何かが付着している」と言い切る。マンはファウストを例に引きながら、ドイツ人の精神の「音楽性」、つまり抽象的で神秘的なその「内面性」の特異さから、思弁的要素と社会的政治的要素との分裂と前者の決定的優位が生じたとする。その典型とされるのはまたもルターである。マンは聖書の翻訳によってドイツ語を完成させたルターに偉大さを認めながらも、ドイツ的内面性と非世俗性に裏付けられたその反政治的敬虔さがドイツ人の政治的未成熟を生み出し、国家をはじめとする権力への盲従を育てたとみなす。こうした風潮の中でナチスは、「ドイツの解放者」として台頭することができたとみるのである。ここには1871年まで小国分立を続け、他の先進ヨーロッパ諸国のような国家統一を成しとげられなかった「ドイツの悲劇」が投影している。そこに「ドイツ的自由」の不幸の一つの根源があり、それは先進ヨーロッパ諸国に反抗しその文化に対抗する外向けの理念・理想としては機能しえても、国粋的反ヨーロッパ的なものに留まり、自由の真の基盤である国内を統一し国民を統合するようなエネルギーとはなりえなかったのである。そこにマンは、精神的自由と政治的自由を分離するルター的二元論の投影をみる。「ドイツ人はいつも来るのが遅すぎました。.....抽象的で神秘的です。.....彼らがその犯罪を犯したのは世間知らずの理想主義のゆえなのだ、と申し上げたいところです」。マンはいつも最後にしか世界の状態を表現することのできない「音楽の遅さ」を、くり返し「内面性」の重視というドイツ人の特性として強調する。ヘーゲルやニーチェなどを含む広義の「ドイツロマン派」の積極的意義とマイナス面にもふれながら、ドイツ人にナチス体験を噛み締め世界に対する内気さの欠陥を克服することを望む。人類の理想である世界市民主義がもともとドイツ人の理想なり目標でもあったことを強調し、その実現へのドイツ人の貢献を願ってマンは講演を閉じている。
以上ドイツ人の特性についての3つの理解を追ってきたが、共通しているのはドイツ人が厳密な論理性、合理性への強い志向を持つと同時に、叙情性と神秘性への志向を併せ持っているとの指摘であり、しかも両者の間に矛盾に満ちたやや危うげな調和が保たれていることである。これは例えば英仏独の「啓蒙」理解にはっきり現れているが、ともにそれを近代化の指標とし「光」を表す言葉で表現しながら微妙な差異を生んでくる。Enlightenment を用いるイギリスでは現実的な慣習や経験の積み上げが重んじられ、いわゆる経験論が主導する。Lumièresを用いるフランスでも良識など現実的要因が重視されるが、ことに人間の感性が重視されいわば感覚論的性格が強い。ドイツ語の
Aufklärung はもともと闇に明りがさすことを意味し、その明りのシンボルが太陽なり理性なのだが、現実との隔たりという闇を引きずっているだけに理想的・観念的性格が強い。Idealismus が観念論とも理想主義とも訳されるのはそのためである。長くなったが、これらをふまえながら『バラッケ』の分析に取りかかろう。
三. ドイツ兵の求めたもの
1917年9月30日から1918年3月30日までの『バラッケ』は、半年ごとに3巻にまとめられている。「第1巻」から始めよう。まず注目されるのは「創刊の辞」だが、そこでは所内で新聞を出す意義を次のようにまとめている(以下、訳とページは鳴門市刊行の『ディ・バラッケ』による)。この新聞は何よりも、「有刺鉄線の内側の感動的出来事についての折に触れての発言の場所として、記憶する価値のあると思われるものを記録する場」を提供するものでなければならない。それは、「自分たちが錆び付くのを防ぐ」ことであり、「ドイツの未来のうち、板東の俘虜であるわれわれが責任を負っている小さな一部に貢献する」ことでもあるからである(第1巻第1号10ページ。以下I−1−10と記す)。
それは、収容所という閉ざされた社会での生活の重さをいかにして乗り切り、周囲と調和していくかという努力の過程でもある。所内の同人誌「ストーブス人」は次のように述べている。「つまり完全な自己のうちへの引きこもりは、強いられた共生と全く同じように自己の本性に反するのである。そのため人々は次第に自然に、自分の同僚をより穏やかに評価するようになる。全体としての種族(ドイツ民族―筆者注)に以前ほどの評価を与えなくてよいことを学んだので、個々の人間の小さな長所をより高く評価し、本当に価値のあるものを無価値なものから明確に区別するようになる。この屈辱を乗り越えたとき人々は、あらゆる苦痛を伴う俘虜体験から、他の人々にはおそらく与えられない終了証書を得たことを悟る」(I−19−254)。 この記事は他誌からの転載だが、新聞は俘虜生活を通しての人間的成長の記録でもあり、その必要を理解しあう場でもあったのである。
こうしたたがいの理解とドイツ兵としての誇りが大きく花開いたのが、1917年3月の「美術工芸展覧会」である。『バラッケ』はその意義を高らかに述べている。「はっきりしているのは、このような展覧会は催すことそれ自体が大事なのではなく、結局はより高い目的のために役立つことにある。ドイツ人の働く能力と徹底性が長年の俘虜生活の中でも何を発揮できるのかを、展覧会は注意深い観衆に示さなければならない。収容所においてもすべてを創造の歓び変える可能性があることを、華やいでいる(または浮かれている)周囲の人々の中に一致して見出すこと。このことが仲間のすべてにとって、これからも続く捕らわれの時間をどれだけ新鮮にし活気づけてくれることか。この点にこそ、われわれすべてにとっての展覧会の本来の価値があるのである」(I−24−312f.)。 そのシンボルが、あちこちに張られたポスターである。そこには当時のドイツ帝国の旗だった「黒・赤・白」が、誇らしげに3つの花輪で表現されている。なお現在のドイツ国旗は、ご存知のとおり「白」が「金」に改められている。
もう一つ「第1巻」で気になるのは、最後の「基本的なこと」である。15人の仲間から署名入りの投稿があったらしい。その内容は判らないが、編集部はそれを「まったく片寄った政治記事」とみなし掲載を拒否した。個人攻撃にわたる内容が含まれていたこともその理由らしい。この処置への公の「抗議」はなかったようだが、気になるのはこの記事の最後の一文である。「編集部が断固として支持し、すべての方々が賛成してくれると確信している唯一の政治原則は、『ドイツ、それに優るものはなし』だけある」(I−26−352)。当時のドイツ兵にとって、“Deutschland, über alles“ は、日本の「天皇陛下万歳」以上に強い結束の絆だったのである。所内でも皇帝の誕生日にグループごとのお祝いの会が開かれているが、皇帝がそうした扱いを受けたのもまさにこうした標語のシンボルとしてだったのだろう。この当時としてやむをえなかったのだろうが、ここにマンが強調しているドイツ的内面性の「自己中心的な抗議」本能や「戦闘的な奴隷根性」の顕著な事例を見ることができる。ちなみにハイドンに由来するドイツ国歌は戦前と同じく現在も歌われているが、「ドイツ、それにまさるものはなし」の箇所はカットされている。
今回は「第2巻」「第3巻」は省き、敗戦を踏まえた「第4巻」に進む。この巻には1919年4月から月刊で出されるようになった9月号までの6冊と、故国への船中で6号まで刊行された『帰国航』が含まれている。この巻の論文は、戦争への反省や俘虜生活への回顧、それとこれからのドイツをどう立て直していくかを扱ったものが多い。
松山の『陣営の火』と板東の『バラッケ』をともに助け合って支えてきたマルティーン中尉とゾルガー少尉が、論文と詩を寄せている。まずマルティーン中尉であるが、「ドイツ軍の再建」(4月号)と「世界大戦を振り返って」(7月号)というかなり長文の2編を書いている。「ドイツ軍の再建」はヴェルサイユ条約を前にして、在郷軍人中心・スイス式の国民中心・募集された職業軍人中心の3つの方向から再建の可能性を論じたものである。条約では徴兵制が廃止され、兵員は陸軍10万・海軍16,500に削減され、航空機・潜水艦は保有できないことになるが、一つの軍人としての見識を示すものといえよう。より興味深いのは後者である。
マルティーンは、冒頭『戦争論』(1833)で有名なクラウゼヴィッツの言葉を引用する。「諸君は、自分の運命に絶望してはならない。つまり『自分自身を敬え』ということだ」。「自分自身を敬う」、自負を持つことを支えとして、敗戦の痛手から立ち直り国家の再建に向かおうというのである。そのためにも、みずからの力と希望の泉をよりすばらしい未来に流れ込むようにしなければならない。希望を持てない人間は生きることも戦うこともできず、目標を持つこともできない。自負と自覚を持ち、希望を持って働くことによってだけドイツ人は、クラウゼヴィッツの言うような意味でみずからを尊敬することができるのだ、とマルティーンは仲間を鼓舞する。
マルティーンは冷静にドイツの敗因を探ろうとする。戦前のドイツは確かに経済的・技術的には高揚していた。しかし、精神的には衰退期にあったとマルティーンは見る。エゴイズムと私欲と見せかけが尊重され、仕事嫌いと享楽が蔓延し、古くからの伝統が軽視され、ひ弱になり信仰も失った人々は国民と祖国に頼ろうとした。しかしドイツ帝国は何の中身もなく、組織的にもすっかり蝕まれていた。確かに開戦当時は愛国心が高まり、国民が結束したように見えた。しかし為政者は、何の支えとなる理念もめざすべき目標も指し示すことができなかった。
そうした中で東部戦線と西部戦線の二極化が進められ、マルヌ戦の敗北を機に西部戦線の長期化が生じた。補給体制の不備、オーストリア・ハンガリーの崩壊、さらに国内での水兵の反乱などが相次ぐ、アメリカの参戦で戦線は決定的な痛手を蒙った。若者を中心にドイツ軍の士気は急激に弱まった。マルティーンは、統率者と国民が一致して共通の目標をめざすという精神と意志を欠いていたのが、敗戦の決定的要因と結論付けている。
では、ドイツ人を肉体的・精神的に立て直す道はあるのか。マルティーンはここでも、クラウゼヴィッツの言葉に立ちかえることをくり返す。「自分を敬う」ことを取り戻すことによって、みずからの運命に打ち克とうと訴えるのである。マルティーンは、フレクスという人の詩で締めくくっている。
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尋ねるな!問いを捨て去れ!
必要なのは、信ずること、信ずること、信ずることだ
ドイツは、われわれの死後も生き続けるのだ
ドイツ人らしくやや観念的・精神主義的だが、軍人らしい真摯な総括である。
ゾルガーの「別れの挨拶」は後に回し、敗戦をいかに引き受けるかを率直に述べた「新しいドイツ」(4月号)を紹介しよう。
ヴァッカー二等海兵は、敗戦を機に祖先から受け継いできた古いものが後退し、それに代わって登場してきた「新しいもの」、つまりボルシェヴィズムなどさまざまな政治観・社会観などに戸惑う。これにどうかかわりどう生きていくか。彼は4つの問いを発し答える。「何をしなければならないか」、「再建」である。「何を求めるのか」、「どのドイツ人にとっても祖国であるようなドイツ」をである。「それをどう達成するのか」、「正義によって」である。「どのようにしたら正義に行き着けるのか」、「心根を変えることによって」である。
まず「国家」は、これまでのように自己目的であってはならず、国民によってだけ生きるものでなければならない。戦争は、下から上へという力によって終結へと導かれた。新しいドイツも働く民衆の幅広い層に支えられなければならず、政治観にかかわらず誰もが全体に対する責任感を持てるようなドイツにしなければならない。戦前のほとんどの民衆は政治の動きに無関心だったが、ドイツ人のすべてが帝国の損失を個々人の屈辱とし、自分自身の利害と権利への侵害として感じとれるようにならなければならない。しかしそのためにも必要なのはたんなる国粋的な一体感ではなく、何が自分自身にとっても国民全体にとっても真の利益なのかを判断できる力量を身につけることである。ヴァッカーは、そうした国民教育の模範をアメリカやイギリスに見ている。
新しいドイツでは、冨の分配が公正に行われるようにならなければならない。そうした体制は国家によっても補償されなければならず、広い視野から「より大きなリスクは、より確実により大きな利益を生み出す」という原則が生かされなければならない。
「働くことは恥ではなく、ひとを高貴にする」をモットーとして、すべてのドイツ人が尊敬しあえるような社会を作っていかなければならない。めざすべきなのは「社会的な正義による国民の再生」である。われわれがしなければならないのは自分自身が落ち込ませた車をぬかるみから引き出し、子孫が働き続けることができるように、新しいドイツに向けてもう一度レールを敷き動かせるようにすることだ、とヴァッカーは結んでいる。
こうした健全なドイツ庶民の前向きの意識を、ナチスの支配にまでゆがめたのは何だったのだろう。
このほか「ドイツ人の本質」(4月号)、「野蛮人ドイツ人とその他の野蛮人について」(7月号)などアイロニカルなユーモアを交えてドイツ人を描いた面白い記述もある。あまり知られていないが、主としてイギリスの策動で中国の地を追われることになったドイツ人の苦渋を描いた「敗者の悲哀」(4月号)なども貴重な記録である。『帰国航』の「自由に向かって!」(第6号)、「帰国への思い」( 〃 )なども大事な証言だが、これらはまたの機会に取り上げたい。
最後に「終刊の辞」(9月号)を取り上げておこう。そこではます謄写版と鉄筆で2年間書き連ねられてきた『ディ・バラッケ』が2,700ページにも達し、発行部数も他収容所の購読を含めて330部にも及んだことが報告されている。そうした中でもちろん編集者には不満も残る。ことに編集スタッフが固定してしまい新鮮な血が通わなかったこと、イギリスやフランスの場合のように前線との交流を活かせず、故国とのつながりが薄れがちだったことが嘆かれている。さらに収容所当局の検閲と自己検閲という二重の検閲が、一定のネックになったことも述べられている。
しかしこうした不満はあるにしても彼ら編集者は、この新聞が俘虜仲間を絶えず襲ってくる「灰色の幽霊」、つまり感覚の鈍磨・精神的荒廃・収容所内外の自分以外の事柄への関心の喪失などという「幽霊」との戦いで、一定の役割を果たせたことを誇っている。同時にそうした流れに立ち向かおうとする気負いが、必要以上に自主規制を促したのではとの反省もしている。
控えめの「終刊の辞」だがわれわれ研究者としては、こうした謙虚な姿勢と計り知れない情熱がこうした大部の計り知れない資料を残してくれたことに心から感謝したい。
その偉大な編集者の一人であるゾルガーの詩「別れの挨拶」(『帰国航』第1号)で、本稿を締めくくろう。
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新たな嵐がわれわれの心に衝撃を与えるであろう
なおも夜は続く、新しく夜が明けるまで
だが、われわれの旧き帝国の欠片から
きっと新しく帝国が建設される
われわれもそこに加わり、働かなければならない
もしも運命がわれわれにまた居場所を与え
それぞれに働く場を選んでくれるなら
われわれの心をひとつにするのは力強い祖国という目標
だが、もしわれわれが再会するとしても、同志よ!
有刺鉄線がわれわれをひとつにすることは、もうなかなかないだろう
板東にて、1919年12月22日 E.ゾルガー
(続く)