三人のボーネル兄弟の日本

牧師館の子Hermann Bohner (2)

                                          井上 純一(立命館大学)

Japan von drei Bohner-Brüdern

“Das Kind des Pfarrhauses“, Hermann Bohner (2)

                             

1 ボーネルの日本(1)

 

大阪外国語学校へ

19221111日午前11時に創立の式典をあげた大阪外国語学校のドイツ語部講師として、かつての板東俘虜収容所のHermann Bohner以下日本語表記でボーネル[1]は、日本での教育研究活動を始めた。そして太平洋戦争末期の教育が著しく困難になった時期を除いて、ほぼ40年の間、途切れることなく学生への熱心なドイツ語授業と日本学の研究に携わることになった。

この1111日午前11時という時間は、大阪外国語学校にも、また恐らくはボーネルにとっても意味のあるものであった。それは1918年のこの時間に、欧州でのすべての戦闘行為が終結し、平和を迎えた時間であったからである。

ボーネルがチンタオ戦に応召し、俘虜として板東の収容所に収容されたことが、思いもかけずに彼を生涯日本に結びつけることになった。それは、敗戦後のドイツ経済の悪化による伝道団の財政逼迫と東アジアでなお活動をしたいという気持ちとの結節点に、この学校の初代校長中目 覚(なかのめあきら)の誘いがなったからである。

EX ORIENTE LUX ET PAX(光と平和は東より)のバッジをつけたこの新設学校への招聘は、自分の進むべき道が照らしだされる思いをボーネルはもった。教会の伝道師ではないけれども、教育の伝道師として東と西の文化の懸け橋を、この学校で築き上げようと決意したのであった。在職中1929年と1937年の短い休暇でドイツに戻った以外、彼は生涯、大阪の地でドイツ語教育と日本の「精神」を理解し、それをドイツへ伝えることに傾注した。日本「精神」の研究は、他の追随をゆるさない日本学の「大家」の一人に彼をすることになるが、同時にその研究は、激しい時代の変化の波に洗われることにもなる。

 

効果的な語学授業への取り組み

4日、一日4時間の講義を始めたボーネルが、まず取り組まねばならなかったことは、日本人に「効果的」に語学授業をすることであった。当時学校には教育方法学を積んだ日本人教員も外国人講師もいなかった。けれども幸いなことにフランス語の同僚として教育方法に強い関心をもっていたルイ・マルシャン(Louis Marchand)が招聘されていた。ルイ・マルシャンは後に関西日仏会館の第三代館長に就いているが、招聘される以前、彼はフランスの学校でドイツ語教師として、10年間にわたって生活に密着した生きた語学授業に取り組んできていたのである。マルシャンとの連携によって、生きた語学授業を方法として採用することとし、さらに校長に対して英語を強調しすぎる弊害についても進言したという[2]

そのためボーネルは授業の素材にできるだけ生きた言葉を使い、学生のドイツへの関心を強めるために、単にテキストばかりでなく、大使館をはじめドイツ東洋文化研究協会(OAG)[3]など在日ドイツ施設から借り出した映画や最新のドイツの資料を示しながら、また大阪や神戸の港についたドイツ船へ学生を訪問させたり、レコードでドイツリートを聴かせる工夫を重ねた。作成した語彙集には、通信社や書籍に出てくる「新語」を常に意識的に取り込み、それを教えた。

それは「言語は日本では何よりも外の世界への橋であり、言語は内容、事物を自分のものにする手段」[4]だからであった。これらの努力は今では珍しいことではないが、当時ではきわめて「モダン」であった。そのようにして編んだボーネルの教科書は、日本政府が語学教育改革のために招聘したロンドン大学の言語教育学者パーマー(Harold Palmer)[5]から、当時出版されているドイツ語教科書のなかで最良のものであると評価を受けたと、彼は書き残している[6]

 

会話のテキストを作る

ボーネルは授業としてドイツ語会話、ドイツ文学、ドイツ史それにラテン語を講義しているが、ボーネル「先生」らしさをとりわけ印象深く学生たちに残したのは、その会話の時間であった。ボーネルは学生たちに手書きで編んだ『Einleitung zum Deutsch-Sprechen[7]を使って会話の授業をしているが、その序文には日本語で次のように書いている。少し長いがボーネル「先生」らしさが表れているので引用しておく。

 

この冊子の計画と意図はドイツ語会話の手引きにあります。文法のあらゆる詳細を教えたり、総括的に語彙を練習したりすることが目的なのではありません。無数の日本の学生諸君は外国語で一万もの単語を学ばれるでしょう。それは読んだり、理解したりするには大変良いことです。しかしテニスや野球について千冊も読み、詳しく研究しても、実際にはテニスはやれないでしょう。実際には一寸のコツにすぎないのですが百度、千度とボールを打ち、投げ、掴むうちに上手になるわけです。言葉の話し方におけるは、スポーツにおけるごとしです。それゆえまず次のようにすることです。

§1 くりかえせ! 50回とはいわず、100回といわず、くりかえすのをいとわぬこと。西洋では話されている外国語を研究するとき、50回も一つ一つ文を大声でくりかえせとおそわります。毎年10万をこえる新しい人々がこうしてドイツで今日話されている外国語を習得します。・・・

§2 変形せよ! 何度でも何度でも変形するのをいとわぬこと。そのためこの冊子では1020、いやそれ以上の単語からなる型をあげました。「わかりきっている。」なんて考えてはいけません。諸君の口と、口に通じている運動神経はわかっていません。運動神経は訓練されねばなりません。それは訓練によってめざめるのです。例文で伯父という語の代わりに・・・兄弟、従兄、甥、姉妹、伯母、姪、加藤さんを入れてみなさい。そして無数のそのほかの名前を常に同一文を変形しつつ入れてください。

§3 時間の言葉を入れよ! このように変形された文を、いつも時間(空間)の規程詞で拡大してみなさい。そしてその文を何回も言ってみては、また別の時間規程をいれなさい。

§4 短文をつくれ! たくさん長いむずかしい文章を読んだのだから長い文章を話せるなどと考えてはいけません。会話の初歩ではほとんどだれも長い文を流暢にしゃべれません。

§5 口ごもらずに話せ! 文章を全く停滞することなしに止まらずにすらすらといえるまで、長く頻繁に練習しなさい。にわとりのようにコツコツとつまらないことです。・・・

§6 副文章はしゃべりにくい! 副文つきの主文の勉強は、会話のかなり高い段階でのことです。第一段を相当進めば、まず副文だけはなして学びなさい。・・・

§7 第3段。かなり進歩してから自由に限られたテーマについて一定の限られた語彙を使って話してください。例えば親族、家族、日程、旅行、天候、スポーツ、音楽、身体、飲物、国・言葉、鉱物、材料、職業、道具、部屋、故郷・・・などです。自由に話していただくために二・三の例を添えましたが文字通り訳して覚えるためでなく、自由に模倣するためのものです。

 

ボーネルの教材は@単語が並び、その下にA例文が書かれ、それからB文の変形がはじまる。これをキャッチボールのように繰り返して、テーマごとに構成されている。「反復と実践」を学生たちが厭わずおこなうことをボーネルは求め、学生たちに繰り返し質問し、学生たちが明瞭に話すように指導した。自信なげにぼそぼそと答えると、あるいは質問されても発言がないと「あなたは声をださずにしゃべった」とか「諸君たちは仏様のようだ」と言われたことが当時の学生たちの記憶には残っている。

 

日本での生活が始まる

ボーネルは当初、大阪外国語学校だけで授業をおこなえば良いと思っていたが、就任後まもなく「校長が私の意向に関係なく大阪高等商業学校(現大阪市立大学)でドイツ語を教えることを斡旋した」[8]のにつづいて、浪速高等学校(現大阪大学)でも唯一のドイツ人教師として授業をもつことにもなった。ボーネルの新しい教師生活が始まった。ドイツ語をボーネルが日本人学生に教えるということは、彼には日本文化を学ぶということを意味していた。だから彼は多くの学生に接することができるのを喜んだ。

こうしてボーネルは、ハンナ夫人とともに新しい生活を日本で開始した[9]。新設の大阪外国語学校には、まだ外国人官舎がなかったので、夫妻の新生活は、芦屋の借家から始まった。家賃は月100円。高等官の当時の初任給が月額75円であったことから考えると、相当な額であった。日本で西欧風の生活水準を確保するため外国人教師の給料は高額であったので、家賃補助もあり経済的負担は苦にならなかった[10]。大阪天王寺区の学校までは、通勤に当時、阪神電車と市電で1時間半を要した点を除けば、夫妻にとっては、日本での生活を始めるにあたっての最初の土地としては、芦屋は気にいっていた。というのも芦屋にはドイツ人をはじめ多くのヨーロッパ人が住んでおり、欧風の生活に必要な品物も手に入りやすく、親しくなった近くのドイツ人やオランダ人と「外国人クラブ」などを結成して交流できたからである。

だが通勤時間のことを考えて、夫妻は1925年には出来上がった大阪の住吉区住吉町の新築洋風官舎に引っ越した。その後35年には阪急沿線の西宮北口(西宮市)に居を移し、戦後は再び大阪の住吉区の姫松に住まった。

 

中国との決別

しだいに日本研究へと打ち込んでいくことになるが、日本へやってきたばかりのボーネルにとっては、まだ中国への「想い」は打ち消しがたかった。

しかも俘虜収容所で日本語をクルト・マイスナー(Kurt Meissner)の手引きをうけながら習得したとはいえ、彼の関心は中国にあったので、本格的な日本語習得や、まして日本研究に向かうには、なお十分ではなかった。休暇になると数年に一度、夫妻は北京に滞在しながら中国国内や朝鮮半島への旅にでた。それはほぼ30年代初めまで続いていた。ある時は江西省盧山に足を向け、また漢口(現在の武漢の一部)から湖南省の長沙への旅をした。

ある年(筆者の推測では1933年)、ボーネルは船で長江からミン江を遡上し四川省へと旅をした。その船には「新生活運動」のリーダースキャンプの参加者が乗り合わせていた。彼らはボーネルをつかまえると、取り囲んでドイツについての質問を投げかけてきた。そのうち船上キャンプの夕べの催しの中で「新しいドイツ」、「青年運動と民族運動」についての話をするよう請われた。

講演と聴衆とのやり取り、合唱や朗読や演劇を観ているうちに、ボーネルは四川省の彼らの脈拍が伝わってくる感じを持ったという。そのとき彼に湧き起こった感情は、日本と中国は違いがあるにもかかわらず、なんと互いに強い結びつきをもっているか、という「確信」であったという。この旅の経験によって、ボーネルはある意味、日本研究に生涯向かう精神的踏ん切りをつけたようである。それはまた日本の中に中国をみようとすることからの決別でもあった。

ドイツ東洋文化研究協会での講演テーマをみると、それは一層はっきりする。彼は1928年から32 年にかけて9回の講演を東京や神戸の協会でおこなっているが、それらのうち7回は中国に関するものであった[11]。それ以後1942年の228日の老子についての話以外、中国をテーマにすることはなかった。

 

弟たちを日本へ呼ぶ

ボーネルが日本での生活と研究を軌道に乗せようとしていたこの時期、高等学校のドイツ語教師の斡旋を依頼され、二人の弟を紹介している。ボーネルには10人の兄弟姉妹がいたが、男兄弟は5名であった。ボーネルは次男。第一次大戦で四男は戦死をしていた。そこで松山高等学校(現愛媛大学)と高知高等学校(現高知大学)のドイツ語教師として、末弟のアルフレート(Alfred Bohner,1894-1958)、すぐ下の弟のゴットロープ(Gottlob Bohner,1888-1963)にボーネルは声をかけた。丁度ドイツは経済混乱を迎えている時期でもあった。

 

2 アルフレートの日本

 

松山高等学校へ

まずアルフレートが1922年に松山高等学校に赴任し、1928年まで教鞭をとった。彼は松山で教えると同時に、広島の陸軍幼年学校でもドイツ語を教えた。彼は新婚の妻コルネリア(Cornelia)と共に赴任し、娘ハンナ(Hanna)23年に松山で生まれている。彼も兄に似て学究肌であった。弟のゴットロープ一家が来るまでは四国での唯一のドイツ人家族であった。ボーネルとは10歳違いであったことや、松山連隊の将校のサークルでドイツ語を教えることも含め、積極的に松山の人たちと交流をしたので、日本語の習得は早かった。大阪や神戸とちがい、西欧風の生活をするのは不便であったが、街に溶け込み、松山の上層階層と親しく交流する機会に恵まれた。

だから彼は、よく客として招かれることがあった。そんな折によく経験するのは、甘いものなどと一緒にいつでもビールがだされることであった。どうも不思議であった。それは、学校でドイツ人は日本人のお茶のように、ビールを飲むのだと教わってきたからとの理由からだと聞き知り、日本人の歓待の姿勢に感心するのである。

 

日本の紹介を書く

ドイツ語を教える一方、彼は日本研究にも取り組んだ。その成果は『古今智恵枕』の翻訳[12]や『日本と世界』、『同行二人』の著作にまとめられた。

『日本と世界』(Japan und Welt, 1937)130ページ余の小冊子で日本について帰国後概略的に紹介したものである。『地域と民族』シリーズの一冊で、青少年向きに書かれた日本入門書という性格をもっている。その内容は次のようになっている。アルフレートの日本(人)像あるいは日本イメージの一端がうかがい知れて興味深いものになっている。

 

T日本人:   公共心、死をも厭わない献身、神国日本という信仰、天皇崇拝

U島国:    位置と広さ、山と火山(火山に登る)、地震、温泉、土地分布と資源、気候、季節風、台風、川と海、植物、動物、風景、大日本

V民族と地域の成長: 

南からの民族、先住民が抑圧される、大陸からの民族、大和民族の成立と大和国、大陸の文化影響、中心地の成立、蒙古襲来、徳川鎖国、開国、躍進、産業国家への発展

W今日の日本人の生活 

1 農民と日本民族にとっての農民の意味: 

ドイツと日本の農園、日本の農作物(米、竹、お茶、桑)、農家、畳生活、庭と風呂

2 労働状況: 産業の重要性、賃金と生活状況、女子労働者、産業分布、工芸品

3 都市:   東京、京都、大阪、神戸、都市の状況

4 交通制度: 鉄道、海路

5 教育制度: 小学校(日本文字)、上級学校(祝祭と試験)、女学校と私立学校

6 宗教生活: 神道、仏教、宗教間の関係

7 女性

8 祝日と祭り:新年、雛祭り、花見、子供の日

9 軍隊、艦船、空軍

X日本と他の民族

日本の土地不足、大陸への拡大、太平洋への拡大、ドイツとの関係

 

四国八十八か所を巡る

 アルフレートの真骨頂をあらわしているのは、『同行二人四国八十八か所』(Wallfahrt zu Zweien, Die 88 Heiligen Stätten von Shikoku,1931)である。これは、1927年秋にドイツ東洋文化研究協会で行った講演を下敷きにして1928年に執筆した本格的な遍路研究書である。この本には、自ら撮影した88ヵ寺、お遍路さん、納札など96枚の写真が収められている。彼はヨーロッパ人として最初の遍路であるとみなされており[13]、この著作は、外国人研究者によって今日でも引用されている[14]

 アルフレートが遍路したのは、1927年の7月から8月にかけてである。歩き遍路ではなく、乗物の利用できるところはそれらを利用した。それを彼は「サロン遍路」と呼んでいる。松山周辺の8ヵ寺は、遍路旅行の前後に二日にわけて廻り、残りの80ヵ寺を712日から85日にかけて廻った。このうち4日間は松山に戻っている。さすがに夏の暑さの中での遍路はきつかった。しかしこの遍路で彼は、普通には経験しない多くのことを経験している。

例えば、第66番札所雲辺寺で一人の婦人が近づいてきて一銭をさしだした。彼女は遍路に草履やお菓子などの小物を売る籠をもっていた。アルフレートは遍路衣装を身につけずに、金剛杖だけを手にしていただけで、しかも外国人であるので、自分は施しをもらうことはないと思っていたから、その夫人がしばらくして「どうぞ、お接待」と促すまでどうすべきかわからなかった。またお寺に宿泊した時にお布施をだそうとしたら、住職が「これはお接待です」と言って受け取らなかった経験もしている。

 

木賃宿の体験

 ヨーロッパ人にとって日本での旅の悩みは宿泊所と食事であった。都会や観光地などで施設が整っているところでは問題にはならないが、遍路のような場合には違ってくる。この点でアルフレートは、何の躊躇もしていない。

 遍路は、普通の旅館では断られることが多かった。それは、遍路がノミやシラミを持ち込むと思われていたからである。アルフレートは洋服を着ていたが、手に金剛杖をもっていたので、「まっぴら」「つかえています」というステレオタイプの言い方で断られたそうである。特にしばしば高知県ではそうであった。だから普通は寺の宿泊所か木賃宿に泊まることになる。もうすでにこの時期には「前根宿」のような民間の家への宿泊はめったにない幸運であった。

 木賃宿、アルフレートが知った学生用語だと「モクチンホテル」の食事のおかずには、たいてい沢庵(塩づけ大根eingepökelter Rettichと書いている)やナスの漬物とかラッキョウ、梅干しがだされ、キュウリや玉ねぎの酢の物もよく供されたし、麩や玉ねぎや豆の熱い汁ものがついていた。どうやら彼は漬物類や汁ものには、親しむことができたらしいが、野菜の酢のものは苦手で、わざわざ「美味しいとは言えなかった」と書き記している。

 宿の布団は「日本のワッフルのように」薄くて硬く、丈も短く日本人でさえ足がでるようなものであった。夜遅く到着する遍路が部屋に入ってきたり、朝早く薄暗いうちに起きだして鉦をならして経をあげたりするので、眠りが邪魔されることもしばしばであった。しかしそれ以上にアルフレートにとって木賃宿の「恐怖」はノミなどの虫に噛まれることであった。学生は彼に「シラミ、ノミ、ダニが噛む。それが木賃宿のお接待」と教えていた。彼の旅の時期は真夏であったので客も少なく、これらの虫の「攻撃」に関しては「まあまあ」であったそうだが、ある朝宿を出発した後、手拭いに太ったシラミが群がっているのを見つけた時には、さすがに旅を続ける喜びを暫しの間なくしたそうである。

 彼は幾度も木賃宿に宿泊しているが、最初に泊まった時のことを書き留めているので、以下に少し長いが、どんな様子かよくわかるので引用しておこう。

 

暗くなってようやく私は根香寺に到着した。寺門に入って行く手前、山裾に木賃宿があった。床の上り口にはすでに三人の遍路が座って、草履を脱ぐところであった。宿の前には小高く盛り上がった場所があった。そこに低いベンチが置かれていた。周囲の木は空いていて、屋島や高松の暮れなずむ家並みが眺められた。お寺に泊まれるか、と私はたずねた。泊まれないと言われた。設備がないと。次の宿までは少なくとも徒歩一時間かかる。暗闇で歩くのは難しい。ここで泊るのが最良のことであった。ここまでは私は運がよくて、寺に二泊、旅館に二泊、教え子の学生の家に一泊してきた。今日、初めて木賃宿を知るのである。

すでに先についていた遍路の一人は、金縁のメガネをかけた細面の人物で上品な印象を受けた。その人が台所にいる女将に、泊まれるかと聞いてくれた。女将の泊まれるという声で、若い娘がでてきた。彼女は私の杖をとって、杖先を洗って他の杖が並んでいる壁にかけた。そこには仏像が掲げられていた。「お風呂にどうぞ」と言われたとき、私は戸惑った。これまでの宿には浴衣があった。この時になって遍路は浴衣を荷物に入れておくのがわかった。持っていなかったので私は部屋で服を脱ぎ、裸で薄暗い台所を通り抜けて浴室に行った。裸になるのは、日本では普通小さな宿では別に何でもないことであった。浴室は岩を削って造られていて、風呂釜に湯がはられていた。マッチ箱と壁のろうそくをみつけて火をつけると壁と天井が明りに黒く浮かび上がった。お湯はもうきれいでなかったが、暑い日のほこりと汗をぬぐうには十分であった。・・・部屋に戻ると、すぐに女将が「いかほど米を炊きますか」と聞いてきた。第二回目の当惑である。金縁メガネの男が今度も私を助けてくれた。片手で5合と注文してくれた。何合の飯をたべられるかを私は知っておくべきだった。これで私が学んだのは、ヨーロッパ人にとっては夕食と朝食を合わせて23合で十分だということであった。・・・・・

この間に、新しい遍路が一人到着した。彼は若く元気そうであった。私が知らなかったことを彼から発見した。彼は丁寧に女将に宿泊を申し込んだ後に、杖を洗って、部屋に入った。そこでまず杖を他の杖の横に置いた。その際、彼は大師の名前を幾度も唱えた。それから荷物に入れていた携帯祭壇―同行二人をはっきりとさせる大師の像だと思う―を開いて、それを荷物の上に置き、10分間ほど合間、合間に鉦を鳴らしながら祈祷をした。それを終えてからようやく、彼は我々の脇へ座って丁寧に挨拶をした。「よう、おまいりでございます。お邪魔して申し訳ありませんが、今夜はご同行させてください。」米は食べないとこの新参者が説明したので、食事が運ばれるまで、それほど時間はかからなかった。一人一人お櫃と赤いお盆が渡された。お盆には麩いりの汁椀と数切れのキュウリの輪切りを盛った小皿が載っていた。最後についた人には、頼んだお湯とお盆だけがわたされた。「飯茶わんは?」と私は尋ねた。荷物を開けていた他の人は驚いた顔をした。各自自分の茶碗を持ってきているのだ。金縁メガネの男がすぐに女将に飯茶わんを貸してくれるよう頼んでくれた。私はご飯をよそって、箸を探した。又驚き。そして質問。何番目の寺から私が旅を始めたのかと。今度も私の助言者が、私が女将に頼む前に、仲介の労をとってくれた。その間に、他の人は、各自の食事道具をひろげ、黙ったまま、音を立てないわけではないが、食事を始めた。「飯はいらない」といった先の青年は、小さな袋から、黄色い粉をスプーン山盛り三杯すくって、お湯でこね始めた。他の者が好奇心に勝てずに、「それは何?」と尋ねると「麦の粉(はったい)」と答えが返ってきた。これは彼の心願であるという。昨年この男は酷い胃痛に苦しんでいた。遍路で治ったので、お礼のためにもう一度お参りすることをきめて今年又四国にやってきたのであった。「御礼参り」と言った。誰もがこの元気な青年を称賛した。次の朝彼はイタチのように、山を走りぬけて行った。

食事を終えると、お盆は下げられたが、お櫃はそのまま各自のもとにおかれ、各自自分の荷物の横においた。それから宿帳がまわされた。誰かが書き込んでいる間に、他の人は束ねた納札から次の日に必要だと思う枚数を取り出して、それに書き込んでいた。・・・・そうこうするうちに、部屋の真ん中につるしてあったランプがはずされ、我々の部屋と台所に通じている小さな部屋との間の梁につるされた。薄い短い布団とイグサの枕が持ってこられて広げられた。敷布団の上にイグサのご座が敷かれたのが眼をひいた。それはきっと涼しく寝られるからだろうと思った。(このご座は農家でも使用されていて、ノミよけであるとも聞いた。)・・・最後に私を含めた三人用に、大きな蚊帳が宿の主人の手を借りて張られた。しかし横になる前に勘定の計算があった。一合は95厘。私の一泊料金は、475厘であった。東京から来た男が、お茶代は不必要だと教えてくれた。食事の心願をしている青年は、20銭ほどであった。その夜はほとんど虫には苦しまされなかった。食事の間にうろついていた蟻は、人間に関心があるのではなく我々の食事に関心があったのだ。蟻は来なかったが、蚊が蚊帳の中に入ってきた。穴があいているか、すきま風が蚊帳を持ち上げるのだろう。

 

 若いアルフレートは、好奇心旺盛に日本の中に入り込んでいく。遍路の道々で、彼は話しかけられ、話しかける。人々の言葉と態度の中から日本を知るのである。彼が書いた『日本と世界』の概説書も、「日本で見たことが書かれている」と書評されている[15]。彼は日本を体感し、日本を理解するのである。

 

3 ゴットロープの日本

 

高知高等学校への旅

 ゴットロープ[16]が来日したのは1925年である。高知高等学校の二代目のドイツ人「雇外国人教師」として3年の契約で28年春まで教鞭をとった。ボーネルがドイツ南西部ラインラント・ファルツのビルケンフェルト(Birkenfeld)にいたこの弟に声をかけた当初、ゴットロープは躊躇した。ドイツがインフレーションの最悪状況から抜け出そうとする時期だったからである。しかし弟アルフレートからの強い勧めもあって、赴任する決心をした。ゴットロープの旅を辿ってみよう[17]

1925224日、かつてボーネルも乗船したジェノヴァから、妻ヘルタ(Herta)2歳前の息子ハインリッヒ(Heinrich)を伴ってゴットロープは、1万トンのザールブリュッケン号に乗り込み、日本に向かったのであった。船は、スエズ運河を抜けて、コロンボ、ペナン、シンガポール、香港、上海を経て、47日に日本の島影をとらえ、8日に門司、そして9日に神戸に到着する。45日間の旅であった。

 

芦屋のボーネルの家

神戸の桟橋にはボーネル夫妻が出迎えた。芦屋のボーネルの自宅に向かう道筋で、ゴットロープが気づくのは、日本の道は狭く両側に石作りや板塀が張り巡らされていることであった。そこから彼は次のように考える。ドイツの家は内側を「遮蔽」しているので、外を歩く人は花がある前庭を覗くことができるが、日本の家は寒い日以外は「開け放たれている」ので、高い塀が家の中を覗かれるのを防ぐようになっているのだと。

兄の家もまた、彼の驚きであった。木造二階建ての家の内部は「紙の壁」で仕切られ、畳敷きであるが、洋風家具仕立てであった。「小さな」庭には松が植わっていた。松は日本人が好きな木で、家を造るとなると結構値がはる松を庭に植えたがるのだとボーネルから聞かされて驚くのである。大阪周辺の家の標準からみれば、小さいとはいえ庭があるその家は、贅沢で高級であったが、家賃が月百円、八千円なら兄に売ると聞くと、ドイツの家族用の家よりも広くなく、「薄い木と紙の家で地下室も暖炉もない」家がマルク換算15000マルクという値段に、また驚き、しかもそれが年間あげる家賃の額にさらに驚嘆するのである。「家持ちは儲かる」。

4月10日、門司で一旦出迎えてくれた弟アルフレートがやって来て、兄弟三人が10数年ぶりに再会する。ボーネル三兄弟は、ゴットロープ一家の高知での生活に必要な物品―例えばベッド。アメリカ製を2台、日本製を1台購入した。―を揃える数日間を共に過ごしたのである。

 

鉄道と船で四国へ渡る

412日早朝、四国に住む二組目のドイツ人家族として、ゴットロープは、アルフレートに伴われて四国へ向かう。当時神戸から高知へは大阪商船で行くのが普通であったが、一家はアルフレートの松山を経由して向かうので、神戸から汽車で尾道へ、そして船で高浜港へ、さらに軽便鉄道で松山へ、という経路をたどった。ちなみに神戸から尾道まで8時間、午後3時に到着。松山のアルフレートの家に着いた時には、日がすっかり暮れていた。松山で初めて乗った人力車が揺れるので、妻のヘルタが怖がって声をあげるのを、車夫は「面白いでしょう」と勘違いをして喜んだそうである。

途中で駅弁を買って食べたのであるが、それにいたく満足した。その後旅行をする時には駅弁をよく楽しむことになる。少々閉口したのは、軽便鉄道を待っている間、神戸では気にされなかったのに、周囲に大勢ひとが寄ってきたことである。特に子供は注目の的であった。大人の外国人は、見かけることはあっても、子供は珍しかったのであろう。逃げるように列車に乗り込むと、そこには弟の知り合いの洋服姿の医者が座っていた。ゴットロープは彼らとドイツ語で会話をするのであるが、ゆっくり話したつもりでも、なかなか通じなかった。弟によれば、言葉が早すぎる、ドイツ語の本を読む日本人は会話にはほとんど慣れていないということなので、彼はこれからの仕事の困難な点を、予感するのである。

 

最終目的地・高知へ

アルフレートの家に数日間滞在した後、ゴットロープは高知へと向かう。松山から高知まで車で向かうのである。前の座席に運転手と助手、後ろの座席二列に両家族が乗り込んだ。アルフレートだけは久万(愛媛県)で車を降りて松山に戻ったが、コルネリアと姪のハンナはそのまま一緒に高知へ同行した。彼女が最初の日々の日常品を揃える手伝いをしてくれるためであった。車は、行き違いもままならぬ曲がりくねった難渋な狭い山道を走り、仁淀川の橋を渡って、高知県側の村につき、そこで高知の会社の車に乗り換えた。

そこで彼らはちょっとしたトラブルに会う。村の食べ物屋で昼食をとるのだが、飯と卵とお茶だけで、一流ホテル並みの代金を請求されたのである。アメリカ人と間違えられたのだとゴットロープは考えた。彼によるとそれは、日本人ならその三分の一で一日分の食費になる額であったそうである。あれこれのやり取りの後、結局三分の二の値段で折り合った。

昼食後、再び車に乗り込み、越知、佐川、伊野を経て高知へと入った。鏡橋を過ぎて高知城が見え、午後3時ごろに城近くの停車場に到着したのである。

学校からは誰も迎えにきていなかった―車で直接学校に来るだろう思われていた―ので、周りの人に聞くのだがさっぱりわからない。だんだん人だかりがする。困っていると一人の若者が寄って来た。帽子と服装で学生と分かった。しかも彼はドイツ語を話したのである。彼は、後にゴットロープの授業を受ける岸本亮一であった[18]。彼の案内で無事学校へ到着したのである。

 

官舎に入る

内藤校長や同僚となる日本人教師と挨拶を交わした後、官舎へ案内された。官舎は学校の敷地の隅にあった。平屋建ての家が二軒並んでいて、その一つには独身のイギリス人教師バッティ・スミスが入居していて、もう一つの、庭が少し広い方の家がゴットロープ家に割り当てられていた[19]。松山の弟の家よりは小さかったが、十分広くて便利につくられていて、すでに5脚の椅子とテーブルが配置され、窓にはカーテンもつけられていた。家の中は新しい木の匂いに満ちていて、ゴットロープとヘルタは満足するのであった。

スミスに手伝ってもらいながら家の整理をおこなっていると、一人の男が訪ねてきた。高知には当時、高等学校の二人の外国人教員以外には、幾人かの牧師や尼僧がいるのだが、外国人の子供はブラディ(Brady)という名のこのアメリカ人牧師の二人の子供以外はいなかった。彼らは高知で「外国人コミュニティ」を作っていて、ゴットロープ家はその一員に迎え入れられたのである。こうして彼の高知での3年間の生活がはじまった。

 

高知生活を楽しむ

高知での生活をゴットロープは楽しんでいる[20]

休日には時間が許す限り出歩くことを習慣にしていた。特に土佐湾に面した種崎に足を向けるのを好んだ。官舎から城を抜けて、市電に乗り、農人町から船で仁井田の舟着き場へ、そこから歩いて種崎に行くのである。砂浜と麦畑、波の音が、一家にはこよなく気にいっていた。夏以外には海水浴を誰もしないのが、ゴットロープには不思議でならない。ハインリッヒは、いつも種崎にくれば、海に入るのである。

日本式の風呂も気にいった。官舎にも風呂は備わっていたが、公衆浴場や温泉にいくのも、また楽しみの一つであった。アルフレートの家に滞在したときに、道後温泉で初めて日本式浴場を経験していたのである。高知では種崎の風呂が気に入っていた。熱い海水風呂と普通の浴槽、そして身体をさます水風呂に順次はいると、身体の芯からリフレッシュする感じであった。種崎の二階には畳敷きの休憩施設があって、入浴後そこで食事をするのだが、そこで注文できた洋食は、日本人向けの「洋食」で「必ずしも我々の味覚にはあっていない」けれども、それも日本人に交じるという意味で楽しみであった。

 「ボーネルが比較的後までもできるだけ日本食をすすんで口にしようとはしなかった[21]」のに対して、ゴットロープは和食に親しむ。医者の武田鹿雄[22]や同僚のドイツ語講師荘直一とは親しく、しばしば家に招待された。荘直一とは、就任時期も同じだったので、特に親しくしていた。ゴットロープによれば、荘直一は、チンタオ戦争前の二年間、ドイツに留学し、その後チンタオで通訳をしていた。彼は、チンタオに残されたドイツ人の適切な扱いがなされるよう努力し、チンタオのドイツ人から好意をもたれたとのことである。こうした点も親しくなった理由であろう。

 ある夜の荘家で出されたお膳は、鯛の刺身、鰻重、茶わん蒸し、吸い物碗、茹で豆、漬物であった。茶わん蒸しは始めてだったらしく、非常に美味であると書きとめている。刺身も醤油をつけるとデリケートな生ハムのようにおいしく、こなれが非常に良いとしている。

 

富士山に登る

 夏になると暑さを逃れて避暑をしているが、27年の夏は、最後の日本の夏ということもあってか、兄たちがいる軽井沢ではなく、御殿場で一夏を過ごしている。箱根周辺も在日外国人が猛暑を逃れて、夏を過ごす場所であった。ゴットロープは、御殿場の二の丘にあったアメリカの伝道会の所有する別荘の一つを借りたのである。それには理由があった。それは、念願の富士山に登ることである。この夏の88日にゴットロープ夫妻は須走口から富士登山に挑戦した。夕刻4時半にガイドに伴われて出発、妻のヘルタは途中まで馬に乗ることにしていた。真夜中についた七合目の小屋で横になり、朝4時に再び出発、御来光を八合目で眺め、6時に頂上にたった。「六根清浄」を唱えながら登る人たちに合流しながらの登山であった。山小屋の小さな布団に二人で仮眠する経験、頂上小屋での黄粉のおはぎ、「グッド・バイ(日本人はgudo baiと言うと書いている)」と声をかけてくれる登山者、雲海の日の出、月の明かりに浮かぶ山中湖、等々を経験する、御殿場の家に帰るまでの25時間の山行であった。

 この夏、夫妻は御殿場から横浜、江ノ島、東京へも出かけている。東京では高知の教え子であった西村正志の出迎えを受け、銀座は丸の内や皇居などへ案内をしてもらっている。ビジネス街を歩き、公園のベンチで寝ている失業者をみつけて、高知とはことなる日本の姿を感じるのであった。ローマイヤーも訪ねている。ローマイヤーの商品は、御殿場でも手に入った。高知ではドイツ風の肉商品は手に入らないので、神戸の肉屋から取り寄せていたのである。

 

別れの時

 次の年の早春、3年間の勤務を終えたゴットロープ一家は、3月7日に高知を発った。港には校長を始め教官、多数の学生が見送りに集まった。学生たちにとっては、ゴットロープは、「庶民的で、教室で時たまハモニカを吹く」「田舎の好々爺の様な」[23]親しみのもてる先生であった。惜別の情抑えがたく、ゴットロープは、学生たちに教えたドイツ語の歌を歌い、学生たちもそれに唱和した。彼もまた兄のボーネルと同じように歌の本を編んでいたのである[24]。歌声の中、船は港を離れ、シベリア経由での帰国の道についたのである。

 

後日談がある。ゴットロープを東京で案内した西村正巳は、戦後の19569月に故郷ビルケンフェルトにゴットロープを訪ね、29年ぶりの再会をはたしている[25]。戦争をはさんでもまだ交流が続いていたのである。またゴットロープの息子ハインリッヒは、19834月に高知を55年ぶりに訪ね、父親の旧教え子と交歓している[26]

ゴットロープは、三年間のドイツ語教師の間にその学生たちと得難い強い絆を結び、日本への限りない愛惜を後に二冊の小品にまとめるのである。彼はアルフレートやボーネルとは違い、学術的な著作を書くことはなかったが、日本での生活そのものを観察し、記録し共にする実践者であった。

 

4 ボーネルの日本(2)

 

学生から学ぶ

日本研究を手探りで始めたボーネルにとっては、学生からも学ぶということに躊躇しなかった。それは、「ドイツ語を教えることは日本文化を学ぶ」ことの実践でもあった。ある会話の授業で「明日何をしますか」と質問した時、

一人の学生が「日曜学校へ行きます」と答えた。

「どんな学校ですか?」

「仏教の日曜学校です」

「そこで何をするのですか?」

「歌の伴奏をするのです」

ボーネルはすぐに彼にその歌の本を自分に貸してくれるように頼み、その寺の住所を尋ね、日曜学校に足を運び、それらの歌を翻訳した[27]

また学生と一緒に『神皇正統記』を読み、法隆寺などをめぐり、学生たちを質問攻めにした。もっともすぐ後ではボーネルの方が学生たちよりもはるかに知識が深くなり、大和の寺院を学生たちに解説することになるのだが[28]

 

厳しくかつ親密な姿で接する

午前中に授業をして、午後は研究にあてるというのがボーネルの習慣であった。自宅にいるときには、昼食後4時まで午睡か休息をして過ごすのが普通であった。ボーネルの教え子でかつ同僚でもあった八木浩は、1950年代半ばにボーネルの研究を手伝っていたが、それを次のように回想している。それは苦しくもあり楽しみでもあったようだ。

 

私は4時に訪ねることになっていた。時間どおりにつくのは難しかった。早く着くと家の前で何分も待ち、遅れそうになると走った。先生は毎月私に報酬を支払ってくれた。夫人が毎回、パンと紅茶をふるまってくれた。私たちは三人でマーマレードをぬったパンを食べ、薄い紅茶を飲んだ。先生はいつも元気で1時間半の仕事のために机の上に本を準備していた。一冊の本を二人の間に置き、それを両側から読んだ。私が日本語を読み、また先生の日本語翻訳を修正した。先生は難しい漢字をよく知っていたが、私より漢字を読むのは苦手であった。読み方が幾通りもあるからであった。古い日本語だったので、私にも読めないものがあった。当時ルビがふってあるものが手に入らなかったので、私が困って「多分・・・」といったりすると、先生は面白くなかった。「多分という言葉を使うな」と言った。私が不明瞭にもぐもぐと読んだ時は、「君は声をだしていない」と言った。先生の声は老齢でも大きかった。仕事はし難かった。というのも、私たちの間にあるのは小さな文字の詰まった本で、ボーネル先生は夕方になっても明かりをつけようとしなかったからである。私が風邪をひいているときなど、咳をすると、飛び上がって私から離れた。私が大切な研究会に欠席していたりすると、批判された。自分ですすんで何かをしようとしたら、褒めてくれた。学会発表は必ず聞いてくれて、あとから良かった点を指摘してくれた[29]

 

ここには子弟の間にしかないような温かい空気がただよっている。彼に対してだけでなく、ボーネルとその夫人が、日本人同僚たちに示したのは、このような雰囲気と態度であった。彼は研究室の全員にラテン語を教えたりしたが、少しすすむと「ガリア戦記」をとりあげ、それを読ませたりしたので、ついていくのに随分往生したそうである。

またボーネルは、当時のドイツ人などのヨーロッパ人がそうしていたように、軽井沢に別荘を年間契約で借り、毎年夏を過ごしていたが、そこに同僚や彼らの家族が来るようしばしば誘っていた。先の回想を遺した八木も、「君の身体のためにもやってきなさい」と、駅から別荘までの地図付きの手紙をもらっている[30]

そしてそれは学生たちへの接触でも、そうであった。確かにダブルの背広を着て背筋を伸ばしたボーネルの姿と授業での謹厳な態度は、学生に畏敬、時には畏怖の念を与えたが、外国語学校伝統の語劇祭には、熱心にアドバイスをし、公演後は学生たちを自宅に招き、夫人が手製のクッキーを焼いて迎えた。学生の中には、軽井沢の方にも押しかけた者もいたが、そうした折でもボーネルは彼らを厭わず、日曜日であれば教会のミサに連れていき、一緒に散策をした。

 

ボーネルの日本語

ボーネルに接した人たちが、一様に驚くのはその漢字力であった。難しい漢字を彼はよく知っていて、学生たちはそれにしばしば驚愕した。日本人でも書けない漢字―否むしろ日本人には書けないといったほうが正確かもしれない―をボーネルは黒板にすらすらと書いてみせた。それは、彼が中国語を学んだ産物であるが、それは一方漢字を中国的な見方で解釈することになりがちで、そのことが日本語習得に邪魔になり、日本人が思っていない解釈をおこなうことにもなったという[31]

漢字知識とは裏腹に、話す方は漢字ほど巧みではなかった。そのわかりにくさで、学生たちは、漢字の知識とのアンバランスに戸惑った。漢字の知識を利用して、驚くほど難しい単語をはさんで話すこともあったが、聞く者にとってはとてもわかりにくかった。

「花バタ捧げます」は、「花束」とまだしも推測できるが、「ジシンは雲が好きです」と言われると、地震と雲は関係あるような俗説もあるので、「ジシン」が「詩人」であるのを察するのは、容易ではない。しかし発音からあれこれ推測するのも学生たちにとっては、楽しみでもあった。何か謹厳実直そうなボーネル先生とは違う親近感を感じるのである。長年の友人であったロベルト・シンチンゲル[32]は、彼の日本語はドイツ語化していて、「シュバーベン訛りで日本語を話す」と言っていた。そして一つの逸話を伝えている。

 

ボーネルが1942年の3月にドイツ大使館で高松宮に聖徳太子の講義をしたおり、高松宮が「教授が少なくともドイツ語で話してくれたら、私も少しは話がわかったのに」と嘆いたという噂が流れた。ドイツ人の中にボーネルの名声を妬んでいた者もいたので、悪意の作り話が広められたのだ。ボーネル夫人が、夫の講義に夢中になって、お菓子とワイングラスの置かれたテーブルをうっかりしてひっくり返した方は事実なのだが[33]

 

ともかくもそういう噂話が広められるほど、ドイツ人の間でもボーネルのドイツ語風日本語はよく知られたことであったのであろう。

 

風景から日本を読む

週日は授業と研究に打ち込むが、土曜や日曜にはボーネル夫妻はよく出歩いた。若い時のワンダーフォーゲル時代の趣味が蘇ってきたのである。

六甲山系を背景にした芦屋や西宮はワンデリングに最適であったし、歴史の鼓動が迫ってくる奈良・大和路、吉野山、高野山は格好の場所であった。六甲山系を歩くと故郷のシュバーベン・アルプ(高原)を想い出すのであった。だから彼は親しい客をよく山へ誘った[34]。山へ行くのは望郷でもありリフレッシュでもあったが、それだけではない。ボーネルは山からの植物を庭に植えて、日本の自然に身をおこうとしたのである。

奈良・大和路をボーネルが歩くとき、そこには古代の風がそよいでいるようであった。寺院とその周囲の田園、そして低く連なる山々は、静かにボーネルを迎え、日本の心情を彼に伝えているかのように感じられた。奈良とその周辺の、伝説や歴史をささやく風景は、彼に日本の心を伝えている気持にさせた。

彼の遺稿にエッセイ「奈良」がある[35]。それは学術的姿をとった奈良礼讃書でもある。奈良を、こよなくボーネルは愛していた。ここに過去の日本の心情が形成されたのであり、今なお密やかにまた伝統的行事の中に息づいているのを観るからである。何よりも彼が礼讃するのは、奈良の自然である。「神の頂」である三笠山、山を神体とする三輪神社、奥山の深い樹木の緑、そしてそこにある寺院。時間は沈黙し歴史が肌に迫ってくる。奈良を巡る時、ボーネルにはそこに日本の変わらぬ心を感じるのである。だから彼は「奈良にはそもそも観るものなど何もない」とさえ言う。彼は風景から学ぶのである。

 

俘虜収容所後遺症?

ボーネルの研究は、一種秘密のベールにくるまれていた。彼は決して自分が今何を研究しているかを知られたくなかった。ボーネルは、出版が確実に約束されるまで、決して完全な原稿を編集者に渡さなかった。ドイツ東洋文化研究協会から出版する場合には、協会の責任者になっていた、俘虜時代の日本語師匠クルト・マイスナーを信頼していたので一応原稿を送っていたが、出版がきまると、改めて最終原稿を送っていた。しかも最初にマイスナーに送付したものから、さらに量を増やしたものであった。協会では追加費用をボーネルに請求したことは言うまでもないが、マイスナーが支払う場合もあったという。しかしそれでもマイスナーとボーネルとの友人関係はずっと続いたのである。

八木浩も同じような経験をしている。能の研究をしていることを他人に絶対言うなと彼から言われていたし、出版のあてがなかった能の本をだすために印刷所を紹介し、印刷所との交渉や印刷校正のために原稿が必要だったが、その時でも決して原稿を見せてくれなかったという[36]

また別のエピソードもある。あるアメリカ人同僚がボーネルと市電で乗り合わせたときである。彼が大嘗祭での白酒(しろぎ)と黒酒(くろぎ)について話しかけた。ボーネルは大きい声で「このテーマには触れないでくれ。今それについて書いている」と話した。けれどもこの本はでなかったし、その同僚もそのテーマには以後触れることはなかった[37]

シンチンゲルは、こうした秘密主義的な態度を、彼が「若い者がうまく原稿を利用するのではないかという疑念」「誰かが自分の知識をいつも利用するという疑い」を抱いていたからで、それを俘虜経験からの「迫害妄想」の後遺症ではないかと推測している[38]。俘虜を共に過ごしたユーバシャール(Johannes Überschaar)から、ボーネルが「日本人は俘虜を毒殺するつもりだ」という噂を広めたと、シンチンゲルは聞いていたのである。

この噂の真偽はともあれ、ボーネルが収容所では「もっとも反抗的な、扱いにくい人物」であったという日本人学生の間でひろまった「伝説」とも重なるものである。また時々ボーネルがみせた奇妙な「塞ぎの虫」や「不可解な納得のいかない不機嫌」[39]も、収容所経験からのものであったと考えると、理解できる。

 

実現しなかった故国での教授就任

この噂を語ったユーバシャールとボーネルの間はライバルとして緊張関係があった[40]。収容所で同じように講義をおこなってきたし、解放後は大阪で共に教えていた。ユーバシャールは上流階級の学友会所属学生(Korpsstudent)出身であった。元神学者のボーネルとは気質も違っていた。ユーバシャールは冷静で断定的に語るのに対して、ボーネルは詩的で独創的であった。協会の大阪/神戸支部で二人はよく講演したが、ご婦人がたにはボーネルの方に人気があった。ボーネルは奈良や大和の美しい自然や有名寺院へ案内したので、一層そうであった。

1932年ユーバシャールは、芭蕉や日本国家理念の著作でライプチッヒ大学の日本学の教授に招聘された。ボーネルは彼に先を越されたと思っただろう。そのユーバシャールはレーム事件(Röhm-Putsch[41]後の1937年の春、刑法175条によってライプチッヒ大学を解任され、密かに日本に戻ってきた。

ライプチッヒの日本学の新しい教授が求められた時、ボーネルにはチャンスが開けたように思えた。彼はベルリンから「あなたがOKと言いさえすれば良い」という返事をもらっていた[42]。しかし就任したのは名古屋にいたホルスト・ハミッチュ(Horst Hammitzsch)であった。

ハミッチュはヒトラーの甥であった。1937年に広島の高等学校に赴任したディートリヒ・ゼッケル(Dietrich Seckel)は「彼(筆者:ハミッチュ)の名誉回復のために言っておかなければならないのは、彼がそのことを決して利用しなかったことです」と言っているが[43]、ボーネルは必ずしもそういう風には考えていなかった節がある。「話したように言うまでもなく総統の甥がその地位についた[44]」。

ほぼ同じ時期(1936年と思われる)にボーネルはミュンヘン大学で職を得るチャンスをもっていた。ボーネルはその時期ベルリンの独日協会会長のベーンケ(Paul Behncke)の要請で自分の著作を、そのために送付している。彼が受け取った手紙には、「ミュンヘン大学の講座への招聘がなされなかったなら―そんなことはおそらくないはずですが―、その時には、あなたの著作はご希望にしたがって、弟であられるギムナジウム教員A・ボーネル氏に…送ります」と書かれていた[45]

この時期以後、ボーネルには故国にもどり教授職につくチャンスは訪れてこなかった。1941128日に彼はドイツ政府から「プロフェッサー」の称号を与えられたが、戦後にはそれまでのボーネルの研究は、時代遅れの古臭いものになってしまっていた。それはあまりにも戦前の日本イデオロギーと重なっていたからである。そして年齢的にも、盛りを過ぎているとみられていた。

 

兄テオドール

ほぼ「確実」だと思ったであろう、ドイツでの教授職が、なぜ上手くいかなかったかはわからない。彼もそのことについては何も語っていない。

ただボーネルの兄テオドール・ボーネル(Theodor Bohner)[46]は、作家活動のかたわら、ドイツ民主党のプロイセン州議会議員(19241932)となり、ベルリンのオーバーシューレ評議員(19291933)であった。彼は、アフリカで伝道活動をした父の影響を受けて、人種的偏見から自由でナチスの理論への嫌悪感をもっていた。また作家活動へのナチスの介入政策方針にたいしても強い危惧をもっていた。こうした彼の反ナチ的政治信条や「ドイツ作家保護同盟」での活動(会長)を理由に、ナチスは彼を危険分子リストにあげ、1933年に逮捕、拘禁していたのである。このことが、あるいは一つの要因として働いていたのかもしれない。

 

誤解されるボーネル

ボーネルがしばしば見せた理解しがたい態度や研究している対象と距離を置かない姿勢―これこそボーネルの日本学の方法であった―などから、ボーネルという人間が「変人」と評判になることがあった。とりわけ若い人には「けったいな人」という印象を与えていた。というより彼をよく知らない人からは誤解を受けると言った方が正確だろう。

先のディートリッヒ・ゼッケルは1910年生まれで、ボーネルより1世代、26歳若かったが、彼はボーネルを「変わり者の、狂った教師」と呼び、「古代日本についての優秀な研究者」と認めつつ、「日本的なものをすべて神秘化する傾向がある」と評している[47]

また若いフランス人教師が年齢の高い同僚に敬意を表して就任挨拶に家を訪ねたことがあった。ボーネルはいつものように昼寝をしていたので、食堂で待つことになった。20分以上たっても起きてこないので、彼は退屈して、ドアが開いていた書斎に入って書棚の本を眺めていた。突然電気が消されてとんがった大声がした。「日本で三年たってからだと、この本を見てもかまわない。」書斎はボーネルには「至聖所」であるから、新参者がみだりに足を踏み入れる場所ではないのである。新参の若者はびっくりした。彼はこの話をシンチンゲルにして、ボーネルは「正常な人」なのかと聞いたという。

彼らより年齢の高いシンチンゲルやグンデルト(Wilhelm Gundert)[48]は、ボーネルの倦むことのない勤勉さと知識や独創性をよく知っていたので、ボーネルの風変わりな点を十分受け入れていた。しかしよく知らない人からは、「頑固な変人」とみられていた。

頑固と言えば、次のような話もある。ボーネルは趣味として乗馬クラブにも加入していた。交通量が少ない日に、クラブでは外にでて大阪の街中を巡回することがあったが、そんな時にはボーネルは常に皆が嫌がる、逸走しがちな馬に乗った。ある時、汽車の音に驚いた馬が逸走したことがあり、ボーネルは肝をつぶしたが、それでも頑固にその馬にのることにその後もこだわっていた[49]。乗馬の趣味は、歳がいってからも持ち続けており、70歳を越えても、なお馬に乗っている姿を見かけたことを、鮮明に記憶している教え子もいる[50]

親しく接した人たちは、年齢を問わずボーネルの親切や献身について記憶している。ボーネルは学生が本当に好きだった。授業で質問をする者がいると、嬉しそうな顔で学生の側に寄っていって説明をしてもらったことを覚えている者や、火事で衣服をなくした学生ではズボンと靴を貰った者もいる。卒業後もボーネル宛てに手紙を書くと赤ペンを入れて返信が送られてきた。

また戦争中オランダ領インドのドイツ人男性がイギリス領インドへ移送され、子どもと女性が日本に追放された時、寄る辺がなかった彼らを軽井沢や神戸で献身的に世話をしていた。それは民族や人種を問うことはなかった。誰であっても援助や助言を求めてきた時には、力をつくした。それは「牧師館の子」としての務めであった。

 

「牧師館の子」であるとはいえ、ボーネルには望郷の念を消すことはできなかったようだ。彼を知る人は「シックザール(Schicksal:運命)という時の、彼の遠い空を見上げるようなまなざしを忘れることはできなかった。この言葉を口にするとき、ボーネルにはチンタオから始まり、この時代の激変を異郷の外国人としての、そして帰郷するチャンスを失った者としての想いが込められていたのであろう。彼が三度目の故国への旅を直前にして、その機会をも永遠に失したのも、彼の「シックザール」であった。最後まで「牧師館の子」であったということができよう。

 



[1] Hermann Bohner の日本語表記については本研究誌第6号の拙文「牧師館の子Hermann Bohner」を参照。

[2] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[3] OAG (Deutsche Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiens)は、かつて「東亜協会」「ドイツ東亜協会」など「東亜」と表記されていたが、ここでは現在のOAGのホームページの表記にしたがっておく。

[4] 同上

[5] ハロルド・パーマーは、1922年文部省英語教育顧問として来日し、以後14年間日本の英語教育の改善に尽くし、23年に英語教育研究所(現在の語学教育研究所)を設立した。彼はオーラルメソッドを重視した教授法を推奨した。1936年に英国に帰国した。彼の音声言語の習慣化は、ボーネルの教授法と同じである。

[6] 同上及びボーネル自身による経歴補足メモ

[7] 筆者が所有しているそれは、1959年版であり手書きの謄写版印刷である。

[8] Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinem Lebensgange

[9] ハンナ夫人との結婚については、本研究誌第6号の拙文に経緯を書いている。

[10] ボーネルの当時の大阪外国語学校での俸給は不明であるが、大阪高等商業学校では月額120円(1924年)、浪速高等学校では月額153円(1932年)であった(藤本周一「戦前昭和期における大阪府下の学校等(旧学制)に勤務した外国人教師について(その1)」、『大阪経大論集』、585号、2007)。大阪外国語学校の俸給は、これ以上であったと推測できる。なお藤本の論文には、浪速高等学校及び大阪外国語学校にハンナ・ボーネルの名前がある。ボーネル夫人と推測される。もしそうだとすれば夫人も一時期教壇にたっていたことになる。それについての資料や証言は今のところ得られていない。

[11] そのテーマは以下のようである。

 1928 12 27 日本の現代ドラマ

 1930     4    9    近畠親房の神皇正統記入門

         12   15    儒教

 1931     1    7    孔子と孟子

 1931     2    9    中国と日本の古代

 1931     3   11    老子と荘子

 1931     4    1    中国詩選

 1931    12   18    儒教の禮

 1932    12   28    易経への第一歩

 

[12] 『古今智恵枕』はJapanische Hausmittelのタイトルで“Mitteilungen und Deutschen Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiens“, Band 21, 1927に掲載されている。

[13] Pfälzische Presse,193889

[14] 例えばDavid Moreton, The History of Charitable Giving along the Shikoku Pilgrimage Route, The University of British Columbia, 1995

[15] T. Senzoki, NIPPON Zeitschrift für Japanologie, 4. Jahrgang, Heft 1, 1938

[16] 旧制高知高等学校の会員名簿には、ボーナー・ヤーコブ G.と記載されている。卒業生もヤコブ・ボーネル先生とかヤコブ・ゲ・ボーネル先生と呼んでいる(旧制高知高等学校50年史『高知、高知、あゝ我母校』)。当時なぜかクリスチャンネームのヤコブをつけて、ヤコブ・ボーネルと学校関係者は呼んでいたと思われる。

[17] 以下の日本までの記述は、ゴットロープが1931年に出版した著書『東アジアへ―再興の兆しの中で―』(Nach Ostasien im Zeichnen des Wiederaufstiegs)に拠っている。

[18] 日本人名の確定にあたって、旧制高知高等学校同窓会の理事長坂本昌三郎氏にお世話になった。また坂本氏からは高知高等学校の外国人官舎の位置も教えていただいた。

[19] 旧制高知高等学校50年史『高知、高知、あゝ我母校』(旧制高知高等学校同窓会、1972年)には、高知高等学校の全図が掲載されている。そこには雇外国人教師宿舎が描かれている。その図では宿舎は3軒連なっているが、ゴットロープは2軒と記している。多分もう一軒は空家であったのであろう。

[20] ゴットロープは“Ein Jahr in Japan“, 1942で、日本での生活ぶりを書いている。以下の記録はその作品に載せられている。

[21] Robert Schinzinger, Aus meiner OAG Mappe – Weihnachtsansprachen in Tokyo –

OAG, 1981, S. 21

[22] 武田鹿雄は、大正121923)年4月から大正131924)年4月まで校医をしていた。ゴットロープが就任した時には、校医を辞めていたが、一家のかかりつけの医者であった。

[23] 旧制高知高等学校50年史『高知、高知、あゝ我母校』488489頁 「好々爺」というには、40歳前のゴットロープには、少し気の毒である。しかし若い学生たちには、外国人の年齢はそのように感じられたのであろう。

[24] Deutsches Volkstum in deutschem Lied

[25] Birkenfelder Zeitung, 6. Sept. 1956

[26] 高知新聞、昭和58年(19834月(筆者の所有している新聞記事のコピーには、日付が欠落している。)

[27] Hermann Bohner, Buddhistische Sonntagsschullieder, in: Zeitschrift für Missionskunde und Religionswissenschaft, 44. Jahrgang 7. Heft 1929

[28] 1975年のボーネル没後12年に催された会の記録から。その一部を八木浩が「ボーネル先生20周忌を迎えて」(Sprache und Kultur 18, 大阪外国語大学ドイツ語研究室,1984)に収録している。

[29] Hiroshi Yagi, Hermann Bohner – Japanolog und Germanist, S. 191 これは『日本とドイツ(1)』大阪外国語大学発行にある。

[30] 八木浩の遺稿から

[31] Robert Schinzinger, ebenda, S. 21

[32] シンチンゲルは1923年に来日し、大阪高等学校(現大阪大学)で教え、東京に移るまでの19年間、そのうち4年間は隣人としても、ボーネル夫妻と親交を結び気心の知れた友人で、よき理解者であった。

[33] Robert Schinzinger, ebenda S. 25

[34] ボーネルの弟ゴットロープの妻ヘルタも来日すぐに六甲山系の摩耶山にハイキングに連れていってもらっている。

[35]この遺稿は、没後1969年に大阪外国語大学ドイツ語科研究誌Sprache und Kultur 5に掲載されている。

[36] Hiroshi Yagi, Hermann Bohner – Japanolog und Germanist, S. 192

[37] このエピソードを、シンチンゲルも八木も書きとめている。

[38] Robert Schinzinger, ebenda, S. 22

[39] 牧祥三や八木浩は、このような表現でボーネルの不安定な気分を回想している。

[40] 以下の叙述については、同上,S. 22, S.25ff.による。

[41] 1934630日にヒトラーは、ナチス内でナチス突撃隊(SA)についての意見の対立者であった突撃隊参謀長エルンスト・レーム(Ernst Röhm)を反乱の廉で粛清をした。レームが以前から同性愛者であることが知られていたので、事件後反同性愛キャンペーンがナチスによって強められ、男性間のホモセックスを犯罪とした刑法175条による摘発強化がなされた。175条は1872年に制定され、1994年まで存続していた。

[42] 1952年にボーネルが在日大使に提出した経歴の補足説明から。この補足説明文書は1954年にボーネルが授与されたドイツ連邦共和国の功労十字勲章にかかわってのことであろうと推測できる。

[43] ディートリッヒ・ゼッケルは1937年から1939年まで広島の高等学校で教え、その後浦和高校、東京帝国大学、外務省でドイツ語を教えた。戦後教授資格をとり、ハイデルベルク大学で東アジア美術史を教えた。ここでのゼッケルの発言は、荒井訓「終戦前滞日ドイツ人の体験―「終戦前滞日ドイツ人メモワール聞取り調査」―」(『文化論集』、早稲田商学同攻会、16巻から21巻、1999から2002年に掲載)筆者はWeb上に挙げられている早稲田大学リポジトリ(DSpace@Waseda University)で同論文を参照した。

[44] 26の経歴補足説明

[45] 同上

[46] テオドール・ボーネル(18821963)は、ガーナのアボコビで生まれ、ボーネルと同じくバーゼル伝道団の寮で過ごした。フライブルク大学で学位を取得後、ローマのドイツ学校の校長などを勤めた。33年までドイツ作家保護同盟の会長をつとめ、ワイマール共和国での文化政策に取り組んだ。戦後は作家保護同盟を再生させ、1953年から名誉会長となっている。彼は『神の靴職人』という表題で父親の伝記を書いている。

[47] 荒井訓の前掲書104ページ

[48] 東アジア研究者Wilhelm Gundert (1880-1971)は、1906年に宣教師として来日。内村鑑三と親交を結んだ。東京、熊本、水戸でドイツ語を教え、帰国後ハンブルク大学の教授、1938年から41年前学長を務めた。彼はナチス党に入党していたので、1945年に教職を失った。グンデルトはボーネルを追悼してOriens Extremus 11. Jahrgang Heft 1 Juli 1964に心温まるHermann Bohner zum Gedächtnis”を寄せている。

[49] Robert Schinzinger, ebenda, S. 24

[50] 1965年卒業の門脇徹の記憶

 

(本論文の冊子版『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』の参照・引用文献中、Hermann Bohner, Aufzeichnungen zu meinen Lebengaengeは、小阪清行氏の指摘を受けBohnerのタイプ原稿を精査したところ、筆者の解読間違いであることが判明した。正しくはAufzeichnungen zu meinem Lebensgangeである。本Web版では、修正したものを載せている。)