『ラーガーフォイアー』連載記事「松山」

 

翻訳:冨田 弘  編集・解説:川上 三郎

 

解説

 元豊橋技術科学大学教授冨田弘氏(1926–1988)は板東俘虜収容所等で作られた印刷物や書簡を多く翻訳されているが、そのほとんどが未公刊である[1]。それらを埋もれさせるのは非常に残念な気がするので、この誌面をお借りして、一部を公開させて頂きたいと考えた次第である。まずは、松山俘虜収容所新聞『ラーガーフォイアー(陣営の火)』掲載の「松山」という連載記事から始める。全体の分量が多いため、3回に分けて掲載していく予定である。

 『ラーガーフォイアー』は松山俘虜収容所において 1916(大正5)年1月27日から、板東に移る直前の1917(大正6)年3月25日まで発行されていた週刊新聞である。ただし、最初の5号まで出たところで、収容所命令で発行禁止となったため、以後最後まで秘密裏に少部数コピーされて回し読みされていたものである。そして板東に移ってのち、1919(大正8)年に復刻版が出版された。鳴門市ドイツ館はオリジナルと復刻版の双方を所蔵しているが、冨田氏訳の底本は復刻版の方である。

 「松山」をタイトルとする記事は、『ラーガーフォイアー』第一巻の第3234363839号の5回にわたり掲載されたもので、序説、地理、気候、市街と周辺、動植物、歴史と民族、商工業などをテーマとする論考となっている。

 ここでは、原訳を次のような方針で編集し直して掲載している。

 漢字と送り仮名についてはそのままとし、半角カタカナはすべて全角に変更した。動植物の学名についてはいくつか転記間違いや遺漏があったので、原文に照らし修正した。それ以外に、訳や字句を修正した方が良いと思われる個所もないではないが、数カ所を除きほとんど手を触れていない。さらに、一部の難読漢字についてはルビを追加した。脚注は川上によるものである。

 原訳は原文のページにできるだけ対応するようにページの体裁が整えられている。しかし、その割り付けにはそれほど意味がないので無視し、同時に改行位置も無視した。

 原訳にある[ ]の使い方には一貫性が無く、難読地名に対する読みを表示する場合や、原文で日本語地名などに対するドイツ語訳であることを表す場合など、いくつもの使われ方をしている。そこで、これを次のように変更をほどこした。

読み                                           ルビ

地名等の独訳(の和訳)                          

解説や補足                                

それ以外                                   

 なお、原訳中の( )はすべて原文の( )に対応していて、変更は加えていない。
32號                   松山、日曜日、 191693

 

松 山

 

 以後上記の題目で短かい間を置いて、若干の考察と研究を五部に分けて発表の運びとなった。言及している領域を正当に評価できるようにするためには、これらをより広範な我々の周辺という枠を設定して、あるいは日本全体と結び付けて、取り扱うことがどうしても必要となった。さらに私は強調して置きたいと思うのだが、この研究作業ができたのはもっぱらシュテッヒェル大尉によって数多くの日本語文献が翻訳されたこと、また読者の中の数人の友人達が、特に予備役少尉ミュラーが助力を借しまなかったことによるのであって、これに対してはこの場所を借りて深く感謝の意を表明したい。第二部の筆者は海兵隊兵卒クラウトケである。

                             ブッターザック。

 

 

主 要 文 献

 

1.パルツォフ             Palzow                    日本帝国

                                                     Das Kaiserreich Japan

2.チェンバレン         Chamberlain           日本あれこれ

                                                          Allerlei Japanisches

3.ハウスホーファー  Haushofer              大日本

                                                                     Dai Nihon

4.市役所                                                   松山年代記

                                                                     Matsuyama Chronik

5.ハックマン             Hackmann              仏教

                                                                     Buddhismus

6.ピッシェル             Pischel                    仏陀の生涯と教え

                                                                     Leben und Lehre des Buddha

7.ラートゲン             Rathgen                  日本人の国家と文化

                                                                     Staat und Kultur der Japaner

8.同                                                      日本人とその経済的発展

                                                                     Die Japaner u. ihre wirtsch. Entwicklg.

9.シラー                    Schiller                   神道

                                                                     Shinto

10斉藤                       Saito                       日本史

                                                                     Geschichte Japans

11Journal of a Russ. Bus. wife

                                                                     As The Hague Ordains

12.ライン                    Rein                        日本、第二部土地

                                                                     Japan, II. Land

13.タケノベ                Takenobe                日本年鑑

                                                                     The Japan Years Book 1915

14.マレー                    Murray                   日本旅行ハンドブック

                                                                     A Handbook for Travellers i. Jap.

15.ムンツィンガー     Munzinger              日本と日本人

                                                                     Japan und die Japaner

 

 

 

序 説

 

 「松山、四国の島にある伊予の国の落ち着いた古い都、非常にこざっぱりしていて、人口37 842。この市街地の中心には、1603年に建てられた古い大名の城がそそり立っていて、すばらしい展望をしている云々」こんな風にマイヤーの世界旅行には記述されているのを友は読むが、ここで我々はもうすぐ丸二年もの間の生活を強いられている。二三時間もすればこの友人はこの土地の見所を知ってしまうだろうし、ひょっとしたら足を伸ばして道後へ寄道をするかもしれないし、それから又躊躇なくさらに素敵で興味ある地方を訪れることになるだろう。しっかりとした予備知識と十分な時間がある場合には、この島からなる帝国の人と土地について一定の見方を形成することは、こうした世界旅行者にとって容易なことである。

 我々がこの「日出づる国」中国語に由来する語ヤーパン(日本語ではニホンまたはニッポン)を自由に翻訳すればこうなるについて知っていることは、ほんの僅かである。

 輸送の途中で我々は遙かかなたにコレーア(日本語では朝鮮)「朝焼けの国」を見たが、日本はこれを1910年植民地保有に付け加えた。その後朝鮮海峡の島対馬を通過したが、この島の近くで1905年5月27日日本の提督東郷がロジェストウェンスキー率いるロシア艦隊を殲滅したのだし、これによって日本は一気に東アジアの支配的勢力に伸し上がった。航海すること二日半の後我々は「旧日本」の最初の陸地を認めた:左手にホンドもしくはホンシュウ(「主たる土地」)、右手にキュウシュウ(すなわち「九つの国」)である。一部は本当に絵のように配置された数多くの島々の横をかすめ、やがて我々の船は下関の海峡へと曲がって入ったが、海峡の北岸に同じ名前の町がある。今日なお小さな寺が、1895417日中国と日本の間の講和条約調印の場所を示している。この町の真正面には濃い煙に覆われた、日本の主要な石炭積出港の一つである門司がある。ありとあらゆる種類の船舶や、両岸と海上の活発な動きから膨大な取引活動の様子が分るが、これは北や南への数本の鉄道網に恵まれていることにもよる。門司の沖合いからは1864年イギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が、一切の文明を峻拒してアメリカの商船を破壊したことに対して懲罰を加えようとして、海岸の様々な場所を砲撃した。いつでも敵の船が海峡を航行するのを封鎖できる数多くの沿岸要塞砲兵隊の大砲の下沿いに我々はそれから内海に入り、航海第四日の午後高浜を経て目的地に到着した。

 それ以来我々のうちの多くは「大日本」に事細かにかかわってきた、その言葉さえ研究した者も多いが、虜囚の苦悩と悲哀を我々全員になめさせるこの国になんらかの関係を有するすべてに対して全面的に拒否的な態度を取った者も多い。

 にもかかわらず、我々がすでにこれ程長期にわたって生活することを強いられてきたこの土地の地理的な位置や歴史、文化の姿を描き出してみるのは、我々の中の誰にとってもやはり当を得ているとしていいだろう。以下において私が試みてみたいのは、私のとぼしい見聞と僅かな住民との接触から、関心ある人一般に知らせることができるすべてのことを、論文に纏めてみることである。取り上げた題材は多くの点でさらに価値を増すと思われるのは、この地域以外の日本に対しても多くの推論を許し、あれこれの地域にたいする研究を触発することになるからである。

 したがって我々が世界旅行者の眼で人と土地を知ることはできないとしても、やはり注意深い観察者は、この国の姿を描き出し、それによって以前の体験と知識の枠内で己の視野を広げることは容易にできる。以下の論述は当然のことながらごく一般的に論じたものであって、余すところがないとか、学問的な記述であるなどという口幅ったいものでは毛頭ないのであるが、こうした目的により近付くものであって欲しい。

第 二 部

(地理気候市街と周辺)

 

1. 地理

 まず最初に、マツヤマ(すなわち松の山)がその南半分に位置している全土の地理的位置に眼を向けることにする。約600の比較的大きな島からなるこの地域は北緯52度から22度まで広がっている。これに相当する長さを西半球に移してみれば、日本の北限は凡そErfurt(エアフルト) あたりとなり、その南限はナイル上流のワーディハルファ付近となるだろう。

 しかし日本人自身は北にあるサハリン(樺太)と南の回帰線を越える所まで達しているフォルモーサ(台湾)とを「元来の日本」とはしていない。これは周辺地域を入れないで凡そ340 000平方kmあり、したがって315 000平方kmの英国本土を面積において大巾に上回っていることになる。周辺地域の第一には218 000平方kmの朝鮮があるが、これらの地域を算入してみると、日本の全領域の面積は670 000平方kmとなる(ドイツは540 000平方kmである)。

 (略図2)この島国全体で我々にとって最も関心のある島は四国(四つの国)であり、この島の北西の海岸から程遠くない所に我々の街がある。本土と九州とともに四国は「旧日本」を形成しているが、当然のことながらこれにはまだ膨大な小さな島々が付属している。四国は所属している74の比較的小さいけれども、人の住む島を持ち約18 000平方kmの面積があり、したがってヴュルテンベルク王国(19 000平方km)の大きさに匹敵するが、日本帝国全体の2.72% を占めるに過ぎない。

 日本はその内政のために(北海道、樺太、台湾などを除き)43の県もしくは管区に分かれ、故国の政府管区とその大きさでは同等となるが、その中の四つが我々の島に振当てられている:エヒメ(すなわち「愛しき姫」)、コーチ、トクシマ、カガワである。

 日本の他の地域ではこうした「県」と純然たる昔の「国」とをはっきり区別しなければならないのに対して、四国ではこの二つの区分けの境界が全く重なり、上に掲げた県名の代りに伊予、土佐、阿波、讃岐を置くこともできるが、実用上の意味はしかしもはや何もない。各県はまた数個の郡もしくは行政区画に分けられ、愛媛は12の郡を持っている。

 松山は愛媛県したがって同時に伊予の国の都である。この県は5 200平方kmあって、ヤークスト区画もしくはプファルツとほぼ同じ広さである。北緯34度線のすぐ南に位置しているので松山はヨーロッパの南端よりも、また北緯36度にある青島よりも南にある、つまりフェース[モロッコ]ないしはベイルート[レバノン]と同じ緯度上にあることになる。

 略図1が示すように、我々の俘虜収容所は大抵日本の南部にある。こうした処置は結構寒い冬期と、冬のことを殆ど計算してない上に我々が慣れていない宿舎の事情を考慮して取られたのであろう。

2.気候

 日本の気候はその地理的位置に対応し、並み外れて長く伸びた国土の形状の故に熱帯的な南部台湾から温和な北部地域に至るまでのあらゆる段階の気候を呈することになる。一般的にはほぼ同じ緯度にある地中海諸国ほど暖かくはない。我々の地区の夏の暑さは例えばフローレンスと比較できる程度であろう。しかし冬の温度はイギリスの南部沿岸の地区を比較の対象として選ばなければならないだろう。

 このような大きな違いの原因は、温暖たらしめる海洋と一緒になって日本の気候を特徴付ける季節風モンスーンにある。炎熱の夏期の間はアジア大陸の空気が熱せられる。その結果、膨張する地域的空気団がその上層気圏において比較的低温の領域へ流れ落ち、同時に比較的低温の空気層は海を越えて大陸へ押し寄せることになる。

 反対に冬期にはアジア大陸上空の空気団は強烈な冷却を受ける一方、海上にある空気層は長時間にわたって海水によって暖められる。したがって冬期には反対の空気の流れ、すなわち陸から海へが見られることになる。

 当然のことながら海から来る風は高い湿度を伴うのに対して、陸からの流れは一般的に乾燥しているという特徴がある。したがって我々は日本では夏の間は降雨を、これにたいして冬の間は乾燥を覚悟しなければならない。

 最も湿度の高い二つの季節は:

     六月中旬から七月初めまで

    と九月初めから十月初めまでである(表参照)。

 この第二の期間には屢々大きな渦巻嵐、いわゆる台風が出現するが、これは南方から来襲し、フィリッピン、台湾を経由して日本にまで延びてくる。

 松山はすでに屢々この嵐の被害を受けている。殆ど毎年台風は我々の地方に来襲し、潰滅的な損害を与えたことも度々あった。この街の年代記は「石手川」の大洪水とそれに伴う住宅と作物の破壊の数回の実例を掲げている。他方では、一年を通して雨らしい雨がない、ということも起きている。この結果は日本人にとって不可欠の米の収穫が全く潰滅することと共に広い範囲の飢饉であった。

 降水量全体にとって特徴的な事実は、本州内陸部と同じく瀬戸内海を囲む地域はこれ以外の沿岸地域よりも降水量が少ないことである。自然現象としてのこの原因はこの島国の周辺山岳の山腹に降る上昇雨である。

 四国は旧日本の島の中では最も暑い地域とされている。特にその東と南の海岸では多くの点で亜熱帯の特性を示しているが、これは温暖なクロシオ(黒い流れ)、日本のメキシコ湾流、に起因している。だから例えば土佐では年に二回米の収穫がある。樟、種々な肉桂

樹の種類や(シキミ)、その他多くの植物が常緑の森に自生しているが、こうしたものは本土では特別に栽培しないと生育しない。

 

 

 

 

 松山の気候は一般的には日本に当て嵌まることに対応している。湿度のある暑い夏はヨーロッパ人には健康によくない。特に神経質な人はこの季節にひどく苦しまされる。別添の当地の気象台の表が詳細を示している。しかし同時に指摘して置かなければならないことは、これらの表が過去二十年の平均を出しているだけなので、ある程度までしか有効性を持っていないことである。したがって例えば丁度我々の当地滞在中多くの日もしくは期間に迦かに高温であったり、低温であったり、降水量が非常に多かったり、少なかったりしてしまうということもありうる。松山の年平均気温は摂氏14.79° となっている。

 年平均気温が摂氏8–9° となるドイツでは対応した計算をするとライン管区の町村が摂氏、東プロイセンが摂氏6.5° を示している。したがって我々は遙か南方にあって、摂氏14–15° のフランスの地中海沿岸の町村、あるいは15.9° のジェノヴァないしは14.6° のフィレンツェのような都市を松山の横に置かなければならない。

 我々の地方の最も暑い月は摂氏26.2° の平均気温と摂氏26.9° の平均日中最高気温の八月である。これと反対にドイツでは摂氏18 – 20° の平均気温を持つ七月が最も温かい月となる。二月は四国にとって最も寒い月である。この時期の松山の平均気温は摂氏4.58°であるが、215日には摂氏+3.2°で温度計は日中平均最低になっている。したがってこの地方はその冬の温度の点でも、一月に西部ドイツでは+2°の平均気温、ヴァイクセル河東部では摂氏-2から-4½°の平均気温を持つ我々の故国を上回っている。

 松山における氷点下と降雪日数は、二月中が同じく一番多い。

 この地方の年間降雨量は1329.2mmである。これは日本の多くの他の地方と比較すると比較的少ないが、我々の故郷の地方と比べてみる時には、並み外れて多い。例えばベルリンでは540mmに過ぎず、北東ドイツでは500mmをいくらか越え、北西ドイツでは600mm少々、北海沿岸では800mmまでである。ただ1700mmのブロッケン山と2000mmの黒森〔シュヴァルツヴァルト〕山地の奥だけが当地の降雨量を上回っているに過ぎない。

 

3.市街と周辺

( 略図 4 )

 松山の街の姿は典型的に日本的であり、外面的にはなにも特別な特徴を示していない。ここでは中程度のヨーロッパの都市と同じような生活と活動を見出す。街路を歩いてみれば、いくつかの学校や病院、劇場、映画館、茶店、市場ホールに並んだ非常に立派な市場が一つ、外見上我々の関心をそれ以上は引き付けないような数多くの施設が見られる。人口45 000人の松山はしかしその面積に関しては故国の同じ規模のどんな都市よりも大きい。この原因は、地震、洪水、台風という日本での支配的な自然災害のため、建物が大抵は一階建てであることにある。家屋が弾力を持ち、揺れること、重い組積みをせずに建てられることが地震対策上必要である。一年の大部分の間地面が多量の湿気を含んでいるのと結合して屢々起きる洪水は、どの建物も支柱上に据えるのが合理的であると教えた。台風にも地震にも耐えるのは適度の高さの住居だけである。貧しい上にさらに過度に高い税金の重荷を負わされている住民の貧困は日本全国を覆っているが、この貧しさと伝統のためにこの松山でも家屋の多くは平凡な様式を呈している。全般的なこうした要素が日本人にこれまでの所安価で合理的な木造家屋に固執させてきた。一見石造と見えるものもさらに近付いて観察してみると、モルタル塗りの木骨構造であることが暴露される。当然こうした建築方法は火災の危険を多分に内包する。したがって多くの通りには半鐘を付けたいわゆる火の見櫓があり、火事の時には即刻打ち鳴らされ、危険に迫られた人々に急いで知らせるようになっている。

 ところで注意深い観察者は見逃しはしなかったであろうが、この街の殆どどの家もその屋根の飾りぶちに一連の、象徴化した水の印を着けた(三本の波もしくは水の線)丸瓦と平瓦を乗せている。火除けである。

 市街地の道路は大抵北から南もしくは西から東へ真直ぐ走り、松山の唯一の観光名所、すなわち実に見事な大名の城郭のある「カチヤマ」〈勝山〉を取り巻いている。松山コーエン、公園、を通って行くと、この町の名前の由来となった高く茂った松の間を抜けて城に至る。標高132mの山の上に堅牢な花崗岩の建造物がそびえ、三層の木と漆喰の上部構造物が頂きを飾っている。巨大な門が三つあり、城内区域に通じているが、城の一番高い先端はこの街の市域を抜きんでること152mである。この城自体は外見上、我々の注意を引くにふさわしいものを別に与えないとしても、ここで我々は全方向に対する本当に見事な眺望によって埋め合わせをして貰える。同時により広い周辺をいくらか詳しく見てみるのが最善となる(略図2)。

 さて北にはすでに周知の瀬戸内海の無数の小さい島々を展望する、遙かなたには日本の本土が黒々と浮かんでいる。殆ど我々の真正面にもちろん見えないけれども造船所や火砲工場のある日本海軍の基地呉があるが、そこでの砲声は約50kmという距離にもかかわらずよく我々の耳にまではっきりと聞こえてくる、似島は同じ要塞地区に属し、そこに日露戦争の初期には日本の大本営が設けられたし、さらに日本の主要名所である寺社の島、絵のような宮島もそうである。

 東の窓からは背後に長く連なる山並みが眺められ、その山々の間に1981mのイシヅチヤマ、石槌山が威風堂々そびえている。この山は我々の島で二番目の標高を持っていて、日本の他の六つの山に抜かれている[ママ]だけである。もっと手前の方に、森に覆われた低い山々に包み込まれて、日本で一番古い温泉である小さな道後がある。丸亀からさほど遠くない有名な琴平については後にさらに言及するが、これと並んで道後は、温度の高い温泉の故に四国で最も人に好まれる場所とされている。ここで神話時代にすでに日本の二神が湯あみをしたそうだし、この伝説時代に続いて統治した五人の皇帝もこの先例にならったそうである。卓越した旅館、あらゆる種類の浴場、かわいらしい施設が中規模の保養地としての必要条件を保証しているので、ここには大抵皮膚病やリューマチに苦しむ人々がやってくる。泉源は化学的成分や、温度によって色々な違いがある。一番良い浴場と見倣されるのは「タマノユ」〈宝玉湯〉で、最も効能が高く、一番設備も良いとされているが、一方の「イシノユ」〈石湯〉は摂氏44°の湯温で最高の温度である。一般的には湯治は安価ではない。一人分の費用は23円にもなる。

 道後の南端からうねうねと我々の街の南部へ高い並木の道が延びているが、この並木道はひんやりした水で我我を何度もさわやかにしてくれた「イシテガワ」[石手川]をかこんでいる(略図4)。

 南側には松山の広い家並みの海が広がり、そこから真直な街道が久万(クマ)町を経て土佐の国の県都高知へ通じている。背景をなすのは再び数多くの山で、その最も重要なのは大洲(オオズ)の町の近くにある神南(カンナン)山である。これと連なって西の方へ丘陵脈が伸びていて、四国東部の淡路島のように、日本の内海を南への狭い通路としてしまう程にふさいでいる。

 大名の城郭の天主閣からの最もすばらしい眺望を我々に与えてくれるのは疑いもなく西側の窓である。一面では、やがて帰国への道を取りたいものだが、その時の経路となるかもしれない道の一部をここで展望し、他方周防の海岸の前方に大島と瀬戸内海西部が特に絵のように美しく浮き上がって見える。さらに前面にはすでに我々が知っている港町三津浜と高浜を目にする。後者のすぐ背後には我々の分散収容所からも見える「小富士」がある。興居(ゴゴ)島のことを民衆はよくこう呼んでいる。

 松山の周辺には広い平野が広がり、その豊かな作物については農業を論ずる機会に更に立ち入って考察することにする。疑う余地のないのは、我々の街の周辺は真に美しいと言えることである。日本は風景の美しい地方に恵まれていて、住民はその魅力を大抵情趣溢れる伽藍配置や、趣味豊かな住居、独特な造園によって更に高めるすべを心得ている。しかし他方ここで強調して置くべきことだが、こうした美点はすべてその他の東アジアと比べて当て嵌まるに過ぎないのである。

 我がドイツの祖国は風景の美という点に関しては遙かに豊かである。我々ヨーロッパ人は先ず何時も異国的なものを見、美しい花や優美な寺院、子供の玩具のように思われる小さな木造家屋を見て喜んでいる。しかし我々のドイツの(カシワ)、ドイツの大寺院、ドイツの住居と比べれば、これらは皆どうということはないのだ!

 

32號                              松山、日曜日、 1916917

 

 

松山 第二部

松山の動物と植物の世界

P. Klautke(クラウトケ)

付 K. Freisewinkel (フライゼヴィンケル)の線画による絵4枚

 

 日本に足を踏み入れる旅人は植物世界の並み外れた多様さとその繁茂に舌を巻く。北の樅と松が、竹それどころか熱帯の棕梠と仲よく並んでいるのが見られる。棕梠の限界は我々の島四国の北を通っている。インドのような水田が我々の故国の大麦、小麦畑と交代するか連続する。その間で台湾にだけしか生育しないような樟の巨木が、深い涼しい樹陰を与えている。苔やその他の低度な植物以外の知られている植物の種類の数は3 000、つまり比較的大きな数になっている。森の樹木のうち、勿論朝鮮を入れて、日本はヨーロッパの85に対して186種をもっている。この原因は温和な気候に見出すことができよう、つまり降雨量に恵まれていること、アジア大陸やアジア南方の島々から植物の種類が移住し易くするのに都合の良い連鎖、すなわち島や列島があることである。当地の植物系の構成に大きな影響を確かに氷河時代も与えている。だがこの問題に立ち入るには紙面が足りない。若干のことだけ指摘して置かなければならない。日本の植物系は隣接するアジアの沿岸のそれと同じであるということである。朝鮮及び中国も植物学的に余す所なく研究された段階になれば、これまでよりも更に多くのことが、つまりここで土着(japonica)と見倣されている多くの種類が大陸のものであることが、明かになるだろう。今日すでに分っているのは、非常に分布している植物のいくつかが歴史時代になってから移入されたものだったことである。(茶の木は仏教と共に、橙もしくは蜜柑の木は八世紀に)

 一般論はここまでにする。私の記述は、当地で俘虜生活を送る全員に対する注意喚起のつもりなので、以後は庭や散歩で見たものや一般の目に触れるものだけに限定する。専門的に詳論しても門外漢にはやはり勝手が分らないので意味がないだろう。

 第一回の取入れはすんでいる。大抵は大麦(Hordeum vulgare)、しかも6-4-2列もの[2]、と小麦(Triticum vulgare)、パン用穀物として重要な二種が見られた。こうした畑はしばしば畦に植えた白い野菜豆(Thaseolus vulgaris)、いわゆるソラ豆(Vicia faba)や黄色の野良豆(Pisum satioum)に囲まれている。ごくまれに僅かな玉蜀黍(Zea mays)と中国北部では大量に栽培される高梁(Andropogon Sorghum)が見うけられる。比較的小さな面積に馬鈴薯(Solanum tuberosum)は植え付けられている。多分これは俘虜とここで暮らすヨーロッパ人だけのための筈である。馬鈴薯に近い植物、つまり茄子(Solanum melongena)、はこれに比してよく栽培される。我々は昨年の夏大量の紫色をした卵形の実を調理場に提供して貰った。ここで私は我々の食事に加工された野菜に触れておく。すなわち種々なキャベツ類、蕪玉菜、レタス、ホウレン草、蕪、人参(キャロット)である。また中国にもよくある薩摩芋(Batatas edulis)は日本では1698年に初めて移入されたもの、南京豆(Arachis hypgaea)もあるが、あまり見かけない。

 春小高い所から青々とした穀物畑を見渡すと、所々に小さな紫に輝く面が目にとまる。飼料植物レンゲソウ(Astragalus sinicus)の栽培である。これは野生もしくは野生化して道の縁や池、用水の岸辺にも見られる。

 農村出身者にとっては、穀物畑の耕作法が我国のと違うことが目に付いたことであろう。小麦と大麦は平らに鋤きならした平面に種を播くのではなく、高くした畝に振りまかれる。これには正当な根拠がある。人口密度が高く、山の多い国土の可耕地面積(12%に過ぎず)は僅かしかないので、農民は小さな自作農か小作人として、その農地で自分と大家族の生活を支えなければならない。だから所有地を可能な限り利用し尽して、なしうる限り多くの収穫をあげざるをえない。耕作地は殆ど例外なく沖積平野にあるので、我々の故国よりも遙かに大量の雑草が湿度と温度のある気候の中ではびこる。だから、穀物が雑草の害を全く受けないように、耕作しておかなければならない。その上ここでは降雨の回数も雨量も多いので、ゆっくり流れる水でも穀物には大きな害を与えることがある。だが畝の間の深い畦[3]に水が集まれば、小麦は乾いたまましっかり立っている。我々は全員畑の隅に多数の肥溜めがあるのを見ている。家畜飼育と牧畜業はないので、便所の内容物すなわち人間の糞尿が唯一の自然肥料となる。こうした耕作方法にあってはいわばどの作物も個々にまた反復して肥料を与えられる。人造肥料がどの程度になっているかは私は知らない。

 麦が実る頃にはすでに第二の収穫のための準備を我々は目にする。小さな面積の場所が冠水している。薄緑色の尖った苗、すなわち米の苗がここから発芽してきて、麦をとったあと移植できる程度の一定の大ききになっていなければならない。麦畑は収穫の後すぐに鋤き返し、表面を平らにし、冠水される。その後糞尿を投入すると均等に全面積に散らばる。完全に平らにした後苗の植え付けが始まる。あまり楽しい作業ではなく、照り付ける日差の下で、膝まで泥に漬かりながら、男女多数によって行なわれる。印をしっかり結び付けた竹竿が規則的な列にするのに利用される。平野で生育する米は水生植物である(Oryza sativa)。畑がなぜ常に水面下にあるかがこれから分る。この辺りには水を貯めた比較的大きな貯水池が散在している。こうした池から巧妙に設備した導水システムによって、テラス状の畑に水は引かれている。私が聞いた所によると、これはそれぞれの集落によって厳しい取り決めで規制されているので、勝手な灌漑はできないそうだ。

 10月末か11月始めに米は実り、収穫される。高度の高い所で定期的な灌水ができない地方では、収穫量の劣る陸稲(0ryza montana)が栽培される。

 水をかぶった、小さな区画に葉柄が5(フィート)にもなり、その葉は矢状の形態をしている植物を我々は目にする。これはLeucocasia gigantea [里芋]もしくは Colocasia antiquorum[八ツ頭]である。前者は緑色の葉柄、後者はいくらか小型で、葉柄は紫がかっている。この両者の丸っこくて肉厚の根茎を日本人は調理したり、乾燥保存野菜として食用とする。

 どの畑にもある小屋や垣根、家屋には巻き蔓のあるウリの一種が(Luffa cylindrica [ヘチマ])からみついている。キュウリに似たその実の内部は密度の高い繊維組織を持つ。熟した実はもぎ取られ、乾燥される。果肉状の中身を叩いて出すと、網のからまりが残る。このヘチマ海綿は重要な商品であって、浴用海綿、靴の中敷、帽子などに加工される。

 溜り水、特に日本式城郭の周りの濠や我々の収容所の庭園の池にも赤みがかった植物が敷物のようにが浮いている。ウキ草の一種(Azolla pinata)の個体が集合したものである。

 スイレンの一種のネルンボ、いわゆるロートゥスは特に仏教の教えでよくその名前が挙げられもし、また大きな役割を果たす植物(Nelumbo nucifera)[ハス]である。日影の池にその大きくて円形の、また種類によっては漏斗状の葉が浮かび、それらの間に華やかなチユーリップに似た花が立っている。

 日本人が高く評価するのは藤の花(Wistaria brachybotrysWistaria sinensis)であ



る。特にこれが植えられるのは水辺の園亭である。大きな房となって垂れるほの白い青色の花が葉の前に出てくるので、園亭が芳香を放つ青みがかったヴェールに包まれているように見える。

 池のほとりには種々のアヤメ類が見られる。この花も当地の民衆は珍重し、その時期に

は花を見にくる。

 秋は菊の季節である。我々はこれまでにいろんな展覧会で何度もその華やかな花に舌を巻いたものだし、ありとあらゆる形に、神様、船、橋などに仕立てられているのも見た。あきれる程の多様さである。あらゆる色があるばかりでなく、どんな形もある。違った色の五六種を持つものが多い。一本に1320の花を咲かせた例さえある。また別な場合には全エネルギーがたった一個の花に集中させられ、頭ほどの大きさのすさまじい怪物となってくる。ここで私は、日本人が一年の間に鑑賞する花を順を追って挙げてみる。

1.白梅  Prunus domestica)(一月から三月始めまで)

2.桜   (四月始め)

3.芍薬(シャクヤク)               Paeonia officinalis)(四月末)

4.藤      (五月の第一週)

5.躑躅(ツツジ)  (五月の前半)

6.菖蒲  (六月の前半)

7.朝顔  (七月末から八月)

8.蓮   (八月初め)

9.菊   (十一月初め)

10.秋の木の葉の色、特に楓(Murrayによる)

 日本の風景は竹藪を抜きにしては全く考えられない。竹は非常に早く成長(24時間の内に2–3(フィート))する草の一種であり、一夏の間に完全な大きさとなる。竹と呼ぶ種には異なった三つの属がある。日本の植物学者松村は多数の変種を除いて50種を数えている。その内の39種は土着で、その他は種々な時代に朝鮮、中国、琉球列島から産業用ないしは鑑賞用植物として導入された。一般に考えられているほど竹は気象の影響に対して全然敏感ではない。背の高い竹は冬に数呎の積雪のある地方にある。

 日本は竹という形で自然の貴重な贈物を受けている。その用途は非常に豊富なので、竹なしでは日本人は殆どやっていけない程である。重い荷物の運搬、洗濯物を干す棒として、旗竿、屋根の樋、水の導水管、家屋の骨組みの支柱として、また船を前進させる竿として比較的大きな種類が利用される。いくつかの種類の芽は煮て食用となる。さらに多様に加工されて日用品となる。チェンバレンは、「筆軸、箒の柄、散歩用杖、傘の握り、さらに傘の骨、釣竿、鞭、梯子、物差、作業用帽子、牡蠣を捕える籠、食用海草を取り上げる籠、また家屋周囲の垣根、川の土手(このために大きな石が竹籠の中に包み込まれる)、ベランダや茶室の装飾的床、旅行用行李、松明、箸、槍、鳥籠、魚籠、笛、ラッパ、額縁、樽の(タガ)、さては釘まで、杓子、茶匙、(フルイ)、鎧戸、扇子、花瓶さえも、無数の種類の工芸、玩具、装飾品に使用する様々な種類の特殊な道具。若竹の茎の皮を干したものは握り飯や肉、食物のような物を包装したり、下駄の上張りや草履を作るのに使われる。竹を裂いて編んだものは非常に強力な綱となり、綱渡し船に使ったり、田舎では橋を造るのにさえ利用される。ある種類は煮沸によって引き伸ばされ、非常に珍重される盆にもできる」、と紹介している。この一覧表を以てしてはとても用途の可能性すべてを網羅できないほどで、さらに多くが追加できることだろう。だがどんな素材もこれほど安価で、しかもこれほど加工が容易なものはない。

 我々の島の低緯度地方は亜熱帯性を持っているので、常緑の灌木や樹木が沢山ある。椿(Camellia japonica)と茶の木(Thea sinensis)、石南花と躑躅、柘植、テンニンカ、月桂樹(Laurus nobilis)、多数のこれに似た種類、また特に橙とオレンジの樹がそうである。この二者は中国が原産地で、そこから地球上の比較的温暖な地方に広がった。我々全員は二月から四月まで暗緑色の葉の間から光輝いてくる明かるい緑の果実を冬の果物として賞味することを知ってしまっている。三種類の違ったのが松山で見られる。レモン(Citrus medica)の大変種(果実の厚い皮から砂糖漬けがえられる)、本来の橙(Citrus aurantium)及びマンダリーネ(蜜柑)と呼ばれるCitrus nobilis とその変種の実である。

 その他の果物の種類の中で、もう一つ言及して置かなければならないのは枇杷(Eriobotrya japonica)である。枝の端の長くて強い切込のある葉の間に十一月末から十二月までの時期に白っぽい花が姿を現わしてくる。(開花時期は二月まで伸びることがある。)五月と六月にぎっしりもつれて集まった黄色の果実が熟してくる。非常にみずみずしく美味である。

 光沢があって赤く輝き、スモモの実に似た果実なので柿の木(Diospyrtos kaki)が七月と八月に[ママ]人目をひく。

 並木道にはすべて、特に公園には日本の桜(Prunus pseudocerasus)の本が植えられている。別にその実のためではなく、花のためである。四月始めに素朴な花が葉の前に咲き出す、満開はいくらか後になる。そうなると日本人は家族総出でやってきて、春めいたみずみずしい草の上に陣取り、咲き誇る花の匂いを楽しむ。桜の花はちょうど我々のバラと同じような役割を日本の国民生活の中で果たしている。日本の詩人は古来桜を賛美してきた。本居[宣長]は高らかに歌う、「真の日本人の精神を誰かに尋ねられたら、陽光に輝く山桜の花を示せ」[敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花]。またある日本の諺によれば、「桜の花は花の中の第一なること侍が男の中の男たるが如し」[花は桜木、人は武士]。

 桃(Perisica vulgaris)には多数の変種があるが、そのビロードのような皮をした果実は最も珍重される果物の一つである。

 棕梠では二種が見付かった。地中海地方を原産地とするチャボトウジュロ(Chamaerops excelsa)と4 – 5mの高さとなる大きい種(Rhapis flabelliformis)である。

 亜熱帯地方では古い時代の大森林は完全に伐採されてしまっている。見事な寺院の森だけがいにしえの美しい姿の面影を偲ばせている。今日では森林法がこうした乱伐を禁止し、むしろ組織的な植林がされている。我々の街の周りでは寺院附近以外に市南部の川岸にのみ樹木があり、これがこの地の北部で今日まで伸びた森林地をなしている。主として(ニレ)(カシワ)(ハン)の木である。個別的な種は非常に判別しにくいので、一々挙げず、我国では二種なのに対して日本では20種以上の柏があることにのみ言及しておくことにする。川岸の日当りのよい草地では大量にある草花が花を咲かせる。香りのよい待つ宵草(Oenothera odorata)である。

 (カエデ)の二種を私は特定した。一つは非常にかわいらしくて、葉の縁がしばしば赤みがかっているもので公会堂の庭にあり、Acer palmatum、もう一つはいくらか大きな葉をしたのが大林寺にある、Acer japonicum

 日本の他の地方で生育しているウルシの木に似たものが色々道後公園や収容所のどの庭にも自生している。これは主としてRhus silvestris Rhus trichocarpaである。後者の葉は秋に輝くほどの赤に色付く(公会堂の庭が一例)。いずれも強いかぶれ樹液を含み、木材染色剤に使う。

 凡そ池のほとりには長くて細い枝をした柳がよく立っている。これは我国では墓地によく見られる喪柳(シダレヤナギ)である(Salix babylonica)。

 日本で特に立派に見えるのは独特な公孫樹(イチョウ)Gingko biloba)である。我々の広葉樹同様に秋には落葉するが、葉は葉柄が長く、革状であり、またその根形と放射状に走る葉脈のために全く特別な姿をしている。学問的には、その外見と挙動からすると針葉樹と同じであるのに、繁殖器官からすると広葉樹に所属するだけに、非常に興味がある。つまり公孫樹は針葉樹と広葉樹の間の連鎖をなしている。

 耕作に適しない岡や山にはすべて松がある。主として葉の密集した松(Pinus densiflora)である。山にはかなりみすぼらしい印象を与えるが、川岸では相当な大きさと強さを見せる。

 その他の針葉樹の中では、特に城山と寺院の所に東洋の桧(Thuja orientalis)のいくつかの変種が、つまりこれに近い滑かなChamaecyparisと見事な喬木となるCryptomeria japonicaがあり、びっしりとした囲いになるように刈り込まれることもある。後の両方の木は漆器に特に適している。

 松、桃、楓その他は庭や鉢でその成長を人為的に押えられ、驚嘆すべき矯小形に栽培される。

 言及すべき特色ある草木がまだ数多くあるかもしれないが、一般的な関心を越えると私には思われる。これまでに触れた種類で、当地の植物界について一般的な概念を読者に与え、当地の植物世界に対する若干の関心を喚起するには十分であろう。

 植物誌と同じく日本の動物世界もアジアの隣接地域のそれと同じである。これに対する説明は前と同じでごく早い時期の年代における大陸とこの島国との関係、および両者間の容易な連鎖のためである。南北の広がりが熱帯の緯度から温帯地方のうちで最も寒い地域にまで達しているので、当然のことに動物世界の総体、特に低級なものはドイツよりも多様な構成となっている。

 さて我々は松山の動物のうちで何を見ただろうか。 故国にいる家畜、牛、馬、豚、猫、犬はすべてここでも見られる。我々が考えるような意味での牛馬の飼育はなく、広い牧場で草をはむ群れを見て楽しむこともないので、家畜の品質は故国のとは当然比較できない。日本人にとっては荷物を担ったり、引く動物に過ぎない。時に非常に立派なのがいることは、昨年の農業展覧会で目にした。ロバ、羊、山羊はいない。

 狐はほんのしばらく前に城山の麓に出た。山猫、狸、テン同様にまだ周辺の山にいると考えられる。猟獣つまり鹿、ノロ鹿、野兎、兎は完全に絶滅しているようで、少なくとも生きているのも死んでいるのも私の目に触れたことはない。コウモリは夕方パタパタしているのをよく見た。ここには十種いる。本当は有益なモグラはここでも野菜畑や麦畑を掘り返す。ハリネズミは日本全土にいない。大小鼠の害については私があれこれ言う必要はないだろう。収容所で十分に知っているからである。これで哺乳動物は出尽したことにしよう。少なくとも俘虜になってから私が観察できたのはこれで総てである。

 アトリの鳴声、ヒバリのさえずり、そもそも故国の鳥の世界の多声の歌声はここではあきらめざるをえない。日本ナイチングール(Cettia cantans)[ウグイス]を私は小鳥店を通り過ぎる折やいくつかの家で見たり聞いたりしたことがある。戸外での観察の機会はなかった。きっと山の渓流や平野の小川の茂みの中で生活しているのだろう。浮浪児雀はここでもいたずらをして回っている。我々の庭の垣根のイバラに雨蛙が突き剌きっているのを見れば、赤い背をしたモズ(Lanius collurio)の自己顕示とわかる。燕は家屋の骨組みにもその巣を造っている。ハシボソ烏とワタリ烏のしわがれ声が空を満たす。時おり鳶と鷹の姿が見える。殆ど定期的に公会堂を山家五位(サンカゴイ)〔サギ〕が通る。鳩とその他の食用鳥は家禽として飼育される。千鳥は川の下流の浅瀬でその姿を観察することができる。雉、アオ鷺、鶴は周辺にはいない。

 垣根では青灰色のトカゲ(EumecezもしくはPrestiodon aninquelineatus)が蝿、蚊、甲虫を狙っている。雄はその背中に四本の黒い筋、雌は茶色二本と黒二本の筋を持っている。石垣、岩(道後)や石には汚れた灰色のトカゲ(Trachydromus trachydromoides)の姿が見受けられる。長くて鞭のような尾が目立つのである。  灰色と茶の斑点のある日本守宮(ヤモリ)Gecko japonicus)は毎年夏我々の公会堂にお出ましになる。特徴のある構造をした脚部足先が円盤形をし、下面に膜様のブレードを持つことによって垂直の壁や部屋の天井を駆け回り、蝿や蚊を捕えることが可能となる。

 毒無し蛇の内では三種のシマヘビを確認した。体長5呎以下のElaphis virgatus は黒い縦縞を持つ灰色のもので、我々の庭の垣根や楓の茂みに生息している。今年は昨年ほど殺されなくなった。全く無害であるばかりか、むしろ有益だと、みんなが確信したようだ。比較的僅かしか見られないのは腹が白っぽくて、全体は茶色をした Tropidonotus martensi である。これも危険なものではない。田の側や中に体長3呎以下で上側は黒い斑点を持つ明かるい灰色で、下側は黒っぽい斑点を持つ艶のある赤の Tropidonotus tigurinus が見られる。

 日本全土には有毒の蝮(Trigonocephalus Blomhoffi)がいるだけである。我々の庭で見たことはない。しかしこれは周辺の岡や山の茂みと下草に出るそうだ。体長3呎以下であり、短かい尾と菱形でくびれた頭、灰色の背の黒っぽいうねり縞によって見分けるのは容易である。体の両側にある二本の縞は円形の斑点が作っているものである。

 ここの池では何度も日本の沼沢亀 Clemmys japonica を捕えたことがある。

 両生類の中では緑色の水蛙(Rana esuculenta)、茶色のエゾアカガエル(Rana temporaria)、雨蛙(Hyla arboria)、ヒキガエル(Rana vulgaris)を挙げておかなければならない。最後のは立派な大ききになることがある。池の泥の中には若干のイモリの類が生息する。

 日本の水域は中国と同じく世界で最も魚類に富んでいる。漁業と魚は日本の経済生活においては大きな役割を果たしている。漁業は膨大な数の住民に仕事と生計をまかなっている。魚は主要食糧の一部である。しばらくの間日本食を強いられたり、日本食の献立表を勉強した経験を持つ人は、魚また魚、生魚、焼き魚、干物のあぶり魚、すり身のダンゴなどがあるのに気付くだろう。日本の海には400種が生息するそうである。

 以下では、われわれの調理場へ提供されたもの、したがって誰もがいやになるほど食べもし目で見る機会があったものだけに限定する。日本の魚の王様、最も美味で最も尊重される肉を持つ鯛から始める。鯛のことを日本のある諺はこう言っている。「それが腐っている時でさえ依然として鯛である[腐っても鯛 ]。」数種あって、大抵は淡紅色で、下面は青味がかっている。ウミスズキ類Pagrus cardinalisである。鯛と以下に述べるものは棘鰭(キョッキ)目に属し、解剖的には浮き袋管のない魚に属している(Acanthopteren)。その他のウミスズキ類の中で我々が食べたのはイサキ(Pristipoma japonicum)、ボラ(Mugil cephalotus)、ニベ(Soisena japonica)である。長さがたっぷり一メートル、重き約40〔ドイツ〕ポンド[=20kg]のニベが一本だけで公会堂全体の夕食をまかなったことがある。サバの一族は40種ある。我々が見たのはその中でアジ、馬サバ(Trachurus trachurus)、サバ(Scolba colias)と三種の鮪、すなわち背中の中に長い虫を持った大小のイルカと我々が名付けたブリまたハマチ(Seriola quinqueradiata)、鮪(Thynnus sibi)と鰹(Thynnus pelamys)である。

 軟鰭類と浮き袋管を持つ魚(Physostomen)の内で我々は秋に一種のイワシを買うことができた。鰻は残念ながら調理場ではあまり料理されなかった。海の鰻ウミウナギ(Mysuf urapterus)とウナギ(Anguilla japonica)である。ここで私が触れておきたいのは池で飼育されている鯉(Barbus fluoiatilis)、金魚(Tinca vulgaris)、多数の変種のあるヴェールの尾(Carassius auratus)である。最後に、まれではあるが、我々の調理場で見られる飛ぶ魚トビウオ(Gypselurus agoo)をもう一つ挙げておく。

 日本の昆虫の世界は並み外れて豊富である。甲虫と蝶は十分研究され尽しているが、それ以外はまだまだである。今までに約140種の蝶と約4 000種の蛾が知られているが、これはヨーロッパの約23倍である。したがって個々の種を私が呈示できないのは明らかである。仲間の中の蝶や甲虫の収集家は、蝶と甲虫の世界がどれほど多様であり色彩豊かであるのか、自ら確信したはずである。そこで私は自分で観察してみて、一般の関心を引いたものだけを幾つか取り上げてみる。甲虫類では池の中で非常に多く見られるゲンゴロウダマシ(Dyeticus marginalis)と、比較的大きくてまっ黒なゲンゴロウ(Hydrophilus piceus)を挙げておくべきであろう。

 蜂はめったにいない。時折花に小さな黄色がかった茶色の種類が見受けられる。マルハナバチとスズメバチ類はちゃんといて、しばしば大きくて恐ろしいスズメバチ(Vespa crabro)がいる。蟻では黒蟻二種、大きくてしばしば樹木に出てくるのと、小さくて特に屋内に姿を見せて嫌われているのを見た。

 家蝿(Musca domestica)はよく出る。だが私見では故国の農村地方ほどうるさくない。その理由は牧畜がないことによるはずである。つまり糞が幼虫の孵化所となるからである。この理由から虻の類も少ししかいない。蝿類ではセンブリ(Eristalis tenax)は少なくとも公会堂にいる。汚水に生息するその鼠尾状幼虫はもっともよく知られている。幼虫の長細い尾は数cm伸び、水面に届いて呼吸管となる。潜望鏡を水の上に出し、見張をする潜水艦にこの幼虫は比較されるのも尤もである。

 まとめて蚊と呼ばれる種々な刺す虫が大きな災厄をなす。ハマダラカ(Anopheles)もその中にいる。幸いマラリアはここの風土病ではなく、温暖緯度のこの熱病を我々は恐れなくてもよい。

 夏季には人蚤(Pulex irretans)が我々の最大の悩みの種となる。南京虫は日本全土にいない。植物に付く油虫は多い。池の中にはこの一種であるタイコウチ(Nepacinerea)が生息している。

 七月と八月には樹上の蝉(Tettigia orni)が騒々しくわめき立てる。

 直翅類ではキリギリス(Locusta veridissima)を見た。これと近いのに鳴声で知られるコオロギ(Gryllus)がある。地面からよくケラ(Gryllotalpa gryllotalpa)が出てくるが、前足はモグラのようにシャベル状になっている。特に面白いのはカマキリ(Mantis religiosa)である。前足が獲物を取る足に変身していて、鋭い棘を備え、ナイフのように打ち込むことができる。これは蝿その他の昆虫を捕獲する場合の捕獲器官の役割をしている。

 よく庭で、ごくまれには屋内で毒々しい赤い足をした大きなムカデ(Scolopendra)に驚くが、その顎足の刺突は無毒ではない。

 引水、垣根、家屋の大量の巣網から当地に生息する蜘蛛が非常に多いことを推論できる。特に垣根にとどまっている小さなタナグモと、私はまだその名称を確認できなかったが、腹部に黄色と黒の縞のある大きいのにだけ言及しておきたい。

 淡水、海水の蟹が海老と共に日本の水域に住みついている。我々の調理場にイセエビ(Palinurus japonica)が提供されたことがある。注文すれば以前はクルマエビ(Peneus canaliculatus)を買うことができた。ここで私はさらにワラジムシ(Asselus aquaticus)の名を挙げておく。昨年大量に出てきたので、我々の調理用井戸が汚染されてしまった。

 カタツムリや貝には陸上でも水でも山ほどぶつかる。ドゥンカーは軟かい動物(軟体動物)の凡そ1200種について記述している。ライン博士はこの数字を少な過ぎるとしている。街の通りで私はよく露天の魚屋で色んなイカ類を見た。日本人は好んでこれを食べる。

 ミミズを私が触れる最後の動物とする。さてそれ以下の動物の綱や種は大底の場合ひどく小さいので直接観察されることはない。この小動物の世界こそ並外れて豊かであり、なお多くの興味ある動物の名を挙げることができるだろう。だが残念ながら分類にどうしても必要な補助手段である顕微鏡が私にはない。(高級検閲官の命により返送された)。

                               クラウトケ。

 



[1]  冨田弘著『板東俘虜収容所日独戦争と在日ドイツ俘虜』1991、法政大学出版局 にそのリストがあるので、参照されたい。

[2]  それぞれ六条麦、四条麦、二条麦を指す。

[3]  これは誤用。畝と畝との間の低い部分を指すので、「畝間」が妥当だろう。