1.マーティンの『万国公法』で「俘虜」の訳語
 
「俘虜」の言葉は、国際法の原典 Henry Weston Elements of International Law を、William Martin(中国名: 丁?良)が『万国公法』の漢訳(1864年)で、 Prisonersof Warを「俘虜」と訳したのが最初とみられる。「捕虜」を使わず「俘虜」を使っている。古くからの漢籍の図書に見られる「俘虜」の文章には慈愛をこめた描写がある。その一方「捕虜」は斬首など非人間的な表現が多い。マーティンの『万国公法』の第二章第三節の「互換俘虜」は戦闘当事者間の平和的な「俘虜」の交換を論じている。「互換捕虜」とは書いてない。『晉書』伝記「祖逖」に「幸哉遺黎は俘虜を免ぜられ」など温和な表現がみられる。一方「捕虜」については、『漢書』「匈奴伝上」に「斬首捕虜九千人」と書いてある。「斬首俘虜九千人」とは書いてない。あるいは「首慮率」とは「斬首捕虜の功績を定める法令」(『史記抄 15』)のことであるなど。残忍な表現には「捕虜」が常用らしい。総じて残忍冷酷な扱いの表現が目につく。
 
 
2.西周の『畢酒林民万国公法』でも「俘虜」の訳語
 
日本の最初の国際法は、西周の『万国公法』(全4巻)といわれるが、彼はオランダのライデン大學で学んだSimon Vissering (フィッセリング)のノートを幕府で講義し、これを『畢酒林民万国公法』(1868年)として刊行した。ここでも「俘虜」の言葉が使用されている。同書 第二巻 第三章「戦権ノ条規人身上ニ係ル者」の項目で「俘虜」取扱いの6項目を提示している。つまり階級に応じて給与を支給し、病人には看護治療をせよ。下士官以下には労役を課してもよい。将校は拘束せず生活に自由をあたえよなど6項目。後年の俘虜の諸規定の基本を提示している。「捕虜」の諸規定ではない。
 
 
3. 明治・大正の軍やマスコミは「俘虜」を使用
 
西周は幕末と明治初期に西洋の軍政や法制などの翻訳の仕事を任された。西周自身の「俘虜」の言葉の意味や用法などについての考察記録は確認していないが、しかし「俘虜収容所」や「俘虜情報局」も彼の造語か翻訳語が影響したと思われる。軍の文書は勿論大正時代俘虜の動静を伝える新聞記事は「俘虜」あるいは「俘虜君」と書いた見出や記事になっている。
 
 
4. 軍国主義の進展で「俘虜」から「捕虜」へ
 
西周は『万国公法』の漢訳者、ウイリアム・マーティンの訳を踏襲したと思われるが、Prisoner() of Warを「捕虜」ではなく「俘虜」の言葉にすることによって、近代ヨーロッパのヒューマニズムを基調とした国際法の精神に適合同調する表現だと考えたように思われる。しかし満州事変以降、日本の軍国主義化が進む中で「俘虜観」は転換し、俘虜の非人格化や蔑視感が醸成されていった。マスコミの用語も時代の趨勢とともに、「俘虜」から「捕虜」に転換してきた。「捕虜」は、例の戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」につながる。青島戦では「捕虜」ではなく、この「俘虜」の言葉が相応しいと私は考えている。
                                           
 この「俘虜」の訳語のそもそもの誕生経緯については、唯一俘虜研究家の茶園義男編・解説の文献を探しえたのみである。それによれば「・・・直訳すれば、“戦争囚人”であり、後の『戦陣訓』にみる“慮囚”に近いが、要するに“捕虜”である。しかしながら、国際概念を含む用語としては何れも妥当を欠くとの見地から、敢えて「俘虜」なる語が、公式的には採用された」と、解説している。(『俘虜ニ関スル諸法規類聚』不二出版 1988年)