「松山・板東収容士官シュテヒャーの明治天皇拝謁を巡って」
 
岡山・松尾展成
 
 松山・板東収容士官ゲオルク・シュテヒャーは以前に明治天皇に拝謁した,と記されることがある.才神時雄,『松山収容所』,中央公論社,1969年,148ページは,シュテヒャーが1910年12月,日本軍部隊派遣からの「帰国に際して駐日ドイツ大使とともに宮中に伺候し,明治天皇の拝謁をたまわった」,と書いている.田村一郎,『板東俘虜収容所の全貌』,朔北社,2010年,23ページにも,彼の「帰国に際しては,[明治]天皇が直々に謝意を表明したとも言われている」,とある.いずれにも,典拠は示されていない.
 これに関して愛媛大学法文学部の森孝明氏は『海南新聞』(松山),大正3年11月23日の記事,「嗚呼感慨無量 ステツヘルの今昔談」と同年11月29日の記事,「ス大尉三度明治[天皇]陛下を拝す.彼の父は有名なる醫學博士にして兄弟三人は皆軍人」のコピーを早くに送ってくださった.本稿の完成が遅延したのは,筆者の長い体調不良のためである.
 
(A)以下に11月29日の記事をまず紹介し,それに関連する事実を記す.
 
(1)
 [松山]「山越來迎寺収容の俘虜將校中最日本通たるステツペル大尉」の「告白及び東京世田ケ谷野砲兵聯隊在隊中に於ける消息通の報ずる所を綜合」すれば,「彼の嚴父は有名なる醫學博士で或は病原研究所の主任となり[,]或は醫科大學の教授となりて[,]當時醫界のために貢献する所尠からざりしのみならず[,]・・・博士は七十二を一期として一昨々年物故し・・・」(新聞第1段).
 松山・板東収容士官ゲオルク・シュテヒャーは1874年に生まれたが,その父親はクルト・シュテヒャー医博で,母親はエリーゼ・アナ・ゾフィー・シュテヒャーである.拙著,p. 119(子ゲオルクに関するドレースデンの教会洗礼記録による). 父の医博は,ザクセン留学中の森<鴎>外が1885?1886年に受講したドレースデン軍医講習会の講師の一人で,当時二等軍医正であり,士官集会所に<鴎>外を一夕招待した.彼は後にザクセン陸軍軍医部長となり,1900年に60歳で没した.拙著,p. 62(『ザクセン王国国政便覧 1900年』, S. 774と教会死亡記録による). また,シュテヒャー大尉の本国連絡先は板東収容捕虜の『故国住所録』(1919年)によれば,ドレースデン市・新市街のエリーゼ・シュテヒャー夫人である.拙著,p. 119. この名前は教会洗礼記録から推定すれば母親のそれである.父親の医博が医科大学教授であり,七十二を一期として一昨々年(=1911年)に物故した,とは考えられない.
 
(2)
 父の博士は「三人の男の子を・・・全く方向違いの軍人たらしむべく[,]其盡くを地方幼年學校に入學させた,大尉は長男に生れ[,]十五歳にして地方幼年學校に送られ・・・三十歳で同大學を修了し[,]伯林に近き野砲兵第64聯隊付となり[,]後更に選ばれて日本に留學するに至った・・・」(第1段).
 シュテヒャーが日本留学前に所属した部隊は,ザクセン軍ではドレースデン駐屯第4野砲兵連隊であり,ドイツ帝国陸軍としては野砲兵第48連隊であった(『ザクセン王国国政便覧 1910年』, S. 473).その駐屯地ドレースデンがベルリーンに近い,とは言えない.彼が留学から帰国した後に所属した部隊は,第5野砲兵連隊(帝国陸軍としては野砲兵第64連隊)であり,その駐屯地ピルナとベルリーンとの位置関係も上記と同様である.また,記事は留学前の部隊と帰国後の部隊を混同している.
 
(3)
 「大尉の直ぐの弟は今年三十六歳なるが[,]之亦ステツペルと同じく地方,中學の兩幼年學校を経[,]陸軍大學を卒業し[,]兄同樣大尉に進み[,]中隊長として目下聯合軍と歐洲の平原で雌雄を決している,けれ共[,]通信を得ざる事<既>に四ケ月に及ぶので[,]名譽ある戰死を遂げたか[,]將た健全なるか[,]固より全然不明である」(第1?第2段).
 1914年12月「3日夜ステッヘル大尉ニ到着セル北京新聞ハ,ソノ弟ノ獨逸國ニオケル戰死ヲ告ゲタリ.ヨッテ[松山収容所]所長ハ4日同大尉ヲ慰問シ,本日午後1時ヨリ來迎寺ニオイテ・・・森嚴ナル追悼ノ法會ヲ施行」した.「松山俘虜収容所日誌」1914年12月5日の項.
 
(4)
 末弟は,「其中央幼年學校在學中二十歳を一期として此世を去り[,]今では[ス大尉は]全く兄弟二人のみとなったのである,彼の家族は[,]老ひたる母(六十六)に妻(三十六)と[,]今年十五歳になる長男[,]及十一歳になる長女[,]並に彼との都合五人であるが・・・」.「今は何んとして暮して居るやら[,]雲山數千里を離れ・・・」.「聞けば[,]彼も松山に安著し[,]發信を許され[,]去二十日には唯其安否のみを知らせてやつたさうである」(第2?第3段).
 士官シュテヒャーの妻クレールは1919年末に,息子1人,娘1人(いずれも12歳以上)とともに上海に住んでおり,ドイツ兵捕虜帰国船での帰国を希望していた.拙著,p. 118(日本側記録). 彼は開戦前には妻子3人とともに青島で生活していたであろう.シュテヒャー少佐は解放・帰国後の1921年と22/23年の『ドレースデン市住所録』に記載されたが,24/25年の住所録の同じ住所に記載されたのは,上記日本側記録のクレールではなく,少佐未亡人ヘートヴィヒ・クラーラ・シュテヒャーであった.拙著,pp. 118, 120(もっとも,クラーラが日本側にクレールと記録されたのかもしれない).
 
(5)
 「最後に書き漏らしてならぬのは[,]彼が明治陛下を三度拜した一事である[.]第一回目は慥か明治四十二年の秋の觀兵式の當日で[,]塲所は〓山練兵塲であつたとの事[.]第二回は翌四十三年の之れ亦秋で[,]慥か天長の<祝>日であつたらしい[.]最後は留學の期滿ちて愈々本國へ歸ると云ふ時[,]忝なくも陛下は特別の思召を以て拜謁を賜ひ[,]當時の駐日獨逸大使と同伴にて留學生一同宮城に伺候したと云ふ事である,・・・」(第3段).
 この記事によれば,シュテヒャーが明治天皇に比較的少人数で拝謁したのは,第3回目だけであろう.なお,1906?1911年の駐日ドイツ大使はA. M. フォン・シュヴァルツェンシュタイン男爵であった.Hans Schwalbe/Heinrich Seemann(Hrsg.), Deutsche Botschafter in Japan 1860?1973, Tokyo 1974, S. 69-75.
 
(B)11月23日の記事について.
 
(1)
 野砲兵大尉「ステツヘル」は,松山「北山越來迎寺」に収容されている「俘虜將卒中の最日本通」で,「流暢なる東京辯を以て」記者に物語った.「サクソニア國の彼」は「常に山嶽をのみ眺めて生い立ち・・・」(新聞第1段).
 ザクセンには海はないけれども,山地は南部だけで,国土の大きな部分は平原である.
 
(2)
 余は「日本に3年在住せり,・・・明治四十年の秋・・・遠く貴國に來る,之れ余が日本の地を踏みたるの始めにして[,]先ず日本語研究のため山水明媚の靜岡に足を止むる事凡そ一年[,]其間朝夕芙蓉の秀峯に接し[,]或は・・・杖を美保の松原に曳く・・・」(第1段).
 シュテヒャーは1907年9月に東京に到着し,09年11月末に日本を離れた.拙著,pp. 115-117. 「日本に3年在住」というのは,誇張である.「在隊2ケ年と2ケ月」(本記事第2段)の2年2ケ月が,「在隊」はとにかく,正確であろう.また,シュテヒャーの来日1年目の静岡勤務について,ザクセン側の資料にも明記されており,彼の談話は,富士山や美保の松原など具体的であるけれども,日本側(陸軍省)の関連資料を私は発見できなかった.当時の静岡には第3師団(司令部名古屋)所属の第34歩兵連隊だけが駐屯していた(拙著,p. 116;日本近代史料研究会(編),『日本陸海軍の制度・組織・人事』,東京大学出版会,1971年,p. 408)事情を考慮すれば,野砲兵士官のシュテヒャーが静岡で勤務したのは,やや不自然である.
 なお,(a)同じ日独将校相互交流計画の一環として,シュテヒャーより1年遅れてザクセン陸軍から日本に派遣されたJ. A. バイアー歩兵大尉は,ザクセン側の資料では,最初の1年間をドイツ公使館付きで過ごし,2年目には日本の部隊に配属されるべきである.この部隊は日本側資料では姫路の歩兵連隊であった.拙著,p. 130. 第10師団(司令部姫路)は姫路駐屯の第39歩兵連隊などを含んでいた.『日本陸海軍』, 1971,p. 408. (b)Rudolf Hartmann, "Japanische Offiziere im Deutschen Kaiserreich 1870-1914", in: Japonica Humboldtiana, Vol. 11, 2007, S. 156によれば,シュテヒャー大尉は1908年9月から1909年8月まで金沢の野砲兵部隊に配属されていた,という.その典拠は,Politisches Archiv des Auswaertigen Amtes, Abt. A.: Acten betreffend Militaer- und Marine-Angelegenheiten. Japan 2,とされている.私は,この勤務年限が誤りと考える.また,シュテヒャーが金沢に勤務したことを,私は証明できない.ただし,第9師団(司令部金沢)で金沢に駐屯していたのは,1歩兵連隊,1騎兵連隊,1山砲兵連隊,1工兵大隊と1輜重兵大隊であった.野砲兵連隊は同師団には付属していなかった.上記『日本陸海軍』 1971,p. 408.
 
(3)
「越えて四十一年秋の始めの九月一日[,]命を受て[,]東京近衞師團世田ケ谷野砲兵第十四聯隊(第一師團第一聯隊とせしは誤聞)に入隊す」(第1段). 来日2年目の勤務先はザクセン側資料で東京・世田谷,日本側資料では野砲兵第14連隊である.この野砲兵第14連隊は近衛師団所属で,世田谷・三宿に駐屯していた.拙著,pp. 115-117. したがって,記事のこの部分は正確である.
 
(4)
 「當時大隊長として特に吾々を指導誘掖されし馬場崎少佐は[,]現に中佐に昇進し[,]確か野砲兵第24聯隊[長]として〓嶋攻圍軍に参加し・・・」.「當時隊友たりし猪狩大尉は今や少佐に進み[,]馬場崎聯隊附たり」(第1段).
 馬場崎豊中佐の野砲兵第24連隊は日独戦争に出征したが,同じく出征した猪狩亮介少佐は,独立第18師団司令部副官であって,馬場崎連隊付ではなかった.拙著,pp. 118, 120. この猪狩少佐を私は確定できた(拙稿,「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」,『ドイツ兵俘虜研究会メール会報』,132号,2005年5月4日).
 
(5)
 「[当時の]射撃演習に友たりし山田中尉あり,昇進して大尉となり[,]野砲兵中隊長として同じく出征し・・・」(第1段).降伏後の11月12日にシュテヒャーは青島郊外で猪狩少佐と山田大尉に会う(第3段).
 この山田中尉はこれまで研究文献では山田耕三歩兵中尉とされてきた.山田耕三を追跡して,私は,彼(本籍群馬県)が1884年生まれで,1904年に陸士・歩兵科を卒業したこと,1908?09(シュテヒャーの世田谷在勤時),12,14年に歩兵第66連隊(宇都宮駐屯)所属であったこと(1907年の資料は所在不明),日独戦争では「外國語ニ通スル者」2人中の1人として独立第18師団に配属されたこと,1917年にも青島軍政署に勤務していたこと,を突き止めた.拙著,pp. 117-120.しかし,彼について,それ以上は今でも調査できていない(群馬県立図書館への質問にも上毛新聞への投書にも返答はなかった).この山田耕三歩兵中尉(後に大尉)でない山田野砲兵中尉(後に大尉)に関しては,全く探索できていない.
 
(6)
 「四十三年十二月の始め・・・東海道を神戸に下りしが[,]フト御殿場に仰ぐ富士の靈峯・・・[.]汝は余が三ケ年の友なるぞ[.]今や余は期満ちて故國に歸ると雖も[,]近く再び東洋に派遣され[,]青島に戈を執る身なれば・・・」
(第2段).
 ザクセン側の資料ではシュテヒャーは1910?13年にはザクセン陸軍勤務(ザクセン側の資料では14年以後は不明)である(拙著,pp. 116)から,09年の帰国時に既に青島勤務が決定していたわけではないであろう.帰国は明治43年ではなく,42年と考えられる.
 
(7)
 「帰国後は[,]伯林に近き野砲兵第64連隊に勤務し[,]大正2年4月10日再び青島に派遣さる」(第2段).
 帰国後にシュテヒャーが中隊長として所属した野砲兵連隊は,ザクセン軍では第5であり,帝国陸軍としては確かに第64である(Staatshandbuch fuer das Kgr. Sachsen 1911, S. 483)が,その駐屯地ピルナは,ベルリーンに近いとは言えない.
 
(8)
 「余は日本の武士道を慕ひ[,]「サムライ」を賞す」(第2段).「刀折れ矢盡くれば自刃するものぞ[,]との「サムライの教」・・・」(第2段).「余は・・・今や年齒四十の男盛りに際會し[,]可惜俘虜として果てしも知れぬ憂き歳月を貴國に送るは[,]男子の最も耻づる處なれ共・・・」(第3段).自刃せず,捕虜となったのを恥じる,との談話は信頼性に欠けるように思われる.ドイツ軍人は,捕虜たることも軍隊勤務の一形態と考えていたであろう.???捕虜となった士官は,帰国後にドイツ軍から放逐されたわけではなく,熊本,久留米,最後は板東に収容されたコップ海軍大尉は,私が「メール会報」投稿論文に書いたように,その後,第二次大戦中に海軍少将にまで累進している(拙稿,「板東収容の海軍大尉はコップかコッペか」,『メール会報』,226号(2006年6月23日),同,「板東収容士官ヴィルヘルム・コップ略伝への補足」,『メール会報』,330号(2008年6月9日)).シュテヒャー自身も日本収容中に少佐に昇任していたはずで,鳴門市ドイツ館に展示されている毛筆扁額「忍耐」(ただし,扁額の出所は不明)に,彼は「少佐」と署名している.
 
 11月29日の記事から見れば,シュテヒャーが明治天皇にごく少人数で拝謁したのは,「留學の期滿ちて愈々本國へ歸ると云ふ時・・・當時の駐日獨逸大使と同伴にて留學生一同宮城に伺候した」時だけであろう.
 かつて私は『メール会報』,132号(2005/5/4)に「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」を寄稿し,その(注6)の後半で次のように記した.
 才神 1969(p. 148)は,シュテヒャーが1910年12月,日本軍部隊派遣からの「帰国に際して駐日ドイツ大使とともに宮中に伺候し,明治天皇の拝謁をたまわった」と書いている.しかし,『明治天皇紀』はシュテヒャーの天皇拝謁を1907年9月から10年末までの期間に記録していない.明治天皇紀(11), pp. 780-858; 明治天皇紀(12), pp. 1-538を参照.そもそも才神の「明治43年12月」帰国は誤りであろう.第1に,・・・引用した資料によれば,彼は1909年末に帰国した.第2に,・・・,1910年の『ザクセン王国国政便覧』はシュテヒャーのザクセン軍部隊復帰を明記している.
 したがって,シュテヒャーの天皇拝謁を主張する場合には,『明治天皇紀』で私が読み取れなかった関係箇所を,あるいは,確実な別の資料を提示する必要があろう.『海南新聞』の記事は,上記のように,正確でない部分をいくつも含んでいるから,この記事だけを典拠とするのは,十分ではない,と考えられる.
 
 なお,瀬戸武彦,『青島から来た兵士たち』,同学社 , 2006年,138ページのシュテヒャーの項には,明治天皇拝謁に関する記載がない.
 
 最後に,本稿の資料を提供された森孝明氏に深謝する.