ヘルマン・ボーネルと日本学

牧師館の子Hermann Bohner (3)

井上純一

 

1 日本学に向かって

日本に中国を見る

日本に居を移し、大阪外国語学校を始め大阪の各高等学校でドイツ語教官として活動をはじめた、ヘルマン・ボーネルの最初の戸惑いは、何を自分は日本で研究をするかであった。板東俘虜収容所で文化活動をしてはいたが、同僚に祖国ドイツの文化について講義をしていたのであって、マイスナーに日本語の手ほどきを受けていたとはいえ、日本文化にそれほど強い関心を持っているわけではなかった。彼にとっては、中国は余りにも魅力的であり、日本に数年間滞在しかも俘虜という制限された屈辱的環境のもとでしただけでは、中国に比較してそれほど魅力を覚えるものではなかった。

けれども伝道団の経済的事情が、彼を日本の学校で職を食むことを余儀なくさせた[1]。彼は、捨てがたい中国に近い日本にいることで、中国をまた知ることができると思った。それゆえ彼は妻ハンナを伴って、中国への旅行をしばしば楽しんでいた。そうした旅行の中で、彼は次第に中国と日本の相互浸透に気づいていくのであった。「旅行は、違いがあるにも関わらず日本と中国が互いに強い結びつきをもっているという確信を私に与えた。[2]」もちろんボーネルは日本と中国の間にある「心理的対立」や「嫌悪」に気づかなかったわけではないが、それを越える中国と日本の深い結びつきについて確信をもち、中国知識が日本研究に役立つと考えた。「私にとっては、中国語の基礎が日本考察の基本的な認識要素になっている。[3]」彼にとっては、ギリシャ、ローマ、イスラエルの地がヨーロッパの基礎になっているように、日本は中国的なものを土台にしながら、独自のものをそこに含めることで発展してきたのであるから、彼の中国知識は、日本研究を深めることがあっても、障碍にはならない、むしろドイツ日本学の潮流よりも優位をもつと考えるようになった。

 

日本学のパイオニア

ドイツ日本研究の先駆者としてまず挙げられるのは、ケンペル(Engelbert Kaempfer 1651-1766)とシーボルト(Philipp Franz von Siebold 1796-1866)であろう。北ドイツ出身の医師ケンペルは、1690年に来日しオランダ商館に勤務、江戸にも出かけている。1727年に英文の大著『日本史』を著している。その130年余のち、シーボルトが来日している。ヴュルツブルク出身のシーボルトは、1823年から1829年まで長崎の出島に住み、ドイツ医術を教授した。「シーボルト事件」で帰国後、『日本動物誌』(1833)『日本植物誌』(18351844)『日本記録文集』(18321852)を刊行した。しかしこうした先駆者にもかかわらず、日本語や日本文学、あるいは日本思想を含む日本研究が始まるには、次の世代を必要とした。

そうした世代の間で特にランゲ(Rudolf Lange 1850-1933) フローレンツ(Karl Florenz 1865-1939)の名をあげることができる。ランゲは1874年から1881年に、フローレンツは1888年から1914年に在日し、フローレンツは東京帝国大学でドイツ語・ドイツ文学を講義した。後にランゲはベルリンの東洋語研究所(Seminar für Orientalischen Sprachen[4])で、フローレンツはドイツ最初の日本学講座の教授としてハンブルクで日本語・日本学を教え、ランゲは『日本語の基本的研究』『日常日本語教本』『日本文学入門』『日独語字典』を、フローレンツは『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』の翻訳、『日本文学史』『古今集辞典』などを遺している。

 

ラフカディオ・ハーンとチェンバレンを越えて

ボーネルは、これらの先達とは少し異なる視点からの日本研究に取り組む。そのことに彼は後に、日本研究の代表的研究者であったチェンバレン(Basil Hall Chamberlain)とラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn 小泉八雲)の往復書簡(1936)で気づくのだが、それは両者の日本研究への批判でもあった。そのことを彼は「秘密」として、研究を手伝う者になぜか他言することを禁じていた。その理由は何故かわからない。こうしたところに彼の奇妙な「秘密主義」が顔をだしている[5]

ボーネルが考えるには、日本研究者が日本と「遭遇」し日本を「理解」するのは二つの方法によってである。一つは諸々の事実のうちで、現象として表面に現れ、冷静な観察と合理的に推測できる事実を取り上げて考えてみることによって、もう一つは精神の内奥を問うことによってである。この両者が必要なのである。この点からみるかぎり、チェンバレンとラフカディオ・ハーンは、どちらも、それに失敗しているという。ラフカディオ・ハーンは、日本について多くの知識をもち、空気のようなはっきりとは事実としては掴まえられない、何がしかの精神的なるものを理解した。しかし彼はそれを西欧的関心から、西欧的視点から扱っている。一方チェンバレンも、事実を客観的に扱うことを旨としているが、その余りに孔子や老子など日本に影響を及ぼしている深層を経験することがない。チェンバレンにとっては、普通の多くのヨーロッパ人と同様、孔子や老子は「東洋の異国風」なものにすぎなかった。結局二人は、微細な形で示されている日本的なものの「奥深さ」を知ることはできないし、正面から取り上げることはない。だから「私はこの点で、この二人の傑出した近代の日本研究者とは根本的に違っている。私が違っているのは、私の全体的立場一般に関係はしているが、それを横におくとしても、私の中国滞在からきているものである。[6]」日本は、中国的なものを基礎にしながらも、絶えず日本独自のものを含めこんできた。まさにいわばそのようにしてそもそも始めて日本は発展したのである。そうした視野が先行する日本学者には欠いているとボーネルは考える。

 

翻訳は原義に忠実であること

それではボーネルにとって日本研究の課題と目標とは何であるのだろうか。日本学の創始者たちに続く世代として、彼は自分の役割を、日本の「事実」を集めること、それをドイツ人に、ヨーロッパに知らしめることであった。彼が言う「事実」とは、客観的なデータにとどまらず、風土のような、いわばその社会の「伝統的な匂い」をも伝えることであった。そしてこれらの「事実」の内部に密やかに眠っている精神的核心に迫ることであった。

その本領が発揮されたのが翻訳である。それは、彼が傾注した中国学者リヒアルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm)に倣って[7]、日本語からの翻訳は一字一句おろそかにせず、しかも日本語の原義に忠実に訳しなおすものであった。例えば北畠親房の『神皇正統記』は、Buch von der Wahren Gott-Kaiser-Herrschafts-

Linieと翻訳している。グンデルトはボーネルの翻訳について、「融通を利かせたい気持に譲歩せず、文の句読点が創りだす意味にそって、まったく厳密に、合理化をしようともせず、ドイツ的に明確に」と語っている[8]。このように、日本文・日本語そのものに厳密な態度で臨まねばならない姿勢は、日本語では同じ漢字でも異なった読み方があるように、中国語とは異なる日本語の「曖昧さ」にあるとボーネルは考えている。そのために、彼は漢字をノートに一字一字書き写し、意味を考える作業を根気よくしている。不明な点は、学生であれ教員仲間であれ、誰彼となくたずねる癖をもっていた。漢字の読みや意味を学生や同僚に訊ねて、その答えに「おそらく・・・」という言葉が返ってきたりすると、ボーネルは不機嫌な顔をした。その学習には、中国語の漢字知識が大いに役立ったことは当然であるが、それがまた災いして時には漢字の中国的解釈になることもあったという。それでも中国語に慣れた漢字の豊富な知識は、ヨーロッパ人日本研究者の中でも抜きんでていた。おそらく彼に漢字能力で比肩しうる研究者を見つけるのは現在でも難しいだろう。

 

「日本とは何か」を伝える

こうした翻訳作業で彼が理解しようとしたもの、ドイツ語への翻訳でヨーロッパに伝えようとしたものは、「日本とは何か」であった。極東に位置する日本は、ドイツ人にとっては巨大な中国の影に隠れている。しかし中国と異なるのは、西欧に肩を並べようとする、その力を生み出している精神的原泉は何かであった。「日本の心」=日本人を創りあげている精神的核心を見出す試みであった。ラフカディオ・ハーンが求めた「空気のようにつかみきれないもの」やチェンバレンの和歌や俳句と相通じるものを彼は探そうとする。しかし彼らとは異なり、ボーネルはそれを日本の歴史の中に沈澱していると考えた。日本の歴史にそれがうかがえるはずだと考え、そしてその歴史の景観としての大和・吉野・奈良・京都に現在もなお姿を垣間見せていると考え、その風景の中に実際に身をおくことで日本の内奥を感じとろうとした。青年期のワンダーフォーゲル運動に指導的に参加したロマン主義的自然観が、彼の日本研究の底流の一つにもなっているのである。

彼の日本研究はおのずと歴史と風景へと誘われる。重要なのは、彼が、過去は現代に生きていると考え、現代は過去の延長線上にあるとすることである。彼は、学生時代、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)に毎週の如く通い、ドイツ民族の歴史について強くひきつけられていたと回想している。だから彼にとっては日本国の形成と現代は直接に結びつき、現在の風景は、歴史的日本の始まりの風景をつなぎとめている。過去はそのままの過去ではないにしても、現在に息づいている。青年時代と同じように、それを肌に感じ、それを伝える書物を翻訳し紹介することが、彼が求め続けようと始めた日本研究であった。彼にとっては日本研究の第一の課題は、「日本語の原資料を翻訳して手にすることができる」ようにすることであった。

 

平坦でない日本研究

しかしその道は決して平たんではなかった。ドイツ語を学生に教えることを本職とし、学校からもそれに精をだすことを要請される立場では、いわば半ば趣味的な研究を続けるには相当の負担がある。彼の回想では「私自身に関して言えば、厳しい職業活動の中で、個人ができることが如何に少ないかを感じている。私の知り合いの有能な他国の日本研究者から聞くのは、嘆きの声である。[9]」さらに彼が発表する日本研究の著書は市販に耐えるほどの読者は想定できない。そのためそのほとんどは、ドイツ東亜協会(現ドイツ東洋文化研究協会)の機関誌(特別号)や上智大学発行のMonumenta Nipponicaで発表され、とりわけ大部な作品は協会の特別号として発表され、それらの多くは自費となり、経済的にも大きな負担であった。それでも彼は、倦むことなく研究を続け、膨大な業績を残すのであった。

平たんな道を許さなかった、もう一つのものは、「時代」である。侵略と戦争に突き進んでいく昭和の大日本帝国の天皇制イデオロギーの強化の中で、外国人教官として働き(彼は1941年に「勅任官」になっている)、その中で日本の精神的中核とその歴史という、現在の地点からみれば、極めてイデオロギッシュな日本研究をつづけることによって、彼の業績に一種暗い影が投げかけ、戦後の評価を難しく困難にさせるものになる。

こうしてすすめられたボーネルの日本研究は、仏教の日曜学校に参加したりする手探りの開始から始まって、次第に本格的なものへと進展していく。彼の日本研究の全体を概観してみると、ほぼ三つの時期に区分できる。第一の時期は1930年代までの時期である。この時期に彼の戦前の大きな業績は集中し、社会的にも彼の「学識」が輝く時期である。第二の時期は40年代でドイツと日本の敗戦で終わる。この時期、日独の戦争遂行のなかで行われた研究が焦点になる。第三の時期は、戦後の研究であり、ある意味では日本的なものの内実をもっともよくとらえていると評される研究である。しかしこの時期は日本の敗戦と共に日本研究への関心がまだ薄らいでいることが、彼の経歴の不幸となり、戦後になってもなお彼の研究発表の機会はそれほど開かれているわけではなかった。

 

2 『JINNÔ-SHÔTÔKI神皇正統記』の翻訳

仏教日曜学校から説話集へ

ヴィルヘルムの中国研究にならって、ボーネルは日本の国と民族を創り上げる心的態度を見出すべく研究を始めた。その中から次第にボーネルが理解していくのは、日本精神(思想)が中国の思想的財産を融解して、日本的なものにすることであった。こうしたことを探り当てるために、研究は手探りであれこれ試された。

最初に目についたのは、授業での学生との会話をきっかけとして始まった仏教日曜学校研究であった。ボーネルによると、こうした学校組織はユダヤ教に始まり、多くの場所で見られるのであるが、仏教日曜学校は中国やインドとも異なり日本独自の姿をもっているように思えた。そこで彼は仏教日曜学校へ通いながら、日曜学校の歴史と組織、教材、規則や設備、生徒と教師の関係などを調べた。この研究は、「仏教日曜学校歌集」(1929)「仏教日曜学校組織の新形態」(1931)として発表された[10]。この歌集を編むというボーネルの独特の研究方法は、その後も授業や研究にも見られる。授業では学生に歌集を配布してドイツの歌を自ら歌い、歌わせていたし、後の聖徳太子研究でも「聖徳太子和讃」を編んでいる。それは、抒情詩の中からその国や民族の本質をうかがい知ることができると考えていたからだろう。

この仏教日曜学校での経験から、仏教への関心が広がっていった。民族の精神のような「明白にはつかめえない」ものは、神話や、経験の残滓であるはずの超感覚的なものへの信仰にあらわれ、それが歴史に反映し、人々の日常的な精神や行為に影響すると、ボーネルは考えていた。この考えは、彼が育ったシュヴァーベン敬虔主義の伝統でもあったし、ゲルマン国立博物館で身体に浸透させたものであった。そのことは日本人の仏教の信仰にも当てはまるはずであるので、彼の関心はそれに向かっていくことになる。古い日本の信仰の証言を求めて探した結果、彼は平安時代初期に書かれた『日本国現報善悪霊異記』(日本霊異記)に行きつき、この日本最古の説話集を翻訳することになった。それは、『NIPPON-KOKU-GEMBÔ-ZENAKU-RYÔIKI』というタイトルで「初期日本仏教の伝説」として1934年に出版された。彼は、それまで武者小路実篤などの小さな文学作品の翻訳などを手掛けていたが、この説話集は比較的大きな最初の仕事となった。

景戒によって編まれたこの説話集の意義は、最も古い仏教伝承というだけでなく、日本史や日本的本質の基礎となる奈良時代を伝えていて、「宗教的であると同時にリアル(religiös-real)」だとボーネルは評価している。この書の中に彼は現在と過去とのつながりを見出せるのである。日本学者グンデルトは、この翻訳を「独自の技を示す」ものとして、これによってボーネルの翻訳力量の高さに注目した[11]

 

『神皇正統記』に取り組む

この研究の成功によって、ボーネルはもっと大きな翻訳に取りかかれる自信をもった。グンデルトの助言にしたがって、彼は北畠親房の『神皇正統記』に取り組むことにした。すでに彼は1927年に加藤玄智の「神道研究、日本の宗教」を検討する論文「神道の弁神論問題 Shintonisches Theodizee-Problem」を発表していたので[12]、神道や「神国」についての予備的な研究を始めていた。

グンデルトの勧めもあったが、それだけでなくボーネルは、日本では高く「評価」され、国民的学習の書にもされていた『神皇正統記』についての先行世代の日本学者の冷ややかな態度への批判も、この書への取り組みの動機の一因になっている。『神皇正統記』に関する外国での言及は、英国外交官アストン(William George Aston) の『日本文学史A History of Japanese Literature(1898)が最初だと思われるが、東京帝国大学のフローレンツは、アストンを引用してこの書は「昔の日本の政治家の動機や考えを理解するには必要だが、ヨーロッパの読者には何ら関心をひくものではない」と紹介の労があるとは考えていない[13]。しかしボーネルは違ったのである。

中世の難解な日本語と苦闘しながら、ボーネルはついに1935年秋に翻訳を完成させ、39年の第二巻には大町桂月の研究紹介、テキスト注釈などが収められて上梓された。それは、原田積善会[14]の資金援助によってドイツ東亜協会から出版された。第一巻は、ボーネルの解説118頁を含めて総ページ336頁、第二巻は346頁である。

ボーネルは翻訳に使用したテキストをYamada Takao版と記している[15]Yamada Takao とは誰であろう?彼の誤読である。彼は、人名などの日本語の読みは幾通りもあるので、ルビのふってあるこの版を使用したと理由を書いているので、慎重なはずであるが、恐らく誰かにYamadaの名前を読んでもらって、そのひとが人名を誤って教えたのか、あるいは普通に読むとTakaoなので、彼がそう思いこんだかのどちらかであろう。正確にはYamada Yoshio=山田孝雄である。テキストはひらがなルビをつけた山田孝雄校訂の岩波版(1933)である[16]

山田孝雄は、当時東北帝国大学の国語学・国文学の教授であった。山田国語学、山田文法でも知られている彼は、この時期『神皇正統記述義』(1932)『国体の本義』(1933)を著し、『国体の本義』は普及版がでるほど読者を獲得し、国粋主義の理論家でもあった。様々な版の『神皇正統記』がある中で、ボーネルが山田版を最終的に選択したのは、ルビがあると言う理由だけでなく、『神皇正統記述義』や『国体の本義』などが、ボーネルの北畠親房解釈に影響していることからも事のなりゆきであるだろう。

 

Karl Haushoferによる評価

この翻訳の稀有は、親房の本文の翻訳の巧みさにおとらず、本文のほぼ三分の一にも達するボーネル自身の手による解説である。日本語の原資料を翻訳して紹介する彼の課題は、その目的として日本理解、日本の民族的伝統や「本質」をヨーロッパに伝えることにあった。それゆえに、単なる翻訳ですますのでは読者をして正確な日本理解に向かわせることは難しい。理解を深めてもらうには、彼自身による丁寧な研究的解説、しかも日本の本質がうきでるような解説が必要になってくる。そうした必要から書かれた大部の解説は、彼の期待を超えて、この翻訳の評価を高めるものとなった。

地政学のカール・ハウスホーファー(Karl Haushofer)[17]は、ボーネルの『神皇正統記』を絶賛した。第一次大戦中陸軍将校であったハウスホーファーは、一時(1909年から1910年)日本にも派遣されていたが、この翻訳がでたときには、ミュンヘン大学の地政学の正教授を務め、ドイツ・アカデミーの会長であった。ルドルフ・ヘスと親交をもち、彼の「生存圏Lebensraum」の考えは、ナチス・イデオロギーの中に取り入れられていた。また彼はヨーロッパにおけるドイツの役割と同じものをアジアでの日本に求め、日独枢軸同盟の熱心な推進者でもあった。このハウスホーファーは、『神皇正統記』の翻訳を日本の本質を明らかにするものだと称賛した。

ハウスホーファーは、ボーネルの解説をもとにして、この書が、ダンテの『神曲』に比肩するものだと論じた[18]14世紀にほぼ30年の間隔『神曲』は1304年ごろから1319年にかけて、『神皇正統記』は1339年ごろをもって書かれた両書は、一方は「イタリアとは何か」他方は「日本とは何か」、その国と民族の「本質」を語っているのであって、ボーネルの翻訳は、ドイツやヨーロッパの極東知識を広げるものだとした。

ハウスホーファーのこの批評は、彼自身の民族観やその成り立ち、民族の存続に関する地政学思想とボーネルの『神皇正統記』が共鳴しているからに他ならない。こうした評価が、当時の政治的思潮と密接に関連していることは言うまでもないのであって、戦後の時点では、ナチス・イデオロギーと関わりをもつハウスホーファーの批評は、それなりに注意して割り引かねばならないであろう。けれどもボーネルは、戦後にもなお自分の仕事内容の紹介に際して、高い評価を受けた論評としてハウスホーファーのこの書評を1頁にわたって引用している。もっともさすがに「ハウスホーファーを引用するからといって、彼と完全に一致しているわけではないが」と釈明をしてはいる[19]。それでもナチス・イデオロギーとの関わりを考えると、ボーネルの態度は、非政治的態度の一貫性と捉えることもできるが、一方余りにも政治的関係に音痴であるという印象をもたざるをえない。

 

今なお衰えぬ評価

ハウスホーファー以外にも、この種の著作としては珍しく幾つかの書評がでている[20]。当時の日独関係や国際関係から当然とも考えられるが、それよりもボーネルの著作が、先行した日本学の『神皇正統記』への評価を一新させ、ヨーロッパと日本の相互理解を促進するものととらえられたからであろう。当時の日本研究としては、ボーネルの翻訳と解説は水準の高いものであった。そしてボーネルの日本研究者としての評価を定め、地歩を固めさせるものとなった。

アストンやフローレンツの消極的評価の紹介後30年にして、始めて『神皇正統記』は完全訳としてボーネルの手によってヨーロッパに紹介された。そして第二次大戦の結果は、『神皇正統記』そのものの評価の低下と共に、ほぼ忘れさられていた。しかし出版からほぼ半世紀、正確には46年後の1981年にボーネルのこの翻訳は、再び意義をもつことになる。1980年にコロンビア大学からポール・ヴァーリー(Paul Varley)による『神皇正統記』の英語訳が出版された[21]。この書の書評を書いたワシントン大学の日本学者ミラー(Roy Andrew Miller)は、ヴァーリー版とボーネル版(英語とドイツ語の違いはあるが)を比較しつつ、双方の異同を検討し、ボーネル版が常に正しく訳していることに驚嘆している。例えばミラーもまた、テキストをヴァーリーが単にA Chronicle of Gods and Sovereigns(神と王位の編年記)と翻訳するのに対して、ボーネルがBuch von der Wahren Gott-Kaiser-Herrschafts-Linie(神-王位の真なる支配系譜)の訳は巧みで、正確にヨーロッパ人に意味を伝えているとし、各所でボーネル訳の中世日本語の意味のとり方の正確さから、ボーネル版は研究する際の重要な資料だと再評価している[22]。そして75年後の現在もなお、その翻訳評価は崩れることなく、古書籍市場に姿をみせている。また近年、外国の神道研究において、ボーネルのこの書をあらためて検討する作業もおこなわれている[23]

 

中国受容と日本

ボーネルの最初の大きな仕事となった『神皇正統記』を彼はどういう風にヨーロッパに紹介しようとしたのだろう。そこには二つの特徴的な方法が見られる。一つには、「孔子、老子、荘子から神皇正統記へと導かれている[24]」と書き遺しているように、中国的なものの影響を読みとりながら、日本的なものを探りだす方法である。もう一つは、ヨーロッパ(ドイツ)との対比で捉えている点である。

ボーネルが、師の中国学の大家リヒアルト・ヴィルヘルムを範とし、中国語と中国思想に造詣をもっていたことから、当時のヨーロッパ日本研究者よりも、思想的な側面で深く分析できる知識と素養をもっていた。とりわけ『神皇正統記』のような著作研究には、儒教に関する知識が不可欠であった。例えばボーネルにとっては日本の「禮」や「分(本分)」は孔子の思想と当然切り離すことができないものであったし、また中国から伝来してきた仏教もまた、日本の土壌に根をはるものとなっている。しかし日本は中国ではない。彼がこの書物を手にするとき、北畠親房のこの著作が中国を内に含みつつ、それを越えていることを感じるのである。これは、儒教の受容を越え、仏教の受容をも越えている。中国が日本にとって存在した以前に、あるいは孔子やブッダが海を越えて伝わってくる以前に、日本は存在していた。その「存在」が神道というわけである。そして日本の精神は、神道、仏教、儒教そして道教の要素が解きがたく統一をなした独自のものとして創りあがっていく[25]。当時の日本イデオロギーとその臣民教育に密接に関係している『神皇正統記』を、無批判的に研究素材にするボーネルを現在の地点から批判することは容易ではあるが、しかし過去が現在に生きていると考えるボーネルにとっては、この書をとりあげることは必然的でもあったのであろう。このことを問わないとすると、ボーネルは、山田孝雄の解釈に強く影響されて[26]、北畠親房のこの書が儒教・仏教思想と強く関連をもつこと、そしてにもかかわらずそれを越えているとするのは、彼自身の根本的な問い「日本とは何か」に、善く応えていると思えたからであろう。

 

ヨーロッパとの対照、『第三帝国』との共振

ボーネルは、日本の精神を伝えるのに、常にヨーロッパを意識し、ヨーロッパを対照させる。板東俘虜収容所でも示された該博なヨーロッパ文化の知識を背景として、ヨーロッパの読者がおのずと自分たちの文化との対比で理解できるようにしている。例えば彼は『神皇正統記』を「王道」と「法道」の統一として理解しているが、それはヨーロッパ中世文化における王位の領域であるRegutum(王権あるいは国家)と魂の救済の領域であるSacerdotium(教皇あるいは教会)にあてはめることによって分析がなされている。また『神皇正統記』は、日本にとって、トマス・アキナスの『神学大全』に匹敵すると紹介している。

ヨーロッパとの比較で見落とせないのは、ボーネルがメラー・ファン・デン・ブルック(Arthur Moeller van den Bruck)の『第三帝国Das Dritte Reich』(1923)と対照させていることである。

知られているように「第三帝国」の名称は、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDP)が一時期ドイツ国をあらわすものとして使用していた[27]。彼の「第三帝国」は、神聖ローマ帝国(800-1806)とビスマルクの「ドイツ帝国」(1871-1918)に続く、新しいドイツ帝国であり、歴史的継続をもつ民族的伝統と民族としての愛国主義を継承する国家であった。彼はそれに向けたニーチェ的ロマン主義に満ちた「保守革命」を主張した。

ボーネルは解説論文の中でほぼ2頁(89行)にわたってメラー・ファン・デン・ブルックの『第三帝国』から引用している。その意図は、『神皇正統記』の全体性格をドイツの読者をよく理解させるためではあるが、ボーネルのドイツ像や日本像が無縁であったとは言い難いであろう。

「我々は何であるのか?我々ドイツ人は何であったのか?」で始まる引用は、「我々」「我々ドイツ人」を日本人に置き換えれば、そのままボーネルの日本研究の問いであり、「巨大な超世俗的現象のように、守護霊のように、また個々の私の如くリアルであるが把握することができない人格のように、自己の民族の性格に著者(メラー・ファン・デン・ブルック 筆者)は立ち向かっている」[28]とボーネルが書いているのも、メラー・ファン・デン・ブルックとの思想的親近性をあらわしている。

この点はどう考えたらよいのだろうか。彼が『第三帝国』から引用する時点では、すでにナチスがこの名称をスローガン的に盛んに使用していた。そのことを彼が知らなかったはずはない。彼は「保守革命」にととまらず、ナチスのウルトラ・ナショナリズムに共鳴し、同調しようとしたのだろうか。

敬虔主義の宗教的経験、新カント派研究、青年時代のワンダーフォーゲル運動、祖国やドイツ民族への誇りが、ボーネルの愛国主義を形成する基礎になっている。ボーネルもまたナショナリストであったことは、当時のドイツ人と同様、まちがいない。しかし彼は、メラー・ファン・デン・ブルックのように政治的人間ではなかった。彼は、宗教的神秘主義の非政治的人間であった。保守主義者であり愛国主義者であり、ナショナリストであるが、けっして思想的にウルトラ・ナショナリストではない。むしろ根底ではロマン主義的なナショナリストであろう。けれども彼の非政治性は、この時代の中では「政治性」を帯びることになることは避けられなかった。『神皇正統記』の業績にもとづいて、ナチス・ドイツは1941年にボーネルに、教授の称号(professor honoris causa)を授けたのである。

 

3 聖徳太子研究

聖徳太子研究の出版

『神皇正統記』からボーネルは、直接にそこに記載されていた聖徳太子の研究へと向かっていく。ボーネルは「この作品(JINNÔ-SHÔTÔKI 筆者)から”SHÔTOKU TAISHI“への連続的な道が開けた[29]」と回想している。彼にとっては、聖徳太子は、中国の孔子と同じく、日本の生成と本質の中心人物として語られるべきで、日本仏教の開祖として指摘されるが、日本儒教の創始者であり同時に日本の独自性それ自体を自覚した人物として語られてしかるべきであった[30]

聖徳太子の研究は、1940年にドイツ東亜協会の『会報』の別巻15として上梓され、次いで翌年12月に残りの部分が特別号として印刷された[31]。総計1000頁を越える大作である。今回は原田積善会に併せて住友家の財政援助によって出版できる運びとなった。ボーネルにはそのような交渉の才覚がなかったであろうから、俘虜時代からの親しい友人クルト・マイスナーの手を煩わした。当時マイスナーは、ドイツ東亜協会の理事長職についていたのである。

この研究も、資料の翻訳に主要な関心が向けられ、過去から現代にいたるまでの研究上重要な資料の収集・翻訳、書誌がなされ、当時も、そしておそらく現在もこれを凌駕するような作品はないと思われる。『聖徳太子』は、全6巻で構成されている。長い序文のあとに続く最初の4巻では、「上宮聖徳法王帝説」「上宮皇太子菩薩伝」「十七条憲法」をはじめ、聖徳太子の経歴の重要資料の翻訳が収められ、それ以下の巻では徳川時代から現代にいたる各種論文が取り上げられている。これによって「多くの新しい知識が開明され、日本学のどの分野でも今後、この著作から知識を手にできる」のであって、これまでの日本人でない研究者が日本について書いたものを凌ぐものと評価された[32]

ボーネルが、この研究に全力を注いだことは容易に推測できる。彼は、聖徳太子の思想に、日本という国家の形を創り国家・社会としての本当の歴史の始まりをみている。「日本とは何か」と言う、彼の終生の問いへの一つの姿を見出すのである。

『聖徳太子』の研究完成記念として、ボーネルは高松宮を前にした記念講演を1942年の3月にドイツ大使館でおこなった。高松宮は、先年大阪に立ち寄った際、部下でもあった旧知の陸軍士官で、当時大阪外国語学校(講演時は大阪外事専門学校に校名変更)の教官をしていた山本茂から、「聖徳太子を研究している外国人同僚がいる」ことを聞かされ、「その研究が完成すれば話を聞きたい」と希望していた。ドイツ大使館は、その希望にそって聖徳太子完成記念と銘打って、日独の友好・連携の「強化」の一環として、講演会をもよおした[33]。ボーネルは、戦後にもなお、この講演を誇りとしていた。恐らく自分の経歴の上では最高の栄誉に浴したと思っていたからであろう。けれども彼の素朴な「喜び」「栄誉」と離れてみると、彼の研究は、日本の本質を究めたいとする学術的関心からでているものであるにしても、政治的に関心をひき、当時の文化イデオロギー政策に与しやすいものであった。

 

ボーネルの聖徳太子像

彼は聖徳太子研究から聖徳太子をどのようにイメージしたのであろう。それがよくわかる資料がある。ボーネルは1941年にドイツ向けのラジオ放送で聖徳太子について語っている[34]。それによると彼の聖徳太子像は次のようである。

日本の歴史は世界との関係で大きく二つの重要局面をもっている。第一期の局面が聖徳太子の時代、第二期が明治天皇の時代である。聖徳太子は中国という大きな世界が日本を呑み込もうした時代に、「日出づる国の天子、日没する国の天子に・・・」に示されるように、日本は独立独自の国家でありつづけることを宣言した。そのために、一見これと相反することに見えることをした。それは、他の世界を摂取し、歓迎する態度をもったことである。今で言う近代的な世界とその国家の法や制度や組織、思想をとりいれたのであって、しかもそれはヘーゲルの言う如く民族意識の覚醒、日本民族の個性の自覚を促すものとしてであった。「日本人は他のものを受け入れても、本来の自分を失わない」というのが太子の確信であった。だから太子と共に仏教がはじまり、太子とともに儒教が始まったのだと言う。太子は日本民族の前にたち、「真の」日本人としての姿を見せた人物であって、他のものを通じて、これと格闘しつつ、また「衆生と共によろこびと悲しみを分かちながら」国民を新しい高い次元に引き上げた存在だとされる。ボーネルによれば、この太子の姿勢は、西欧列強の世界に直面した明治天皇に、現在の日本に引き継がれているのである。そして「真に日本人が、われわれは日本人であると考えているあの自明性は吾々西洋人にとっては羨望するに値するものの様であります」とまで言う。

 

繊細なるものは繊細に、神秘的なるものは神秘的に

こうした考えに彼はイデオロギー的にいきついたのではない。聖徳太子研究では、様々な評価をしている新旧の文献を翻訳し、根本的に聖徳太子を理解しようとしている。ボーネルの研究対象への接近は、リヒアルト・ヴィルヘルムと同じく、研究対象に精神的に深く自ら共鳴することから成り立っている。日本の歴史と精神を深く感じ取り、内面的に共生させる研究なのである。

だから彼の思想的研究は、科学性に逆らっても、対象中にかすかにでもみいだせる繊細なるもの、神秘的なるものを、そのままにとらえることになる。繊細なるものは繊細に、神秘的なるものは神秘的にとらえることになる。彼が日本人以上に大和、奈良、吉野、京都に足しげく通うのも、実体として存在しない、文字にも本当には表せないものを感じとり、古い日本の息づかいを現代に読みとり、内面的に共生しようとするからである。

こうした方法がもつ悲劇的な危険性を彼は薄々感じていたようにも思われる。それは、余りにもファシズムの日本イデオロギーと反響しあうからである。また彼はナショナリスト、ロマン主義的ナショナリストであったけれども、ナチス同調者ではなかった。彼が遺したメモには、ドイツ東亜協会に派遣されてきたナチ党員を忌避していることをほのめかす記載があるし、兄テオドールへの迫害[35]も知っていた。けれどもこの研究方法をボーネルは変えることはできない。それは彼自身の成長過程から、福音派伝道団、リーツ、ワンダーフォーゲルの自然観、ヘレンフート派の「兄弟団」、バード・ボルの義理の父ブルームハルト、ヴィルヘルムなどの影響のもとに[36]、身体の一部にもなっているものだからである。だから彼に可能なことは、イデオロギッシュな素材にはなりにくいものへ向かうことであった。それが、弘法大師から畢生の著作、世阿弥へと続く研究になっていく。



[1] この間の事情については本研究誌6号の拙論を参照

[2] ボーネルのメモ「人生スケッチ」から

[3] ボーネルのメモ「経歴補足メモ」から

[4] 研究所は1887年、フンボルト大学の前身であるフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の付属研究所として設立された。その財政基盤は、外務省及び帝国植民地省であった。

[5] 彼の「秘密主義」のエピソード等については、本研究誌第6号、第7号の拙論で触れている。

[6] ボーネルのメモから 

[7] ボーネルとヴィルヘルムとの関係については、本研究誌第6号の拙論を参照

[8] Wilhelm Gundert, Hermann Bohner zum Gedächtnis, in: Oriens Extremus 11. Jg. Heft 1,

1964, S. 5

[9] ボーネルのメモから

[10] Zeitschrift für Missionskunde und Religionswissenschaft, 44. Jg., Heft 7, 1929 及び46. Jg., Heft 9, 1931

[11] Willhelm Gundert: Hermann Bohner zum Gedächtnis, in: Oriens Extremus 11. Jg., Heft 1, 1964, S. 5

[12] Zeitschrift für Missionskunde und Religionswissenschaft 42. Jg., Heft 12, 1927

[13] Karl Florenz: Geschichte der japansischen Literatur, 1906

[14] 原田積善会は、1920年に原田二郎が巨額の私財(当時の貨幣額で1020万円)を拠出して設立され、社会公益事業の助成をおこなってきている。原田二郎(18491930)は松阪市出身で、第74国立銀行(現横浜銀行)頭取を務め、その後明治の元勲井上馨の依頼により鴻池財閥の再建を行っている。

[15] JINNÔ-SHÔTÔKI, 1. Band, S. 183

[16] この校訂版は1934年に岩波文庫版として収められている。

[17] ハウスホーファー(18691946)の思想を、ナチスはイデオロギーとして取り入れており、彼自身もナチス政治に協力しているが、妻は「二分の一ユダヤ人Halbjude」であり、知遇をえていたルドルフ・ヘスが1941年にイギリスに亡命したのち、彼と妻はゲシュタポの監視下におかれた。戦後1946年に妻と共に自殺をした。また彼の息子は、ヒトラー暗殺を企てた「720日事件(1944)」の加担者として逮捕され、ナチス親衛隊に殺された。

[18] Karl Haushofer, Japans Seitenstück zur Göttlichen Komödie des Dante, Zeitschrift „Nippon” 4. Jg., Heft 3, 1938

[19] Hermann Bohner, Arbeiten und Veröffentlichungen, 1955, S.3

[20] Walter Donat, Nippon 2, 1936

  Carl Weegmann, Nachrichten der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens 40, 1936

  Johannes Kraus, Monumenta Nipponica 1: 1, 1938

  Herbert Zachert, Monumenta Nipponica 3: 2, 1940 これは第二巻の書評である。

[21] Paul Varley, A Chronicle of Gods and Sovereigns, Jinnô Shôtôki of Kitabatake Chikafusa, Columbia University Press, New York, 1980

[22] Roy Andrew Miller, Journal of Japanese Studies, 7-2, 1981

[23] 20079月にオーストリア科学アカデミーアジア文化・思想史研究所(Institut für Kultur- und Geistesgeschichte Asiens der Österreichischen Akademie der Wissenschaftenで開かれたシンポジウムShinto and Nationalism”Michael Wachutka(チュービンゲン大学)が、“A Living Past as the Nation’s Personality: Hermann Bohner’s comparison of Kitabatake Chikafusa’s Jinnô shôtôki with Arthur Moeller van den Bruck’s Das Dritte Reich”を報告している。

[24] ボーネルの「経歴補足メモ」から

[25] Hermann Bohner, JINNÔ-SHÔTÔKI, Einführung及びボーネルの遺稿メモ

[26] 山田孝雄は「著者(北畠親房 筆者)の思想は・・・神道仏教儒教道教諸般の学芸一切を摂取してすてざらむとする態度に出でたるものなれば、その内容の多様なると共に雑駁の弊を生じ易きなり。・・・・而してその内容をなす主たるものは神道と仏教と儒教との三者たりとす。」(「神皇正統記の本領」)と書いている。

[27] 国民社会主義ドイツ労働者党は「第三帝国」という呼称を、1939年まで使用していたが、ゲッベルスがこの名称が反独宣伝に利用されることを避けるために使用を忌避するよう命じ、それ以後使用されなかった。

[28] Hermann Bohner, JINNÔ-SHÔTÔKI, S. 12

[29] ボーネルの「経歴補足」メモ

[30] 同上

[31] Hermann Bohner, SHÔTOKU TAISHI, „Mitteilungen“ der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, Supplementband 15, 1940 及びSonderdruck, 1941

[32] Wilhelm Gundert, Hermann Bohner zum Gedächtnis, Oriens Extremus, 11. Jahrgang, Heft 1 1964及びWilhelm Gundert, Hermann Bohner, Shotoku Taishi, Mitteilungen der Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, 1940

[33] この講演会のエピソードについては、本誌第7号の拙論に書きとめている。

[34] 放送日は不明である。この放送原稿は、Nachrichten” der OAG 1941に掲載され、さらに日本語訳が『太子讃仰』(19447月号)に翻訳転載されている。この号の編集後記には「戦局は真に重大」であり、「大和一致こそ太子憲法の真髄」であるとされ、「外人の太子研究家として独逸人ヘルマン・ボーネル先生が第一人者であることはその膨大なる著書『聖徳太子』(独逸文)に依っても知られているが、日出づる國から聖徳太子を盟邦独逸に向けて放送された原稿である。是非御一讀をおすすめする」と書かれている。

[35] これについては、本研究誌7号の拙論を参照

[36] これらについては、本研究誌第6号の拙論を参照