クロアチアの合唱曲「ウ・ボイ」を伝えた「チェコ人」

                                     田村一郎

 

面白い経験をしたのでお伝えしておく。久しぶりに会った友人から、君は第一次大戦の捕虜に詳しいようだが、日本の収容所にいたチェコ人が日本人に自国の合唱曲を伝えたのを知っているかと尋ねられた。関西のグリークラブが秘蔵曲にしていたが、それが広まって男性合唱の定番になっているというのである。そのときは何となく聞き流したが、後からいろいろと気にかかってきた。再度確かめたところそれは「戦へ、戦へ」で始まる「ウ・ボイ」という歌で、最近判ってきたところでは原語はチェコ語ではなくクロアチア語だそうである。クロアチアの作曲家イヴァン・ザイツの曲で、この歌は16世紀にオスマントルコの大軍との戦いに殉じたクロアチアの英雄を扱った歌劇『ニコラ・スピク・ズリンスキー』の最後に、混声合唱で使われて有名になったという。ちなみにそれを学んだのは、「関学グリークラブ」つまり「関西学院グリークラブ」である。

 

戦へ、戦へ!

兄弟よ剣を抜け

われらの死に様を敵に知らしめよ

われらの街はすでに火の中

その熱はここにまで伝わりくる

敵の咆哮が響き

彼らの怒りは絶頂に達す!

 

というのが第一節である。

 さらに気にかかったのはその収容所の名である。第一次世界大戦当時日本にいたチェコ兵となると、もちろんまず思い浮かぶのはわれわれの研究対象であるドイツ兵俘虜収容所で、そこにいたオーストリア・ハンガリー軍所属のチェコ兵である。もう一つは日米英仏などの連合国の「シベリア出兵」の契機となったのが、ロシアで戦っていた「チェコスロヴァキア軍団」(以下随時「チェコ軍団」と省略)の救済であったことである。この人たちの多くは1920年2月以降にウラジオストックから直接アメリカに向ったり、一度日本に渡って横浜からアメリカ経由で帰国している。その日本滞在中の交流ということはありえないのだろうか。

友人が送ってくれた資料を見ていると、関西学院グリークラブがこの歌を歌い始めたのは1919年頃ということである。当時関西にあった外国人収容所は「青野原」だけである。関西では1914年11月に大阪と姫路にドイツ兵捕虜の収容所が作られたが、大阪は大火にあったこともあって1917年2月に広島湾内の似島に移っている。姫路では3つのお寺に収容されていたが、手狭でもあり期間も延びそうとのこともあって、翌年15年9月に姫路の東北東20キロほどの小野市の西の外れに新設された青野原収容所に移っている。

 もう一つ青野原と言い切れたのは、この収容所にはかなりの「チェコ人」がいたからである。というのもここには、オーストリア・ハンガリー軍で唯一青島戦に参加した巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」からの捕虜の8割近くの226名が収容されていたからである。当時のオーストリアはハンガリーと一つの国を作っていて、近辺のスラブ系の諸民族もこの二重帝国に加わっていた。西スラブ系のチェコとスロヴァキアのうち、チェコ人はオーストリア、スロヴァキア人はハンガリーに属していた。南スラブ系はさらに複雑でカトリックのスロヴェニア、クロアチアはオーストリアに属し、ボスニアあたりは東方教会のセルビア人が多いなど、隣国のセルヴィア王国と接近・対立をくり返していた。

「カイゼリン・エリーザベト」は開戦当初はオーストリアが参戦しなかったため、日本軍との合意で武装解除され400人の乗員は北京・天津に移動した。ところが直後にオーストリアがドイツ側への参戦を決めたため乗員はふたたび船に戻ろうとしたが中国軍に妨げられ、帰艦できたのは300名ほどだった。この船はしばらく海上から日本軍を砲撃し活躍していたが、最後は弾薬も尽き湾口封鎖のために自沈し、乗員のほとんどは青島要塞で戦い捕虜になっている。そのうちイタリア系の13人はイタリアが連合国側に移ったため、1917年6月に板東経由で帰国している。オーストリア・ハンガリー軍のチェコ人・クロアチア人などの詳細については後に述べる。青野原には軍楽隊はあったが、合唱団があったかどうかははっきりしない。しかし各地で催されていた一般向けの展覧会がここでも開かれているので、チェコ兵などが同じオーストリア・ハンガリー軍仲間であるクロアチアの歌を合唱したとしても不思議はなかろう。以上からしてほぼ「ウ・ボイ」を伝えたのは、青野原のオーストリア・ハンガリー軍に属していたチェコ兵などと考えてよいように思えた。

ところがこうした推測はあっさり否定されてしまった。念のためインターネットで「ウ・ボイ、ウ・ボイ」を引いたところいきなり「日本へ紹介された経緯」という文章が出てきた。それによると1918年に連合軍によって救出された「チェコ軍団」は、翌19年日米、中国のチャーター船で順次ウラジオストックから帰国し始めたことになっている。8月13日に出航したヘブロン号はその第3船だったそうだが、台風のため流され下関沖で座礁、修理のため神戸に曳航され、将兵847人は2ヶ月間神戸で待機することになったというのである。ここで困ったのはインターネットの「チェコスロヴァキア軍団事件」や関連文献を見ると、「チェコ軍団」は1919年中も各地で革命政府軍との戦闘を続け、移送が本格化したのはその翌年の20年2月から9月ことらしい。推測だがすでに1918年頃からウラジオストックには1万からの「チェコ軍団」が集結していたので、おそらく1919年にも船の手配が付きしだい移送が行われていたのではなかろうか。その第3船としてヘブロン号が日本に向かい遭難したということなのだろう。

その際達者な英語を駆使して彼らの手助けをしたのが関西学院の学生塩路義孝氏で、この人はグリークラブに所属していた。来訪時にたまたまオーケストラと合唱団の練習に出くわし感動した彼は、将兵を大学に招き合同の演奏会を開いた。以後クラブ員は数度宿舎を訪ね、チェコ兵合唱団から「ウ・ボイ」を含む数曲を学んだ。別れの会でグリークラブは「ウ・ボイ」などを熱唱、チェコ兵の涙を誘ったという。以後この曲は関西学院グリークラブの秘蔵曲として大事にされてきたというわけである。

 ここで簡単にでも、「チェコスロヴァキア軍団」と日本とのかかわりについてふれておこう。ご存知のとおり第一次世界大戦はボスニアの首都サラエボで、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺されたことをきっかけとしている。ボスニアはもともとトルコ領だったが、1908年にオーストリア・ハンガリー帝国に併合されている。ボスニアの住民のほとんどはセルビア人で、隣接するセルビア王国に親近感を抱いていたため、オーストリア側は暗殺の背後にセルビアがあると考え宣戦を布告する。こうしてヨーロッパを2分した第一次世界大戦が始まった。

 チェコ兵・スロヴァキア兵は、オーストリア・ハンガリー軍の一員としてロシア戦線に派遣された。しかし当時は独立の気運が強まっていたこともあって、戦わずにロシア軍に投降する者が相次いだ。当時ロシアには10万からのチェコ、スロヴァキアからの移民が住んでおり、捕虜を含めると20万以上にも及んだという。ロシアは1917年秋に住民からも義勇兵を募り、捕虜と併せた3万の軍団を組織してウクライナ戦線に投入、彼らはフランス軍のもとで大きな成果をあげた。ところが、まもなく起こったロシア革命によって様相は一変する。革命政府はドイツと単独講和を結び連合国から離脱したからである。東部戦線から解放されたドイツ軍は西部戦線に結集しパリに迫る。パリに亡命政府があったチェコの国民評議会はフランス政府と協定を結び、「チェコ軍団」をシベリア・日本・アメリカ経由で西部戦線に送りこもうとする。その過程で「チェコ軍団」は各地のチェコスロヴァキア兵などを集めて次第に増大、革命ロシア軍とドイツ・オーストラリア軍との衝突をくり返した。この軍団を利用しようとする東シベリアの帝政ロシア系の小政府の策動などもあり、西部戦線への移送を意図したフランスと、新たな東部戦線の構築を狙うイギリスの対立などもあって混迷が続く。こうした中でイギリスは、「チェコ軍団」救済を理由に同盟国日本とアメリカに派兵を求めてくる。いわゆる「シベリア出兵」である。詳細は省くが結局日本は1918年7月に、アメリカとの協定を破って7万からの大軍を送り、北満州と東部シベリアの支配を狙って1922年まで派兵を続ける。そこでの列強ことにアメリカとの不信と対立が、太平洋戦争の遠因ともなる。それはともかく1918年8月にはアメリカもシベリア派兵に加わるが、11月にドイツは降伏し第一次世界大戦は終結する。その結果先にふれたとおり「チェコ軍団」は革命政府軍との戦いを続けざるをえず、全体としての移送は大幅に遅れ、1920年2月になってやっと5万からの将兵の帰国が始まることになる。

 もう一つおまけがある。このような「ウ・ボイ」をめぐる事態についてドイツ館の川上館長に尋ねたところ、外務省資料館(外務省飯坂公館内)の『日独戦争ノ際俘虜情報局並独国俘虜雑纂 第15巻』に「「チェッコ、スロヴァキア」人俘虜解放ニ関スル件」(原文のまま)という文書があることが判った。膨大な資料でまだ初めの方を見ただけだが、冒頭に1918年11月8日の「チェッコスロヴァク国民議会」から外務大臣への依頼書が載っている。ドクトル・ネメック陸軍大尉を派遣するので、習志野収容所と青野原収容所の「チェックスロヴァク国」俘虜との接触を許可してほしいというのである。後の大尉自身の文書によるとその目的は、祖国独立のための「チェコスロヴァキア軍団」のシベリアでの戦闘への希望者の参加勧誘と引渡しである。日本側は「アルザス・ローレンヌの件」の先例があるので、「現戦役間、日本及び連合諸国に対し一切の敵対行為に干与せざること」の誓約書を出すことを条件に、面談・説得を許可している。

習志野の俘虜2名の提出した書類によると当時日本に収容されていた「チェック人」は25名で、その他「クロアシア人・スロヴァック人・スロヴェニア人」30名の併せて55名が対象となり、自分たち習志野の2名以外の53名はすべて青野原に収容されていると記している。結局は習志野の2名と青野原の23名が参加を希望し、25名は1919年4月に敦賀からウラジオストックに送られ、「チェック軍」に編入されている。その後1919年7月にも「チェックスロヴァク」代理大使から、「ボヘミア」「西シレジャ」「モラヴィア」または「スロヴァキア」等の住所になっている者も「チェックスロヴァク人」に当たるとして追加募集の依頼があり、31名と面談した結果23名が希望している。習志野7名、青野原14名であるが、似島からも2名が参加しており、彼らは1919年11月にウラジオストックに送られたことになっている。

 このように日本のドイツ兵俘虜収容所も「シベリア出兵」「チェコ軍団」と無縁ではなく、それどころかその一翼を担うことにもなっていたのである。

 以上長くなったが、「ウ・ボイ」はこのようにさまざまな曲折を経て日本の男性合唱団で歌い続けられることになった。できればその感動の一曲を生で聴いてみたいものである。

 

参考資料:今回は煩雑になるので「注」は省き、関連する資料・文献だけを挙げておく。

 大津留厚・藤原龍雄・福島幸弘『青野原俘虜収容所の世界』山川出版社、2007年。

 児島襄『平和の失速 <大正時代>とシベリア出兵()』文芸春秋、1994年。

 豊田泰『日本の対外戦争 大正・昭和() 第一次世界大戦・シベリア出兵・満州事変』文芸社、2010年。

細谷千博『シベリア出兵の史的研究』岩波書店(岩波現代文庫)、2005年。

「日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜雑纂」21冊、外務省資料館(外務省飯坂公館内):第15巻(俘虜解放及送還ニ関スル件 4、大正7年6月):「ポーランド」「チェコ・スロヴァキア」「ユーゴスラヴィア」出身者の解放にかかわるもの

インターネット(Google)

 「ウ・ボイ、ウ・ボイ」(フリー百科事典『ウィキペディア』)

 「ウ・ボイ物語」(http://www.kg-glee.gr.jp/uboy/index.html

 「チェコスロヴァキア軍団事件」(httep://www.a-saida.jp/images/cheko.htm)

 

なお関連する「在本邦俘虜国種別一覧表」(1919年9月30日―「墺地利(オーストリー)」「洪牙利(ハンガリー)」のほかに「チェック、スロヴァック」「ルーマニア」の人数も載っているが、クロアチア、ボスニアなどは「ユーゴスラブ」にまとめられている)や、帰国時の乗船別に各収容所からの人員をまとめた「独墺洪国俘虜引渡し区分表」などもあり比較検討が必要だが、次の機会に譲りたい。

 

PS

原稿を送ってから、ある研究会で「『杉原ヴィザ』伝説の紛糾と解体」という興味深い話を聞いた。杉原千畝は、リトアニア領事代理として日本外務省の反対を押し切ってユダヤ系ポーランド人に日本の通過ヴィザを発行し、6,000人からの命を救ったとされ、イスラエル人の手でエルサレムに顕彰碑まで建てられている。ところがこの人の個人的キャリアや実績をたどっていくと、いわゆるヒューマニス・親ユダヤ主義者とはほど遠い諜報機関に近い活動が主流をなし、そうした関連からたまたまリトアニアの業務を担うことになったとも考えられるようである。詳細は省かざるをえないが、今回の原稿を書いていて考えさせられたのは、日本での国際条約の尊重やドイツ兵俘虜への配慮を象徴する『第九』日本初演の2ヵ月あまり後の1918年8月に、いわゆる「シベリア出兵」が行われていることである。しかも日本はアメリカとの12、000名以内という協定を破り6倍の72,000もの大軍を送り、撤兵も2年以上も引き伸ばしている。もちろん狙いは、北満・東シベリアでの権益強化にある。こうした軍主導の強硬策は結局国際連盟からの脱退を招き、日中戦争・太平洋戦争へと雪崩れ込むことになる。そうしたジレンマをどう捉えればよいのか。「杉原ヴィザ」を契機に、改めてこのような重い課題を突きつけられた。次号ではその一端にでも手をつけざるを得ないようだ。